3-3 最後の私
鳳子はここ数日、毎晩同じような夢を見ていた。夢の中で、形の定まらない、まるでノイズのような「自分」が、何かを必死に訴えかけるようにこちらを見つめている。その視線には絶望が滲んでいるかのようだった。しかし、鳳子はその意味をよく理解していた。一ノ瀬からの依頼に書かれていた魔女の呪い――それが、まさに夢の正体だと。
鳳子は毎晩、その夢の中で「自分」を否定し続けた。かつては、誰かのために自分を犠牲にしてきた。誰かの望む理想に自分を合わせ、本当の自分を押し殺してきた過去。しかし、今の鳳子は違う。もう二度と誰かのために自分を殺しはしない。彼女にとって、今や最も重要なことは「本当の自分」を取り戻すことだった。
そして、三日目の夜が訪れた。依頼に書かれていたように、今夜は夢の中で「殺される」夜。しかし、鳳子はその運命を受け入れるつもりはなかった。彼女は、相手を返り討ちにしてやるという強い決意を胸に、ベッドに入った。しかし、深夜0時を回っても、彼女の目は冴えて眠りにつくことができない。
やがて、鳳子は静かにベッドを抜け出し、廊下へと出た。暗闇の中、彼女の足音は無音で、ただひんやりとした空気が肌に触れる。彼女は和希のいる部屋へと向かった。廊下の先にある彼の部屋の扉からは、ほのかに明かりが漏れていて、まだ彼が起きていることが分かる。鳳子は扉の前で小さくノックをし、そっと扉を開け、顔を覗かせた。
「……鳳子!?」
和希は予期せぬ彼女の訪問に驚き、少し大きめの声を上げた。和希の部屋は、SIAの機密資料やモニターが並ぶ、極めて機密性の高い空間だ。鳳子が何も知らずに入ってくるのを防ぐため、彼は慌ててモニターをセーフモードに切り替え、すぐに彼女の元へ駆け寄った。
「こんな遅くに、どうしたんだ? 怖い夢でも見たのか?」
和希は優しく問いかけながら、彼女の顔を覗き込む。しかし、鳳子は首を小さく振る。
「ううん、ただ眠れなくて……。和希はまだ起きてたのね。お仕事中?」
鳳子は静かに答えた。その声には、どこか不安が混じっているようだった。
鳳子の視線は部屋の奥へと向かっていた。和希が何をしているのか知りたがるように、そっと覗き見ようとしている。しかし、彼女がその部屋の中を見ることは良くない――和希はそう判断し、彼女の視線を遮るように前に立った。
「邪魔してごめんなさい」
鳳子は小さな声で言い、その場から立ち去ろうとした。彼女の背中が少し俯き、寂しげに見える。和希はその背中を慌てて呼び止めた。
「待て、鳳子。ちょうど休憩を取ろうと思っていたんだ。もし眠れないなら、リビングで一緒にお菓子でもつままないか?」
その提案に、鳳子は一瞬驚いたように顔を上げ、次にぱっと笑顔を見せた。そして、大きく頷きながら「早く早く!」と和希の手を取った。鳳子の小さな手の温もりが、和希の心に安らぎをもたらす。二人は手を繋いでリビングへと向かった。
◆
ソファの前に置かれたローテーブルには、小さなチョコレートが無造作に散らばり、二つのコップが並んでいた。どちらも表面には水滴が滲み、時間が経って薄くなった飲み物が残っている。片方にはカルピスの原液を水で薄めたもの、もう片方には粉末コーヒーを冷やして作ったアイスコーヒーが入っていた。部屋の空気が静かに漂う中、二人の間にもゆっくりとした時間が流れていた。
鳳子は最初、和希の隣に普通に座っていたが、次第に体勢を崩し、やがて彼の膝に頭を預けるようにして甘えるような仕草を見せていた。鳳子がふと和希を見上げる、その無防備で愛らしい姿に、和希は自然と彼女の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。彼の手の温もりが、鳳子の不安定な心を少しずつ和らげていく。
「ねぇ、和希。いつもこんなに遅くまで仕事してるの?」
鳳子の声は真剣で、その瞳には彼に対する心配が浮かんでいた。普段、和希がどれだけ忙しいかを感じさせることはほとんどなく、彼の生活の中で自分を支えてくれている姿しか見ていなかった鳳子にとって、今目の前にいる「仕事に追われる和希」は新鮮で、同時に少し心配だった。
「時期によるさ。今はちょっと色々あってね」
和希はふわっとした答えでそれを済ませようとした。彼の言葉にはどこか配慮があり、鳳子に心配をかけまいとする意図が伝わってくる。しかし、その優しさが逆に鳳子には心の距離を感じさせ、胸に一瞬締め付けられるような感覚を覚えた。
「……わたしの、ため?」
鳳子は小さな声で呟いた。和希が、ここまで自分のために尽くしてくれる理由が、彼女には分からなかった。心のどこかで、彼がただの他人ではないと感じるものがあったが、それをはっきりとした形にすることはできない。鳳子の脳裏に、擬羽村の記憶が蘇る。母親に置き去りにされたあの家で、ただ一人、誰かの迎えを待っていた記憶。あの時、待っていたのは母親だけではなかったのかもしれない――そんな思いが心の片隅に浮かんだ。
不意に、鳳子の視界が暗くなった。それは和希の大きな手が彼女の顔にそっと触れ、視線を遮ったからだ。暖かくて骨ばった彼の手が、彼女の肌に優しく触れ、その感触が心地よい。鳳子の長い睫毛が和希の手にかすかに触れ、彼の手のひらをくすぐる。そして、和希はそのまま手を彼女の頭の方に移動させ、静かに撫で続けた。
和希は何も言わなかった。ただ、どこか苦しそうな表情を浮かべるだけで、その内側にある葛藤や悩みを鳳子が理解することはできなかった。彼の沈黙が、彼の中にある言葉にならない何かを物語っているように感じた。
「かずき……」
鳳子の声は先ほどよりも小さく、掠れたものになっていた。彼の温かい手のひらが彼女の頭を撫でるたびに、その心地よさに彼女は徐々に眠りへと誘われていく。
「私を……殺さないでくれて……ありがとう……」
その言葉は、眠気に負けそうな意識の中で自然に口をついて出た。まぶたが重くなり、あと数回まばたきをすれば、もう夢の中へと落ちてしまいそうだった。鳳子はまだ、和希に話したいことが沢山あった。だけど、何度だって自分を殺し続けてきた夜が、今夜こそまた自分を殺しに来るかもしれない。明日の私は、また空っぽの私かも知れない。和希が手を下さなくても、鳳子自身が自分を殺してしまう時があることを、彼女は理解していたのだ。
――死にたくない。
――消えたなく。
――否定しないで。
――その目に焼き付けて。
――本当の私を、愛して。
繰り返し、心の中で叫び続ける思いを抱えながら、鳳子は深い夢の水底へと静かに沈んでいった。
◆
ふと目を開ける。そこには見慣れた光景が広がっていた。深い水面の底、白い砂に散らばる砕かれた彫刻の破片。ここは鳳子の心の世界であり、彼女自身の墓場でもあった。
「やっぱり、最後はここなのね」
静かに呟きながら、鳳子はゆっくりと辺りを見回す。そして一歩踏み出すと、体がスムーズに動くことを確認する。右手には冷たい金属の感触。ナイフがしっかりと握られていた。それを確認し、鳳子は心の中で吐き捨てるように思った。
――あたりまえだ。ここは私の世界なんだから。
誰にも支配されるわけにはいかない。今夜こそ、三日目の夜、掲示板に書かれた噂通りに現れる「偽物」の自分を、確実に殺すつもりでいた。鳳子の中には揺るぎない決意があった。
周囲を探る視線の中で、すぐに目の前に立つ「それ」に気づく。形がぼやけ、ノイズのように揺れる姿は、まともに見ると見落としてしまいそうな不確かさがあった。それでも、鳳子には分かった。これは間違いなく自分自身だ。しかし、色も形も曖昧で、自分を保てないその姿に、鳳子は思わず嘲笑が漏れた。
「滑稽ね……こんなものが『私』だなんて。認めたくないけど、きっとそうなのよね」
余裕の笑みを浮かべながら、彼女は手のひらでナイフを弄び、その「自分」を観察した。
これは自分だ。誰かの理想に応え続けようとして、本当の自分を見失った哀れな存在。何者でもなくなった「世成鳳子」の末路。対して、今の鳳子は記憶も自我も取り戻し、己の本当の姿を取り戻した。だからこそ、目の前の「自分」とは全く違う。負ける気はしなかった。
しかし、一つだけ腑に落ちないことがあった。掲示板に書かれた噂では、この「もう一人の自分」が自分を殺しにくるはずだった。しかし、目の前の「それ」は一歩も動かず、ただじっとしている。殺意どころか、動く気配さえない。
(……何なの?)
鳳子は小さく疑問を抱きながらも、冷静にナイフを構え、その「自分」の顔に向かって振り下ろした。
ナイフが裂ける音とともに、「それ」は一瞬だけ驚いたように肩を震わせた。そして、顔に触れ、裂けた傷を確認しようとするが、その傷口からは何も漏れ出てこなかった。中身は空っぽだった。彼女は何事もなかったかのように腕を下ろし、再び動かずに立っていた。
鳳子はその不可解な行動に眉をひそめつつ、冷ややかに笑った。
「ふぅん……誰も、あなたに『自分を大切にしなさい』なんて言ってくれなかったのね。だから、自分を守ろうともしない」
もし誰かが一言でも「それ」にそう告げていれば、今ここで彼女は抵抗していたのだろう。鳳子はそう思いながら、ナイフを高く振り上げ、首元を狙った。これで楽にしてあげよう。そう思った瞬間、「それ」が鳳子に向かって両手を広げた。まるで、これから起こる全てを受け入れるかのように。
「何の、真似――?」
戸惑いが鳳子の心を掠めた。それは命乞いでも防御でもなかった。声にならない疑問が鳳子から漏れた。
「やっと、自分を取り戻したんだね」
ノイズ交じりのかすれた声で「それ」はそう呟いた。その声には、どこか柔らかさと温かさがあった。微かに優しく微笑む表情が、ノイズの向こうに見えた気がした。「それ」は一歩だけ鳳子に近づくと、その瞬間、体に亀裂が走った。鳳子は驚いてナイフを突きつけた。
「や、やめて……動かないで!」
――わたしが、死んでしまう!
しかし、もう一人の自分は臆することなくさらに鳳子へと近づき、そのナイフを静かに受け入れた。刃が触れた瞬間、まるでガラスが割れるような音が鳴り響き、彼女の体は砕け散った。無重力のような水中で、その破片はゆっくりと漂い、まるで時間が止まったかのように宙を舞う。鳳子はその儚い光景をじっと見つめたまま、静かに膝から崩れ落ちた。
目の前で消えたのは、自分自身だった。確かに私だ。自分の中に潜んでいた存在。私たちは、ずっと死にゆく自分を抱えながらも、明日へと進んでいたのに。今、私は再び大切な自分を、自らの手で壊してしまった。鳳子の心は揺れ、感情の嵐の中で記憶が錯綜し始める。
足元の砂を無意識に掻きむしり、埋もれた自分の欠片を探し出すように、鳳子は必死に手を伸ばした。指先に感じる小さな破片、それは彼女自身の一部だった。鳳子はそれを拾い集めながら、涙を流し、止まらない嗚咽が漏れ出す。声にならない痛みが彼女の胸を突き刺していた。
「ねえ、私は誰……?」
その言葉は何度も、まるで呪いのように繰り返される。鳳子の声は弱々しく、しかし深い悲しみが込められていた。どれが本当の自分なのか、どれが偽物なのか。迷いと疑念が交錯し、鳳子はもう何が現実で、何が夢なのかさえも分からなくなっていた。
砕け散ったもう一人の自分。その破片を手にするたびに、鳳子は自身の存在がさらに薄れ、曖昧になっていくのを感じる。それでも、自分を見つけたいという願いだけが彼女を突き動かしていた。だが、見つけ出した自分は、いつも壊れていく。
「私は……誰?」
◆
次に鳳子が目を覚ましたとき、彼女の視界に広がったのは見知らぬ天井だった。花柄の装飾を施された可愛らしい電灯が、淡く部屋を照らしている。鳳子は目を瞬かせ、体を起こしながら状況を理解しようとした。
「ここはどこ……?」
覚えているのは、箱猫市が災害に襲われ、その解決のために迷宮へ向かおうとしていたこと。それが最後の記憶だ。
(災害はどうなったんだろう……?)
ふと、閉ざされたカーテンが目に入り、鳳子は一気にベッドを降りてそのカーテンを勢いよく開け放った。そこには、澄み切った青空が広がっていた。目を覚ます前に感じていた嵐の中という現実とはあまりに違いすぎて、鳳子は現状を受け止めきれず、しばらく窓の外を呆然と見つめていた。
その時、部屋のドアをノックする音が響いた。鳳子は驚きと警戒心から反射的に肩を震わせる。
「世成ちゃん、目が覚めた? 入ってもいいかな?」
その声は、聞き慣れた女性のものだった。
「……蝶野さん?」
鳳子はドアの向こうに尋ね返した。扉が開かれ、現れたのは蝶野舞華だった。しかし、鳳子の目には彼女が悍ましい虫の姿に見えている。それはもはや驚くことでもなく、鳳子にとって当たり前の現実だった。
「蝶野さん……ここは、どこですか?」
鳳子は混乱したまま質問する。
蝶野は、鳳子の困惑した表情を察し、優しく微笑んで「とりあえず、座ろうか」とベッドの端に座らせる。そして彼女も隣に腰を下ろし、静かに説明を始めた。
蝶野の話によると、鳳子は箱猫市内で迷子になっているところを蝶野の父親が保護したという。それは昨夜のことで、災害はすでに過ぎ去っており、黄昏学園の新学期も先日始まったばかりだという。話を聞きながら、鳳子はぽっかりと抜け落ちた数日の記憶に気づく。最後に覚えているのは、嵐の中を歩いて迷宮へ向かおうとしていたことだ。
「迷宮はどうなったの……? 先生は……?」
焦りと不安が胸に込み上げ、鳳子はスマホを探そうと周囲を見回したが、見つからない。その様子に気づいた蝶野が口を開く。
「あなた、スマホを持たずに家を出たみたいなのよ。だから世成ちゃんのお父さんもすぐには見つけられなかったみたいで……」
その言葉に鳳子の心はざわついた。
「先生……先生は無事なの?」
鳳子の声は震えていた。
「先生……?」
蝶野は怪訝そうに首をかしげたが、和希との関係のことを知らない彼女にとってはその問いに答えられなかった。しかし、鳳子にとっては今すぐ確かめる必要があることだった。和希が無事に家に戻っているのだろうか――その不安と焦燥が胸を支配する。
「……あ、でもね。あなたのお父さん、今私のパパが迎えに行ってくれてるわよ」
蝶野が説明を続けている間に、玄関の扉が開く音が聞こえた。「ちょうど来たみたいね」と蝶野が言い、部屋を出て行く。鳳子はそのまま部屋に残され、耳を澄ませて玄関の音に集中した。
周囲を見渡すと、部屋には二段ベッドがいくつか並んでおり、壁には子供たちが描いた家族の絵が飾られている。蝶野家が大家族であることを示唆する光景だ。玄関の騒がしさが静まり、やがて階段を上がってくる足音が鳴り響いた。
「鳳子!」
その声とともに、飛び込むようにして和希が部屋へと入ってきた。彼は鳳子の姿を確認すると、一気に彼女を抱きしめた。
「先生……」
鳳子は掠れた声で呟いた。和希が無事だったこと、それだけで鳳子は全てがどうでもよくなったように感じた。目覚めてからの不安と焦りが、和希の温もりの中で解けていく。そして、胸の奥から自然に涙が溢れ出し、鳳子の視界は滲んでいった。
涙の中、ぼんやりと蝶野と彼女の母親の姿が見えた。彼女たちは、鳳子と和希の再会を見守り、嬉しそうに微笑んでいる。しかし、その奥に立つ見知らぬ白髪の外国人男性――セリオス・ヴェスペルが鳳子の視線を捉える。その鋭い目に、鳳子の体は瞬時に固まり、和希の体に強くしがみつくように身を寄せた。
「鳳子……?」
和希は鳳子の異変に気づき、彼女を守るようにそっと背中を撫でた。振り返ると、そこにはセリオスがじっと鳳子を見つめていた。
セリオスはSIAから派遣されたエージェント。彼の到着は、暁に関する任務が重大局面に差し掛かっていることを示していた。だが、セリオスが鳳子に向ける冷ややかな視線に、和希は違和感を覚えずにはいられなかった。
「この度は、うちの娘が大変お世話になりました。また近いうちにお礼を……」
和希は精一杯の笑顔を作りながら、セリオスに礼を述べた。
「ああ、また近いうちに会おうか。その子がどうして家出をしていたのか、理由は最後までわからなかったが、その後の近況も含めて報告してくれると助かるよ。私は子供達には笑顔でいて欲しいからね」
セリオスは柔らかい笑顔を見せつつ、和希たちに道を譲った。その視線の裏に何があるのか、和希には掴みきれなかった。
和希と鳳子が靴を履き替えている時、蝶野が近づいてきた。
「世成ちゃん、また学校でね。私もつい最近まで誰にも言えない悩みがあって部屋に閉じこもってたんだけど、昨日ね、まるで嘘みたいにすっかりよくなったんだ。私達、新学期早々休んじゃったけど、一緒に授業に追い付こうね!」
笑顔で声をかけた彼女の言葉に、鳳子も柔らかく微笑んで答えた。
「はい。また学校で……」
◆
蝶野宅を後にした和希は、静かにタクシーを捕まえて車内に乗り込んだ。鳳子も後を追って同じように乗り込むが、そのとき、彼女がぽつりと疑問を口にした。
「めずらしいわね、先生が自分の車を使わないなんて」
「僕の車なら、この前、君たちがスクラップにしただろ」
和希は明るく笑いながら返事をしたが、その言葉の裏には嫌な予感が少し残っていた。会話が自然に続くことを期待していたが、鳳子からの返答はなかった。ふと彼女を見やると、鳳子は眉をひそめ、まるで何の話をされているのかわからないとでも言いたげな表情をしている。
「鳳子……?」
和希の胸に不安が広がり、額に汗がじわりと浮かぶ。家出をしていた理由もまだわからないままだ。もしかすると、彼女は記憶を失っているのかもしれない。和希は焦りを感じ、言葉を探した。
「な、なあ、鳳子。ついこの間、ショッピングモールで買い物したこと、覚えているか? 君のドレスを買っただろう? あれ、まだ受け取ってないんだ。今日にでも一緒に取りに行こうか」
和希の声は微かに震えていたが、必死に明るさを装った。今はただ、一時的に忘れているだけだと信じたかった。つい最近のことなら、何かをきっかけに思い出すかもしれない。だが、和希の期待を裏切るように、鳳子は小さく首を振り、震える声で答えた。
「……人が多い場所は嫌い……私が視えているもの……醜いものばかりだから……」
彼女の言葉は和希の心に重く響いた。鳳子の手が怯えたように彼の腕を強く掴んだ。その瞬間、和希は鳳子が再びあの歪んだ世界に引き戻されてしまったことを悟った。鳳子の記憶だけではなく、彼女の視界までもが元に戻ってしまったのだ。和希はもう何も言うことができなかった。鳳子の手を自分の手で包み込み、彼女を守るようにしながら、ただぼんやりと窓の外を見つめた。
――私を殺さないでくれて、ありがとう。
鳳子がいなくなる前夜に、彼女が和希に向けて言った言葉が脳裏に蘇る。和希は、彼女の記憶を消さずに良かったと心の底から思った。
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