4-3 言葉を紡いで

 九月の黄昏学園。夕暮れが校舎を染める中、放課後の教室はいつも以上に活気に満ちていた。迫り来る文化祭に向けて、各クラスが遅くまで残り、準備に励んでいる。廊下には笑い声や、何かを運ぶ音が絶え間なく響いていた。鳳子もまた、教室の片隅で静かに宣伝用のポスターや看板を作っていた。だが、ふいに歩み寄ってきた蝶野の一言で、その手が止まった。

「バンドのボーカルを……私が……?」

 鳳子は戸惑いの表情を浮かべ、声を落とす。蝶野は文化祭の当日に、有志でステージバンドをやりたいと考えていた。オリジナル楽曲まで用意し、バンドメンバーも揃えたのだが、どうしてもボーカルだけが見つからず、最後の頼みの綱として鳳子に声をかけたのだ。

「でも……私、歌なんて……」

 鳳子は困惑したまま、手元にあったポスターから目を離せないでいた。自分がバンドの中心に立つなんて、あまりにも想像できなかった。

「お願い、世成さん!」

 蝶野は真剣な眼差しで鳳子を見つめる。

「前に一度だけ、あなたが歌っているのを聞いたことがあるの。去年の合唱コンクールでも思ったけど、あなたには音楽の才能があると思うの!」

 蝶野の言葉が響き、鳳子の心に小さな波紋を広げた。彼女の瞳には、必死さと期待が入り混じっていた。鳳子は不安げに視線を彷徨わせる。ふと、蝶野が手に持つ有志団体の企画申請書が目に入った。その瞬間、去年の合唱コンクールを思い出す。蝶野の熱心さ――音楽に対する情熱は、確かに人一倍強いと感じた。

「今すぐには……答えは出せません。一度持ち帰って、後日お返事させてもらってもいいですか? 申請の期限までには、間に合うようにお返事します……」

 鳳子の声はかすれていた。蝶野にはこれまで、何度も助けられてきたことを思い返す。だからこそ協力したい――その気持ちは確かにあった。だが、自分がその期待に応えられるかどうか、自信が持てなかったのだ。彼女の言葉には、葛藤と躊躇が滲んでいた。

「ええ、もちろん! 前向きに検討してね!」

 蝶野は満面の笑みを浮かべ、明るい声で返事をした。彼女はポケットからスマホを取り出すと、すぐに何かを操作する。数秒後、鳳子のスマホが小さく振動した。蝶野がデモソングを送ったのだ。

「今、デモソングを送ったから、暇な時にぜひ聞いてみて。歌詞はまだ未完成なんだけど、曲には自信があるの! 答えを出す前に、一度は聴いてほしいの」

 鳳子はスマホに添付されたファイルを確認し、再び蝶野に目を向けた。彼女の期待に応えるかどうか――その迷いが胸の中に渦巻いていたが、鳳子は黙って頷いた。



 その夜、鳳子はベッドに横たわり、ふと天井を見つめながら、蝶野から送られてきたデモソングを聴くことにした。再生ボタンを押した瞬間、静かなイントロが鳳子の心を包み込む。ピアノの切なく澄んだ旋律が、まるで夜空に漂う淡い光のように響き渡る。メロディは電子音で奏でられていたが、その音は寂しげでありながらも、どこか芯のある強さを感じさせた。

 音が進むにつれ、切なさと力強さが絡み合い、リズムが鳳子の心を優しく揺さぶる。何か大切なものを守りながら、苦しみや孤独を乗り越えようとする気持ちが、その音には込められているように思えた。

 次第に、鳳子の頭の中に言葉が浮かび上がってきた。まるでこのメロディが、何かを呼び覚ましているかのように、断片的な歌詞が形を成していく。言葉が旋律に寄り添い、自然と彼女の唇から歌となって漏れ出していた。

 ――叶わない願いと 叶えたい願いは

 気がつけば、鳳子は無意識に口ずさんでいた。曲に触発されるように、彼女の心の奥底から言葉が湧き上がり、それがメロディに導かれるようにして歌となって流れ出していたのだ。歌詞が一つ一つ形を成し、彼女の声が柔らかく、しかし確かに部屋の中に響く。

 ――似ているようで 相容れぬものと知った

 その歌詞は、彼女自身も気づかぬうちに、心の中でずっと抱えていた感情を形にしたものだった。自分が何を歌っているのか、頭ではよく理解していない。しかし、音楽と共に流れ出す言葉は、確かに彼女の心に触れ、感情を代弁していた。

 ――私が描いた 物語よりも どうして夢は 優しく騙すの

 歌い終わると、鳳子は一瞬自分が何をしていたのかに気づいて、少し驚いたように息を呑んだ。あまりにも自然に出てきた言葉とメロディが、自分の中から湧き上がってきたことに気づき、彼女は一瞬戸惑った。

「私……歌ってた……?」

 デモソングが終わっても、鳳子の頭の中にはまだメロディと歌詞が響いていた。気づけば、彼女はその瞬間、誰にも聞かせるためではなく、自分自身のために歌っていたのだ。

 鳳子はもう一度再生ボタンを押し、自動リピートをオンにした。静かに流れ始めたメロディが、再び部屋の空気を満たし、柔らかに響く。彼女はそっと目を閉じ、耳を澄ましながら、心の奥にある感情にゆっくりと身を委ねた。音が体に染み込んでいく感覚は、まるで音楽そのものと一体化していくようだった。

 メロディのひとつひとつが、彼女の中に閉じ込められていた感情をそっと解き放ち、心の奥底に眠っていた言葉を自然と引き出していく。鳳子の唇から、メロディに合わせた歌が無意識のうちに紡がれ始めた。それは、今まで言葉にすることさえできなかった感情が、ようやく形を持ち始めた瞬間だった。

 その自然さに、鳳子自身も驚いていた。まるで長い間心の奥に封印されていた感情が、解放の時を待ち望んでいたかのように、声が次々と溢れ出してくる。彼女は、自分が歌っているということさえ忘れ、ただ音楽の流れに身を任せ、無意識のまま歌い続けた。

 鳳子は、いつも自分の感情を抑え込んでいた。それが、このメロディに乗せられるようにして、心の奥底に埋もれていた言葉が次々と解放されていく感覚は、まるで眠っていた自分の一部が少しずつ目覚め、息を吹き返していくようだった。苦しみや悲しみ、孤独が、メロディに乗せて溶けていく。そして、今まで気づかなかった「本当の自分」がゆっくりと姿を現し始めるのを感じた。

(私が……生きている……)

 鳳子はメロディに合わせながら、心の奥底に溜まっていた叫びを吐き出している自分に気づく。驚くほど心地よい感覚が彼女を包み込み、まるで長い間閉じ込められていた感情が解放され、ようやく自由になったかのようだった。声が響くたびに、心が軽くなり、体全体の空気さえも少しずつ変わっていくように感じた。

 メロディは何度も繰り返し流れ続け、彼女の歌も、そのたびに新しい言葉を紡ぎ出していく。自動リピートで流れる音楽の中で、鳳子は自分の中に潜む感情を一つずつ言葉に変え、解放していった。その瞬間だけ、彼女は心を縛っていた鎖から解き放たれ、心の奥底から溢れ出す言葉が音楽と共に自由に流れ出すのを感じていた。

 目を閉じたまま、鳳子は深く息を吸い込み、吐き出した。音楽が止まることなく部屋中に広がり続ける中、彼女はしばらくの間、その心地よさに身を委ねていた。



 翌朝、2年Be組の教室に蝶野の驚きの声が響いた。

「え!? 本当にボーカルを担当してくれるの!? 昨日はあんなに悩んでいたのに、どうしてたった一日で!? 本当に!?」

 蝶野は驚きを隠せなかった。昨日の鳳子は、引き受けるかどうか深く悩んでいる様子だったのに、たった一晩で決心したことが信じられない。もちろん、ボーカルを引き受けてくれたこと自体は嬉しい。しかし、その決断の速さに困惑していた。

 鳳子は少し困ったような笑みを浮かべ、蝶野の驚きを和らげようとするかのように、丁寧に頭を下げた。

「本当ですよ。むしろ、私の方からお願いしたいくらいです」

 鳳子のその姿を見て、蝶野は彼女が本気で引き受けたのだとようやく実感した。胸の中の不安が一気に解け、ほっとしたように息を吐くと、鳳子の手をぎゅっと握り締めて、明るい声で言った。

「ありがとう! 本当にありがとう!」

 その瞳には、感謝と安堵が滲んでいた。鳳子もその視線に応え、じっと蝶野の目を見つめ返す。けれど、すぐに鳳子の表情が少し曇る。

「ただ、ボーカルをやらせてもらうにあたって……ひとつ、相談があるんです」

 そう言いながら、鳳子は少し不安げに視線を下に落とした。彼女が今から口にすることは、もしかしたら自分勝手かもしれない――そんな迷いが心の中で渦巻いていた。だが、それをどうしても伝えたいという強い気持ちもあった。

「なにかしら? 言ってみて。できる限り協力するから」

 蝶野は、その不安そうな鳳子の様子を見て、自分も少し不安な気持ちが湧き上がってきた。しかし、まずは彼女の望みを聞かなければ、と覚悟を決め、優しく問いかけた。

「……もしも、可能であれば、作詞を……私に任せていただけないかと思いまして……」

 鳳子は眉を顰め、視線を外して声を絞り出す。まるで自分の願いを吐き出すのが怖いかのようだった。しばらく沈黙が続き、返事が返ってこないことに鳳子は少し焦り、そっと横目で蝶野の表情をうかがう。すると、蝶野は目を丸くして、きょとんとした表情で立ち尽くしていた。

 そして、鳳子と目が合った瞬間、蝶野は突然笑顔を輝かせ、鳳子を力強く抱きしめた。

「なんだ、そんなこと? もちろんいいわよ! むしろ助かるわ!」

 蝶野は心からの喜びを身体全体で表現するように軽く跳ねる。その勢いで鳳子も一緒に揺れてしまい、思わず笑みを浮かべた。

 蝶野は鳳子の肩を掴み、再び彼女を正面から見つめる。その瞳には安心と期待が輝いていた。

「実はね、作詞だけがどうしても上手くいかなくて、ちょうど困ってたところだったの! 世成さんが引き受けてくれるなんて本当に助かる! 歌うのはあなたなんだから、好きに作っていいわ。全部任せるから!」

 蝶野の笑顔は、鳳子にとって眩しいほどだった。その中には深い安心感と信頼が込められているのを、鳳子も感じ取っていた。自分の望みが叶ったことに、鳳子は胸の奥から湧き上がる喜びと安堵を抑えきれず、自然と笑みがこぼれる。

 文化祭は10月の5日と6日の二日間。残された時間は少ないが、鳳子の心には、すでに新しい目標がしっかりと根付いていた。お化け屋敷の準備を進めながら、バンドの練習も重ねていく日々が始まる。そして、自分の想いを込めた歌をうたえる、その事実に彼女は胸を高鳴らせながら、その日を密かに心待ちにしていた。
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