4-2 空白の私
「というわけで、2年Be組はお化け屋敷で決定したいと思います」
教壇の前に立つ蝶野が、クラス全体を見渡しながら言った。彼女の声は明るく、優しい口調のまま、教室内の静けさに反響する。黒板には、黄昏学園文化祭でのクラスの出し物としていくつかの案が書かれており、その中でお化け屋敷が多数決によって選ばれた。
生徒たちがそれぞれ役割分担について話し合い始める中、鳳子はぼんやりと窓の外に目を向けていた。教室の外に広がる空は、もう夏の面影を残さず、秋の澄んだ色に変わっていた。風が時折、冷たくなった空気を運び、窓ガラス越しにそれが感じられる。彼女の中には、箱猫災害から夏休みの終わりに至るまでの記憶がぽっかりと抜け落ちている。その空白が鳳子の胸に不安を呼び起こし、心の中に漠然とした孤独感を広げていた。
(あの間に、私は一体どこで何をしていたんだろう……)
ただ一つ、解決部の掲示板が彼女の頼りだった。そこに記録されている活動から推測する限り、彼女は解決部としての活動をしていたらしい。しかし、それ以外の記憶が全くない。掲示板に書かれた事実だけが、彼女の存在を証明しているかのようだった。
周りのクラスメイトたちが予算や企画書の話で盛り上がる中、鳳子はそっとスクールバッグから日記帳を取り出した。数年間、欠かすことなく書き続けてきた「死に行く鳳子の伝言」としての記録がびっしりと書き込まれている。日記のページは、彼女にとって自己の存在証明でもあり、記憶の断片を繋ぎ止めるための重要な手がかりでもあった。自分がどんな人間で、どんな日々を過ごしてきたのかを確かめるために、この日記は不可欠だった。
ページをめくるうちに、彼女の手は無意識に止まった。箱猫災害直後から蝶野家に保護されるまでの日々が、空白のまま何も記されていない。白紙のページが続くたび、その空虚感が胸を締め付けるようだった。通常、日記帳は自宅に保管しており、持ち歩くことはなかったが、もしかしたらふとした瞬間に失われた記憶が戻ってくるかもしれないと、最近は持ち歩くようにしていたのだ。
鳳子は深くため息をついて、視線を再び黒板に戻した。話し合いはもう終盤に差し掛かっており、クラスメイトの役割分担が次々と決まっていた。鳳子は無表情のまま自分の名前を探し、黒板に書かれた自分の役割を確認する。
(宣伝係と、当日は交代制でお化け役……)
忘れないように、彼女は自分の役割をノートに書き込んだ。
やがて終礼の鐘が鳴り響き、ホームルームが解散となった。クラスメイトたちは賑やかに教室を後にし、廊下には足音と話し声が響いていた。しかし、鳳子は席を立つことなく、その場に座り続けた。彼女は今日も和希の迎えを待っていた。窓から差し込む夕暮れの光が、彼女の顔に柔らかく当たり、少し寂しげな影を落としていた。
以前は学校が恐ろしい場所だった。教室の喧騒や他人の視線に耐えられず、和希が来るまで一人で隠れられる場所を探し続けていた。だが今は、少しだけ慣れていた。知っている人たちの中であれば、どんなに歪んだ世界であっても、取り乱すことはない。教室に残り、静かに座って待つことができる自分に、彼女は少しだけ驚いていた。
(私は、何か変われたのかな……)
そんな思いがふと彼女の心をよぎる。記憶の欠片が埋まることを願いながら、鳳子は静かに席に座り、思案を巡らせていた。
◆
やがて和希から到着のメッセージが届くと、鳳子はスクールバッグを手に静かに廊下へ出た。すると、そこには見知らぬ男子生徒が二人、まるで彼女を待ち構えるように立っていた。
「世成鳳子さん、君を待っていたよ」
前髪を上げ、メガネをかけた男子生徒――菖蒲が真剣な表情で鳳子を見つめながら口を開いた。鳳子は思わずバッグを強く握りしめ、見知らぬ高等部の男子生徒たちに警戒しながら一歩後ずさった。
「そ、そうですけど……何かご用ですか?」
鳳子は答えながら、無意識に逃げるルートを視線で探す。すると、菖蒲の隣にいた目つきの悪い男子生徒――ユイチが菖蒲を押しのけて前に出てきた。
「あれ? お前……どこかで見たことある気がするけど、まあいいや。悪いけど、こいつにちょっと付き合ってやってくれないか? なんか菖蒲がさ、お前を……」
「いや、それは僕の口から説明するよ、黎明君。……世成さん、信じ難いかもしれないけど、君は幽霊なんだ。ただ、悪い幽霊ではないことはわかってる。僕たちは君を成仏させに来たんだ」
「え、私って幽霊だったんですか?」
「俺は幽霊だなんて信じてないぞ、菖蒲。それに『僕たち』って言い方、やめろ」
突然の告白に鳳子は戸惑い、菖蒲の真剣な目に困惑する。そんな様子を見たユイチはため息をつき、鳳子に語りかけた。
「ごめんな、こいつがどうしてもお前を幽霊だって言って聞かないんだ。それで、解決部の掲示板にも――」
「――解決部の方なんですか!?」
その単語を聞いた瞬間、鳳子の警戒心はすっかり解け、瞳を輝かせながら身を乗り出した。その様子にユイチは一瞬言葉を失った。解決部の先輩が、何の功績も取柄も無い無名の自分に何か用があるのだろうか、と鳳子は期待で胸を膨らませていた。
「そう、僕たちは解決部なんだ。だからこそ、君を無事に成仏させてあげたいんだ」
菖蒲の言葉に、鳳子は目をキラキラさせながら無言で頷き、彼の言葉の続きを待った。菖蒲はポケットから未開封の塩を取り出し、鳳子に見せつけるように突き出す。
「これを今から君にかけるよ。いいかな?」
「はい!」
鳳子は躊躇なく返事をした。その光景を見ていたユイチは深いため息をついた。
「本当にごめんな、何も起きなければ菖蒲も納得してくれると思うんだ。ちょっとだけ我慢してくれ」
ユイチの言葉に鳳子は笑顔で首を横に振り、「いえ、解決部の先輩の頼みなら、何でも聞きますよ! 私が解決部を信じてますから!」と言って、両腕を広げた。
そして菖蒲は鳳子の心の準備が整ったのだと察し、その塩を彼女へと振り撒いた。さらさらと、細かい白い粒が粉雪のように彼女に降りかかる。それが顔に掛かる瞬間だけ、鳳子は一瞬瞳を閉じたが、菖蒲が塩を振り終わったことを理解するとゆっくり瞳を開けた。
その視線の先には、真剣な目で鳳子を観察する菖蒲が立っていた。
「どう……ですか? 成仏はできましたか……?」
鳳子は特に苦しむ様子はなく、まるで生きている人間のように言葉を発した。その事実が菖蒲を余計困惑させ、思考の底に意識を沈めさせていた。
(何の変化も起こらない……除霊は失敗? しかし彼女は何の躊躇いもなく除霊を受け入れた。つまりは悪い霊ではなく、彼女自身も成仏することを望んでいる可能性がある……。ということは、除霊方法が間違っていた可能性があるね……)
黙って思考を巡らせる菖蒲の横で、ユイチは鳳子の髪や服にかかった塩をパタパタと払いのけた。
「ほら、やっぱり何も起きねえじゃねえか。これでわかったろ? この子は幽霊なんかじゃないって」
ユイチが塩を払い終えると、菖蒲に向かって振り返った。そして彼に「この子に謝れよ」と言おうとした瞬間――
「――それはどうかな?」
ユイチにとって聞き馴染みのある声が、その場に響いた。そこには東雲がニコニコと笑顔を浮かべながら菖蒲のすぐ近くに立っていた。しかも、黄昏学園の中等部女子が着用している制服を纏いながら。
「東雲、お前――どうしてここに!?」
「一緒に謎解きをしようっていったじゃん。ずるいよ、『私』だけ除け者にして世成さんの除霊をするなんて!」
東雲は、まるで可愛らしい少女のような声で訴える。鳳子と菖蒲は突然現れた東雲に困惑しつつも、彼がユイチの知り合いであり、この除霊に関わるつもりでいることだけは理解した。
「さてさて。初めまして、菖蒲最くん。私は東雲全っていいます。こう見えてもオカルトマニアなのよ? それでね、クー君から話を聞いて、私も世成さんの除霊に協力しようと思って駆けつけたのよ♡」
東雲は軽やかに自己紹介をしながら、くるりと回転してスカートをひらめかせ、ユイチの腕を絡めた。
「それでね、この世成さんを除霊できなかった理由についてなんだけど、私が思うに、除霊方法が間違っている可能性がある。世の中には正しい方法でしか除霊できない怪異ってのがいるからね。だからそれを片っ端から試していくのがいいと思うんだ。……もしかしたら、菖蒲くんもその可能性には気付いているかもね?」
東雲の言葉に菖蒲は大きく頷いた。思えば、彼にとって世成鳳子が幽霊であるという事実を支持してくれたものは一切現れなかった。その中で同じ視点から彼女の除霊を手伝う意志を見せた目の前の少女は菖蒲にとっては心強い存在であった。
「僕もね、ちょうど同じ事を考えていたんだ。除霊方法が間違っている可能性……。だけどそれは今すぐここで別の方法を特定して試せることじゃない。幸運なことに世成さんも協力的だし、続きはまた次回ということにしよう」
菖蒲は鳳子に視線を向け、優しく語りかけた。
「……世成さん。君のことは僕は必ず成仏させてみせるよ」
「ええ、解決部の先輩方のご活躍を、是非この目で見届けたいです! ありがとうございます!」
(ダメだ……突っ込みが追い付かねえ……こいつら、どっちもズレてる……!)
二人が微笑みながら別れる中、ユイチはため息をつき、残された東雲を睨みつけた。
「お前、何のつもりだよ。……その制服、どこで手に入れたんだ?」
「黄昏学園って指定の制服ないじゃん? だから中等部で人気のやつを取り寄せたんだ。似合ってるでしょ?」
「お前、女装が趣味なのか?」
「ん? 違うよ。ただこっちの方が懐に入りやすいんだけ」
「……で菖蒲への発言はなんだ? あの女の子、どう見ても幽霊じゃ――」
「――そうとは限らないよ」
東雲の瞳が急に鋭く変わり、床に落ちていた黒い粒を拾い上げた。それは、菖蒲が鳳子に振りかけた塩だった。だが、なぜか黒く焦げていた。
「言ったでしょ。僕はオカルトマニアなんだ。世成鳳子は幽霊じゃないかもしれない。でも、何かあるよ、あの子には。本人が気付いてるかどうかは別として」
東雲は黒く変色した塩を見せながら、意味深に呟いた。ユイチはその焦げた塩を見つめ、一瞬、この世ならざるものの存在を感じた気がした。
powered by 小説執筆ツール「arei」