5-6 再会の果てに

 君には愛情が足りないと言われた。その言葉に私は聞き返した。

「それは私が誰かに与える愛情? それとも誰かが私に与えてくれる愛情?」

 その言葉に、貴方が私を諦めたような表情を浮かべたのを覚えている。質問は二択だったはず。もしもそれ以外の答えがあるのならば、それを教えてくれればいいのに。

 貴方は、幸福の為なら不幸を受け入れられますか? そして、望む通りに生きて、理想通りに死ねますか?

 歪んだ世界で紡がれ続けた悲しみの記憶。その全てを閉ざしたくて、偽りを愛した。全ては水底に沈めて、幸せな夢だけを追い続けた。



 東京を朝に出発し、山梨駅に着いたのは昼過ぎだった。市役所に寄って必要な書類を受け取り、その後タクシーを拾って擬羽村へ向かった。……いや、正確には、その村はもう存在していない。それでも住所を伝えると、運転手さんは「ああ、あの辺か」と呟き、車を走らせてくれた。

 タクシーは目的地の少し手前で私を下ろした。そこから先の道路はすでに整備されておらず、車両の進入は禁止されているらしい。私は仕方なく、そこから自分の足で歩き始めた。

 長くて暗いトンネルを抜けた先に広がっていたのは、地図上からも消えてしまった、小さな村の跡地。お母さんの生まれ故郷であり、今では廃村となった場所だ。

 夕焼けに包まれたその場所は、数年前の火災の焦げた匂いがまだわずかに漂っていた。ほとんどの建物は崩れ落ち、廃墟と化しているのに、その風景がまるで災害の瞬間を今も目の当たりにしているかのような錯覚を引き起こす。

「……」

 擬羽村に来れば、何か思い出せるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。しかし、蘇る記憶は何もなかった。確かにここで災害が起き、多くの人々が命を落としたのだろうと想像はできる。けれど、自分がその中で唯一の生き残りであり、かつてこの場所で暮らしていたという実感はどうしても湧いてこなかった。

 新聞記事に記載されていた当時11歳の少女Hさんとは、もしかしたら別人なのでは? とすら一瞬考えた。その時。

「世成くん?」

 背後から、ずっと探し続けていた人物の声が耳に届いた。その声を聞いた瞬間、心臓がドキリと大きく跳ねる。振り返ると、そこには榎本先輩が、目を丸くして立っていた。コートも帽子もない姿。少し短くなった髪が夕暮れの光にかすかに揺れている。それでも、そこにいたのは紛れもなく榎本先輩だということを、私はすぐに理解した。

「え、の……もと先輩……」

 彼女の名前を呼ぼうとした時、不意に喉が詰まって、声が震えた。視界が滲み、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえる。夕焼けのオレンジが空に広がり、やがて影が長く伸びていく中、私は自分を必死で抑え込んだ。

(泣くな、私。泣いちゃダメ……)

 唇をきつく噛みしめて、感情を抑え込む。だって、貴方のおかげで私は救われた。貴方がいたから、私は変わることができた。貴方に憧れて、ここまで追いかけてきた。そして今、私はこうして貴方と再会している。解決部の一員として、ようやく榎本沙霧先輩を見つけたのだ。

「やっと、会えました……榎本先輩」

 私の声はかすれながらも、柔らかな微笑みを浮かべた。けれど、榎本先輩の顔には少し困惑した表情が浮かんでいる。何かを考え込んでいるような、深く思案している様子。彼女の視線が、私の手元にあるものへと移った。

 私の手には、市役所で発行された戸籍謄本と住民票があった。昨日、榎本先輩から届いたメッセージには、「直近のものを自分で入手してほしい」という指示が記されていた。私はその指示に従い、書類を取得。そして、次の手掛かりを求めて擬羽村へと足を運んだのだ。

「……すまない、その書類をわざわざ届けに来てくれたのか。ご足労をかけるつもりはなかったが、その心遣いには感謝するよ」

「いえ……私は別に……」

 言葉に詰まる。会えるかもしれないと思いつつも、本当に榎本先輩がいると思ってここに来たわけでは無かったからだ。そして、正直、こんな「事実」しか書かれていない書類が、どうしてそんなに重要なのか、私にはよくわからなかった。それでも、榎本先輩が必要だと言うのなら、私は何も考えずに手渡した。

 日がどんどん沈んでいく中、冷たい風が吹き始め、暗くなりつつある村の廃墟を背景に、榎本先輩は書類に目を通した。夕焼けの光が消え、やがて空は薄闇に包まれていく。その時、榎本先輩の顔に険しい表情が浮かんだ。

「世成くん。この書類を見て、疑問に思うことはなかったか?」

「……え?」

 思わず声が漏れる。そもそも、私はその書類に真剣に目を通してなどいなかった。内容は知っていると思っていた。書かれていることに偽りはないと、ずっと信じていた。だから、彼女の質問に戸惑い、困惑した表情を浮かべてしまった。

「少し歩こうか」と言いながら、榎本先輩は静かに擬羽村の中心へと足を向けた。私は無言で頷き、その後を追いかける。

 夜の帳が村全体にゆっくりと降りてくる。風は冷たく、葉のざわめきが耳に入ってくる。足元の土はひんやりと冷たく、まるで過去にここで起こった出来事の重みを感じさせるかのようだ。

「今回、君から受けた依頼を改めて確認しておこう。君は過去の記憶と、失った友人を見つけたい。それで間違いないかい?」

「はい。私はこの村で起きた災害以前の記憶が無くて、友人についても……その子がどんな子だったのか、全く……」

「そうか。では、これを君に渡そう」

 榎本先輩は、私が先ほど手渡したばかりの書類を再び私の手に返した。まるでその中に真実があると言わんばかりに。

 返された書類に困惑しながらも、私は再びその内容に目を通した。しかし、見慣れたはずのその文字に、すぐに違和感を覚えた。

「………………え」

 その瞬間、胸に冷たいものが走る。急いでポケットからスマホを取り出し、榎本先輩に送った資料と見比べた。そこに記されている情報が、明らかに違っていた。

 まず、出生地が違う。私が榎本先輩に送った資料には「日本」と記載されていたが、目の前にある自分で取得した戸籍謄本には「海外」と書かれている。さらには――。

「双子……?」

 驚きのあまり、声が震えた。そこには、自分が双生児であったことを記す文字があった。生年月日は私と同じ。そして、その下には「死亡日」の記載が。双子の片方が生まれてから三年後に亡くなっていることが記されていた。

 ――君は生まれた時から一人だったよ。

 誰かの声が脳裏に再生される。言い切ったのは、誰だったっけ? いや、それよりも――。

「この村――擬羽村は、昔から多胎児の出生率が異様に高い。その事実は、近くの病院の出生記録を見ただけで一目瞭然だった。そして君のお母さん――世成宵子もこの村の出身だ。遺伝的な何かがあるのかもしれない。君が双子であったことは、どうやら間違いないだろう」

 榎本先輩の言葉を耳にしながら、私はさらに自分の知らない「真実」へと目を通していく。

 ●戸籍記載事項:世成宵子は海外で妊娠が発覚したが、刑務所から一時的に釈放されて出産。出産後は刑務所に戻る予定だったが、双子を連れて日本へ逃亡した。正式な出生記録が不明なまま、帰国後に出生届が出されている。双子のうち一人は日本に帰国後まもなく死亡。死亡記録は戸籍に記載されているが、詳細は記録が曖昧。

 その瞬間、遠い日の記憶がフラッシュバックした。

 銃声、混乱するお母さんの声、そして血の匂いと冷たい水の感触。みんなが「お母さんは悪い人だ」と言うけれど、私にはわかっている。お母さんが「私たち」にどれほど優しい愛情を注いでくれていたのか、私だけが知っている。壊れてしまったお母さんが、いつかまた戻ってきてくれる日を、私はずっと待ち続けて――。

「世成くん」

 記憶の混濁から現実へと引き戻された。榎本先輩の声が、冷えた夜の空気に溶け込むように静かに響いた。顔を上げると、彼女の表情がはっきりと見えた。真剣な眼差しが、まるで私の内側を覗き込むかのように鋭く感じられた。

「君がLINEで送ってくれたこの薬だが、これは日本では認められていないものだ。何故君がこれを持っているのか……いや、服用しているのか、正直不思議に思っている」

 そう言って、榎本先輩は「Oblivict」についての資料を見せてきた。そこには「深い忘却を引き起こす薬物」という一文が目に飛び込んできた。

「そ、それは……先生が、私を守るために……。私、心が安定しなくて……」

 声が震える。けれども、榎本先輩は首を振った。

「心が安定しないなら、抗不安薬を服用するのが一般的だろう。何故、記憶を消す必要がある?」

 その問いに、私は返す言葉を見つけられなかった。彼女の言葉が胸に重く響き、目を伏せるしかなかった。真実があまりに重く、どう受け止めるべきか、私は混乱していた。

「ところで、君の言う『先生』とは『鳳仙和希』のことだろう?」

 その名前が出た瞬間、私は驚いて顔を上げた。その反応だけで、彼女には十分伝わってしまったのだろう。榎本先輩はため息をつくように資料を差し出しながら、言葉を続けた。

「彼は『ヘリックス』という国際犯罪組織の一員だ。そして10年前に……君の姉妹を殺した張本人でもある」

 提示された資料には、見慣れた鳳仙先生の顔写真と、彼が犯した罪が記載されていた。

「結論として、君が失った記憶は今話したことすべてだ。そして君が探していた友人とは……殺された双子のことだったのではないか?」

 その言葉が、夜の闇に静かに吸い込まれていく。気が付けば辺りは完全に暗く、冷たく光る月だけが私たちを照らしていた。 

 心の中で、真実を認めたくないという思いが渦巻く。けれど、それを否定するための言葉が見つからない。受け入れがたい事実に、胸が締め付けられるように痛む。だけど――。 

 私は榎本先輩を信じたかった。私の記憶の欠片を繋ぎ合わせ、真実を突き止めてくれた彼女に、そっと微笑みかけた。

「……私が失くしたものを、……真実を見つけてくれて、ありがとうございます」

 言葉が静かに夜空に消えていく中、冷たい月の光が私たちを包み込んでいた。

「榎本先輩。帰りましょう。大切な人がいる場所へ……それで依頼は達成です」

 悲しいほどに美しい月が、静かに夜空に浮かんでいる。その銀色の光に手を伸ばしながら、私はかすかな声で榎本先輩に囁いた。冷たい夜風が頬を撫で、指先まで冷たく染み渡っていく。

 けれど、その手が月に届くことはない。それは初めからわかっていた。目の前に広がる夜空は果てしなく遠く、私が触れられるものではないのだ。同じように、かけがえのない人――もう二度と戻らない人も、手の届かない場所にいる。それを、今さらながら悟った。

 胸の奥にぽっかりと空いた穴が、冷たい風にさらされるように広がっていく。けれど、その空虚さと共に、私は一つの真実に辿り着いた。

 もういない人を嘆くことは、何も変えない。だけど、今ここにいる人たち、私が大切に思う人たちは、まだこの手の届く場所にいる。そう、私は愛する人がいる。そして、私にとってかけがえのない居場所ができた。

 その居場所を、何があっても守れる自分でありたい。失うことの苦しみを知ったからこそ、守り抜きたい。そんな思いが胸の中にじんわりと広がり、冷たさとは対照的に、心に小さな火が灯るように感じた。

 夜空を覆う雲が、月を隠そうとしている。けれど、その瞬間に、私は静かに手を下ろし、榎本先輩へ視線を戻した。

「大切なものを失ったけれど、まだ私には守るべきものがある。そう思えるようになりました。榎本先輩おかげです」

 私は微笑み、月に手が届かないことをもう嘆かずに、瞳を滲ませながら呟いた。

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