1-4 禁断の境界を越えて①

 学校の帰り道、鳳子は凍てついた風が頬をかすめる中、村の細道を一人で歩いていた。白く染まった景色は静まり返り、鳳子の足音だけが雪を踏む音と共に響いている。寒さに手を擦り合わせながら、早く家に帰ろうと足を速めていると、突然、視界の端に何かがふわりと舞い降りた。

 その瞬間、鳳子の動きが止まった。目の前に現れたのは、まるで炎そのものが羽ばたいているかのような、不思議な蝶だった。赤や橙、金色が混じり合った翅は、寒さを忘れさせるほどの暖かさと神秘的な輝きを放っている。蝶はゆっくりと舞い上がり、雪の降る空に向かって飛び立とうとするかのように見えた。

 鳳子はその美しさに魅了され、気がつくと蝶を追いかけていた。蝶は舞い降りたり、再び高く飛んだりしながら、鳳子を誘うかのように導いていく。鳳子はその光景に夢中になり、他のことを忘れたように足を進めた。

 道を外れ、木々が密集する森の中へと進んでいくと、次第に辺りの風景が変わり始めた。雪の中でなお煌めくその蝶の後を追って、鳳子は気がつけば、古びた鳥居の前に立っていた。鳥居の向こうに広がるのは、村の古い神社だった。

「ここ……神社?」

 鳳子は自分が知らないうちに神社の敷地内に迷い込んでいたことに気づいた。蝶は、まるで鳳子にここへ来させたかのように、一瞬だけ翅を休めると、神社の奥へと飛び去っていった。鳳子はその後を追うように、神社の石畳を踏みしめて歩き出す。

 古びた木造の社殿が目の前に現れると、鳳子は何かに引き寄せられるように、社殿の中へと足を進めた。扉は半ば開け放たれており、中は薄暗く、冷たい空気が漂っていた。奥の壁にかけられた古い巻物や、祭壇に並べられた古びた品々が、時代の流れを感じさせる。

 鳳子はふと、目に止まった古びた文書に手を伸ばした。その文書は、埃にまみれながらも、何かを語りかけるかのように彼女を惹きつけた。文書を広げてみると、そこには不思議な言葉がびっしりと書かれていた。

「これ、何だろう……」

 文書にはこう書かれていた。

【その身に宿りし神の意志、火と共に荒び出で、鋼によりて焼き尽くされん。されど、巫女に宿りし者を討つも、復たその憎悪を呼び覚ますを忘るべからず。すべては燼滅刀にて、全き終焉に至らしむ】

 鳳子は文書に書かれた言葉の意味を理解できなかった。ただ、その文字が奇妙な力を宿しているように感じた。彼女はしばらくその文書を見つめた後、再び巻き直して元の場所に戻した。

 神社から出ようとした時、鳳子は足を滑らせ、雪に覆われた石段で転倒してしまった。ランドセルの中身が辺りに散らばり、彼女は急いでそれを拾い集めた。その時、ふと学校に忘れ物をしたことに気がついた。

「……ペンケースがないと宿題が出来ない!」

 そう言って、鳳子は急いで学校へ戻ることを決意した。彼女は再び鳥居をくぐり抜け、雪の中を駆け抜けていった。後ろで神社の扉が静かに閉まる音がしたが、それに気づくことなく、彼女は村の小さな学校へと戻っていった。



 教室には仁美里だけが残っていた。窓の外に広がる雪景色をぼんやりと見つめながら、彼女は机に突っ伏していた。体がだるく、頭は重く、微かに熱があることに気づいていたが、誰にも悟られないようにと無理をして学校に来ていた。

 教室のドアが静かに開き、忘れ物を取りに戻ってきた鳳子が入ってきた。彼女は机に突っ伏している仁美里の姿を見て、少し驚いた様子で声をかけた。

「仁美里ちゃん、まだ帰らないの?」

 仁美里はその声に反応して、眉をひそめ、かすれた声で答えた。

「放っておいて」

 鳳子はしばらく仁美里をじっと見つめていたが、その様子がいつもと違うことに気づいた。心配そうな表情で、彼女に近づこうとした。

「仁美里ちゃん、大丈夫? 具合悪いの?」

 しかし、仁美里は鳳子が近寄るのを拒むように、かすかに首を振り、手で制した。

「近づかないで……放っておいてって言ったでしょ」

 言葉は冷たかったが、彼女の体はふらつき、椅子から滑り落ちそうになった。その瞬間、鳳子はとっさに彼女の体を支えた。触れた仁美里の体は驚くほど熱く、鳳子はその熱さに息を呑んだ。急いで彼女の額に手を当て、その異常な熱さに焦りが増した。

「仁美里ちゃん、すごく熱い……! 今すぐ病院に行かなきゃ!」

 鳳子は必死に言い、仁美里を支えようとした。しかし、仁美里は苦しそうに息をしながらも、弱々しく首を振った。

「無理よ……私は……この世に存在しない……病院には、行けない……」

 その言葉を口にした瞬間、仁美里の体から力が抜け、鳳子の腕の中で意識を失った。

「仁美里ちゃん……!」

 鳳子は必死に彼女の名前を呼び続けたが、返事はなかった。焦燥感に駆られながら、鳳子は何とかして仁美里を助けようと、彼女をしっかりと抱きかかえ、病院へ向かう決意を固めた。



 仁美里が目を覚ますと、暖かいベッドの上にいた。だが、見覚えのない天井が広がっていることに気づき、不安が胸に広がる。彼女は混乱しながら周囲を見回し、その視界に飛び込んできたのは、ベッドのすぐそばで体を丸め、眠っている鳳子の姿だった。鳳子は仁美里に寄り添うようにして眠っていた。

 その瞬間、仁美里の胸にかすかな安心感が広がったが、それをすぐに打ち消し、無理やり体を起こして鳳子を揺り動かした。

「起きなさい、これはどういうことなの?」

 仁美里は鳳子を見つめて問いかけた。目を擦りながら目を開けた鳳子は、眠たげな顔でぼんやりとしながらも屈託のない笑顔を浮かべた。

「病院に連れてきたの。仁美里ちゃん、すごく具合が悪そうだったから……」

 その言葉に、仁美里は驚きを隠せなかった。彼女は戸惑いながら周囲を見渡した。確かに、ここは病院のベッドだ。だが、村から一番近い病院は隣町にある。そこまで行くには車でなければ到底辿り着けない距離だ。どうやって鳳子が自分をここまで運んだのか、疑問が頭をよぎった。

 さらに深刻な問題もあった。仁美里には戸籍がなく、この世に存在しないことになっている。だから、本来なら病院で診察を受けることなどできないはずだった。彼女は焦りを感じながら鳳子に問いかけた。

「どうやって……?」

 鳳子はその問いに、少しだけ微笑んで答えた。

「内緒だよ? 本当は仁美里ちゃんのを保険証を取りに行くべきだったんだけどね。私、仁美里ちゃんの住所を知らないし……だから、仕方なく……」

 鳳子はポケットから自分の保険証を覗かせた。その瞬間、仁美里はすべてを理解した。鳳子は自分の名前を使って、仁美里を「鳳子」として診察を受けさせたのだ。鳳子の優しさに胸を打たれつつも、仁美里は激しい焦りを感じた。この状況は、非常に危険だった。

 彼女は慌ててベッドから降りようとしたが、体は思うように動かず、まだ整っていない体調のせいで足が震え、バランスを崩してベッドの横に倒れ込んでしまった。

 体が言うことを聞かない苛立ちと、危険な状況に置かれている恐怖が仁美里を追い詰めていく。それでもどうすることもできない彼女は、やむを得ずベッドに横たわり、冷えた汗を滲ませながら息を整えた。

(もし問題になったら、すべてこいつのせいにすればいいわ。私を連れ出したのも、医者に見せたのも、全部こいつが勝手にしたことだもの……)

 仁美里は、不安と恐怖に支配される心を、怒りに変えた。その矛先を鳳子に向けることで、何とか平静を保とうとしていた。

 その時、部屋のドアが静かに開き、様子を見に来た医者が現れた。

「目が覚めたんですね」

 優しい声で医者は言った。

「解熱剤を飲んだから、すぐによくなるはずです。今夜はもう遅いので、明日の朝に帰りの車を用意します。だから、しっかり休んでください。勝手に帰ろうとするのは絶対にダメですよ。あんな距離を歩いて帰るなんて……無茶、もう許しませんからね」

 その言葉に、仁美里は息を飲んだ。鳳子が、自分を背負ってあの寒さの中をここまで連れてきたことを、ようやく理解したのだ。

 ――村から隣町まで、鳳子が一人で、あの寒さの中を……?

「わかりました」と、笑顔で医者に返事をする鳳子を見つめながら、仁美里の胸には再び困惑が広がった。なぜこの子は、ここまで自分のために尽くすのだろう? その善意が理解できない。

 しかし、同時にその善意によって自分が助けられたのも事実であり、それが彼女の感情をさらに混乱させた。

 ただひとつだけ確かなのは、仁美里が今、村を出て命を救われたということ。そして、それをしてくれたのは、彼女が心の底から嫌悪していたはずの鳳子だった。
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