5-2 本心と正体

 晴天が、突如として暗雲に包まれた。夏にはよくある突然の豪雨の前触れだが、今の鳳子と仁美里の心情に寄り添うように空が変わる様子が、まるで自然さえ二人の葛藤を映し出しているかのように見えた。さっきまで倉庫の窓から差し込んでいた淡い日差しは、瞬く間に消え、薄暗い空間が静かに二人を包み込んだ。

 その変化に、仁美里は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。鳳子の苦しみが、いよいよ表に出てこようとしている――そんな予感を感じたのだ。仁美里は微かに微笑みかけたが、先に降り出したのは空の雨ではなく、鳳子の涙だった。

 鳳子は、まるで何かが爆発するかのように仁美里の胸元に掴みかかり、怒りと悲しみが入り混じった表情で声を荒げた。

「……どうして、そんなことを言うの……!? かみさまになるくせにぃ! どうして……どうして、そんなひどい事を言えるの……?!」

 鳳子の乱暴な手が仁美里の制服のリボンを掴み、解けたリボンが静かに膝元に落ちた。仁美里は、その軽い布の感触でようやく気づいた。鳳子は、仁美里が神様になることを望んでいなかったのだ。どんなに仁美里が自分の「生きる理由」になったとしても、神様になれば仁美里はいつかいなくなる。そうなった時、鳳子はまた生きる理由を失ってしまう――その事実に、仁美里はようやく向き合わされた。

「……もっと、早く言ってくれれば……私だって……」

 仁美里の口から漏れた言葉は、喉の奥で詰まった。神様になれば、全てを救える――そう信じてきた。鳳子を幸せにする唯一の道だと思い込んでいた。しかし、本当は違った。仁美里の中には、すでに神様になるよりも人間として生き、鳳子と共に未来を歩みたいと願う心があったのだ。その気持ちに気づいた時、胸が締め付けられるように苦しくなった。だが、その願いは許されない。神様になる宿命から逃れることはできない。

 外から聞こえる雨音が、ますます激しさを増して倉庫の窓を叩いた。静寂はもう何処にも存在しない。鳳子は声を上げながら仁美里の胸元で崩れるように泣き続けた。

「にみりちゃんとずっと一緒にいたい……! どこにもいかないで……!」

 その必死な叫びに、仁美里も心が震え、大粒の涙が溢れた。

「私だって、ふうこと一緒にいたいわよ……! あなたとこの村を出て、私の知らない世界を、貴方と一緒に見たい……! 私は……私は……!」

 ――人間として、生きたい……!!

 だが、その言葉はどうしても口にすることができなかった。神様を裏切ることはできない。仁美里は心の中で呟くことしかできなかったが、それでもきっと擬蟲神様は、自分の心の奥底まで見透かしているのだろう。だから、今だけは――どうか今だけは、この罪を赦して欲しいと、仁美里は心の中で祈った。

 外の激しい雨音が二人の涙に共鳴するように、倉庫の中に響き続けていた。



 やがて、二人は泣き疲れ、そっとマットの上に横たわった。周囲は静寂に包まれ、ただ二人の呼吸だけがゆっくりと交錯する。仁美里はそっと鳳子の涙を指先で拭い取る。その指の動きは穏やかで、まるで壊れやすいものに触れるかのように優しかった。

 そのまま、仁美里は鳳子の瞳をじっと見つめた。これまで鮮やかな紅色だと思っていた瞳。しかし、よく見ると、その奥にはもっと深く、燃え盛るような力強い光が宿っていた。まるで灼熱の炎にくべられた鉄のように、瞳は強烈な光を秘め、仁美里の心を引き込む。

「にみりちゃん……?」

 鳳子が不安げに仁美里を見つめ返す。微かな揺らぎを感じながらも、鳳子の瞳には何かを探ろうとする必死な表情があった。

「ねえ、ふうこ。どうしてあなたは、初めて会った時から……ずっと私に優しくしてくれるの?」

 仁美里は、ずっと鳳子の優しさの向こうに何か得体の知れないものを感じていた。同じ傷を抱えていることは分かっている。だが、それだけではない。もっと深く、鳳子の心の奥底にある何かに触れたい――それは強烈な衝動だった。仁美里は、鳳子が隠している本当の自分を見たいと強く思った。

 鳳子は静かに、仁美里の頬に片手を添えた。その指が、まるで確認するかのように仁美里の唇をそっとなぞる。その触れ方に、鳳子の迷いと渇望が感じられた。そして、鳳子は口を開く。

「私、にみりちゃんが欲しいの――」

 鳳子は微笑んだ。まるで恋に焦がれる乙女のような表情で。その笑顔は、仁美里が初めて鳳子と出会った時に見た純粋な微笑みと同じはずだった。しかし、今はその中に狂気にも似た渇望が隠れていることに、仁美里は気付いた。

 返す言葉は思い浮かばなかった。恐怖も失望も感じなかった。仁美里の中にあったのは、彼女の本心に触れたという優越感と、もっと彼女の心の奥を暴きたいという強烈な欲求だった。

「私が欲しい? 私、もうとっくに貴方と仲良くなれたと思っていたけど、勘違いだったかしら?」

 追及の言葉に、鳳子は一瞬戸惑い、視線を揺らす。しかし仁美里はそれを見逃さなかった。すぐさま顔を鳳子のすぐそばに近づけ、彼女の視界を独占するように、射抜くような視線で捉えた。

「ねぇ、ここには私と貴方しかいないの。……本当のふうこを、私に見せて?」

 仁美里は甘く蕩けるような声で鳳子に囁いた。金色の瞳が鋭く光り、鳳子の心を捉えて放さない。その瞳に射抜かれた鳳子は、胸の奥が一気に高鳴った。

「やっ……ん……」

 鳳子は戸惑いの言葉を漏らすばかりで、自分の中にある感情を言葉にすることができない。あと少し――鳳子が本当の自分をさらけ出す瞬間は近いはずなのに、何かが届かない。そのもどかしさが、仁美里の焦燥感をさらに煽る。

 心と心が近づきながらも、どこか触れられない――その微妙な距離感が、二人の胸の内で激しく火を灯していた。

 仁美里は鳳子を強く抱きしめ、その感触を確かめるように耳元でそっと囁いた。

「私をかみさまにしたくないのでしょう? 私が欲しいのでしょう? じゃあ、あなたが私をちゃんと捕まえて――?」

 その瞬間、鳳子の中で抑え込んでいた何かが一気に崩壊したかのようだった。衝動に突き動かされ、彼女は仁美里を押し倒す。身体の動きは大胆だが、表情にはまだ戸惑いの色が残り、震える手で仁美里の肩を押さえつけていた。しかし、その瞳は、もう抑えきれない感情に支配されていた。

「にみりちゃん……、ふうこは、にみりちゃんを……愛したい……!」

 その言葉には、ただの愛情以上の狂おしい感情が込められていた。まるで鳳子自身が壊れかけているような不安定さが漂い、瞳から大粒の涙が零れ落ちた。それは静かに仁美里の頬へと滴り、ふたりの距離をさらに縮める。

 鳳子の「愛したい」という言葉が、何か違う意味に聞こえた仁美里。彼女はその言葉の真意を知りたかった。

「じゃあ、愛して。私は、ふうこの愛が欲しい――」

 その挑発的な囁きが、鳳子の最後の理性をも打ち砕いた。鳳子は衝動的に仁美里の首元へと顔を近づけ、その柔らかい唇が仁美里の肌に触れる。だが、次の瞬間、鈍い痛みが仁美里を襲った。驚きに体が反応しようとするが、鳳子はいつの間にか彼女の両腕を抑えつけていて、逃げる術を失っていた。仁美里はその場に縛りつけられるようにして、痛みに耐えながら鳳子が顔を上げるのを待った。

 不思議なことに、その痛みは決して不快なものではなかった。むしろ、最初の衝撃が過ぎ去ると、首元から伝わる鈍い熱が心地よくさえ感じられた。鳳子の小さな歯が肌に食い込んだ場所が、じんじんと熱を帯び、鋭い痛みと鈍い快感が混じり合い、切なくも愛おしい感覚が仁美里の体に広がっていく。

 やがて、鳳子はゆっくりと顔を上げた。その顔は恍惚とした赤い頬に染まり、目には後悔と切なさが交じり合っていた。自分の行動に対する後悔と、それでも捨てきれない渇望が、その瞳に宿っている。

「……こんな、悪い子でも、にみりちゃんは、ふうこを……愛してくれますか……?」

 鳳子の声は震え、恐怖と切なさが混ざり合った響きを帯びていた。自分の中に潜む欲望をさらけ出し、悪い自分を見せた今、仁美里に拒絶されるかもしれないという恐れが、彼女の目の奥で揺れていた。

 仁美里はゆっくりと首を振り、愛おしげに鳳子の頬に手を添える。

「もちろんよ、ふうこ。どんな貴方でも、私は愛しているわ。……貴方の愛は、私が全部受け止めてあげる」

 その言葉は、揺るぎない真実として、鳳子の胸に深く響いた。

 生まれて初めて、鳳子は本当の自分を受け入れてくれる人に出会った。その感覚は、彼女にとって驚くべきものであり、長い間自分を縛りつけていた母親からの呪縛がようやく解けていくのを感じた。これまで、自分を愛してもらうために作り上げてきた偽りの自分を演じる必要がもうないのだと、心の底から理解した瞬間だった。自由になった彼女は、心からの笑顔を仁美里に向け、優しく囁く。

「……ふうこ、かみさまなんかに、にみりちゃんはあげない。ふうこが絶対に何とかする!」

 その言葉を聞いた仁美里の胸に、ほんの少しの温もりが広がった。鳳子の決意がどれほど無謀であろうとも、彼女が自分のためにそのような言葉を口にしてくれることが、仁美里にとって何よりも嬉しかった。神様としての自分の運命に逆らうことはできないと知りつつも、その瞬間だけは鳳子の夢に溺れてみたいという気持ちが芽生える。

「くすっ。私を絶対に離さないでね、ふうこ」

 仁美里もまた、心からの満足げな微笑みを浮かべ、鳳子にそっと囁いた。外を見ると、いつの間にか雨が上がり、眩しいほどの優しい光が倉庫の中に差し込み始めていた。

 その光に照らされた二人は、まるで一瞬の幻想の中にいるようだった。二人の絆は、これまでよりも深まり、鳳子の囁きが仁美里にとっての支えとなり、未来への不安が少しだけ消え去っていくかのようだった。
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