3-2 親子

 夜が更けるまで、鳳子は宿題に手を付けなかった。代わりに、解決部の掲示板を定期的に覗いたり、墨田区で起きた出来事を思い返しては、心の中で様々な感情が渦巻いていた。心の奥底には、自分が今この瞬間に何をすべきか、ぼんやりとした不安と焦燥が混じり合っていた。

 クッションに体を委ねながら、ふと視線をクローゼットに向けると、そこには風雅からもらった上着がハンガーにかけられているのが目に入った。サイズが合わないため、もう着ることはないかもしれない。けれど、その上着を鳳子はどうしても捨てることができなかった。暁や宵子から与えられたセーラー服には、無意識のうちに「誰かの理想にならなければならない」という強迫観念を抱いていた。だが、風雅からもらった上着には、そのような重圧は一切感じなかった。あの夜、あの瞬間だけは、誰かの期待を背負うことなく、ただ「自分」としていられた気がしたからだ。だからこそ、鳳子はその上着を手放せずにいた。

 スマホを手に取り、画面を見つめる。修理されて傷一つない真っ白なスマホが、無機質に光を放っていた。開いたのは、いつもの解決部の掲示板だった。過去の自分の書き込みを読み返すたびに、鳳子は不思議な感覚に襲われた。その書き込みを行ったのが自分であることは確かだが、どこか違和感が拭えなかった。

「書き込んだ記憶もあるし、その時の感情だって覚えてる……。だけど、これって本当に私なの?」

 ――本当の私は、こんな子じゃない。

 誰かの理想のために自分を殺し続けてきたその先に、鳳子が見つけたのは「自分自身」ではなかった。今までは、それが当たり前だと思っていた。だが、今になって急に自分を殺し続けることが恐ろしく感じ始めたのだ。時々、自分が何者なのか、わからなくなる瞬間があった。和希は自我を保てるようにと日々ケアをしてくれるが、それでもふとした時に、何者でもない「空白の自分」が、まるで深い闇の中に吸い込まれていくような気がしてならなかった。

 そんな時、不意に新着依頼のスレッドが掲示板に立てられた。鳳子は無意識にそれを開き、内容を確認した。依頼人は一ノ瀬濫觴。彼女の書き込みには、思わず背筋が寒くなるような空気が漂っていた。

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【依頼】
依頼人:一ノ瀬 濫觴
 やあ、みんな。良い報せと悪い報せがある。
 
 まずは良い報せだ。
 私たちの最大の敵であった魔女九九白は消滅した。詳細は省くが、自滅に近く、私が止めることはできなかった。
 
 ここから先は覚悟のない部員は読まない方がいい。
 特に自分が無力と思う者は今すぐ閉じることを薦める。
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 鳳子は迷わず先を読み進めた。たとえ自分に解決する力があろうとなかろうと、解決部としての使命を果たすことが、彼女にとっては最優先だった。

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 ……いいんだね。
 では話を進めよう。
 
 次は悪い報せだ。
 魔女は最後に呪いを振り撒いた。もう学園内でも噂になっていることだろう。
 内容は以下の通りになる。
 
 夢の中にもうひとりの自分そっくりな人間が現れる。そいつは夢を見る毎に自身に近づいてくる。
 そして夢を見始めて3日後、夢の中で刺し殺される。
 この夢を見たらもう回避はできない。現実でももうひとりの自分が現れて殺しにくるそうだ。
 
 ちなみにこの夢を見る方法は、この噂を聞くことだ。聞けば必ず全員がそうなるわけではないが。
 すまない。この依頼を読んだ君たちは条件を達している。だが警告はしたからね。
 いざとなれば私の方で保護するから遠慮なく言ってくれ。
 
 噂は急速に広がりつつある。もはや生徒の誰が被害に遭ってもおかしくないレベルだ。
 これがおそらく私にとって最後の依頼になる。
 素晴らしい黄昏祭を迎える為にも健闘を祈ってるよ。
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 その最後まで読み切った鳳子の胸には、不思議と恐怖や不安はなかった。代わりに、燃え上がるような使命感が体中を駆け巡っていた。

「もうひとりの自分そっくりな人間……?」

 鳳子は、その不気味な現象を、まるで自分が他人として認められているかのように感じた。しかし、今の鳳子にとってはそれが「偽物」に思えてならなかった。自分を殺すことには慣れている。だからこそ、もしその「もう一人の自分」が現れて私を殺そうとするのなら、逆に私が先に殺してやる――そう決めたのだった。

 今はもう慣れたの手つきで、鳳子は掲示板に「依頼受諾」と書き込んだ。



 朝の光がゆっくりと部屋に差し込み、静かな朝が訪れた。鳳子は、いつもと変わらぬ朝食が並べられたテーブルの席へとついた。トーストされたパンが二枚、形が不揃いの目玉焼き、そしてウインナーが三本。プレートに乗っているのは、この家に来てから毎日見慣れたメニューだった。変わるのはウインナーにかけられた胡椒の濃さだけ。その日によって濃かったり薄かったりするが、それ以外に大きな変化はない。

 今まで鳳子は、この代わり映えしない朝食に特に疑問を抱くこともなく口に運んでいた。しかし、今日は何故かそのいつもと同じ朝食が気になった。フォークでウインナーを転がしながら、無意識に口から言葉がこぼれる。

「ねえ、どうしていつもこのメニューなの?」

 その声は唐突で、鳳子自身も自分が何を聞こうとしているのかよくわからなかった。ただ、何かが違うことを求めている自分に気付いた。

 いちごジャムを乱雑に塗ったトーストをかじりながら、タブレットでニュースを見ていた和希は、一瞬だけ目を開いて鳳子の方を見た。今まで彼女が朝食について文句を言ったことなんて一度もなかった。彼はトーストを嚙みちぎり、静かに咀嚼して飲み込む。そしてコーヒーを一口すすり、ゆっくりと鳳子を見つめ返した。

「どうした? 他に食べたいものがあるのか?」

 その穏やかな問いかけに、鳳子はフォークの先でウインナーを転がしながら考え込んだ。目の前のプレートに視線を落としながら、何かを探しているように感じた。

「……そういうわけじゃないんだけど……なんか、いつも同じで……」

 鳳子は自分の中にある違和感を上手く表現できなかった。けれど、確かに何かが欲しかった。もっと変化が、もっと自分の存在を感じさせる何かが。これまで、自分は誰かの理想のために動く人形のような存在だった。しかし、今は違う。今の自分を認めてもらいたい、そんな小さな衝動が胸の奥にあった。

 その鳴りを押し殺すように、言葉を飲み込んだ鳳子の姿を見て、和希は少しだけ考え込む。そして、ふと何かを思いついたかのように言葉を口にした。

「そういえば、セーラー服だけど……新しいのを買いに行こうか。ついでに、他にも色々見て回ろう。今日は気晴らしに街へ出掛けようか」

 その提案を聞いた瞬間、鳳子の目が輝きを取り戻し、まるで子供のように足を小刻みにバタつかせた。そんな彼女の様子に、和希は驚きつつも心の中で微笑んでいた。鳳子は確かに変わっていた。記憶を取り戻し、以前の空っぽだった時とは違い、自分自身として色々なことに興味を持ち、表情豊かに日々を過ごすようになった。

 和希は、鳳子のその姿に嬉しさを感じると共に、静かに目を細める。彼女の成長を目の当たりにするたび、心の奥にあった罪悪感や迷いが、少しずつ薄れていく気がしていた。

「ありがとう、先生!」

 鳳子のはじけるような声が、和希の耳に届いた。その声はまるで、自分の存在をようやく認めてもらった子供のように、無邪気で純粋だった。和希はただ静かに頷き、二人の平穏な朝食が続いていく。鳳子の無垢な笑顔が、今日という日を穏やかにしてくれる予感がした。



 二人が訪れたのは箱猫市にある大型ショッピングモール。私服を持っていない鳳子は、今日はプライベートでもセーラー服を着ることができなかったため、和希のTシャツを借りて歩いていた。普段とは違う服装に、少し気恥ずかしさを感じながらも、鳳子は和希の隣を歩いていた。

 最初に向かったのは、あらゆる制服を取り扱う専門店。黄昏学園には指定の制服がないため、和希は暁が以前に用意してくれたものと同じシリーズのセーラー服を注文した。採寸が終わり、在庫があったため、そのまますぐに持ち帰ることができた。

「さて……」

 和希はセーラー服が入った紙袋を片手に持ちながら、思いの外、用事が早く済んだことに少し驚いていた。鳳子に視線をやると、彼女は周囲を興味深そうに見回していた。目をキョロキョロと動かしながら、彼女の視線はアパレルブランドの店が並ぶエリアに向いていた。和希はふと考える。鳳子が日常で着る服がセーラー服しかないというのは、年頃の女の子としてどうなのだろうか。普段のファッションや流行には疎い和希だったが、せっかくなら彼女に何かプレゼントしてあげたいという思いが浮かんだ。

「何か、気になるものはあるか?」

 そう言って和希は、鳳子の手を引いて適当に店を選んで入った。だが、鳳子は突然の提案に戸惑いの表情を浮かべた。今まで自分の服に興味を持ったことがない鳳子にとって、「選ぶ」という行為はとても難しいことに感じられた。和希のシャツの裾を握りしめながら、鳳子は小さな声で「わからない……」と呟く。

 すると、店員が親切そうに声をかけてきた。

「お嬢さんのお洋服をお探しですか? こちら、新作のワンピースがございますよ」

 暖かみのある紅色の生地に、リボンとフェイクファーが施されたそのワンピースは、まるで人形のように可愛らしく、女の子らしいデザインだった。鳳子はその美しいワンピースに目を惹かれ、店員に促されるまま鏡の前に立って、それを体に合わせられた。

 鏡に映る自分を見た鳳子は、驚きと戸惑いでいっぱいだった。いつもとは違う自分がそこにいた。まるで、自分が別の存在に変わってしまったかのような錯覚を覚える。

「似合うじゃないか。気に入ったか?」

 和希が柔らかく声をかけたが、鳳子は答えられなかった。鏡の中の自分が本当に自分なのか、わからなくなってしまったからだ。彼女はしばらく考えた末、首を横に振り、和希に視線を送る。

「……私じゃ決められない。和希が選んでよ」

 和希であれば、「本当の自分」に似合うものを選んでくれる、そんな淡い期待が鳳子の胸の中にあった。鳳子の真剣な眼差しを受けて、和希は静かに頷き、店員にしばらく店内を見させて欲しいと頼んだ。

 いくつかの店を回りながら、鳳子は和希がどんな服を選んでくれるのか、内心わくわくしながらついていった。やがて、ややフォーマルな雰囲気のあるドレスやスーツを扱う店に辿り着く。そこは、子供向けのカジュアルな洋服というよりも、大人向けのデザインが目立つお店だった。

 仄かな不安が胸をよぎり、鳳子はそっと和希を見上げた。彼は並べられたドレスをじっと見つめ、真剣な眼差しをしている。しかし、その視線はどこか遠く、まるで自分の存在がその中にないような気がして、鳳子は急に心がざわついた。思わず、声をかけてしまう。

「和希」

 その声は驚くほどに小さく、掠れたものだった。しかし、和希はその声にしっかりと反応し、すぐに鳳子の方に振り向いた。

「どうした? 気に入ったものでも見つけたのか?」

 和希の問いかけに、鳳子は一瞬戸惑いながらも、視線を泳がせて答える。

「……ここ、ちょっと大人っぽすぎる気がして……サイズも無いんじゃないかな……」

 けれど、本当に言いたかったのは違うことだ。だが、その本音を口にするのが怖くて、どうしても言葉にできなかった。自分の胸の中で何かが押し込まれてしまったような感覚に、鳳子は思わず唇を噛んだ。

 和希は一瞬考え込み、「確かに」と頷いた後、優しく微笑みながら言った。

「大丈夫、オーダーメイドも、着丈詰めもできるから。君にぴったりのサイズに仕立ててもらえばいいよ」

 そう言って、彼は光沢のある生地でできた、黒曜色のドレスに目を留めた。そして、その一着を手に取ると、鳳子に向けて静かに言った。

「これ、試着してみてくれないか?」

 和希の手から渡されたドレスは、どこか冷たい光を放っているようだった。鳳子はその黒く輝く衣装を見つめながら、少し戸惑いながらも頷き、試着室へと足を進めた。



「…………」

 着替え終えた鳳子は、すぐには試着室の扉を開けず、しばらく鏡に映る自分をぼんやりと見つめていた。鏡の中には、自分でも驚くほど黒曜のドレスにしっくりと馴染む自分がいた。その姿に思わず手を伸ばし、鏡に映る自分を確かめようとする。

 カツン、と爪が冷たい鏡に触れて止まった。鏡面に映っているのは紛れもなく自分だ。けれど、何かが違う。胸の奥がまるで水の中に沈められたような息苦しさに満ちていた。自分でありながら、自分ではないような感覚が、心の奥に広がる。

「お客様、いかがですか?」

 不意に背後から店員の声がかかり、鳳子はハッとして慌てて試着室の扉を開けた。扉のすぐ横には、笑顔で待っている女性店員が立っていた。

「あら、素敵ですね! お父様、お嬢様のお着替えが終わりましたよ!」

 店員の明るい声が和希に向けて投げかけられる。その声に和希はすぐに戻ってきた。彼の視線が、ゆっくりと鳳子の姿を捉え、じっくりと見つめる。

「こちら、着丈詰めでしたら、明日以降のお渡しで承れますよ!」

 店員は軽快に説明しながら採寸の道具を取り出す。和希は何も言わない。ただ黙って鳳子の姿を見つめている。その静けさが、鳳子の胸に不安を呼び起こした。和希が選んでくれたものだから、嬉しいはずなのに、何かが引っかかる。鳳子の中に芽生えた違和感を、彼女自身も消化できないまま、それでも和希の言葉を待っていた。

 そして、彼は笑顔で答えた。

「じゃあそれで頼むよ」

 その言葉を店員に告げると、店員は笑顔で応じ、鳳子の採寸を始める。鳳子はそっと和希を見上げ、震える声で尋ねた。

「……似合ってる?」

 和希はすぐに微笑み、優しく答えた。

「ああ、君なら、これが絶対に似合うと思っていたよ。思った通りだ……」

 彼の満足そうな笑顔は、どこか達成感に満ちている。しかし、その笑顔を見た瞬間、鳳子の胸にざわつくものが広がった。和希がそう言ってくれることは嬉しいのに、何かが引っかかっている。それでも、これは幸せな瞬間だと思い込もうとした。今、この瞬間だけは、それが正しいと信じたかった。

 鳳子はそのざわつきを押し殺し、何事もなかったように、気付かないフリをして、和希に静かに微笑んだ。



 その夜、夕食を食べ終えた鳳子は、リビングのソファに横たわると、知らぬ間に眠りに落ちていた。彼女が深い眠りに入ったことに和希が気づいたのは、食べ終わった食器を片付け、洗い終えた後のことだった。人混みの中を一日中歩き回り、慣れない環境での買い物に鳳子は相当に疲れていたのだろう。和希はそんな彼女を見つめながら、微笑を浮かべた。彼女の小さな体を抱き上げ、静かにベッドへと運ぶ。

 鳳子が記憶を取り戻してから、彼女が悪夢を見る回数は随分と減った。そして今日の鳳子は、まるで普通の女の子のように、店を巡りながら嬉しそうに笑い、はしゃいでいた。その光景を思い出すと、和希の胸の奥が温かくなった。彼女がこんな風に笑う日が来るなんて、ほんの少し前まで想像もできなかった。

 ――お父様、お嬢様のお着替えが終わりましたよ!

 洋服店の店員の言葉が、ふいに脳裏に蘇る。確かに、傍から見れば、彼らは親子そのものであった。それは事実でもあったが、未だ鳳子には伝えられない真実だ。和希が彼女の実の父親であることを、いつかは打ち明けなければならない。だが、その日が来るのを恐れ、先延ばしにしている自分がいる。親子であることを偽る時間の中で、和希は彼女と過ごす時間が何よりも愛おしく、幸せに感じていた。

 ベッドにそっと寝かせた鳳子の顔を見つめ、和希はふと、その額にそっと口づけをした。目を閉じ、安らかに眠る姿は、和希にとって何よりも尊い存在だ。その愛しい姿には、彼がかつて最も愛してしまった女性、宵子の面影が色濃く残っている。鳳子の頬に指を這わせ、彼女の唇に触れる瞬間、あのお店で見た黒曜のドレスを纏った彼女の姿が鮮明に浮かぶ。その瞬間、和希は過去の記憶にいる宵子と鳳子の姿が重なり合うのを感じた。

 かつて、愛を知らず、気付かぬうちに壊してしまった女性がいた。宵子との関係は、取り返しのつかない罪として和希の心に深く刻まれている。消えない罪の意識が和希を蝕んできた。だが、今こうして鳳子が生きていてくれている。その事実が、彼にとってどれほどの救いとなっているかは計り知れない。

「君が生きていてくれてよかった……」

 和希は、小さくそう呟き、柔らかな笑みを浮かべた。鳳子の生存は、和希にとって唯一の希望であり、贖罪だった。彼は、鳳子の顔を一度見つめ、そっとその部屋を後にした。
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