珈琲五杯(高校生譲テツ)

※ 23年冬発行の同い年子どもたち譲テツ再録集「ともだち」におまけとしてつけたA4ペーパーの中身です(追納分からはナシ)
ありがとうございました!
全年齢 人間同士



――――――

 親父が死んじゃった。 
 不似合いな言葉を両手にぶらさげて、クラスメイトの真田徹郎が和久井譲介のもとへとやってきたのは二人が高校一年生の年、夏の死にかけの頃のことだった。そのとき、譲介は、学校にも行かずにいつもの居場所にしていた公園の門にもたれて足元の砂を観察する行為に勤しんでいる最中だった。子どもが捨てていったものなのか流行りのアニメキャラクターが印刷された菓子包みが砂を抱いている。見覚えのある姿が譲介へと近寄ってくるのはわかっていたが、まさか話しかけられるとまでは思っていなかった。 
 日だまりではなく影の黄色い昼さがりのことだ。徹郎のもってきた言葉はぐんにゃり脱力していて、撫でても叩いても大した反応は見込めそうになかった。譲介はそれを見るのをすぐにやめた。 
 当時何を思ったのか譲介自身今となってはもはやさだかでないが、そのとき譲介は、一回だけ喉の奥で息をかんでから、 
「おめでとう」 
 まばたきをしながらそうまじめに言ったのだ。はたして徹郎はうなずいた。はにかむような、奇妙な具合に口角をわずかにあげて、くたびれた制服を直さずに、ただうなずいただけだった。 
 徹郎は家族を愛しているはずだった。死んだという父親も、世話焼きの母親も、喧嘩の絶えないという兄も、なんのかんのと言いながらかけがえないものとして自慢に思っていたはずだった。間違ってもいなくなったときに第三者が祝福を贈っていいような家庭ではなかったはずだった。実を言うと二人はその日までろくに会話をしたこともなかったのだが、譲介は徹郎を知っていた。徹郎が家族について級友たちに話すとき必ず楽しげでいるのを遠くから見ていた。徹郎も、きっと、そういう譲介に気づいていた。だからだったのだろうと譲介は思っている。状況におよそふさわしくない勝手なおめでとうを、徹郎が受け止めた理由について。 
 
 気になっている喫茶店がある、つきあってくれないかと徹郎が言い出すので、連れ立って入った。二人に気を遣うように日はまだ高いのだった。店内には、ミルなのかサイフォンなのか譲介にはわからない音が響いていて、徹郎はというと初めて来たというわりにはやたら落ち着き払った足取りでくすんだ血糊じみた絨毯の上を進み、いちばん奥にくぐもる座席へ腰掛けた。空気に先を越されないよう、譲介も向かいに座った。手書きのメニューの達筆さに忌々しい教師を思い出してしかめつらをした譲介をそっちのけで、徹郎はすらりとした腕をカウンターへと掲げ、コーヒー四杯、と朗々と言い放った。 
 つられたように譲介の手も上がった。もうひとつ追加で。コーヒー五杯。 
 ぜんまいじかけの人形がしずしず戻るように徹郎は動く。制服のポケットから万年筆を出してテーブルに並べる。紺色の万年筆には、さなだ、とローマ字で刻印がある。それから光鮮やかなとんぼ玉。ハンカチも出てくる。木綿にはささやかな薔薇が咲いている。 
 卓に影。 
 沈黙が多くなった場へ、やがて何ひとつも面白くなさそうな表情の店員がやってきて、二人の前に次々とマグカップを置いていった。柄はすべてばらばらだった。黒縁と、格子模様、小花柄、金継ぎ走る青磁の上に徹郎の髪がにじむ。そして譲介の前には草原の縞。横断歩道。 
 あとは二人でひたすら飲む時間だった。振り子時計の音がまざって響いていることに、譲介はそこでやっと気づいたが、何も言わなかった。ときどきリズムがずれている気がしてそれならなぜそうなるのかを考えようとして、できず、やめた。やめてばかりだった。絨毯がすべてを吸い込んだ。 
 徹郎は一人で四杯飲み干した。広げていたもちものを、もとのようにしまい込んでいく様子を譲介は黙って見ていた。会計が済んでから、二人は店の前で別れた。またあした学校で、と、それまで一度として交わしたことのない言葉をそれぞれ手土産にして。 
 
 あの日の徹郎はずっと笑っていたと譲介はなぜかそう思う。目尻が融けていた気がする。冗談を言い合ったわけではなかった。二人の間に会話はなかった。譲介自身に徹郎の笑顔がはっきり向けられたことなど結局一度もなかったはずだった。まっすぐあの顔を見つめた瞬間さえなかったのに、成人して記憶がおぼろげになっても譲介のなかでなお鮮明なのは音や湯気ではなく、並べられたものの輝きですらなく、徹郎のほほえみだった。 
 あれからのち譲介は進級を待たずして所属施設の転居が決まり、他県へと出るながれになった。たった一回きり喫茶店にてコーヒーを飲んだ仲の徹郎がどうしているのか知るすべはない。風のうわさでは医者になったと聞いたがそれだけだ。喫茶店の名前はもう、思い出せない。



おわり




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