3-1 夏の終わり

 夏休みが終盤に差し掛かった頃、箱猫にある一軒の家は、夏の終わりを感じさせないほどの慌ただしさに包まれていた。

 先日の暁からの試練を乗り越え、和希は鳳子を無事に保護し、この家へと帰宅することができた。追手は去り、表面上は平穏な日常が戻ったかのように見えた。しかし、鳳子は今もなお、暁の養女のままで、まるで人質のように和希の家に囚われているままだった。それでも、穏やかな日常の一幕がかろうじて保たれているように見えた。

「おい、宿題を一個もやっていないってどういうことだ!?」

 和希は鳳子の目の前に広げた真っ新なノートを見つめ、苛立ちを隠せない様子で彼女に問い詰めた。その視線は真剣で、怒りを抑えようとしているが、どうしても滲み出てしまう。鳳子も負けじと睨み返し、まるで戦いを挑むかのように口を開いた。

「部活動が忙しかったの! 別にいいじゃない、宿題の一つや二つ!」

 鳳子の言葉には、悪びれる様子は一切なく、開き直るかのような態度があった。彼女は和希の言葉が自分に響いていないかのように、そっぽを向きながら座り直す。和希の顔に刻まれた一瞬の苛立ちを彼女は気にもしない。

 あれから、和希は鳳子の記憶を消すことを選ばなかった。彼女の心が崩壊しないように、和希は彼女の自我を守るために日々慎重に接し、彼女が少しずつ前に進めるようにケアを続けていた。鳳子も完全に警戒心を解いたわけではなかったが、少なくとも和希が暁とは違う存在であることは理解していた。彼女は心の中で少しずつ和希と折り合いをつけ、彼に寄り添おうと努力していた。

 だが今、この二人は再び対立していた。

「お前の成績が落ちるたびに、学校から連絡をもらう僕の立場を少しでも考えたことがあるか!? 解決部とやらのせいで学業が疎かになるなら強制退部だぞ!」

 和希の声は鳳子の耳に届いたものの、彼女はその言葉に反発するように肩をすくめた。ややふてぶてしい態度で応じる。

「私を解決部から遠ざけたら、家出してやるわ! そもそも、なんで休み期間なのに勉強なんてしなきゃいけないの!?」

 和希はその言葉に眉をひそめ、ついに限界を迎えた。その怒りは静かで、だが一瞬の決意のように表情に変わった。彼は何も言わず、油断していた鳳子を瞬く間に抱き上げた。まるで軽々とぬいぐるみを持ち上げるように、彼女の抵抗も虚しく和希の腕の中に収まった。もちろん、鳳子が暴れても怪我をしないように、彼は十分に配慮しながらだ。

「きゃーー! 離しなさいよ、この犯罪者! 卑怯者! バカ!」

 鳳子は足をバタつかせ、必死に抵抗するが、和希の腕の中ではまるで子供の駄々のようにしか感じられなかった。彼女の声はまるで焦げ付く夏の空気に消されるかのように響いていた。和希は意に介さず、彼女を自室へと運び、無造作にクッションの上へと放り投げた。

彼女の目の前に置かれたのは、積み上げられた宿題の山。今まで放置され続けてきた宿題が、彼女を圧倒するかのように存在感を放っている。

「いいか? 夏休みはあと三日しかない。それまでにこの課題を終わらせろ。でなきゃ外出禁止だ!」

 和希は冷静さを保とうとしながらも、言葉に一抹の苛立ちが混じっていた。扉を強く閉め、さらに外から鍵をかける音が静かに響く。鳳子はその扉を憎らしそうに睨みつけたが、どうすることもできない現実に直面する。

 部屋に残された鳳子は、クッションに深く沈み込みながら、積み重なった宿題の束を無言で見つめた。その顔にはまだ不満と反発の色が残っているが、その背後には夏の終わりとともに迫る現実があった。彼女の中で、どこか焦りが湧き上がるが、それを言葉にすることもできず、ただ扉の向こうに去った和希の背中を頭の中でなぞる。



 和希は一人、仕事部屋に戻り、静かな息を吐いた。やるべきことを後回しにしていたのは鳳子だけではなく、和希自身も同じだった。彼の表向きの顔は精神科医。しかし、その裏には、SIAの一員としての姿が隠されている。そして、暁が率いるHelixにスパイとして潜入しているという、二重の仮面を被った生活だ。しかし、すでにその事実は暁に知られており、今や和希はHelixとSIAの双方に情報を提供する、いわば二重スパイの立場に追い込まれている。

 机に座り、書類とモニターの画面を見つめる和希の心には、重い苦悩が静かに広がっていた。全ては鳳子を守るため――その決意は揺るがない。しかし、そのために和希は、SIAに裏切者ではないことを証明し続ける必要があった。彼は常に有益な情報を慎重に選別し、提供しなければならない。そうでなければ、SIAの上層部は和希に対する信頼を失い、彼の立場も、鳳子の命も危うくなる。今も和希は、SIAへ提出する報告書を書きながら、同時に暁に提供するべき機密情報をまとめていた。

 モニターの前に座る和希の目には、瞬き一つ見逃さない鋭さが宿っていた。暁の目的は、日本で秘密裏に行われているとされる軍事兵器開発の情報を独占すること。表向きには、その噂はまだ広がりきっていないが、裏ではすでに情報が動き出していた。もしその事実が公に晒されれば、日本が軍事力を持つという事実は、瞬く間に世界に戦争の火種を撒きかねない。SIAの使命は、暁よりも先にその情報を掌握し、必要ならばそれを抹消することだった。

 ふと、和希の脳裏にオペレーターの冷たい声が蘇った。

 ――世成宵子の娘には以前より、抹殺命令が出ていましたよね。

 その言葉は、まるで重い鎖のように和希の心に絡みついて離れない。鳳子が生まれた瞬間から、彼女には抹殺命令が下されていた。それが彼の任務だった。もしも和希がその命令を当時に遂行していれば、今のような苦悩は抱えなかったかもしれない。しかし、和希が実際に鳳子と出会ったのは、それから十数年後だった。彼は、宵子を裏切ったことを後悔し続けてきた。そして、自分が愛した女性が産み落とした子供――その生き残りの子供を、今更手にかけることなど、できるはずがなかった。

 和希はモニターを見つめ、指先を動かしながら、内心の葛藤に苛まれていた。SIAは依然として鳳子を危険視しているが、和希の能力は高く評価されていた。もし和希が、鳳子が危険分子ではないことを証明することができれば、SIAは抹殺命令を取り消し、彼女を保護の対象とすることが約束されている。だからこそ、どんな手段を使ってでも――

 その時、モニターに新たな情報が表示された。SIAから最新の情報が送られてきたのだ。それは、新たなエージェントを国内に派遣するという知らせだった。和希の心臓が一瞬、早鐘を打つ。彼は一瞬、目を疑い、画面を凝視した。そこに表示された名前を一言一句確認し、間違いがないことを再確認する。

「……そんな……どうしてこいつが……」

 その人物は、SIAの中でも特に優秀とされるベテランエージェントだった。世界平和のために数々の任務を成し遂げてきた実績を持つ。しかし、和希がその名前を恐れる理由は別にあった。彼は冷酷で、目的達成のためには手段を選ばない人物だった。

 和希の心に、冷たいものが走った。もしそのエージェントが鳳子に目をつければ、何が起こるかわからない。彼の存在は、和希にとってまるで時限爆弾のようだった。表向きの和やかな日常が一瞬で崩れ去る、その予感に胸が締め付けられるような不安が広がっていく。



「おーい! 蝶野! 頼むから宿題見してくれよ~!」

 虻川は、蝶野家の玄関を背にして、固く閉ざされた蝶野舞華の部屋に向かって声を上げた。夕暮れに染まる金髪が風に揺れ、彼女の声は家の中に響くが、応答はない。スクールバッグを軽く揺らしながら、何度もドアをノックする。その音だけが静かな家の中で響いていた。部屋の中からは微動だにする気配がない。まるで、蝶野の部屋だけが時間から切り離されてしまったかのように静まり返っている。

「……なぁ、なんか言ってよ……相談なら乗るからさぁ」

 虻川の声は次第に焦りの色を帯びていく。普段の蝶野は、いつも元気で、明るく周囲を和ませる存在だった。そんな彼女が、沈黙を貫き、部屋に閉じこもるなんて信じられない。虻川の胸の奥に、不安が渦巻き始める。友達の突然の変化に、どうしていいのかわからず、ただその沈黙を破ろうと声を張り上げた。

「なぁ、舞華……」

 その瞬間、玄関の方から賑やかな声が聞こえてきた。

「あー! 虻川のねーちゃんだ!」

「ねーちゃんだー! 遊んでくれよー!」

 蝶野の弟たちが、勢いよく駆け寄ってきた。彼らは無邪気に虻川の周りに群がり、楽しげな笑顔を見せる。だが、その笑顔は、虻川の心にかすかな痛みを呼び起こした。彼らにとって、姉である舞華が突然変わってしまったことは、きっと理解できないのだろう。そんな無邪気な弟たちの姿を見つめながら、虻川の胸の奥で、不安がさらに膨らんでいく。

「こぉら、虻川さんはお姉ちゃんのお見舞いに来てくれたのよ。みんな、邪魔しないであげて」

 蝶野の母親が遅れてやってきて、弟たちを優しくなだめる。その優しさの裏に、どこか影のような困惑が浮かんでいるのを虻川は見逃さなかった。蝶野家の母親は、弟たちや蝶野とは血の繋がりがない。孤児を迎え入れ、家族として共に過ごしてきた。しかし、その絆は時に脆く、どうしても心に埋まらない隙間があるように感じられる。

「おばさん、こんにちは。舞華のやつ、いつからあんな調子なんすか?」

「そうねぇ……七月に災害があったじゃない? それが過ぎ去ったあとくらいから……かしら?」

 蝶野の母親の声は、どこか頼りなく、どこに目を向けていいのか定まらない様子だった。舞華が部屋に閉じこもり始めた理由は、母親にもわかっていないのだろう。家の中で何が起こっているのか、その真実を知りたいが、どこにも答えはないまま、ただ時間が過ぎていくばかりだった。

「なーなー。舞華ねーちゃん、どうかしちゃったの?」

 弟の一人が、心配そうに虻川を見上げる。幼い目には、不安が滲み出ている。蝶野が彼らをどれほど大切にしてきたのか、その姿を虻川は知っている。それが今、突然の変化を見せ、弟たちが混乱し、戸惑っているのを感じ取った。虻川は、そんな彼らを安心させるために、無理やり笑顔を作り出した。

「舞華ねーちゃんの代わりに、虻川ねーちゃんが遊んでやるよ! ほら、リビングに移動だ!」

 弟たちはその言葉に一斉に歓声を上げ、リビングへと駆け出していく。その後ろ姿を見送りながら、虻川は胸の奥に押し寄せる不安を無理に飲み込んだ。

 再び静けさを取り戻した廊下。蝶野は部屋の中でじっと耳を澄ませていた。弟たちの足音が遠ざかり、誰もいなくなったことを確認すると、彼女は布団の中に潜り込んだ。まるで自分の心を押し込めるように、深い孤独の中へ身を沈めた。

「……人が虫に見えるなんて……信じてもらえるわけないじゃない……」

 その言葉は、自分自身への問いかけだった。蝶野の瞳は虚ろで、現実と夢の境界線を見失っているかのようだった。彼女の心は、誰にも言えない恐怖と孤独に押しつぶされそうになっていた。

 七月、箱猫市に大きな災害が起きたその後、蝶野はいつもの生活に戻ろうとしていた。弟たちの世話をし、夕飯を作り、日常の中に埋没していた。しかし、突然すべてが変わった。人々の顔が、次々と虫のように見え始めたのだ。普通に見えていたはずの友人や家族が、異形の存在に変貌し、彼女を恐怖へと追いやった。

「お姉ちゃん……」と弟たちが呼ぶ声も、ひどく歪んで聞こえた。彼らの顔が、何かおぞましいものに見えてしまう。その瞬間、蝶野は部屋へと逃げ込み、それ以来外へ出られなくなってしまったのだ。

「これは悪夢だ……目が覚めれば、元に戻るはず……」

 そう信じて、布団の中で震えていたが、日が経つごとに理解した。おかしくなったのは世界ではなく、自分自身だったのだ。誰にも相談できない。彼女はただ、悪夢のような現実から逃れたい一心で、部屋に閉じこもり続けた。

 そして今も、彼女は自分を取り巻く恐怖から逃れられずにいる。外の世界に戻る勇気はない。誰かに救ってほしいと思いながらも、誰にも救えないだろうと感じていた。



 夜になり、虻川は蝶野の家を後にした。家を出る前、彼女は最後にもう一度蝶野に声をかけたが、やはり返事はなかった。部屋の静寂は変わらず、蝶野が自分を閉ざしていることを痛感する。それでも虻川は無理に笑みを作り、「新学期、学校で待ってるからね」と言い残し、心配を胸の奥に押し込んだまま、家を後にした。

 虻川の言葉は、扉越しに響いたものの、蝶野にはほとんど届かなかった。けれども、その気遣いは確かに、蝶野にほんの少しだけの安らぎを与えた。自分の苦しみを誰にも打ち明けられないこの状況で、虻川が自分の味方であろうとしてくれる――その存在は、蝶野にとってかすかな希望の光となっていた。だが、その小さな希望を胸にしまい込みながらも、蝶野は心の奥で悶々としていた。

「……ごめんね、なにも話せなくて……」

 薄暗い部屋の中で、蝶野は自分自身を責めた。伝えたいのに、言葉にできない。自分の身に何が起きているのかを伝えられないもどかしさが、胸を締めつけてくる。彼女の中に渦巻く恐怖や不安は、言葉にすることすらできず、重くのしかかっていた。

 その時、不意に扉の向こうで、義母が慌ただしく何かを叫び始めた声が聞こえた。蝶野は思わず顔を上げ、扉越しに耳を当てた。足音がバタバタと階段を駆け上がり、そしてその足音が彼女の部屋の前で止まった。心臓が早鐘のように打ち始める。

「舞華ちゃん、舞華ちゃん! セリオスさんが、もうすぐ日本に戻ってくるそうよ!」

 その知らせに、蝶野の身体が反応した。久しぶりに、重たい扉の向こうへと声を発する。

「……パパが?」

 かすかに震える声だったが、蝶野がようやく自分の意志を表に出した瞬間だった。その声を聞いて、義母は一瞬驚いたものの、すぐに安堵の表情を浮かべ、涙が滲んだ。長い間沈黙していた蝶野が、久しぶりに自分の声を出したことが、彼女にとっては一筋の救いのように感じられたのだ。

「私や虻川ちゃんに相談できないことでも、セリオスさんならきっと解決してくれるかもしれないわ。だから、もしもあの人が帰ってきたら、話してみてね……」

 義母は扉越しに、優しく語り掛けた。その声は温かく、蝶野の心にそっと触れるようだった。

 セリオス――蝶野の養父。かつて孤児だった彼女を、劣悪な環境から救い出してくれた男。強い正義感を持ち、子供達に希望を与える存在だった。彼女にとって、セリオスは唯一信じることのできる大人であり、その優しさと強さに深い憧れを抱いていた。義母の言葉通り、セリオスになら今の自分の苦しみを相談できるかもしれない。そう思うと、蝶野の胸に淡い期待が生まれた。

「……話してみようかな……」

 小さく呟いたその言葉は、自分自身への問いでもあった。まだ心の奥にある恐怖は消えない。けれども、セリオスに話せば、何かが変わるかもしれないという希望が胸を膨らませていく。彼が帰宅した際には、自分から扉を開けようとする勇気が、ほんの少しだけ湧き上がってきた。

 窓の外では、夏の夜風が静かに揺れていた。部屋の中に染み込む静寂の中で、蝶野の心もまた、少しずつ動き始めていた。
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