掌中の珠


 もう一室借りたい旨を会所の管理者に伝えたところ、幸いなことに色好い答えが返ってきた。別室へ案内される道すがら、長英は隣を歩く崋山に尋ねる。
「今更ですけど、この後のご予定は?」
 初めに確認すべきところを長英も三英もすっかり忘れていた。人と会う約束を取り付けでもしていたら大変である。
「今日はもうありません。何も用事が入っていなくて良かった。こちらの勝手でお断りするのは心苦しいですから」
 断るってどっちをですか、と言いかけて長英は口をつぐむ。聞くまでもない、先に一度辞退されているではないか。藩家老と画家の激務を全うせんとする崋山の姿勢が、長英には寂しく感じられた。もう少し己の身体を労ってほしい。彼が寝付いたら悲しむ人間もいるのだ。
 目的地は曲がり角の手前にあった。先に立っていた下女が襖を滑らせ、長英たちは部屋へ足を踏み入れる。廊下の床板が寒々しく軋んだ。
 後から入ってきた崋山が部屋の中を見回している。行灯と文机があるだけの簡素な六畳間だが、今回の目的には不自由しない。行灯に火を入れて退室しようとした下女を呼び止め、長英は布団を敷くように頼んだ。施術に必要だからだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
 音も無くぴったりと襖を閉じた下女の、子を見守る母親めいた優しげな笑みが印象に残った。崋山が可笑しげに含み笑いをする。
「ごゆっくり、ですって。ふふ」
 むず痒くなって、長英はぱんぱんと手を打ち鳴らした。
「さて、横になってください。とっとと始めますよ」
「あ、はい。よろしく頼みます」
 羽織を軽く畳んで枕の脇に置き、崋山は俯せになった。昔の習慣で持ち歩いている襷を掛けて、長英は崋山の肩に触れる。
「うわっ! 何だますこれ、鉄板でも入れてんですか」
「入れてませんよう……いっいたた」
「息は止めない。普段と変わらない速さで、きちんと吐いて、吸って」
 身体を強張らせる患者に長英はぴしゃりと指示を飛ばす。詰めていた息をこわごわ吐いた、かと思えば不意に肩を跳ね上げ、崋山はくにゃりと身をよじった。
「く、くすぐったいです」
 長英の手を逃れようとしながら、崋山は笑い声をあげる。気楽なものだと長英は呆れた。
「一体どんな生活してるんですか」
「私としては、これでも……普通に、しているんですよ」
「その普通がおかしいっつってんだます」
「そんなこと、言われましても……」
「なんなら月一ぐらいで私がこうしてあげますから、もっとちゃんと寝てください」
「んー……いいですねえ。按摩がこんなに、心地よいなんて……知りませんでした……」
 大分まどろんできているようだ。枕に伏せた崋山の口から、くぐもった声がこぼれ落ちた。
「父上にも、して差し上げたかったなあ……」
 ひゅんと長英の喉が鳴って、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。十年以上も前に亡くした父親を崋山がどれほど敬っているかは、彼の言動を知っていれば想像に難くない。それでも、夢うつつの状態でさえ人のために我が身を捧げようとするのは、例え父に対してだとしても堪らなかった。
 自分の両手では少しばかり身体をほぐすのが精一杯で、この人の身を削るような生き方までは変えられないのだ。どうしようもない悔しさがせり上がってきて、長英は下唇を噛む。痺れた唇で啄むように息を吸って、ぼそりと呟いた。
「たまにはご自分のことだけお考えになったらどうだます」
 返事はなかった。すぅ、と安らかな寝息が聞こえる。
 深々とため息を吐いて、長英は施術の手を止めた。くったり横たわった身体に布団を掛けて、畳に腰を下ろす。いつぶりに熟睡しているのやら、崋山の穏やかな寝顔を見下ろしながら、長英は祈らずにおれなかった。
「ゆっくりお休みなさい。私がついていてあげますから」


 がくん、と前のめりに首が折れる衝撃で、長英は目が覚めた。襖越しに己の名が呼ばれているのを、ぼんやりした頭で認識する。
「どうぞ……?」
 状況を飲み込みきれないままに答える。襖が滑る音を聞きながら、長英は大きな欠伸をした。いつの間にか眠り込んでしまったらしい。
「失礼しますよ。随分とのんびりですね……おや」
 廊下に訝り顔の三英が立っていた。ほりほりとこめかみを掻く長英から布団へと視線が下りていって、面に納得が広がる。
「待てど暮らせど戻ってこないと思えば、道理で」
 静かに回り込んで長英の隣に腰を落ち着け、三英は安眠真っ最中の友人を見つめた。よかった、と呟いた唇は、穏やかな弧を描いている。
「ところで君たち、分かっていますか。他の方々はとっくに帰られましたよ」
「待ってください、今何刻だます?」
「お開きからゆうに二刻半は経っています」
「もう木戸閉まるじゃないスか!」
 長英が頭を抱えた拍子に、崋山が身じろぎして薄く目蓋を開いた。もぞもぞと掛け布団を掴んで、不思議そうな表情を浮かべる。
「お目覚めですか、渡辺どの」
「おはようございます」
 二人と目が合った瞬間、崋山の寝ぼけ眼が吹き飛ぶ。布団を撥ねのけ、がばりと彼は身を起こした。
「も、申し訳ありません、失礼しました」
「よく眠っておられたようですね」
「ご迷惑をおかけして、あの、お恥ずかしいところを」
「いやいや、本当に安心しましたよ。お顔色がずっとよくなりましたもの」
 布団の上に正座してあたふたと詫びる崋山の肩を三英は押しとどめる。三英の緩んだ目尻を見て、崋山は今一度きっちりと頭を下げた。
「ご心配をおかけしました」
「これで引き続きお身体を大事にしてくだされば、何も言うことはないんですけど。いっそ定期的に長英くんの按摩を受けたらどうですか」
「そうすべきかもしれません。施術中にも同じことを言われましたよ」
 崋山は苦笑して、ふと長英に向き直る。笑みを収め、彼はそっと長英の手を取った。
「君の手は人を救う手ですね。どうか大切にしてください」
 血行の良くなった崋山の手は温かい。薄紅の指先にとくとくと巡る血潮の温もりが、長英の心臓まで伝わってきた。
「……五十文」
「へ?」
 温かな両手を一瞬だけ握り返して、ぱっと放つ。
「按摩のお代だます。私はいつも五十文でやってましたから」
「ああ、なるほど。私としたことが」
 素直に財布を取り出す崋山の前で、三英は眉間の皺を押さえた。
「仮にも雇い主に向かって……。まあ、かつては専業にしていたんですから、当然といえば当然ですけども」
「翻訳であれ按摩であれ、仕事に対価が支払われるのは当たり前だます。渡辺さんだって絵を頼まれたら私ら相手でもお金取るでしょ」
「うーん、肖像画のご依頼や本格的な指導でしたらその通りですけど、ちょっとしたものなら別に」
「ほらそういうところですよ、本当あんたって人は! いい歳してつくづく金勘定が甘い! 世の中渡辺さんみたいなお人好しばっかりじゃないんですからね!」
「お人好し? ふふ、君にだけは言われたくありませんね」
「はああっ?」
「何でもいいですけど、用が済んだらさっさと出ますよ。会所にこれ以上迷惑をかけられません」
「待ってください三英どの、今何刻ですか?」
「あなた方って妙なところで似ていますよね……」
 会所の管理者に平身低頭で詫びて、三人はようやく家路に就いた。
「おお、すごい。星が澄んで見えます」
 歩きながら崋山は夜空を仰ぎ、柄にもなくはしゃいだ声をあげている。
「周りの景色が見違えるようです。世界はこんなに明るかったんですねえ」
「前見て歩かないと溝《どぶ》に落ちますよ」
 小銭の鳴る財布を懐に、長英は欠伸をかみ殺した。三英はしきりに継ぎ接ぎの羽織をはたいて、くどくどと世話を焼いている。
「ね、肩凝りも侮れないでしょう? これからはちゃんと睡眠時間を確保なさい」
「いや面目ない、医者の言うことには従っておくべきですね」
「そうですとも」
 話しているうちに、それぞれの家が集まっている辻に着いた。三人で出ると行きも帰りも道すがらずっと喋り倒してしまうので、決まってこの場所で別れることになる。
「三英どの、高野くん。今日は本当にありがとうございました」
「どういたしまして。今後ともご贔屓に」
 長英は袖を振って自宅へと向かった。
「いいですか、今日はくれぐれも早くお休みになること。仮眠できたから、なんて屁理屈で夜なべ仕事するんじゃありませんよ」
 背中越しに、三英が最後まで釘を刺しているのが聞こえていた。


 数日後、長英は日本橋の菓子屋を出たところで偶然崋山に会った。彼の方は二軒隣の墨屋に用があったらしい。
「調子はどうだます」
「お陰様で。寝付きも良くなりました」
 肩を撫でさすりながら崋山は微笑む。そりゃ何より、と長英も目を細めた。
「もっとお話ししたいところですが、生憎これから診療なんで」
「なら改めて、楽しい機会をもうけましょう。では」
 手を振って踵を返したところで長英は足を止めた。懐に手を突っ込み、先の店で買い求めた品を手繰り寄せる。
「渡辺さん、ちょっと」
 相手が振り向くのと同時に、懐から引き抜いたものを放り投げる。咄嗟に崋山が差し出した両手の中へ、紙の小包はすぽんと収まった。
「それ、取っといてください」
 できるだけさらりと言って、長英は頭の後ろで指を組んだ。
 人の生き方はそう簡単には変わらない。いくら三英が言い聞かせたところで、崋山はまた倒れる一歩手前まで根を詰めるだろう。どういうわけか、尚歯会にはその手の人間が集まりがちだ。
 ならば彼が倒れ込みそうになった時、その肘を取って支えられる人が傍らにいればいい。時には叱り飛ばしてでも休ませるのが友の役目だ。
「高野くん……いきなりどうしたんです」
「別に。なんとなくだます」
 長英たち三人、とりわけ長英と崋山が親しくしている様子は、端から見ると不思議な光景らしい。真逆の気質なのによく友人でいられるものだ、という意味合いの言葉をしばしば、主に崋山がかけられている。
 言われる度に、何にも分かっていない奴だと思う。似ていないからこそ、互いに支えられる面がある。長英の方が我を忘れて窘められる時もあるだろう。持ちつ持たれつ、一緒にどこまでも歩いていきたい。そう思える相手だから、長英は崋山と共にいる。
「お子さんにあげるんでも何でも、お好きにどうぞ。んじゃ」
「高野くんっ」
 羽織を翻して去りかけた足が、うわずった声に引き留められる。
「これじゃお代の意味がないじゃないですかっ!」
 長英は何もない地面でつんのめった。察しが良すぎるのも考えものだ。小包の中身、手鞠飴の値段はぴったり五十文なのである。
 咳払いを一つして、くるりと崋山に向き直る。口元を結んで本気でむくれている真面目な男に、長英は肩をすくめてへらっと笑ってみせた。一応笑いはしたが、ぎこちないのが自分でも分かる。
「なら今度、絵の一枚でもお願いしますよ」
「……お代は頂きますからね」
「それで結構!」
 今度こそ自然に笑って、長英は早足で歩き出した。両手でぱしぱしと頬を挟んで、患者に見られないうちに熱が引くよう必死に念じる。
 診療の時間が迫っていたこともあって、もちろん長英は一度も振り向かなかった。だから残された崋山が小包を懐へと仕舞い込む前に、掌中の贈り物をそっと持ち上げ、唇を寄せたことも知らないままだった。

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