掌中の珠
尚歯会に集う人々は主義主張や思想を抜きにしても気の合う者が多い。故に散会しても、用事を抱えていない限りは大半がその場に留まっている。それからは雑談に花を咲かせるなり囲碁を打つなり、各々気の向くままに過ごすのが常だった。
空になった湯飲みを、高野長英は半ば放るようにして置いた。彼も今日はこれといった用がない一人である。適当な輪に加わろうかと周囲を見回し、長英はふと部屋の一点に目を留めた。視線の先にいる男――渡辺崋山は、ゆるゆるとした動作で継ぎ接ぎの目立つ羽織を脱ぐところだった。
定例会の間は場の中心で弁舌を振るう彼だが、今は壁際に引っ込んでいる。くつろぐ皆の邪魔にならないようにという配慮だろう。こういう時の崋山は大抵、帳面を引っ張り出して何やら素描を始めるか、囲碁勝負を興味深げに眺めている。だが今日はそのどちらでもなかった。
崋山は何かを確かめるように右肩の辺りをぺたぺたと触り、難しい顔をして首をひねった。右腕をゆっくりと回し、それから小さくため息をついた、らしい。長英にため息が聞こえたわけではないのだが、崋山が面を俯けたちょうどその時、その隣にいた小関三英が案じ顔を向けたのでそれと察したのだ。
「どうかなさったんですか、渡辺どの」
「ああ、申し訳ありません。大したことではないのですよ」
崋山は苦笑した。二人の会話が楽に聞き取れる位置まで、長英はこっそり移動した。
「近頃どうにも肩の調子が優れなくて。こうして時々腕を回したり長めに湯船に浸かったり、色々試してはいるのですが」
「それはいけませんね。もしかして目や頭にも何か症状が出ていませんか」
目蓋の上から軽く眼球に触れながら、崋山は頷いた。
「わかりますか。目の奥の方が、重たい感じで」
「夜はきちんとお休みになられていますか」
「……ええ、それなりには」
口よりも逸らした視線の方が雄弁だった。途端に三英が渋い顔になる。
「渡辺どの、それが良くない。どれほど忙しくても睡眠時間は確保すべきです」
「三英どののおっしゃる通りですが、なかなかそうもいかないのですよ」
「取り返しがつかなくなってからでは遅いんですよ。絵筆を取れなくなってもよろしいんですか」
一瞬で崋山の顔色が変わった。
「困ります。そんなに私は悪いのですか」
「このまま手を打たなければ、可能性は十分に」
すがりつかんばかりの崋山に、三英は重々しく首を振ってみせる。
少し大袈裟に言っているな、と長英は思った。三英は何がなんでも崋山を休ませたいのだろう。それに万一利き腕に支障が生じれば、画家にとって命取りになりかねないのもまた確かだった。
「とは言っても渡辺どののお立場では、お休みも取りにくいんでしょうね。できるなら今日のうちにでも受けられて、かつ効き目の高い療治法があれば……そうだ」
ぽんと三英は手を打って、素知らぬ顔で聞き耳を立てていた長英をまっすぐ指した。
「按摩はいかがでしょう」
「なるほど、按摩ですか。しかしそれと高野くんがどう関係するのですか?」
「おや、ご存知ありませんでしたか。彼の按摩は一流ですよ」
崋山が目を丸くした。長英は一旦座布団を取りに戻り、それから崋山らの元まで歩いていった。どすんと腰を下ろした長英の姿を、頭の天辺から爪先までしげしげと崋山は見つめる。何かに熱中するとしばしば礼儀を忘れるのは崋山の悪い癖だ。
「寡聞にして存じませんでした。そうですか、高野くんは按摩までこなせるんですか……。私の認識が間違っていなければ、蘭方医にはあまり縁のない印象ですが」
「事実縁はないんスけどね、ずっと昔に義父に叩き込まれまして。いっときこれで食ってましたから、一応役には立ちました」
「芸は身を助くと言いますよ。良いお義父上をお持ちになりましたね」
穏やかな笑顔に、注意深く見なければわからないほどの影が差す。
「……私の絵も似たようなものです」
ひっそりとこぼれた囁きを拾ったのは、長英の耳だけだったらしい。
「渡辺どの、何かおっしゃいましたか?」
「ただの独り言です」
崋山が三英に元通りの笑い顔を向けたので、長英も黙っておくことにした。
「ならいいのですが。で、長英くん、どうせ我々の話を聞いていたんでしょう。どの辺りからですか」
「最初っからだます」
「呆れますね」
「なにぶん名乗り出る前にご指名されてしまいまして」
しゃあしゃあと長英はうそぶいた。盗み聞きしていた手前出ていきにくかったという理由も、本当はある。
「まあ説明する手間が省けたので不問に処しましょう。ではこの件、頼まれてくれますね?」
答えるよりも一歩早く、慌てた様子で崋山が割り込んだ。
「あの、どうかお構いなく。わざわざ高野くんに時間を割いてもらうなんて申し訳ないですから、別口でなんとか」
「やかましい」
小言を重ねようとした三英が口を半開きにしたまま固まった。唇の端をひくつかせている三英を放置して、長英は崋山の顔を覗き込む。
「渡辺さん、あんたの病名を教えてあげましょうか」
「は、はいっぜひとも」
「肩凝りだます」
「……肩凝り、ですか?」
拍子抜けした声で崋山は復唱した。本当なのか、と問いたげに三英の方を向く。振られた側は我に返って忙しなく頷いた。
「え、ええ、私も同じ見立てです。十中八九、利き腕の酷使によって生じた重度の肩凝りです。眼精疲労や頭痛といった症状もそこに端を発するものだと」
「そこらの蘭方医なら肩凝りはちょいと厄介ですが、私の腕なら治せます。それに、この私がもう受けると決めたんだます。なら黙って呑む以外の選択肢はありません。そうでしょう、渡辺さん?」
雇い主相手に堂々と言い切って、長英は崋山を見据える。崋山は黙って長英の瞳を見つめ返した。視線同士の会話があった。
「……では、お世話になります」
丁寧に頭を垂れる崋山の姿に、長英はにんまりと満足げに笑った。
「万事、この高野長英めにお任せください」
成立した交渉に、しかめっ面の三英が口を挟む。
「あのですね、その言い方はどうかと思いますよ、長英くん。いや按摩施術自体には私も全く賛成ですよ、そもそも勧めたのは私ですしね、ええ。しかしこれじゃ無礼が過ぎますよ、嫌がってるのを無理やり従わせたような言い草じゃありませんか。渡辺どのも何とかおっしゃったらどうです」
「いいんですよ、これは高野くんなりの気遣いですから」
「そりゃあとっくに承知していますけどもね……本当、なりふり構わないんだから」
長英は笑顔を崩さないまま、うへ、と心中で首をすくめた。どうにもこの二人には敵わない。
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