1-5 新しい扉、静かな兆し

 季節は秋を過ぎ、冬の気配が街を包み始めた。鳳子は休学することになり、ボールペンで怪我を負わされた女子生徒の件も、暁の手によって何事もなかったかのように処理された。

 鳳子の状態は変わらなかった。調子の良い日には無邪気に振る舞い、時には無感情に過ごすこともあったが、些細なことで突然取り乱すことも多かった。感情が不安定な日々が、まるで波のように彼女を繰り返し襲っていた。

 そんなある日、和希がデスクに向かって仕事をしていると、突然スマホの着信音が鳴り響いた。画面に表示されたのは見覚えのない番号だった。和希は一瞬ためらったが、電話に出る。

「世成です」

『……あ、突然の電話ですみません。私、鳳子ちゃんと同じクラスの蝶野舞華と申します』

 蝶野舞華――それは、鳳子がボールペンで怪我をさせた女子生徒の名前だった。和希は少し困惑した。件についてはすでに終わっているはずだった。それでも、用件を聞く前に、まずは謝罪の言葉を述べた。すると、蝶野はすぐに「いえ、もう気にしないでください」と明るく返した。

『……本当にもう、大丈夫なので。それよりも、鳳子ちゃんは元気ですか? 学校に来ていないのが気になってしまって……』

 蝶野は、怪我の件を気にしないでほしいと繰り返し、さらに、もしクラスメイトの虻川のことが怖いのであれば、下駄箱の件については彼女に注意をしておいたと話した。その言葉から、彼女が本当に鳳子を気遣っていることが伝わってきた。

「実は、ちょっと持病が悪化してしまってね。学校に通えるくらい元気になったら、また仲良くしてやってくれると嬉しいな」

『ええ、もちろん! それで、もし可能なら、鳳子ちゃんと少しお話しできたりしますか?』

 和希はちらりと鳳子を見る。彼女は電話の内容が分からず、ぼんやりとその終わりを待っていた。和希はスマホをスピーカーに切り替え、鳳子に手渡した。

「鳳子のお友達からだよ。少し話せそう?」

 スマホを手渡された鳳子は、突然のことで戸惑い、慌てて首を振った。それを和希に押し返そうとしたが、スマホの向こうから蝶野の声が鳴り響く。

『世成さん、元気? 出てくれてありがとう!』

「わっ……えっと、はい……」

 鳳子は困惑しながらも、思わず応答してしまった。 その瞳の先では和希に助けを求めていた。和希は鳳子の肩を抱き寄せ、安心させるようにそっと側に寄り添った。

『ふふっ、よかった。あのね、虻川さんにはもう言っておいたから、安心してね。だから、元気になったらまた学校に来てね』

 その言葉に鳳子は無言になった。その瞬間、スマホの向こうで学校のチャイムが鳴り響いた。

『あ、もうお昼休み終わっちゃった! ごめんね、また連絡するから、またね!』

 通話が切れると、緊張から解放された鳳子はその場に座り込んだ。和希は、逃げずに会話をした鳳子を優しく褒めた。そして、また蝶野から電話がかかってくることがあるかも知れないと思い、忘れる前に彼女の番号を電話帳へと登録した。



 その時はすぐにやってきた。蝶野からの着信があった翌日のお昼、そして次の日、さらにその次の日も――平日の昼休みになると、蝶野は決まって和希のスマホを通して鳳子に電話をかけ続けた。

 鳳子は最初、うまく話せずにいた。特に調子の悪い日は、そもそも蝶野と話すこと自体を避けていた。しかし、会話を積み重ねていくうちに、次第に落ち着いて話ができるようになった。

 話の内容は、主に学校での出来事が中心だった。鳳子はあまり興味がなさそうに聞いていたが、それでも話し続ける蝶野の声には、どこか親しみやすい温かさがあった。 和希も最初は、なぜ蝶野がそこまでして鳳子を気にかけるのか不思議に思っていた。しかし、彼女との会話は、鳳子が他人とのコミュニケーションを学ぶ貴重な機会だと感じ、静かに見守ることにした。

 そんなある日、和希は自分の仕事が思うように進んでいないことに気づいた。デスクの上には未処理の書類が山積みになり、手をつけなければならない案件が溜まっていた。

 昼休みのたびに鳳子と蝶野のやり取りに付き合い、そのたびにスマホを手渡しているうちに、気づかぬうちに多くの時間が過ぎていたのだ。

 その日の昼も、蝶野からの電話が鳴り響いた。和希はいつものようにスマホを鳳子に手渡そうとしたが、その時、蝶野がふと疑問を口にした。

『ところで、世成ちゃんってスマホを持っていないんですか?』

 その一言に、和希はハッとした。こんなに頻繁に連絡を取るなら、なぜ今まで鳳子にスマホを持たせなかったのか。さらに、最近自分の仕事が滞っている原因が、自分のスマホを介して鳳子が蝶野と話していたからだと、ようやく理解したのだ。

 和希はその後すぐに鳳子を連れてスマホを購入しに行った。

 鳳子は最初、戸惑い気味だったが、和希に背中を押され、店員の勧めるスマホを選んだ。真っ白なボディのスマホを手にした鳳子は、少し緊張した表情を浮かべながら、それをそっと撫でるように触れていた。

「これが私の……スマホ?」

 鳳子は呟くように言った。和希はその様子を見守りながら、彼女がまた一歩現実に近づいたように感じた。

「うん、これからは君が自分で蝶野さんと連絡を取り合えるんだよ」

 その言葉に、鳳子はふと、和希に自分の胸の内を打ち明けた。

「ねぇ、先生。あの子が私を気にかけてくれるのは嬉しい。でも、時々彼女のことが誰だかわからなくなるの。そして楽しそうに話している彼女の感情に、共感できないことがあって……苦しくなるの」

 鳳子の言葉に、和希は何も答えずゆっくりと頷いた。 まだ不慣れない手つきでスマホを大切そうに両手で包み込むその姿は、まるで新しい世界の扉を慎重に開けようとしているかのようだった。

 帰り道、鳳子は何度もスマホを確認し、和希に操作の仕方を尋ねながら、少しずつ使い方を覚えていった。その姿は、かつての彼女の無気力な表情とは異なり、そこには新しいものへの好奇心が垣間見えていた。

 だが、和希は微かな違和感を覚えていた。鳳子が新しいスマホに触れるたび、その表情には期待と不安が交錯していた。 彼女が一歩前進するたびに、和希の胸に押し寄せる不安が少しずつ膨れ上がっていく。

 彼女が自ら世界に触れ始めたことで、何かが動き出している――和希はそんな気配を感じ取っていた。 鳳子が自ら手にしたこの小さな端末が、彼女の世界に何をもたらすのか。期待とともに、和希の心の奥には漠然とした不安が沈んでいった。

 どこか遠くで、何か良くないことが忍び寄っているような予感が、和希の心に影を落としていた。


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