1-4 歪な彫刻
鳳子が黄昏学園に入学してから最初の夏休みが終わり、新学期が始まって数日後のことだった。 和希のもとに、彼女のクラス担任から一本の連絡が入った。それは、鳳子が同じクラスの女子生徒をボールペンで刺し、怪我を負わせたというものだった。
普段、和希は暁の代わりに鳳子の父親代行を務めているが、さすがに今回の件は彼の手に余るものだった。彼はすぐに暁に連絡を取り、この問題の対処を彼に任せることにした。
和希は鳳子を迎えに行く車の中で、彼女が黄昏学園に入学してからの様子を思い返していた。 鳳子は日に日に学校に馴染めず、心をすり減らしていった。そのことに気づいた和希は、早い段階で休学を暁に提案したが、暁はそれを認めなかった。
それでも、鳳子はなんとか夏休みを迎えることができた。しかし、彼女の心の疲弊を癒すには、夏休みの期間はあまりにも短すぎた。 そして新学期が始まったとき、鳳子の状態は一層悪化していた。和希は、彼女の様子を見て、このような事件がいつか起こるのではないかという不安を抱いていた。
そして、その不安は現実となった。
家に戻ると、和希は早速カウンセリングの準備を始めた。
診療所として使っている部屋に鳳子を招き、彼女を椅子に座らせる。鳳子の膝には、数日前に亡くなった白い猫が抱かれていた。 しかし、彼女はその猫が死んでいることをまだ認識していなかった。まるで生きているかのように、その体を優しく撫でていた。
和希はパソコンを操作し、鳳子に関するデータをモニターに映し出した。そこにはこれまでに行ったテストやカウンセリングの記録、処方している薬の情報、そして過去に起こした事件の詳細が記されている。 その中で、和希は一つの文章に目を留めた。
『現実を正しく視認できない状態にある』
これが鳳子の抱える最大の問題だった。 彼女の視力にも脳にも異常は見つからない。あらゆる検査を行っても、現実認識の歪みを説明できる原因はどこにも見当たらなかった。 和希はそれが彼女の心の問題だと考えていた。
「どうして刺したんだ?」
和希は彼女の目を見つめ、淡々と問いかけた。しかし、彼女の瞳には彼の存在が正しく映っていないことを和希は理解していた。 それどころか、記憶さえも混濁していて、恐らくは和希が何者であるのかすら忘れてしまっている。 鳳子は視線を逸らし、遠くをぼんやりと見つめた。その視線の先には、誰にも理解されなかった苦悩があり、瞳には憎悪が揺らめいていた。
彼女はかつて家庭裁判所の審判が下るまでの間、和希の手から離れ、施設に保護されていた期間ある。 その施設での処遇は劣悪なものであり、鳳子の心には深い傷を残した。施設はすでに閉鎖されていたが、鳳子の傷は癒えることがなかった。
部屋の中には沈黙が漂い、鳳子が和希の問いに答える気配はなかった。和希もまた、彼女が他人を傷つけた理由を理解していたため、特に期待はしていなかった。 それでも、言葉だけで彼女を現実に引き戻せるなら、そうしたいという一縷の望みがあった。
(それが無理なら――また最初からやり直すだけだ)
和希がそう心の中で呟き、カウンセリングを切り上げようとした瞬間、鳳子が口を開いた。
「怒ってますか?」
和希は思いとどまり、彼女の言葉の意味を考えた。鳳子の瞳は依然として和希を正しく捉えてはいなかった。 しかし、彼女の問いは理解されないことへの悪あがきだったのだと、和希は気づいた。
「怒ってないよ。君があの子を刺した理由が何であれ、それを咎めるのは僕の仕事じゃない」
それは、暁の役目だった。鳳子は叱責されることを予期していたようで、咎められなかったことに目を見開いた。
「僕の仕事は、君と話して、君が抱えている問題を解決する手助けをすることだ。もし何も話さないなら、今日のカウンセリングはこれで終わりだよ」
和希は部屋の扉を開け放った。鈍重だった空気が一気に入れ替わり、心地よい風が部屋に流れ込んできた。
鳳子はすぐには部屋を出ようとせず、和希を見つめ、もう一度質問を投げかけた。
「ねえ、あなたの名前は?」
それは、鳳子が何度も繰り返してきた質問だった。まるで鳳子がトロッコ問題で同じ答えに辿り着くように、和希もまた、同じ返答を繰り返す。
「鳳仙和希。『鳳』という字が、君と一緒だよ、鳳子」
その言葉を口にするたび、和希は彼女との過去を思い出していた。どれだけ繰り返しても、彼の中にはいくつもの記憶が残り、鳳子の中には何も残っていなかった。
ところが――
「アゲハ蝶」
鳳子はふと遠い日の記憶を拾い上げたように、その一言を呟いた。 その瞬間、和希の瞳が驚きに揺らいだ。彼女の口から出たその言葉は、和希にとって思いがけないものだった。
それは、たった一度だけ、和希が気まぐれで鳳子に話した会話の断片に過ぎなかった。
ある日、庭先でぼんやりと黒い羽を持つ蝶を見つめていた鳳子に、「『鳳』という字はアゲハ蝶を意味するんだよ」と教えたことがあった。 その言葉は、彼自身も忘れかけていた些細なやり取りだった。
それが今、鳳子の口から紡がれたことに和希は深く驚いていた。 彼女の心の中に、あの時の記憶がまだ残っていたのか――まるで、長い間閉ざされていた扉が少しだけ開いたような感覚だった。
和希はしばらく言葉を失い、鳳子をじっと見つめた。彼女の瞳はまだどこか遠くを見つめていたが、少しだけ柔らかくなっているように感じられた。 彼女はただ、自分の記憶の中に埋もれていた言葉を無意識に口にしただけなのかもしれない。しかし、それでも和希にとっては、それが小さな光のように思えた。
◆
次の日の夜、ついに鳳子は限界を迎えた。
物音に気づき、和希はすぐに鳳子の部屋へ駆けつけた。そこには、錯乱した彼女の姿があった。 目を見開き、何かに怯えるように暴れ回る鳳子の姿は、まるで和希が最初に出会ったあの日の彼女と同じだった。現実と悪夢の境界が崩れ、彼女は混沌の中に囚われていた。
和希は必死に鳳子を呼び起こそうとしたが、彼女の瞳にはまだ現実が映っていなかった。何かから逃げるように、彼を押しのけ、部屋の中を無秩序に駆け回る。 細い体からは想像もつかないほどの力で、彼を突き飛ばす鳳子。まるで彼女を支配する何かが、その内に神秘的な力を与えているかのようだった。
しかし、和希はそんな非科学的な解釈を認めるわけにはいかなかった。疑念を飲み込みながら、彼は必死に鳳子の腕を押さえつけた。 暴れる彼女を傷つけないよう慎重に力を加え、無理に曲げた関節が悲鳴を上げた瞬間、鳳子の抵抗が一瞬だけ弱まった。その隙をついて、和希はポケットから小さな白い錠剤の入ったケースを取り出した。
その錠剤は、鳳子のためだけに特別に調合された薬で、和希が信頼する限られたルートから密かに入手していたものだった。 これは鳳子の記憶を一時的に遮断し、混乱をリセットするために作られた、いわば「記憶の再起動薬」だった。
和希は鳳子の口元に錠剤を差し出し、優しく促した。
「鳳子、これを飲んで……大丈夫だから、これで楽になれる」
しかし、彼女は必死に顔を背け、滲んだ瞳で和希に懇願する。
「やめて、それだけは許して……」
いつもなら悪夢から逃れるために薬を受け入れる鳳子が、この時ばかりは意思を持ってそれを拒んでいた。 錯乱しながらも、自分を守ろうとする本能が、彼女の心の奥底で叫んでいるかのようだった。
和希の胸に、鳳子の言葉が鋭く刺さった。彼女の意思を尊重してあげたかった。だが、この特別な薬を飲まなければ、彼女はこの混沌から逃れられない。そして、飲ませればまた彼女を現実から遠ざけてしまう。その矛盾が、和希の心を締め付けた。
「ごめんね、鳳子……本当にごめん。」
和希は優しく鳳子の頬に手を添え、ゆっくりと錠剤を彼女の唇に押し込んだ。彼女は最初拒んでいたが、次第に抵抗を弱め、薬を飲み込んだ。 鳳子はやがて力を失い、静かに意識を手放していった。彼女をベッドに運び、そっと布団をかける。 月明かりが窓から差し込み、涙で腫れた彼女の瞼を静かに照らしていた。
和希は立ち尽くし、胸に込み上げる苦い感情を感じていた。何度この光景を繰り返しただろうか。 鳳子が暴れ、彼が力づくで彼女を押さえつけ、そして錠剤を飲ませるたびに、彼はまるで彫刻を少しずつ削り、形を失わせていくような気持ちに囚われていた。
鳳子という彫刻の本当の姿を誰も知らない。鳳子自身さえも、自分がどんな姿であるべきかを忘れてしまっている。 拾い集めたカケラを組み立てても、歪んだ姿しか生まれない。それでも和希は、彼女を救おうとし、また砕いてしまう。それが唯一の方法だと信じて――もう一度、やり直すために。
和希は窓から月を見上げ、深く息を吐いた。絶え間ない葛藤と果てしない希望が心の中で交差する。
「君を……取り戻すよ」
彼の心には、鳳子を救いたいという強い想いがありながらも、自らの無力さに打ちひしがれる感情が渦巻いていた。それでも、手を止めることはできない。
鳳子を救うために、和希は今日もまた彼女を殺したのだ。
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