1-4 アニム・フィギュア

 あれから数日が過ぎた。鳳子は、ご飯を買いに行く以外はずっとその場を離れなかった。責任感と、目を離している間に卜部麻乃に何かあったらという不安、そして暁やその関係者たちに遭遇する恐怖が彼女をそこに縛りつけていた。

 夜が来るたびに、鳳子は手首を切って卜部が埋まっている土に血を撒いた。毎晩、焦りが募っていく。

 ――卜部さんが目覚めなかったらどうしよう。

 その考えが頭を離れない。失敗すれば、解決部としての任務を果たせなかったことになるし、全てを託してくれた風切を裏切ることにもなる。そして何より、自分の仮説が間違っていたということを認めることになる。それは、正しさを求め続けている鳳子にとって耐え難いことだった。

 静かな夜の闇が、不安を一層駆り立てる。この依頼が失敗すれば、解決部から自分の居場所がなくなるのではないか――そんな恐怖が鳳子の胸を締め付けた。そうなれば、私は何を目指して生きていけばいいのだろう?

 家には帰りたくない。暁にも和希にも顔を合わせたくない。でも、一人で生きていく術も持たない。仁美里だって、もしかしたらまだどこかにいるかもしれないのに。

「私はまた、何もできないまま、失敗してしまうの……?」

 鳳子はそう呟き、冷たい土の上に身を横たえた。卜部が目覚めたときにすぐ気づけるよう、耳を地面に近づけてその音を聞き逃さないためだった。瞼を閉じ、不安を追い払うように意識を遠ざけていく。

 ふと、風切と卜部が手を繋いで現れたときの光景が頭をよぎった。気づけば、無意識に自分と仁美里の姿を重ねていた。――もし、二人であの村を抜け出すことができたなら。

 叶わない夢が鳳子の心を満たす。もしも優しい母親と共にこの街で暮らし、仁美里が近くで一緒にいたなら。二人で朝の「おはよう」から夜の「おやすみ」まで、くだらないことで笑い、時には喧嘩して、そのたびに絆を深めていたのだろうか――そんな日常を思い描きながら、鳳子はいつしか眠りに落ちていった。

 暖かく、優しい夢。だけど決して叶わない、残酷な夢だった。

 その時、カリカリ、という微かな音が耳に届いた。木を引っかくような音だ。鳳子ははっとして目を開けた。現実に引き戻され、再び耳を澄ませる。音が確かに聞こえた。気のせいではない。鳳子はもう一度耳を地面に近づけ、再びその音に集中した。

 カリカリ、カリカリ……。

 その音が確かに耳に届いた瞬間、鳳子ははっとして反応した。心臓が早鐘のように打ち鳴る中、近くに立て掛けてあるスコップの存在すら忘れて、彼女は爪が剥がれそうなほどの勢いで土を掻きむしった。冷たい土が爪の中に食い込み、指先は痛みを訴えたが、彼女は気にも留めずに掘り続けた。

 やがて、指先に固い感触が伝わってきた。鳳子は息を整え、土を払いのけるようにして慎重に掘り進める。淡い月明かりが、ようやく木箱の表面を照らし出した。

 息を整える間もなく、鳳子は緊張した指先でそっと木箱の蓋に手をかけた。手が震えていたのは、期待と不安が入り混じっているせいだ。儀式は本当に成功したのだろうか――その答えが、今、目の前にある。

 そっと蓋を開けると、中には淡い水色の髪にいくつものリボンを結った少女がいた。卜部麻乃が、驚いたように瞳を見開いて、まっすぐ鳳子を見つめている。その目は、はっきりと意識を持っていた。彼女は血が通い、呼吸をしていた。卜部の表情からは驚きとともに、生命の確かな存在感が感じられた。

 鳳子の胸にあった緊張が一気に解け、安堵の笑みが自然にこぼれた。全身にかかっていた重圧が、やっと消えていくのを感じた。

「……おはようございます、卜部さん」

 静かな声で、でも心からの喜びを込めて、鳳子は言葉をかけた。卜部はきょとんとした表情から一瞬で笑顔に変わり、元気よく飛び上がった。

「おはようございます~! わぁ、本当に体を取り戻していますね! 幽体離脱も楽しかったけど、久々にこの体に戻ってくる感覚、なんだかすごく新鮮です! ありがとうございます!」

 彼女は無邪気に笑いながら、両腕を上げて体を伸ばすその姿は、まるで何事もなかったかのように、生命力に満ち溢れていた。久々の感覚に喜びを感じている卜部の様子に、鳳子は一瞬呆然としてしまうが、すぐに自分も笑顔を浮かべた。ここまでの苦労が全て報われた瞬間だった。

 鳳子は卜部を支えながら、彼女が木箱から立ち上がるのを手助けした。卜部は軽やかに地面に降り立ち、鳳子に笑顔を向けた。その無邪気な笑顔に、鳳子の心にあった不安や焦りが完全に消えていくのを感じた。

 鳳子は、卜部の体に付着した土を払ってから、冷静にスマホを取り出し、風切に向けてメッセージを打ち始めた。卜部が無事に目覚めたことを伝えるメッセージ。指先がスムーズに画面を滑り、まるでその動きが解放されたかのように軽かった。

 メッセージを送信し、鳳子はもう一度、卜部の無邪気な姿を見つめた。儀式は成功した――その確信が、彼女の心に静かに広がっていた。



 黄昏時の朱色が、空を染め、世界をやさしく包み込んでいた。学園の校庭には、二つの長い影が伸びていた。それは鳳子と卜部の影だった。穏やかな夕暮れの中、二人は無邪気に遊んでいた。鳳子にとって、誰かとこうして遊ぶことは滅多になく、最初は卜部の自由奔放さに戸惑っていた。しかし、時間が経つにつれて、彼女も次第にその空気に馴染み、気がつけば無我夢中で卜部と笑い合っていた。

 朱色の空に響く彼女たちの笑い声は、鳳子にとって新鮮な体験だった。こうして何も考えず、ただ遊ぶということが、いつの間にか忘れられていたのだと感じる。日々、何かに追われるように過ごしていた彼女にとって、この瞬間はあまりにも貴重だった。卜部の無邪気な笑顔に、自分も少しずつ心を開いていく感覚があった。

 そんな時、もう一つの影が静かに二人の元へと近づいてきた。気配に気づいた卜部が急に立ち止まり、その方向を見つめる。

「レイちゃん!」

 卜部は嬉しそうに声を上げ、軽やかに鳳子の元から離れ、迎えに来た風切の胸へと飛び込んだ。風切は卜部をしっかりと抱きしめ、その体を優しく確かめるように包み込んだ。二人の姿を見て、鳳子は微笑みを浮かべながら歩み寄った。二人の再会を見届け、何か声を掛けようとしたその時――鳳子は風切の表情に気づいた。彼女の瞳から、光る涙がぽろぽろとこぼれ落ちていたのだ。

「な、なんでレイちゃん泣いてるんですか?!」

 卜部は驚きながらも、わたわたと手を動かして風切を慰めようとしていた。鳳子はその様子をじっと見つめ、胸の奥に何とも言えない感情が湧き上がってきた。涙を流す風切の姿は、安堵と深い感情が入り混じったもので、その理由を知らない鳳子にも、二人の間にある特別な絆が垣間見えた。

 二人の影が夕陽の下で重なり、一つの存在に見えた。二人だけの世界がそこに広がっているようで、鳳子はそっとその場から一歩引いた。自分が入り込む余地はない、と自然に感じたのだ。

 風切と卜部の関係について、鳳子は何も知らなかった。ただ、二人が解決部の一員であり、自分と同じ目的で動いている仲間であるという事実だけを知っていた。だが、二人の間にどれほど深い絆があるのか、その詳細は知らない。それでも、この光景を見ていれば、二人の間には強い絆があることは理解できた。

 ――私の役目はここまでですね。

 鳳子はそう心の中でつぶやいた。風切と卜部の再会を邪魔するつもりはなかった。それに、自分の居場所は、最初からここではないような気がした。二人に何か声を掛けるのも躊躇われ、自然と口をつぐむ。

「これで、私は帰りますね」

 鳳子はそっと二人に別れを告げ、静かに学園を後にした。朱色に染まる学園を背にして歩き出す鳳子の胸の中は、不思議と静かだった。これまで焦燥感や不安に苛まれていた日々とは異なる感覚。卜部を無事に目覚めさせたことで、彼女の役割は果たされた。残りのやり取りは、いつものように解決部の掲示板で十分だった。鳳子の居場所は、ずっとそこにしかなかったから。



 背後で卜部と風切の声が次第に遠のいていくのを感じながら、鳳子はゆっくりと歩みを進めていた。夕焼けが空を朱色に染める中、足元に伸びた影がさらに長くなり、まるで彼女を誘うように前へと続いていた。風切と卜部の再会に胸が温まった一方で、自分の心には新たな決意が固まっていた。

 擬蟲神――あの恐ろしい存在はまだ祓われていない。鳳子の中でその事実が再び重く響く。胸の奥に残る未解決の問題が、今、静かに彼女を呼んでいる。仁美里はどこかにいる。必ず。鳳子は確信していた。どれほど遠くに離れていても、あの約束はまだ生きている。彼女と鳳子の間で交わされた、誰にも知られることのない約束――それを果たさなければならないという思いが、胸に燃え上がってきた。

「迎えにいかなくちゃ……」

 鳳子は呟いた。彼女の最後の姿が脳裏に浮かび、鳳子は不意に目を閉じた。あの笑顔、優しく微笑んでいた彼女の顔――でも、それはどこか悲しみに満ちていた。その表情が、何度も夢の中に現れては、鳳子の心をかき乱してきた。

 胸の奥で静かに燃える決意と共に、鳳子は一歩、また一歩と前へ進む。遠くで聞こえる風切と卜部の声は、もはや彼女に届かない。世界が朱色に染まる中、鳳子は決して揺るがぬ意志を抱き、自分の行くべき道を進んでいった。
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