1-7 おかえり

 鳳子の目に映る光景は、遠い日のままだった。時間が経つにつれ薄れかけていた村の姿が、今はまるで目の前に鮮やかに蘇り、鳳子の胸に懐かしさがこみ上げる。すべてが変わらない。まるであの夜の惨劇など無かったかのように。村の道や建物、人々の様子も昔のままで、その静かな風景は彼女の心に温かさをもたらしていた。

 鳳子の胸は高鳴り、無意識に瞳を輝かせながら、かつて仁美里と共に歩いた通学路を進む。その一歩ごとに、仁美里の温もりが蘇り、彼女の胸はじんわりと温かくなった。まるで隣に彼女がいるかのように。

「あら鳳子ちゃん、今から帰りかい? 暗いから気をつけてね」

 ベンチに腰かけていた村人が鳳子に声をかける。その声は穏やかで優しく、まるで昔からの知り合いのような親しみがあった。

「ううん、お祭りを見に行くのよ。おばあちゃんも、夜道は気をつけてね」

 鳳子は無邪気に返し、村人は微笑みながら手を振り、彼女を見送った。鳳子の足取りは軽く、まるで子供の頃に戻ったかのように楽しげだった。

「鳳子、待てよ」

 背後から和希が声をかける。鳳子はその声に振り返り、急に彼の元へ駆け寄り、手を握りしめて引っ張った。彼女の動きに、和希はただ目を見張るしかなかった。鳳子はまるで上機嫌だった。

「ねぇ、急いで! お祭りが終わっちゃう! 私ね、今まで一度もお祭りに参加できたことがないの! だから早く!」

 鳳子は視線の先にある賑わいの灯りを見つめながら、和希を強引に引き走らせた。その足取りは迷いがなく、目の前の光景を確信しているかのように一直線に進む。時折、何かを避けるかのように体を動かしながら、まるで見えない道を知っているかのようだった。

 やがて鳳子は村の広場に到着した。そこには彼女があの夜――仁美里から罰を受けた夜に想像していた通りの光景が広がっていた。いくつもの屋台が並び、甘い香りが漂う中、村人たちが楽しそうに行き交い、どこからか太鼓の音が心地よく響いていた。ずっと憧れていたこの祭りに、ついに辿り着けた――その事実に、鳳子は感動せずにはいられなかった。

 通り過ぎる村人たちは、鳳子に笑顔で挨拶をしていく。その一人ひとりに、鳳子も愛らしい笑顔を返す。彼女を虐げていた人々など、もはやどこにもいない。提灯が揺らめき、幻想的な光景の中で、鳳子は目を輝かせながら和希を振り返った。

「ねぇ見て! こんなにも綺麗な景色は初めてだわ! ほら、和希もこっちにきて」

 その瞳は希望に満ちていたが、和希の胸に不安が広がる。彼には、その「賑わいの灯」がどこにも見えなかった。ただ、暗く静かな、廃れた村の風景が広がっているだけだったのだ。

「鳳子!!」

 鳳子は楽しげに揺れながら、何かに引き寄せられるように暗闇の奥へと歩を進めようとしていた。その瞬間、和希は反射的に声を荒げ、鳳子の方へ駆け出した。そして、これ以上進ませまいと、後ろから力いっぱい彼女を抱きしめた。背後から伝わる和希の温もりに、鳳子は思わず振り返る。

「せんせい……?」

 鳳子のか細い声が、虚空に消えていく。彼女は、ようやくそこに何も残っていないことに気付いた。目の前に広がる光景は、無慈悲なほどに静まり返った荒野だけだった。あの日の災害が、擬羽村を一切合財、何も残さずに灰へと還してしまったのだ。破壊された家々、崩れた大地、そしてかつての記憶――全てが跡形もなく消え去っていた。

 風が吹き抜け、焦げた土の匂いが鼻をつく。鳳子はその場に立ち尽くし、呆然としたまま辺りを見渡した。記憶が戻り、何度も繰り返し蘇った村の風景。けれど、その鮮明な記憶とは裏腹に、ここには何一つ形に残るものがなかった。かつては温かみすら感じられた場所が、今や冷たい灰に覆われた無機質な世界と化していた。

 その事実が、鳳子の胸に鋭く突き刺さる。目の前に広がる無残な現実が、まるで刃のように彼女の心を抉り、痛みを伴って彼女を現実へと引き戻していた。

 鳳子の胸は締め付けられるように痛んだ。彼女は、ここに来れば仁美里に会えると信じていた。そう願っていた。擬蟲神がもし巫女の器から離れたのなら、ここに戻るはずだ。仁美里の魂は、この村のどこかでまだ生き続けているのではないかと期待していた。鳳子の心には、儚いながらもその一縷の望みがあった。

 しかし、現実はあまりにも無情だった。この場所からは、かつて感じていた不気味な祟りの気配すら、完全に消え失せていた。異様な雰囲気、擬蟲神の存在を感じさせた気配はもうなく、ただ静かな虚無だけが残っていた。



 車に戻ってきた時、鳳子はすっかり疲れ切っていた。顔には明らかな倦怠の色が浮かび、目はどこか虚ろで、生気を失ったようだった。数日間、まともに眠りも食事も取らず、体力を消耗し尽くした彼女の姿は、今にも崩れ落ちそうに見えた。仁美里を見つけられなかったという無情な現実が、彼女の心に重くのしかかり、その胸を空虚なものへと変えていた。

 和希は、そんな鳳子の様子を横目で見つめながら、彼女を一刻も早く休ませなければならないと考えていた。彼女の心と体は限界に近かった。しかし、二人が車に乗り込んだその瞬間、鳳子は制服の下から拳銃を取り出し、震える手でそれを再び和希に向けた。

「暁の所には、連れて行かないで」

 鳳子の声は、かすれた音になって空間にかろうじて響いた。彼女の指先は力なく震え、銃口は不安定に揺れ動いていた。その様子を見て、和希は彼女の消耗した体と心を如実に感じ取った。銃を構えているはずなのに、その手には確固たる決意がなく、ただ必死に自分を守ろうとしているだけの、頼りない姿がそこにあった。

「次はどこへ行けば満足するんだ? 言っとくが、凰雅から逃げることはできないよ」

 和希は冷静に、しかし鳳子の心情を察しながら言葉を紡いだ。彼女の逃げ場がないことは、和希にも分かっていた。そして、彼女がどれほど追い詰められているかも。

「……だったら、助けてよ。貴方は、私を救うために迎えに来てくれたんでしょう? じゃあ、私を守って……」

 鳳子の言葉は、かすかな希望に縋るようなものではなく、まるで自分自身を諦めかけた者の言葉のようだった。声は震え、そこに込められた感情は、自暴自棄に近い。彼女の目には、和希に対する信頼の欠片はない。それでも、今の鳳子には和希にすがるしか選択肢がなかったのだ。

 鳳子は自分でも何を求めているのか分からない。ただ、暁の元に戻ることへの恐怖が彼女の心を支配し、出口のない状況に押し潰されそうになっていた。そして、その結果、彼女の唯一の選択肢が和希だった。心の奥底では和希を信じられずにいながらも、他に頼れる存在などいないという現実が、鳳子を苦しめていた。

 和希は無言で鳳子の顔を見つめた。彼女が必死に振り絞るように言った「助けて」という言葉に、それを約束することができなかった。鳳子の姿は、心が折れかけた少女そのものだった。だが、その裏には深い傷と重圧が隠れている。和希はその重みを理解しながらも、彼女にどう応えるべきか迷っていた。

「まずは、スマホと拳銃を寄越してくれ」

 和希の声は穏やかだったが、その中に決意が宿っていた。鳳子はしばらく考え、迷いを抱えたまま拳銃とスマホを和希に手渡した。その動作はゆっくりで、彼女の中で最後まで手放すことへの抵抗が感じられた。

 和希は無言で拳銃を受け取り、まずは弾薬の数を確認する。ホッと胸を撫で下ろす。弾薬は一つも減っていなかった。鳳子がまだ危険な行為に踏み込んでいないことを確認し、和希は安堵した。鳳子がなぜ拳銃を持ち歩いていたのか、彼にはまだわからない。しかし、彼女が犯罪に手を染めるようなことはしていない――それだけは確かだった。

 次にスマホを確認すると、暁からのメッセージがいくつか届いていた。最後のメッセージには「こちらへ合流する目途が立ったら連絡をくれ」とあった。和希は無意識に眉をひそめた。暁が鳳子の動向を常に把握していることは、予想していたものの、やはり不快だった。彼女のスマホにはGPSが仕込まれていることも和希は知っていた。和希は、これから鳳子を連れて帰ると暁に報告するメッセージを無言で送信した。

「……ねえ、ごめんなさい」

 鳳子の小さな声が、沈黙の中にふっと浮かび上がった。和希は鳳子の方へ視線を向けた。彼女は不安そうに目を泳がせていた。和希は優しく微笑んだが、彼女の表情からはまだ不信感が拭い去られていなかった。

「心配しないで、鳳子。出来る限り君を守るよ」

 その言葉に和希の誠意が込められていたが、鳳子の手は少し震えたままだった。彼女はそっと細い指を和希の腕に触れさせた。その指先は、冷たく、そして何かを求めるように弱々しかった。

「……ねぇ、記憶を……消さないで欲しいの。できれば、暁にも、バレたくない……」

 それは、鳳子の心からの願いだった。彼女の声には切実さがあり、今にも消えそうなほど弱々しい。しかし、その裏には「今の自分」を守りたいという強い意志が隠れていた。自我が覚醒しつつある今、「世成鳳子」として生き続けるための足掛かりを失いたくなかったのだ。

「鳳子、もし君がこのまま自我を保てるなら、僕は絶対に君の記憶を消さないよ」

 和希は彼女の瞳を見つめながら、真剣に語りかけた。彼女がどれほど必死に今の自分を守ろうとしているか、和希には理解できた。彼女がこれまで体験した苦しみや孤独は、彼が思う以上に深かったに違いない。

「……さっき、村で幻覚を見ていたけど、ちゃんと現実に戻ってこれた。君がそのままの意識を保てるなら、僕は君をそのまま守るし、記憶を消すこともしない。それは約束するよ」

 和希は、そう言いながら鳳子の細い指に自分の指を絡ませた。彼の指は彼女にとっての唯一の支えのように見えた。彼の言葉は嘘偽りのないものだった。しかし、その約束は彼自身に対する誓いでもあった。

 鳳子の目には、一瞬だけ安堵の光が宿った。それでも、心の中にはまだ不安が渦巻いているようだったが、彼女は静かに頷いた。和希は彼女の反応に微笑み、車のエンジンをかけた。

 やがて、車は静かに擬羽村を後にした。暗闇の中、二人を乗せた車は東京を目指して進み始めた。外の景色は夜の闇に包まれ、車内は淡い光に照らされていた。和希はハンドルを握りながら、横に座る鳳子の様子を気にしていた。彼女がしっかりと眠りにつけるように、彼は慎重に運転を続けた。

 鳳子は、かすかな疲労に包まれながらも、和希の約束が心に深く響いていた。彼の言葉がどこまで信じられるか、まだわからない。しかし、少なくとも今は、彼の存在に縋ることができる――そう思いながら、彼女は静かに目を閉じた。
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