1-3 光を抱いた闇
私にはその日々が退屈だった。
小さな虫籠の中には、毒々しい極彩色の芋虫が数匹這っていた。彼らはやがてその身を裂き、美しい蝶へと生まれ変わる時を待っている。 それなのに、なぜその個性を奪ってしまうのだろうか。
見蕩れるほど美しい紋様を無地に塗りつぶしていくだけの時間。そんな退屈で無意味な日々を、ただ眺めるだけの毎日。 私はいつからか、この無意味な世界を燃やしてしまえば、きっと楽しいだろうと考えていた。
蠢く虫たちが次々と無地に染まる中、ひときわ美しい純白の虫を見つけた。それはまるで私の視線に気付いたかのように、ゆっくりとこちらへ向かってきて、そっと私の手に触れてきた。 その様子があまりにも不思議で、私はしばしその虫をぼんやりと観察していた。
――ぎちゃり、ぐちゃり。
波打つ体で、虫は私の腕を這い上がってくる。しかし、気づいた時には、その虫の姿を見失っていた。 それでも、肌の上で何かが這いずり回る感触は確かにあった。この体のどこかに、それは潜んでいるのだ。
――ぐにゃり。どろり。
その時、その虫が私を抉じ開けて中に侵入しようとしているのだと、直感的に理解した。 私の片手にはすでにボールペンが握られていて、次の瞬間には、その虫をまっすぐに貫いていた。
ポタポタと、赤い雫が滴り落ち、周りの虫たちが騒ぎ始める。まるで荒れた海の波がぶつかり合うように、不気味に蠢いていた。
◆
「どうして刺したの?」
白衣を着た男が、私に問いかけた。なぜか、悪いことを責められているような気分にさせられ、少し不愉快になった。 膝の上で眠っている猫を、そっと撫でながら、私は気持ちを落ち着かせた。
男が聞いているのは、私がボールペンで刺したことについてだ。理由は単純で、気持ち悪いと思ったからだ。不味いものを口にしたとき、反射的に吐き出してしまうような、そんな行動だった。それ以外に理由なんて、どこにもない。
――だけど、あなたが求めているのは、そんな答えじゃないのでしょう?
今まで私の行動について、こうして理由を問われることは何度もあった。そのたびに私は正直な気持ちや理由を話してきたが、理解されることはなく、いつも否定されるばかりだった。この男も、どうせ同じだ。
「…………」
でも、理解できていないのは、私の方なのだと、いつの頃か気付いていた。この世界には、私には理解できないものがたくさんあって、同じ言葉を話しているのに、私の耳にはあなたたちの声が届かない。
「…………怒ってますか?」
私の問いに、男はすぐに返事をしなかった。 デスクに置かれたモニターに視線を移し、何かを考えているようだった。私は膝元の静かな猫をぎゅっと抱き寄せ、彼の返事を待った。
「別に怒ってないよ。君があの子を刺したことにどんな理由があったとしても、それを咎めるのは僕の仕事じゃない」
男は淡々と言った。予想外の言葉に、私は思わず顔を上げて男を見た。 そこには、清潔な白衣を着ているにもかかわらず、不健康そうな淀んだ眼差しを持つ男が座っているだけだった。
男と目が合った瞬間、その視線がまるで私の心を見透かしているように思え、私はよく分からない感情に襲われた。
「僕の仕事は君と話をして、君が抱える問題を解決することだ。何も話さないなら、今日のカウンセリングはおしまいだ」
私の答えを待つことなく、男は席から立ち上がった。そして扉を開け、私が出て行くのを待つように、出入り口の横で待機した。
その所作を見て、私はようやく自分の感情に気付いた。 私は期待していたのだ。理解できないと切り離していた世界に、この矛盾を解いてくれることを、無意識に。そして、この男は、それを見透かしていたのだ。
「…………ねえ、あなたの名前は?」
「鳳仙和希。『鳳』という字が、君と一緒だよ、鳳子」
鳳――おおとり。この漢字には、蝶の名前があるのだと私は知っていた。それを教えてくれたのは。
「アゲハ蝶……だったかしら?」
「……驚いた。よく覚えててくれたね」
私の言葉に、先生は少しだけ表情を柔らかくして答えた。どうして忘れていたのか、わからない。思い出したのは、ほんの一欠けらの記憶に過ぎないのだろう。 きっと、このやり取りは初めてではない気がする。そして、どうせまた、こんなやり取りを忘れてしまう気がする。 それでも、失くしたと思っていた過去が私の中にまだ残っていたという事実が、素直に嬉しかった。
◆
翌朝、私の下駄箱には上履きがなく、代わりに大量のゴミが詰め込まれていた。 この学園にも、幼稚なことをする人がいるものだと、私は呆れた。そう思った矢先、背後から楽しそうな声が聞こえてきた。
「くっさ。お前の下駄箱はゴミ箱かよ」
振り返ると、下品な笑い声があった。声の主は、同じクラスの虻川さんだった。 この様子からして、私の下駄箱にゴミを詰めたのは彼女に違いない。
虻川さんは手に持っていた缶ジュースを飲み干すと、それを私に向かって投げつけてきた。 缶ジュースは私の右頬をかすめ、下駄箱にぶつかり、床に転がった。
「お前さ、蝶野に怪我させといて、よくまた登校できるよな。なんで退学になってねーの?」
私は聞く耳を持たなかったが、彼女の言葉は嫌でも耳に入ってきた。そして、言葉の意味に困惑した。
「……私、そんなことをした覚えはないわ」
「はぁ~、出たよ、異常者。マジでこの学園やめてくんないかな。つか死んで」
彼女は目の前にあった傘立てを蹴り飛ばした。大きな音を立てて、いくつかの傘が散らばり倒れた。 登校時間のため、下駄箱周辺には人が多く、騒ぎに気づいた生徒たちが遠巻きにこちらを見ていた。
「ほら、あんたのせいで傘立て倒れちゃったじゃん。直せよ」
彼女の言葉は理不尽で、恐ろしいほどに低い声だった。 虻川さんは本当に私のことが嫌いなのだろう。その感情がひしひしと伝わってくる。 しかし、わからない。本当に不思議だ。私は彼女と何もないはずなのに。
私は肩に掛けていた鞄をその場に置き、散らばった傘を拾い集めた。 言う通りに従えば、虻川さんは満足して、この場が収まると思ったからだ。
「あんたさ、なんで反抗しないの?」
虻川さんは私を見下ろしたまま、言葉を続けた。
「靴とか教科書とか、よく盗られてるのに、なんでその度に新しい物を買って、平気な顔して登校して来てんの?」
私は黙って背中で彼女の言葉を受け止めた。
「本当に意味わかんない。靴も教科書も、どうせ親に泣きついて買ってもらってんでしょ。今回だって、大事にされないように親が何かしたんでしょ。自分だけ都合の悪いことは忘れて、親にまで迷惑かけてさぁ。ほんとマジで、生きてる意味ないよ」
「生きている意味……?」
私は集めた傘を傘立てに戻しながら、問いかけるように呟いた。 気づけば、さっきよりも多くの生徒たちが集まっていた。彼らは全身を波のように蠢かせ、奇異な目でこちらを見ている。
――ぐちゃり、どろり。私の世界が歪んでいく。
生きている意味が見つからない。そう考え始めたのは、いつからだっただろう。 私が望むのであれば、いつだって死んでもいい。しかし、"私"は死を望んだのではない。だから、なぜそう考えたのか、その理由が知りたかった。
歩んできた過去が今の自分を形成しているとするなら、過去を失くしてしまった私は、一体何で作られているのだろうか。
(……あれ、私、なんでこんなものを持ってるんだっけ……)
気がつけば、誰のものかわからない傘を持っていた。授業開始の予鈴が鳴る。早く|教室《虫籠》に行かなきゃ。
……嫌だな。行きたくないな。気持ち悪いな。たくさんの視線が、こっちを見ている。怖い。気持ち悪い。
動けずに固まっていたら、突然何かに押されて、私はその場に倒れ込んだ。体に激痛が走り、すぐには体勢を直せなかった。乱れて顔を覆った髪の隙間から、一匹の虫が私を見下ろしているのが見えた。
「お前の、その被害者面が本当に気持ち悪い」
金切り声のようなものが耳に響く。何を言っているのか、何一つ理解できない。
理解できないのは、私のせい。
「ごめんなさい」
謝ることしかできなくて、ただひたすら謝った。
誰か、この耳を切り裂いて、その声を私に届けて。
願わくば、同じ世界に生きることを許して欲しい。
そのためなら、この四肢を切り落としてもいい。だから――
私を、同じ人間として認めて。私に、足りないものを教えて。
◆
絶望のメロディが鳴り止まない夜がある。そんな夜、私は心が壊れればいいと願いながら、自ら絞め殺した体を冷たく暗い水槽に沈める。 水底に辿り着くと、音は遠のき、やがて何も聞こえなくなる。
今夜も、私は彫刻になる。届かない月に焦がれ、貴女の夢に魘される。背を這う指が、突き刺す針の先まで私を嬲り続けても、この心だけは奪われないようにと願って、私は自分を殺し続ける。
欲望が燃え尽きてしまえば、優しさは完全に剥がれ落ちるだろう。冷たく突き放された背中に、そっと寄り添ってくれる温もりがあれば、私はきっと、降り積もる悲しみの音に怯えることはなかったのに。
この夜を超えるための悲鳴が、何度も咲き乱れては散っていく。これは私じゃない。私の声じゃない。失くした記憶の中にいる貴女の声だ。
早くここから出してと、私の中で誰かが叫んでいる。そう気づいた瞬間、彫刻は粉々に砕け、私は生身のまま深い水底に放り出された。 酸素のないこの世界で、私の肺は一瞬にして水で満たされる。
あぁ、急がないと。このままでは貴女も溺れてしまう。私は無我夢中で肌を搔き毟り、醜い体を引き裂いていく。
――どろり、どろり。
真っ黒な液体が、私の中から零れ落ちる。
そして、いつの間にか私は知らない場所に倒れていた。
裂けた体から出てきたのは、遠い日の貴女ではなく、悍ましい化け物だった。反射的に立ち上がろうとするが、足に力が入らない。ゆっくりと下半身に目をやると、そこはまるで腐敗した果物のように、醜く潰れて中身が飛び出していた。
どこからか、何かが迫ってくる気配を感じる。ここから逃げないと。 残された両腕で地を這おうと試みたが、私の両腕もまた、体重に逆らえずに崩れ落ちた。
腐っているのだ。私の全てが。
周囲を蠢く何かの気配を感じながら、私はただ身を捻じらせることしかできなかった。
――誰か、助けて。
恐怖に身が硬直し、心の中で叫んだその時、ふわりと、火の粉のような暖かな光が舞い上がった。 やがてそれはゆっくりと落ち、私に触れて溶けていく。 恐怖が、悲しみが、痛みが。まるで私を傷つけるすべてが奪い去られるように、静かに消えていく。
だが、幸せを持たない私にとって、それらが消え去ってしまえば、何も残らない。
全てが零れ落ち、消えていく。
「――――――っ!!!」
息を吹き返すように、私は目を覚ました。 最初に視界に入ったのは、白衣を着た男だった。彼は私に何かを呼びかけているようだったが、その声はとても遠く、はっきりと聞こえなかった。
しばらくして呼吸が整い、男の言葉が耳に届くようになった。
彼によれば、私はずいぶん魘されていたらしい。言われてみれば、確かに恐ろしくて辛い夢だった気がする。
しかし、私はもう、どんな夢を見ていたのか覚えていなかった。
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