5-5 繋がる道しるべ

 それから数週間、私は情報収集に没頭していた。まずは黄昏学園の図書室で、医療や薬学、さらには宗教やオカルトに関する本を手当たり次第に借りて読み込んだ。書店にも足を運び、図書館では過去の新聞を丹念に調べることもできた。その中で、自分が手にしていた記事の元となった新聞も見つけたが、内容は相違なく、それ以上の手掛かりは得られなかった。また、訪れた場所で榎本先輩の目撃情報を尋ねてみたものの、それらしい人物を見たという話は一切聞けなかった。

 インターネットで「Oblivict」という薬について調べてみたが、そもそも単語が日本語じゃないせいで、検索に引っかかるサイトは私が読めないページばかりだった。

 あれから榎本先輩からの連絡は途絶え、彼女の足取りも掴めないままだ。何か行動を起こせば少しは手がかりを得られると思っていたが、現実はそんなに甘くなかった。

 昼下がりの街を歩きながら、私はふと立ち止まった。木々の間からこぼれる陽光が、ベンチや街灯を鮮やかに照らし出している。風に舞う落ち葉が穏やかに散り、歩道には秋の色が美しく広がっていた。街路樹の間を柔らかな風が抜けるたび、少し涼しい空気が頬を撫で、どこか懐かしい香りが漂ってくる。しかし、その穏やかな光景は、私の心の中で虚しく響くだけだった。

 ベンチに腰を下ろすと、金属のひんやりとした感触がじんわりと伝わってきた。街は静かで、行き交う人もほとんどいない。私はただ、何かが変わることを期待して動いてきたが、何も得られないまま時間だけが過ぎていく焦燥感に苛まれていた。風が吹くたびに足元に積もる落ち葉が、まるで自分の焦りを映し出しているように感じる。

 何も残せない。何も見つけられない。この昼の静けさは、私の無力さをさらに際立たせるようで、重くのしかかってくる。その時。

「よう。久しぶりだな」

 静かな街路に落ち葉を踏みしめる足音が近づき、懐かしく安心感のある声が耳に届いた。顔を上げると、そこには風雅君が立っていた。周囲の光が優しく彼の姿を照らし出し、昼下がりの柔らかな光がその輪郭に影を落としている。

「風雅くん!」

 私は思わず笑顔になり、駆け寄って両手で彼を抱きしめた。冷たくなった体が、彼の温もりでじんわりと暖まっていくのがわかる。冷たい風に硬くなっていた心までがほぐされ、柔らかな暖かさに包まれていく。この瞬間、全てが救われるような気がした。けれど、その穏やかな時間は長くは続かなかった。

 風雅君は「少し待ってろ」と優しく言い、私をベンチに座らせた。そして、自分が羽織っていたコートをさりげなく私に掛けてくれた。その所作にはどこか既視感がある。昔、同じようなことがあったような気がするが、その記憶ははっきりしない。過去の断片が、心の奥でかすかに揺れ動く。

 文化祭の別れ際、私たちは連絡先を交換し、その後も細々と連絡を取り合っていた。そして今回、ついに調査が行き詰まり、私は風雅君を頼ることにした。こうして、彼に遠く箱猫市まで来てもらうことになったのだ。

 暫くすると、風雅君は近くの自販機で買ってきた飲み物を二本手にして戻ってきた。風がさわやかに吹き抜け、秋の葉が静かに舞う中、彼は片足を組んでベンチに腰を下ろし、私に視線を向けた。

「お茶でいいか?」

 彼の手にはお茶とロイヤルミルクティーがあった。

「お茶がいいです!」

 私は彼の好みを知っている。風雅君は甘いものが好きなのだ。彼は微笑みながら、私にお茶を手渡してくれた。缶は手にしっかりとした暖かさを伝え、冷え切っていた指先が一瞬で熱を取り戻す。

 温かい缶を両手で包み込みながら、私はふと、これまでの疲れが溶けていくのを感じた。けれど、焦燥感はまだ消えていない。この瞬間の安らぎは一時的なものでしかないのではないかという思いが、心の片隅に静かに根を張り続けている。

「それで、相談ってなんだよ?」

「……私を、連れて行って欲しい場所があるんです」

「別にいいが、一人じゃ行けない場所なのか?」

「……初めて行く場所なので……それに、一人だと不安で」

「ふーん。で、どこなんだ?」

 風雅君はタクシーを呼ぼうとスマホを操作しながら、軽い調子で私に聞いてきた。私は首を横に振り、その手を引っ張って止めた。彼の顔をじっと見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「栃木刑務所」

 その言葉を口にした瞬間、自分の胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。風が一瞬止まったかのように、時間が静止したような気がする。目の前の風雅君の表情も、何か言いたげに揺れ動いているのがわかった。

 空は青く澄み渡っているはずなのに、その青さがどこか冷たく感じる。秋風がまたひとつ、落ち葉を舞い上げていく。その落ち葉は、まるで私の不安を映し出すかのように、ひらひらと無秩序に揺れながら地面に散っていった。

 調査が行き詰まり、私は母が待っている場所――栃木刑務所に行くことを決意した。しかし、本当に会えるのだろうか。何を話せばいいのか。頭の中では不安が次々と湧き上がり、渦巻いていた。母との記憶は遠く、冷たく、ぼんやりと霞んでいる。それでも、できることはすべてやらなければならない――その思いだけが、私をこの決断へと導いている。

 風雅君の手が私の手をしっかりと握り返した。それがほんの少しの温もりをくれるけれど、心の奥底にはどうしても拭いきれない不安が根を張っている。



 栃木県までは新幹線で向かい、そこからはタクシーを拾ってお母さんがいる刑務所へと向かった。

 タクシーの中、窓の外を流れる風景は徐々に人影が少なくなり、街の賑わいが遠ざかるにつれて、私の胸の奥にじわじわと不安が広がっていく。車の揺れとともに、私の心も揺れ続けていた。

「なあ……聞いてもいいか?」

 静寂の中、風雅君は車窓を眺めながら呟いた。彼が何を問いかけたいのか、私すぐに察することができた。

 ――何故母親に会おうと思ったのか。

「……私にはお母さんのほとんど記憶がないんです。だから……」

 私はそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。風雅君も、それ以上何も聞くことなく、ただ静かに待っていた。私がそっと手を伸ばすと、彼は自分の手を重ねてくれた。私たちはそのまま、無言で車窓の向こうに広がる風景をぼんやりと見つめ続けた。

 タクシーの中は静かで、時折、運転手の軽い咳払いが聞こえるだけだった。車が進むにつれて、道は細く、山が近づき、視界にはどこか閉鎖的な雰囲気が漂い始めた。景色はゆっくりと変わり、雑木林の向こうに、鉄の柵と重厚なコンクリートの建物が見えてきた。それが、お母さんがいる刑務所だった。

 車がその建物に近づくにつれ、心臓が早鐘のように打ち始める。視界が徐々に狭まり、呼吸が少しずつ浅くなっていく。あの場所に本当にお母さんがいるのか。そして、会えたのなら、何を話せばいいのか。胸の奥に冷たい重石が乗ったような感覚が広がり、言葉が見つからないまま、ただ刑務所の姿が視界いっぱいに迫ってくる。

(お母さんに……会えるのかな……)

心の中で繰り返される問いに、誰も答えてくれない。タクシーがゆっくりと刑務所の前に止まり、私達は重い足取りでドアを開ける。



 刑務所の冷たい壁の前に立ち、私はすでにわかっていた。母に会うことができないことも、接触禁止命令が出ていることも。けれど、そんな事実を知った上で、私はどうしてもここまで来ずにはいられなかった。会いたい、たとえどんな形でも。会って、母の目を見て何かを確かめたかった。だから、この場所に縋るしかなかった。

 受付で「世成宵子に面会を申し込みます」と告げると、刑務官は私に冷たく視線を投げかけた。その視線だけで、私の胸に張り詰めていた不安が一気に膨らむ。刑務官は書類を確認しながら、ため息をつくように一言を発した。

「世成宵子受刑者には、接触禁止命令が出ています。面会は許可できません」

 その冷たい言葉が、私の心に鋭く突き刺さる。私は知っていた。でも、それを口にされることで、現実として押し付けられた感覚に耐えられなかった。

「お願いです……私のお母さんなんです……」

 私は小さく呟いた。声は震え、か細かった。

「どうか、一度だけでもいいんです……会わせてください……。だってだって、その接触禁止命令が出されているのはお母さんの方でしょう? 娘の私が会いたいって言っているのだから、会ったっていいじゃない! 世界でただ一人の、血の繋がったたった一人の私のお母さんなのよ!?」

 刑務官は顔色一つ変えず、私の懇願をただ冷静に聞き流す。無言の壁のようなその態度に、焦りが胸を突き上げてきた。息が詰まりそうで、どうしようもなく心がざわめく。接触禁止命令が出ていることは承知の上だった。それでも、ここで引き下がったら、私は何のためにここに来たのか分からない。母に会うことができなければ、私の足掻きは全て無駄になってしまう。

「お願いです……お母さんに会わせてください……!」

 声を上げ、私は懇願した。手が震え、涙が頬を伝う。膝が折れそうになるのを必死で堪え、刑務官にすがりつくように目を見上げる。背中では風雅君の視線を感じていた。

「一度だけでいいんです、お願いします……!」

 自分でも情けないと思った。規則を理解していながら、それを破ろうと必死で懇願している。でも、そんなことはもうどうでもよかった。母に会いたい。その一心で、私は必死に言葉を紡ぎ続けた。

 けれど、刑務官は動かない。まるで石のように無表情で、私の言葉をただ拒むだけだった。

「無理です。接触禁止命令が出ている以上、面会は許可できません」

 その冷たい返答に、私の膝がとうとう崩れ落ちた。視界がぼやけ、胸が押しつぶされそうな感覚に襲われる。私はその場に泣き崩れ、静まり返る面会室の冷たい床に額をつけた。

「鳳子……規則は規則だ……」

 そう囁いて、風雅君は私の頭を撫で諭す。周囲は無機質で、まるで人間の感情など存在しないかのようだった。刑務所の無慈悲な壁が、私と母を隔てている。その中で、彼の温もりだけだ私の心を支えていた。

 その時、廊下から静かな足音が近づいてきた。騒ぎを聞きつけたのか、リーダー格の風貌を持つ男性が冷ややかな表情でこちらに向かってきた。制服がピシッと整えられ、所長の肩章が目に入る。彼は私たちを一瞥し、すぐに受付の刑務官に低く問いかけた。

「何の騒ぎだ?」

 冷たい声が響き、辺りの空気が一瞬にして張り詰めた。刑務官は緊張した様子で、少し困惑したように事情を説明した。

「所長……それが……」

 刑務官が口ごもりながら説明する中、所長と呼ばれた男は状況を理解したようだった。無表情のまま、冷たく鋭い視線を私に向ける。まるで、こちらの事情など一切関心がないと言わんばかりの瞳だ。

「宵子受刑者の面会? 彼女には君への接触禁止命令が出ているだろう。ダメなものはダメだ。さっさと帰りたまえ」

 その言葉はまるで冷たい氷の刃のように私の胸を突き刺した。彼の冷酷な目は何一つ感情を見せない。私はその鋭い視線を受け止めながら、ようやく理解した。私はお母さんには会えないのだ、と。

 風雅君に支えられながら、私はやっとの思いで立ち上がる。心の中で何かが音を立てて崩れた気がした。

「ご、ご……迷惑をおかけして……すみませんでした……」

 掠れた声でようやく言葉を絞り出し、私達はその場から立ち去る。重厚な扉の方へ足を進める途中、背後から聞こえてきたのは刑務官の深いため息だった。そのため息さえ、私の心にさらに重さを加えるようだった。

「そういえば午前中にも宵子受刑者の面会に来た少女がいましたよね……。まさか娘さんご本人まで来るとは……何かあったんでしょうか?」

 刑務官がぼそりと呟いたその瞬間、私の胸の奥で何かが引っかかった。お母さんの面会に来た少女? その言葉が頭の中でこだまする。榎本先輩の顔が一瞬にして脳裏を駆け巡った。

 思わず振り返り、私は急いで声を上げた。

「あ、あの……それって青か紫の髪色をした女の子ではありませんでしたか?! ああ! えっと、名前は榎本沙霧さんって方じゃ……!?」

 言葉が急ぎ足で口から飛び出し、刑務官は驚いたように目を見開いた。彼は一瞬、言葉を詰まらせた後、ぽつりと口を滑らせてしまった。

「え、ええ……娘さんからの依頼ということで……今日の午前に……。あ」

 その言葉が出た瞬間、刑務官は自分の失言に気づいたようだ。彼は急いで手で口を覆い、バツの悪そうな表情を浮かべながら所長の顔色を窺った。所長の冷たい視線が刑務官に向けられ、緊張がさらに高まる。規律が厳格に支配するこの施設で、個人情報を漏らすことは許されないというのは明らかだった。

 それでも、その刑務官の言葉に私は新たな希望の光を見出した。榎本先輩がここに来ていた。やっと彼女の足取りを掴んだのだ。私は間違いなく榎本先輩に近付いている。そして彼女もまた、私の真実を追っていることがわかった。



 東京駅に着いた頃、空は夕焼けに染まり、街全体が橙色の光に包まれていた。ビルの間から差し込む夕陽が、どこか温かくも寂しさを伴っていて、私の心にも少し影を落としていた。冷たい秋風が駅のホームを吹き抜け、頬を撫でるたびに、手足の指先まで冷たくなるのがわかる。だけど、私の片手は風雅君の手としっかり繋がれていて、その温もりだけは一向に失われなかった。もう片方の手はすっかり冷え切っているのに、繋がっているこの手だけは、ずっと暖かいままだった。

 ふと、タクシーの中でのことを思い出す。栃木刑務所へ向かう道中、私が不安で押し潰されそうになっていた時、風雅君はずっと私の手を握り続けていてくれた。何度か手が離れかけた瞬間があったけど、そのたびに彼は、まるで見失わないようにとでも言うように、すぐにその手を捕まえてくれた。あのぎこちなく繋がれていた手が、今はこんなにも自然に、しっかりと繋がっている。

 指先が少し冷たくなっていることに気づき、私はそっと風雅君の手を握り直した。

「風雅くん、風雅くん。今日はありがとうございました。私、一人で遠出をしたことが無かったので……おかげで助かりました」

「俺は大したことは何もしてないよ。お前の目的も果たせてやれなかったし……」

 風雅君はそう言って少し申し訳なさそうに視線を外した。

「いえ、そんなことはありません。……風雅くんが側にいてくれる。それだけで、私は……ええっと……」

 彼からしか得られないものがある。でも、それが何か、うまく言葉にできない。それでも、風雅くんが私にとって大きな支えであることは、間違いなかった。もどかしい気持ちが胸を締めつけ、私は思わず風雅くんをぎゅっと両腕で抱きしめた。そして、そっと顔を上げて彼を見上げる。言葉にできないこの気持ちも、どうか貴方に伝わってほしい。そんな思いを込めて、静かに彼の瞳を見つめた。

 風雅君はその瞳で私をじっと見つめ返し、やがて柔らかい微笑みを浮かべた。そして、穏やかな声で「今日は夕食、一緒に食ってから帰ろうぜ」と囁いた。

 私はスマホを取り出して時刻を確認する。時刻はまだ16時過ぎ。夕食には少し早いかもしれないけれど、そんなことは気にならなかった。今はただ、もう少しだけこの時間を風雅君と一緒に過ごしたい。それが唯一の願いだった。だから、私はすぐに鳳仙先生にメッセージを送り、今日の夕食は不要で、少し遅くなることを伝えた。

「うん、風雅君とまだ一緒にいたいです!」

 そう言って、私は風雅君に微笑み返した。胸の中で何かがふっと軽くなり、夕焼けの光の中、私たちの影が長く伸びていた。
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