1-6 ただいま
擬羽村に続く最後のトンネルに向かう途中、唯一の一本道がゲートで閉ざされていた。「立ち入り禁止」を掲げる看板が無言で立ちはだかり、これ以上車では進めないことを告げていた。和希はちらりと隣に座る鳳子を見やった。彼女の視線はトンネルの向こう、擬羽村の方へと注がれていた。目的地がもうすぐそこにあるのに、それが手の届かない場所であるかのように焦りと苛立ちが彼女の顔に浮かんでいた。
和希は小さくため息をつき、車の周囲を見回した。ふと目に留まったのは後方にある薄汚れた自動販売機だった。
「鳳子、少し待っててくれ。……それとも、一緒に来るか?」
突然の提案に、鳳子は眉をひそめた。彼女は和希を完全に信用していない。監視の必要があると感じて、無言で頷き、車から降り立つ。彼女の視線は冷たく、注意深く和希の一挙手一投足を追っていた。
和希が自動販売機へと向かう。鳳子はその後ろを静かに歩きながら、ウエストに拳銃を挟み込んだ。外で堂々と拳銃を持ち歩くわけにはいかないが、いつでも手に取れるようにしておく必要があった。和希の動きに対する警戒心を忘れることはなかった。
やがて二人は自動販売機の前に到着する。和希はポケットから小銭入れを取り出し、無造作に五百円玉を投入した。機械が音を立てながら商品のボタンを次々と光らせる。商品が補充されているかが問題だったが、和希は特に気にすることなく適当に缶コーヒーを選び、ボタンを押す。ガコンという音と共に取り出し口に何かが落ちる音が響く。和希が覗き込むと、彼が選んだ缶コーヒーがしっかりとそこにあった。
和希は缶コーヒーを取り出し、無言のままポケットにしまい込んだ。
「飲みたいものはあるか?」
和希が鳳子に問いかけると、彼女は一瞬きょとんとした表情を見せた。別に喉が渇いているわけではなかったし、飲み物を必要としている感じでもなかった。
「ここからは歩いて村に向かうことになる。多分、この先に売店や自販機はないだろうから、今のうちに準備しておいた方がいい」
和希はそう言いながら自分用にミネラルウォーターを購入する。商品が取り出し口に落ちる音を聞いてから、さらに小銭を追加投入し、もう一度鳳子へ視線を向けた。鳳子は陳列された飲料を一瞬見つめてから、やや迷った表情を浮かべた。
「……その、赤紫色のラベルの奴がいいわ」
鳳子は指で差しながら言った。和希は無言でボタンを押し、鳳子が指定したドリンクを取り出し口から手に取り、彼女に手渡す。
「ドクペ、好きなのか?」
「ううん、高等部の先輩達がラウンジでよく飲んでいるのを見かけるの。それで気になって……和希は飲んだことある?」
「あるけど、俺はあんまり好きじゃない」
「ふぅん……」
鳳子はその缶を興味深そうに眺め、やがて鞄の中へしまい込んだ。
二人は再び車へと戻り、村へ向かうための最後の準備に取り掛かる。必要なものを整理し、不必要なものを見極め、沈みゆく太陽を背にゲートを開けた。薄暗くなり始めた空が、彼らの進む道を不気味に照らしていた。
◆
二人は大きなトンネルの前に立っていた。その先には闇が続いており、出口は見えない。管理の手が及んでいないのか、トンネル内部に明かりは灯っていないようだった。整備されていない道を進むのは危険だ、と和希は直感的に思った。彼は鳳子に引き返すことを提案しようと考えたが、次の瞬間、鳳子は何の躊躇もなく一歩を踏み出し、トンネルの中へと進んでいった。
「おい、鳳子。危ないからやめろ!」
慌てた和希は鳳子の肩を掴んで引き止めた。だが、鳳子は振り返りざまに鋭い目で彼を睨みつけた。
「離して。私はこの先に行きたいの。邪魔を、しないで」
その瞳には微かな揺らぎがあったものの、擬羽村へ行きたいという強い意志が痛いほどに伝わってきた。和希はその熱意に押され、ため息をつきながら車から持ってきた非常灯を点灯させた。薄暗いトンネルの中では、この灯りが足元を照らすには十分だった。鳳子がはぐれないようにと、彼はそっと彼女の手を握った。
「何? 怖いの?」
突然の接触に、鳳子は軽蔑するような視線を和希に向けた。
「迷子になられたら困るんだ」
和希は軽くそう答え、彼女を自分の側へと引き寄せた。鳳子の手からは微かな戸惑いが感じられたが、それでも彼女は手を離すことはしなかった。こうして二人は、無言のままトンネルの奥へと足を進めた。
トンネルの中は静寂に包まれていた。彼らの足音だけが響き、どこまでも続く闇の中で、不安と緊張が二人を縛り付けていた。鳳子は和希の正体を知らず、和希もまた、今の鳳子の心を理解できていない。数年の時間を共に過ごしてきたにもかかわらず、今ではどこか他人のように感じていた。
やがて、鳳子が静かに口を開いた。
「……ねえ、お母さんは、もう私を迎えに来てくれないの?」
彼女の視線は依然として前を見据えていたが、その声には深い寂しさが滲んでいた。不意打ちのような言葉に、和希は一瞬だけ表情を強張らせた。鳳子の母親については触れたくなかったが、無視するわけにはいかない。
「……どうだろうな。君のお母さんがどうして捕まったのか、僕にはわからないから、何とも言えないよ」
和希はそれ以上言葉を続けることができなかった。その言葉に鳳子は視線を少し下げ、無意識のうちに和希の手を強く握りしめていた。
「小さい頃、私はずっとお母さんの帰りを待っていたの。暗い部屋の中で、閉ざされた扉が開いて、お母さんが迎えに来てくれる日をずっと……ずっと待ってた」
風がひゅるりと生温かい音を立て、二人の背後を吹き抜けていった。気づけば、トンネルの出口はもうすぐ目の前に迫っていた。
「でも、結局お母さんは迎えに来なかった。その代わりに迎えに来てくれたのは、仁美里ちゃん……」
やがて二人はトンネルを抜けた。外にはすでに夜の帳が下り、三日月が仄かに空を照らしていた。木々が月光を遮ることなく、鳳子の表情が和希の目に鮮明に映った。
「そして、もう一人。貴方よ、鳳仙和希」
その瞬間、和希を見つめる鳳子の瞳は、かつてのような不信感や警戒心は感じられなかった。彼女は純粋に、まっすぐに和希を見つめていた。それはまるで、彼に救いを求めているかのようだった。
「ねえ……和希はどうして私を迎えに来たの?」
その問いに、和希は言葉を失った。彼女の言葉は冷たくもなく、ただ純粋に事実を尋ねるような響きがあった。彼女の瞳には、今にも壊れそうな無垢な心が垣間見えた。和希の胸に重くのしかかる沈黙。
鳳子の問いかけが静かに夜空に消えていく中、和希はその答えを出せずにいた。ここで全てを話してしまいたかった。胸に抱えた秘密を告白すれば、和希は救われるかもしれない。だが、それは同時に鳳子に新たな重荷を背負わせることになる。和希には、医師と患者という立場を覆すことは許されなかった。彼女にとって自分がどんな存在であるのか、その一線を越えることは避けなければならない。それが和希に課せられた贖罪だった。
沈黙が二人の間に流れる中、和希が何も言えずにいると、不意に鳳子が彼の手からすっと離れ、村の方へと歩き出した。その背中が、何かに引き寄せられるように遠ざかっていく。和希は思わず違和感を覚えた。
「鳳子?」
彼が呼びかけると、鳳子は振り返らずに答えた。
「村で、祭りがやってる……! 見て、明かりが……」
鳳子の声には驚きと興奮が混じっていた。和希は彼女の視線を追い、その先を見た。確かに、トンネルを抜けた先、目の前に迫るその場所に、擬羽村は目前まで近付いていた。もし村で祭りが行われているのなら、その光が見えるのも不思議ではない。
鳳子が歩みを速め、やがて走り出した。まるで何かに誘われるかのような鳳子の様子に、彼は心の奥底で警鐘が鳴るのを感じた。
「待て、鳳子!」
和希はすぐに冷静さを取り戻し、鳳子を追いかける。彼女の足取りはまるで無意識に導かれているかのように軽く、勢いを増していた。遠ざかる背中が、まるでどこか異世界へ引き込まれていくように見えた。和希は焦りを感じ、急いでその背中を追った。
powered by 小説執筆ツール「arei」