1-3 巫女

 仁美里は突然の息苦しさに目を覚ました。闇の中、全身が冷たく汗に濡れているのを感じる。呼吸が荒く、胸が苦しい。彼女は布団の中で身じろぎしながら、夢の中で見た忌まわしい光景を思い出そうとしたが、記憶は曖昧で、ただ漠然とした恐怖だけが心に残っていた。

 仁美里は深く息を吐き出し、冷えた汗で濡れた額を拭った。全身が重く、どこか鈍い痛みが体を蝕んでいる。悪夢から目覚めたばかりの彼女は、その痛みが単なる疲れから来るものではなく、もっと根深い不安から来るものだと感じたが、それを深く考えることを拒絶するかのように、ゆっくりと起き上がった。

 枕元に置かれた時計を見て、まだ朝の薄明かりが差し込む前であることを確認すると、彼女は一息ついて立ち上がり、冷たい床に足を下ろした。ふらつく体を支えながら、鏡の前に立つ。映る自分の姿は、普段よりもさらに青白く、瞳の奥にはどこか虚ろな影が見えた。

 彼女はそのまま、冷えた水で顔を洗い、普段通りの身支度を始めた。体の不調を無視するように、仁美里はセーラー服を丁寧に着込み、鏡に映る自分の姿を無感情に見つめた。心の奥底には、何かが違うという違和感があったが、彼女はそれを押し殺すように表情を整えた。

 家の外に出ると、村の冷たい空気が彼女の体にまとわりついた。まだ夜の闇が村を包んでおり、風が吹くたびに木々が不吉な音を立てる。仁美里は一瞬、背筋に冷たいものを感じたが、すぐにその感覚を振り払った。彼女の中で、あの悪夢と村の異様な雰囲気が重なり合っていたが、それを意識の表面に浮かび上がらせることはなかった。

 村を歩き始めると、彼女の前に村人たちが現れた。ある者は欲望に満ちた目で彼女を見つめ、まるで腐った果実に群がる蝿のように、彼女の美しさに引き寄せられていた。別の者は、神聖視するかのように頭を下げ、彼女を崇めるような視線を向けた。その敬虔な眼差しは、まるで光に誘われる蛾のように純粋で、彼女に対する敬意を示していた。

「巫女様、どうかご健康でお過ごしくださいませ」

 しかし、仁美里はその視線を冷たく払いのけ、何も感じないかのように歩き続けた。村人たちの異常な信仰心と欲望が交差する中で、彼女はただの人形のように無感情で進んでいく。彼女にとって、村人たちの視線や言葉は無意味であり、彼らの信仰や欲望に何の価値も感じていなかった。

 やがて学校の門が見えてきた。仁美里は、まるで何事もなかったかのように校門をくぐり抜け、冷たく孤独な心を抱えたまま、教室へと向かった。



 教室の窓から、冬の日差しが薄く差し込み、冷たい光が机の上に広がっていた。もうすぐ授業が始まろうとしている中、仁美里は一人、授業に必要な教材を運んでいた。その表情は無表情で、クラスメイトたちの視線を避けるようにして黙々と作業を進めていた。

 その時だった。彼女の手が滑り、教材が床に散らばった。教室は一瞬静まり返り、クラスメイトたちの視線が一斉に仁美里に向けられた。

「……チッ」

 仁美里が小さく舌打ちをする。教室の中には、彼女の小さな動揺が広がった。だが、誰も助けに入る者はいなかった。クラスメイトたちは、ただその光景を見つめるだけだ。中には、彼女の困惑を楽しむかのように冷笑する者もいれば、仁美里の冷たい態度に嫌気がさしている者もいた。

 一瞬だけ、仁美里は周囲の視線を感じ取り、わずかに肩をすくめた。しかし、すぐに無表情を取り戻し、床に散らばった教材を拾い集めようと腰をかがめた。

「大丈夫? 私も拾うよ!」

 その声に仁美里は顔を上げた。そこには、無邪気な笑顔を浮かべた鳳子が立っていた。その姿は、冬の冷たい教室の中で唯一の温かみを感じさせる存在だった。仁美里の動きが一瞬止まり、その場に固まった。

 彼女は鳳子の笑顔に視線を合わせることができず、わずかに唇をかみしめた。鳳子の手が教材を拾い始めた瞬間、仁美里は教材を拾う手を止め、冷たく言い放った。

「そう、ならあとは任せたわ」

 そう言い放ち、立ち上がる仁美里。その手が微かに震えていたが、彼女はそれを感じさせないように拳を軽く握りしめた。そして、教室の出口に向かって歩き始める。

「わかった!」

 鳳子は全く気にする素振りもなく、素早く教材を拾い集め始めた。その楽しげな様子を背後に感じながら、仁美里は一度だけ振り返る。鳳子とクラスメイトたちが楽しげに協力する姿を目にした。

 その瞬間、仁美里の眉がわずかに寄り、目つきが鋭くなった。彼女は無言のまま、視線を外し、再び教室を後にした。

 廊下に出ると、仁美里は立ち止まり、深呼吸を一つついた。その手を強く握りしめたまま、苛立ちを抑え込むようにしてゆっくりと歩き出す。彼女の足音が冷たい廊下に響き渡る中、教室内の談笑は再び元のように戻っていった。

 廊下を抜け、仁美里は一人、空いている教室へと足を運んだ。静寂が支配するその場所に腰を下ろし、窓の外をぼんやりと見つめる。冷たい風が木々を揺らし、寒々しい景色が広がっていた。

 彼女は机の上に手を置き、その指先で机をゆっくりと叩き始めた。一定のリズムを刻むわけでもなく、ただ指先が無意識に動いているだけだった。鳳子とのやり取りが頭を離れず、仁美里は無意識のうちに眉をひそめた。

 彼女の指が急に止まった。机の上に散らばる教科書やノートを無造作に片付けると、ふと立ち上がり、狭い教室内を歩き回り始める。まるで何かを振り払おうとするかのように、何度も窓の外を見たり、机の上を整えたりと、落ち着きなく動き続けた。

 その動きは、徐々に焦りを帯びてきた。椅子に戻り、背もたれに体を預けると、深く息を吐き出す。両手を膝の上に置き、強く握りしめるその指先には、彼女の心の中にある緊張が滲み出ていた。

 鳳子の姿が頭に浮かんだ。教室での出来事、彼女が懸命に教材を拾い集めていた姿がフラッシュバックのように蘇る。仁美里は視線を落とし、再び両手を強く握りしめた。彼女は唇を軽く噛み、しばらくそのまま動かなかった。

 やがて、ゆっくりと立ち上がると、窓に近づき、外の景色をじっと見つめた。冷たいガラスに手を触れ、その感触を確かめるように指先を滑らせる。外の世界と自分の間にある見えない壁を感じながら、彼女は目を細めた。

 しばらくそのまま立ち尽くした後、仁美里はゆっくりと教室を後にした。彼女の背中には、言葉にはできない重たい感情が刻まれていたが、それを表に出すことはなかった。机に残された教科書やノートは、きれいに整えられ、そこには何事もなかったかのような静寂が漂っていた。



 夕方の冷たい風が、校庭の隅にある水道の蛇口を震わせた。空は茜色に染まり、日が落ちる直前の穏やかな光が、擬羽村の校舎を照らしている。鳳子は外の流し台で、掃除用具を手際よく洗っていたが、冷たい水が手に染みる。何度も手を擦りながら、彼女は一生懸命に掃除用具を綺麗にしようとしていた。

 その時、ゴミ捨てに向かっていたクラスメイトが、鳳子の姿を見つけて立ち止まった。クラスメイトはしばらく鳳子の様子を観察し、不思議そうな顔で声をかけた。

「ねえ、もしかして冷水で洗ってるの? みんな、給湯室からお湯を汲んできて掃除用具を洗うのよ」

 鳳子は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔で返事をした。

「ほんとう? 知らなかった!」

 クラスメイトは笑みを浮かべ、「まあ、まだ転入してきてばかりだもんね。わからないことがあったら、何でも聞いて。助けてあげるから」と優しく言った。

 鳳子はその言葉に嬉しそうに頷き、ふと何かを思い出したように口を開いた。

「じゃあ、どうやったら仁美里ちゃんと仲良くなれるか知りたいな!」

 その言葉に、クラスメイトは一瞬表情を曇らせた。彼女は、仁美里がどれだけ他人を拒絶しているかを知っていたし、その冷たさがどこから来ているのかも、薄々感じていた。それでも、仁美里のことを嫌っているわけではない。ただ、彼女の世界に深く関わることが危険であることも理解していた。

 クラスメイトは鳳子の期待に応えたい気持ちと、どう答えるべきか迷う気持ちが交錯していた。やや戸惑いながら、慎重に言葉を選んだ。

「乙咲さんは……そうね、難しい性格だから、そっとしておいてあげるのがいいと思う。……いや、でも、できれば関わらない方がいいわ。彼女、この村の巫女だから」

 鳳子は興味津々に問いかけた。

「巫女さんだと、何かあるの?」

 その問いに、クラスメイトはさらに困惑の色を深めた。彼女は、擬羽村の独特な信仰や習慣が、外から来た者には理解し難いことを知っていた。何も知らない鳳子がこの村に引っ越してきたこと自体、彼女には信じられないくらい奇妙に思えた。

「……貴方、何も知らないでこの村に引っ越してきたの?」

 クラスメイトの声は、どこか呆れたような、そして冷たく鋭いものに変わっていた。

 その瞬間、周囲の空気が一変した。風が冷たさを増し、鳳子は思わず背筋を伸ばした。

「なら、何も知らない方がいい。私は、知りたくなかったから……」

 クラスメイトは低く呟くように言い放つと、何事も無かったかのように、その場を立ち去った。

 鳳子は、ぽつんと一人取り残された。冷たい風が再び彼女の手を刺すように吹き抜ける。クラスメイトの言葉の余韻が、彼女の心に暗い影を落とした。村に隠された何かが、確かに存在する。その予感が、鳳子の胸に重くのしかかるのを感じた。
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