5-3 犠牲と生贄

 ――どろり、どろり。

 暗闇の中、どこからともなく聞こえてくる音が、静寂を切り裂くように響いていた。耳にこびりつくようなその音は、まるで自分の体の奥底から漏れ出しているかのようだ。仁美里は目を開けた。しかし目の前に広がる光景は、見慣れた場所ではなく、どこか遠く、知らない世界のように感じられた。

 地面には真っ黒な液体が広がっている。それはゆっくりと、まるで意志を持っているかのように、仁美里の身体から流れ出していた。身体が裂け、中から溢れ出したその液体は、血ではなかった。もっとどろりとして、まるで体の奥に潜む腐敗そのもののようだった。

「ッ――――!」

 声を出そうとしたが、喉がつまる。恐怖と混乱が一気に押し寄せてきた。身体を動かそうと足に力を込めたが、力が入らない。ゆっくりと下半身に目を向けた瞬間、思わず息を呑んだ。

 そこには、自分の足があったはずの部分が、まるで腐った果物のように醜く潰れ、内側のものが飛び出していた。脚は形を保てず、見るも無惨に崩れ落ち、じわじわと腐敗していくのがわかる。身体の中から漏れ出す悪臭に、思わず吐き気がこみ上げた。

 ――ここから逃げないと。

 意識がそう告げた。だが、身体は言うことを聞かない。両腕で這いずろうと試みるが、腕もまた腐敗し、肉が崩れ落ちていく。力を入れるたびに、指先がぐにゃりと潰れ、地面に押し付けられた皮膚が溶けるように崩れ落ちていった。痛みを感じないのが不思議なほどだ。感覚さえも腐敗に飲み込まれ、何も感じなくなっていく。

 ――腐っている。

 私の全てが、腐り果てていくのだ。身体も、心も、何もかもが。逃げようとしても、進む道はもうない。どこからか、何かが迫ってくる気配がした。それは影のように暗く、どこからともなく近づいてきているのがわかる。

 動けない。逃げられない。もう私は――。

 その時、仁美里は目を覚ました。冷たい汗が額から流れ落ち、シーツに染み込んでいた。身体は無事だ。腐敗していない。だが心の奥底に残った恐怖は、夢から覚めても、まだ胸の中に残り続けていた。

 ふと、仁美里は隣の布団に目をやった。そこにあるはずの鳳子の姿が見当たらない。トイレにでも行っているのだろうか? そんな風に考えながら、布団に手を伸ばしてその温もりを確かめた。だが、指先に感じたのは冷たさだけ。布団はすっかり冷めきっていて、鳳子が抜け出してからかなりの時間が経過していることがわかった。

 ――ふうこは、一体どこに……?

 その瞬間、考えがまとまる前に、夜を切り裂くような凄まじい悲鳴が響き渡った。

「ぎぃ、ああぁああぁああああぁ――!!」

 聞いたことのないほど凄絶な声。それでも、仁美里は直感でそれが鳳子のものだと理解した。心臓が強く打ち、冷たい恐怖が全身を駆け巡る。胸に嫌な予感がこみ上げ、仁美里はすぐに反応し、思わず寝室の扉を勢いよく開け放った。

 暗い廊下に飛び出すと、周囲は静まり返っていて、風が窓を叩く音だけが響いていた。廊下の先に広がる闇がまるで鳳子を飲み込んでしまったかのように、重くのしかかる不安感が仁美里の胸に広がる。

「ふうこ……!」

 息を詰めながら、仁美里は叫ぶように鳳子の名前を呼んだ。彼女の心は焦燥でいっぱいだった。鳳子に何かが起こっている――それは確信にも似た予感だった。

 足音が急ぐたびに、鳴り響く心臓の鼓動が強くなる。鳳子の安否を確かめたい一心で、仁美里は夜の闇に向かって駆け出した。



 鳳子の悲鳴が絶え間なく響く中、仁美里は迷うことなくその音を追って、足を動かしていた。まるで足元が崩れそうなほどの恐怖が胸を締め付ける。走りながら、心臓が痛いほど脈打ち、頭の中は真っ白だった。ただ、鳳子の元へ行かなければ――それだけが彼女の全てを支配していた。

 やがて仁美里は目的地に辿り着いた。そこは、擬蟲神が祀られ、神聖な儀式が行われる禊の部屋。仁美里は震える手で、その冷たい扉に触れた。指先が金具にかかり、無意識に力を込めて扉を押し開けると、冷たい風が彼女の頬を打った。

「……なに……してるの?」

 声は震えていた。目の前に広がっていた光景は、いつもの禊の時とはまったく異なっていた。部屋には、仁美里に儀式を行うために集まっていた男たちが、鳳子を抑えつけていた。彼女は床に倒され、その体は無力に震えている。鳳子の瞳は虚ろで、現実を捉える力を失っていた。口元には泡が滲み、か細い声で何かを言おうとしていたが、言葉にはならない。

 仁美里は息が詰まり、立っていられなくなった。膝から崩れ落ち、冷たい石床に手をつく。目の前で何が起きているのか、理解したくなかった。いや、理解するのが怖かった。

「なんだ、起きてきたのか、仁美里。まあ、あれほどの声を上げれば仕方あるまい」

 冷たく響いた声に、仁美里は顔を上げた。清弥が、静かに歩み寄ってきていた。彼の姿はいつもと同じように落ち着いていたが、その瞳には何か冷たいものが宿っている。

「どういうことなの……パパ……?」

 震える声で問いかける仁美里。しかし、目の前の光景から目を離すことができない。

「鳳子がお前を助けたいと言ってきたんだよ。調べたところ、あの子はすでに成体だ。巫女にはなれないが、次世代の巫女を産むことができる。つまり、お前の成体を待つことなく、すぐにでも擬蟲神の生贄にすることができる」

「生、贄……?」

 その言葉が仁美里の耳に届くと同時に、胸が締め付けられるような感覚が襲った。清弥はそれ以上は語らなかった。ただ冷たい瞳で、仁美里を見下ろしていた。仁美里の頭の中は真っ白になり、何も考えることができなかった。

 現実が信じられない。ただ、目の前に広がる鳳子の姿が現実であることは否応なく伝わってくる。仁美里の視線は、鳳子の体へと吸い寄せられるように向かった。そこで彼女は、鳳子の下から、止めどなく広がっていく鮮やかな赤に気付いた。

その赤はまるで血の川のように、床を染めていく。それが何を意味するのかを悟ると同時に、仁美里の心に押し寄せる恐怖と絶望が止まらなかった。破瓜ではない。無理矢理抉じ開けたそこは、無残にもその肉を割いたのだ。

 鳳子が自分のために犠牲になろうとしている。いや、すでに犠牲にされてしまった――その現実が、胸を締め付け、仁美里を絶望の淵へと追いやった。

 目の前の光景は残酷すぎて、彼女の心を完全に崩壊させていく。

「に、み……ちゃ……」

 意識を取り戻した鳳子のかすれた声が、仁美里の耳に届いた。彼女の目はかすかに開かれ、痛々しいほど弱々しい手を仁美里に向けて差し出した。その震える指先に、仁美里の胸が締めつけられる。

「だい、じょうぶ……だよ……」

 鳳子の声は驚くほど優しかった。今にも崩れそうな笑顔を浮かべ、怯える仁美里を安心させようとしているかのようだった。しかし、その瞳には深い苦痛が刻まれ、涙が溢れていた。痛みを隠しながら、必死に自分を守ろうとしている鳳子の姿が、仁美里の心に刺さる。

 ――どうして、こんなことが。

 頭が真っ白になり、胸に渦巻く感情が溢れそうになる。その瞬間、耐えきれずに仁美里の中で何かが崩れた。

「あああぁあぁああああ!!」

 仁美里は叫び声を上げた。自分でも抑えられないほどの感情が、彼女を突き動かした。立ち上がり、駆り立てられるようにして、鳳子に群がる男たちに向かって飛び出していった。思考する暇など無かった。ただ、鳳子を救わなければならない――その一心で体が動いた。

「汚い手でふうこに触るなァ!! 離れろッ!!」

 仁美里は全力で男たちを蹴散らそうとした。しかし、その力では到底敵わず、瞬く間に男たちに取り押さえられた。鳳子に触れようとする手が、遠ざかっていく。仁美里の心の中は、痛みと怒りで渦巻いていた。

 そのとき、清弥がゆっくりと歩み寄ってきた。

「それはもう神に捧げる。祠へ連れて行け」

 彼の冷淡な声が、仁美里の耳に残酷に響いた。父親であるはずの清弥が、こんなにも冷酷に鳳子を扱うことが信じられなかった。まるで神事の一環に過ぎないかのような、機械的な言葉だった。

 男たちは無言で命令に従い、仁美里を強引に担ぎ上げた。必死に抵抗しようとするが、その力は無力だった。仁美里は最後の力を振り絞って、鳳子の手を取ろうと腕を伸ばした。しかし、その指先は鳳子に触れることなく、空を掴んだまま、遠ざかっていく。

「ふうこ……!」 

 鳳子の姿が遠ざかっていくたび、仁美里の心はさらに締めつけられる。絶望感と怒り、鳳子を守れなかった自責の念が彼女を押し潰していく。
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