1-6 視認するもの
「合唱コンクールに行きたいの」
夕飯を終え、食器を洗っている和希に向かって、鳳子が唐突に声をかけた。その手には、最近買ったばかりのスマホが握られている。
「え? 何それ? いつ? ていうか、何の話?」
突然の言葉に、和希は鳳子の意図を掴めずに戸惑った。 鳳子はスマホの画面を和希に見せる。そこには、蝶野とのメッセージのやり取りが表示されていた。
和希は蛇口をひねって水を止め、濡れた手を服で拭いてからスマホを受け取った。画面には、明日、鳳子のクラスが合唱コンクールに出場するという内容が書かれていた。 蝶野は数週間前から何度も鳳子を誘っていたようだが、鳳子は曖昧な返事しかせず、時には何も反応を示さなかった。 それでも鳳子が意思を持って今まさに伝えてきたということは、彼女なりに迷い続けていたのだろうと和希は感じた。
急な話だったが、鳳子が自ら希望を口にしたことを尊重し、和希は明日の予定を調整し、鳳子を合唱コンクールへ連れて行くことに決めた。
◆
翌朝、合唱コンクール当日。 鳳子は自分から「行きたい」と言ったにもかかわらず、出発の時間になっても起きてこなかった。休学中の生活リズムが彼女を緩やかに狂わせていたからだ。 仕方なく、和希は寝ぼけた鳳子を制服に着替えさせ、抱きかかえるようにして車まで連れて行った。
合唱コンクールは、鳳子が通う黄昏学園の主催ではなく、全国から中学生が集まる音楽団体によるものだった。鳳子のクラスは、有志でその大会に参加していたのだ。 会場は箱猫市から遠く離れた赤坂にあり、和希は仕事でよく訪れていたエリアだったため、すぐに場所が頭に浮かんだ。 慣れた手つきでハンドルを切り、二人を乗せた車を吹雪の兆しが迫る冬の空の下、赤坂へと進めた。
会場に到着した頃には、鳳子もすっかり目を覚ましていた。 車内で蝶野と連絡を取り合い、到着時間を伝えていたようで、駐車場に着くや否や、蝶野が鳳子を迎えに来ていた。
「世成ちゃん! 久しぶり! 来てくれてありがとう!」
蝶野はまるで昔からの友達であるかのように、鳳子を抱きしめた。しかし、その瞬間、鳳子の表情が嫌悪に染まるのを和希は見逃さなかった。 蝶野は悪い人ではないが、その距離感の詰め方が、鳳子には苦痛なのだろう。和希はさりげなく鞄を鳳子に持たせて、蝶野を引き離した。
「いつも鳳子を気にかけてくれてありがとう。先生のところまで案内してくれるかな?」
「はい! こちらです!」
蝶野は明るい声で応じ、会場の入り口へと先導した。和希の腕を鳳子が慌てて掴み、周囲を警戒するようにして和希から離れまいとしながら、二人は慎重に歩を進めた。
会場は大きな建物で、他のイベントも同時に開催されており、多くの人々が行き交っていた。 蝶野が案内した先のホールでは、ちょうど午前の部が終わったようで、重い扉が開かれ、多くの観客が外に流れ出してきた。人混みの中から、蝶野は担任の蜂谷先生を見つけ出した。
「蜂谷先生!」
その呼び声に反応して、優しい笑顔を浮かべた女性が振り向いた。
「あら、世成さんが来てくれたのね!」
蜂谷まりこは、鳳子の担任であり、数少ない和希の立場を理解している人物だった。彼女は鳳子に笑顔で話しかけた。
「鳳子さん、元気にしてた?」
蜂谷は鳳子に優しく声をかけたが、鳳子は緊張のあまり固まってしまい、言葉が出てこなかった。和希はその場をフォローするために口を開いた。
「朝は元気だったんですが、ちょっと疲れちゃったみたいで……。それより、今はお昼休憩ですか?」
「ええ、今から十三時まで休憩です。その後の午後の部で、うちのクラスが一番手です。控室があるので、鳳子さんはそこで過ごせますよ。でも、保護者の方は……」
蜂谷は申し訳なさそうに言葉を濁した。和希は軽く頷き、「僕らは今日は観客なので」と答え、蜂谷を安心させた。
二人が鳳子の出席日数や進級の可能性について話し合っている間、鳳子は静かにその様子を見守っていた。やり取りが一通り終わり、休憩時間の終わりも迫ってきた頃、蝶野の声が和希と蜂谷の会話を遮った。
「あれ、先生……世成ちゃん、どこに行っちゃったんですか?」
二人が振り返ると、そこはもう静まり返ったホールの入り口。大勢の人々が行き交っていたその場所に、鳳子の姿は消えていた。
外では、吹雪が近づき、冷たい風がビルの谷間を吹き抜け始めていた。
◆
『合唱コンクール? 不登校の生徒って、そういうイベントだけ平気な顔で出席しますよね。一体どんな神経してるんでしょう? 毎日ちゃんと登校して勉強している生徒に失礼だと思わないんですかね?』
電話の向こうで、暁の軽い声が響いた。他人事のように話す彼は、鳳子が迷子になったことなど一切気にかける様子もなく、平然とそう言い放った。
「そんなことより、どうなんだ? お前のことだから、鳳子のスマホにGPSを仕込んでるんだろ?」
『まさか、私がそんなことする人間だと思ってるのかい? 悲しいなあ、そんな風に疑われるなんて』と暁は軽く嘲笑した。
(いや、絶対そうだろ)和希は心の中で呟いた。
実際、鳳子と暮らしている家には、暁が設置した監視カメラがいくつもあり、鳳子の身を守るためと言いながらも、その行動を逐一監視しているのだ。 それを思い出しながらも、言い返そうとした言葉は喉で詰まり、和希は結局黙り込んだ。
『まあ、あの子はまだその会場の中にいるね。建物の北側の端で反応が出ているよ』と暁が言った。
「ああ、助かったよ。じゃあな」
和希は通話を切り、すぐさま北側へと向かった。途中、お昼休憩を終えた蝶野と出くわした。
鳳子がいなくなった時、蜂谷や蝶野も一緒に探そうと言ってくれたが、彼女たちにはもうすぐ出番が控えていたため、迷惑をかけられないと和希はそれを断っていた。 何より、和希は鳳子のスマホにGPSが仕込まれていることを知っており、見つけることは難しくないと考えていた。 和希が心配していた問題は彼女の精神状態だった。緊張のせいか、言葉を失ってしまうほど委縮してしまった鳳子を、これ以上孤独にさせたくなかった。
「あの、世成ちゃん、見つかりましたか?」と、蝶野が心配そうに尋ねる。
「ああ、場所が特定できたから、今から迎えに行くところだよ。それより、お昼はどうした?」
「ロッテリアで、絶品ベーコンチーズバーガーを二個と、チーズ照り焼きバーガーを二個、それにふるポテのバター醤油風味を三個食べました!」
それが何か? と蝶野は和希をみた。和希は何から突っ込んでいいのかわからず、とりあえず笑っておいた。 お昼ご飯を食べていないまま鳳子を探しに戻ってきたのかと心配していたが、その心配は無用だったようだ。
建物の北側に向かうと、そこは今日何のイベントも行われておらず、人の気配すらなかった。警備員の姿もなく、静けさが支配している。 しかし、そんなはずのない場所から、どこからかピアノの音が流れてくる。
和希はまさかと思いながらも、その音のする方へと向かう。 薄暗い廊下の奥、かすかな予備灯の明かりがぼんやりと灯るその先に、開け放たれた扉が一つ見えた。
その扉の向こうからは、今もピアノの音が途絶えることなく響いていた。しかし、その旋律は和希にも蝶野にも聞き覚えのない、不気味な曲だった。
生ぬるい風が廊下を通り抜け、和希と蝶野は背筋にぞっとする寒気を感じた。
「見てくるから、ここで待ってて」と和希は蝶野に告げ、彼女をその場に待機させた。蝶野が少し怯えていることに気づいたのと同時に、この薄暗い場所で彼女が転倒でもして怪我をしたら大変だと和希は考えたのだ。
蝶野は和希の提案に安堵し、暗闇に進む和希の背中を静かに見送った。
和希は薄暗い廊下を慎重に進み、開け放たれた扉の向こうに目を凝らした。そこには、淡い照明に照らされたホールが広がっていた。 誰もいないはずのその空間に、異様に響くピアノの旋律。その源は、ステージ上に置かれたグランドピアノだった。
ピアノの前に座っていたのは鳳子だった。彼女は、まるで別人のように、細い指を鍵盤の上で優雅に踊らせていた。 曲の旋律は不思議で、聴く者の心に直接触れるような複雑な美しさがあり、同時にどこか不穏な空気を漂わせていた。
和希は一瞬、息を呑んだ。鳳子がピアノを弾けるなど、彼は一度も聞いたことがなかった。彼女は楽器に触れることすらほとんどないはずだ。 だが、今、彼の目の前で確かにピアノを演奏している――それも、ただの演奏ではなく、あまりにも見事なものだった。
彼女の演奏する音は、まるで人知れぬ世界の物語を語りかけているかのようで、耳に入るたびに奇妙な感覚が和希の胸に広がっていった。 不安をかき立てられる一方で、その音楽には言葉にできない魅力があり、和希は一歩も動けなくなっていた。
ピアノの鍵盤に触れる鳳子の姿もまた、どこか神秘的だった。柔らかな髪がほのかな光を受けて輝き、顔には静かな集中の表情が浮かんでいる。 だが、その表情には、いつもの鳳子とは異なる、何か異質なものが混じっていた。それが不気味でありながらも、なぜかこの光景全体がひどく美しく見えてしまう。
和希は一歩、また一歩と鳳子に近づいていった。彼女の指先は、正確に音を紡ぎ続ける。まるでこのホールの空間そのものが、彼女のために存在しているかのようにさえ思えた。
「鳳子」
和希は低く、慎重に彼女の名を呼んだ。しかし、鳳子は反応を見せなかった。彼の声がまるで届いていないかのように、彼女はピアノに没頭し、指先を動かし続けている。和希はもう一度、今度は少し大きな声で彼女の名前を呼んだ。
「鳳子……!」
しかし、彼女はその呼びかけをまるで聞いていないかのように、演奏を続けた。その瞳はどこか遠くを見つめ、現実とは別の場所に囚われているようだった。 彼女は、彼の声では届かない別の世界で、ただ一人演奏をしている。
和希の心は急速に冷えていく。彼の呼びかけが届かない。 彼女は一体どこにいるのか――この異様な光景が、彼の胸に不安を大きく膨らませた。
もう呼びかけるだけでは鳳子に届かないと悟った和希は、意を決して彼女のもとに近づいた。 そして、ゆっくりと彼女の肩に手を置いた。その瞬間、鳳子の指がピタリと止まり、音が途絶えた。
「鳳子、迎えにきたよ」
和希が静かに語りかけると、鳳子の瞳が一瞬、何かを探すように揺れた。まるで夢から現実へと引き戻されるように、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「先生……?」
鳳子の声はかすかだったが、確かに彼女は現実に戻ってきた。和希は鳳子の手をしっかりと握り返し、静かに頷いた。
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