3-4 朧月

 仁美里は楽しげに揺れながら、何かに引き寄せられるように洞窟の奥へと歩を進めようとしていた。その瞬間、鳳子は反射的に立ち上がり、仁美里の方へ駆け出した。そして、これ以上進ませまいと、後ろから力いっぱい彼女を抱きしめた。背後から伝わる鳳子の温もりに、仁美里は思わず振り返る。

「……どうして、泣いているの?」

 そこには、顔を歪め、唇を強く噛みしめて涙を流す鳳子の姿があった。瞳から溢れる涙は止まらず、彼女は悔しそうに仁美里を見つめていた。

(仁美里ちゃん、本当にそれでいいの……?)

 鳳子は、今でも仁美里と友達になることを諦めていなかった。だからこそ、仁美里が自分の運命を受け入れていることが、鳳子には耐え難い寂しさと苦しみをもたらしていた。しかし、言葉にすることができなかった。どう言えば仁美里を引き留められるのか、彼女にはわからなかった。ただ、涙をこぼしながら無言で抱きつく鳳子に、仁美里はそっと腕を回し、優しく抱き返した。

「私は巫女だから、村を出てはいけなかったの。災厄を振り撒いてしまうと信じられているし、何より、私はこの世に存在しないことになっている。外の世界に私の存在が知られてはいけなかったのよ」

 仁美里は深く息を吸い込み、静かに吐き出す。そして鳳子の涙に濡れた瞳を真っ直ぐに見つめた。

「あなたはただ、私を助けようとしてくれただけなのに、私は何もしてあげられなかった。……あなたは悪くないわ。全部、私が話さなかったから……背負うべきは、私の罪だったのに……」

 仁美里の声は小さく、しかし後悔が滲み出ていた。だが、彼女は気づいていた。たとえ鳳子がすべてを知っていたとしても、あの日、村の外に自分を連れ出していただろうということを。

 それでも、仁美里は語るべきだった。鳳子が罰を受ける必要などなかったことを。いや、そもそも鳳子に対する罰など存在しなかったのだ。もしも罰を受けるべき者がいるとすれば、仁美里こそが、その罰を共に受けるべきだった。

「……違うよ。そんなことない。ふうこね、知ってるんだよ。仁美里ちゃんが私を守ろうとしていたこと。他の人たちにもっと酷いことをされないように、仁美里ちゃんは優しく罰を与えてくれていたって……知ってるんだよ……?」

 苛烈な村人たちからの虐げの中で、唯一優しかったのは、仁美里が与える罰だけだった。確かに、その罰は痛くて苦しい瞬間もあった。だけど、それはほんの一瞬で、仁美里はすぐに終わらせてくれたのだ。彼女自身が苦しみを浮かべた表情で。その時には理解できなかった、仁美里の苦しみの裏に隠された優しさの意味を、今になって鳳子はようやく理解した。

 そして、仁美里が抱えていた苦悩にも気付く。

 鳳子はこれまで、生きるための希望を絶やさないように、幸せな未来だけを思い描いて自分を欺いてきた。本当は、すべてが無意味で無価値であることを知りながらも、夢を追うことでかろうじて息を続けていた。

 ――もし、その先に未来がないと知っていたら、それでも夢を描いただろうか?

 鳳子の心が重く沈んだ。そんなことはしないだろう。なぜなら、この世界は本当に、嘘と虚飾に満ち、無意味で無価値で、醜いものばかりだから。それでも、仁美里はその世界で生き続けてきたのだ。

 仁美里が語った巫女の運命、その重さを感じながら、鳳子の瞳には涙が溢れた。涙がぽたりと鳴る音を聞いて、仁美里は驚き、そっと鳳子の頬に手を添え、指先で涙を拭った。

「どうしたの……? どこか痛むの?」

 仁美里は心配そうに問いかけたが、鳳子は首を横に振り、震える声で答えた。

「仁美里ちゃん。……私、何も知らなくて……ごめんね。ずっとずっと、貴方を傷付けてた……」

 その言葉に、仁美里は自分の胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。思わず言葉が詰まる。

「ふうこ」

 仁美里は決意を込めて、鳳子の瞳をしっかりと見つめた。

「神に誓うわ。もう二度と、あなたを誰にも傷つけさせない。村の連中からも、あなたのママからも、私があなたを守ってみせる。だから――」

 仁美里は、月を射貫くような冷静な瞳で鳳子を見つめた。そして、その瞳の奥には、真剣で深い思いが隠されていた。 彼女は、どんなに優しく声をかけても、鳳子がすべてを打ち明けてくれることはないのではないかという不安を抱えていた。 それでも、心を開かせるための言葉を探し、やっとの思いで口に出した。

「だから、お願い。何があったか、話して? 貴方が私を助けたように、私にも貴方を助けさせて」

 鳳子の瞳は一瞬揺らぎ、困惑した様子を見せた。しかし、今度のそれは拒絶ではなかった。彼女は自分の中にある苦しみを、長い間見て見ぬふりをしていたのだ。それを認めようと、深く息を吸い、重い沈黙を破ろうとした。

「……お母さんが帰ってきたの」

「うん」

「お母さんが、帰ってきてね……、それでね、お母さんがね……お母さんが……」

「うん、ゆっくりで、いいからね」

 鳳子の呼吸が浅くなるのを感じて、仁美里はそっと鳳子を抱きしめて頭を撫でた。仁美里の心には、ひとつの憶測があった。鳳子の母親がどんな人物かを知った上で、直感的に気付いてしまったことだ。しかし、そんな忌まわしい予感が外れてほしいと願いながら、仁美里は黙って鳳子の言葉に耳を傾けていた。

「お母さん、が、いつも、男の人を――わたし、を」

 その瞬間、鳳子の言葉は喉に詰まり、嗚咽が込み上げた。声を出すことさえできないほどの苦しみが、彼女の表情に刻まれていた。そして、先ほどまで整っていたはずの呼吸が乱れ、抑えきれない涙が大粒となって頬を伝い、視界をぼやけさせた。

 それでも鳳子は何とかして言葉を紡ごうとしたが、口から出るのは断片的な言葉ばかりだった。その不完全で途切れ途切れの言葉を聞きながら、仁美里は自分の予感が外れていないことを確信していった。二人は同じ傷を抱いていたのだ。そして、仁美里は神様を信じることで、鳳子は夢を描くことで耐え続けていたのだった。

「もう大丈夫よ。ごめんね、ごめんね……無理に言わせてしまったわ……」

 仁美里は優しくそう言い、鳳子をそっと抱きしめた。鳳子は、ついにその体を仁美里に委ね、溢れ出る涙を止めることなく泣き続けた。

 その泣き声に、仁美里は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。鳳子が、なぜずっと笑顔を絶やさずにいたのか、彼女はやっと気付いた。そうしなければ、鳳子は自分を保つことができなかったのだ。 気付いてしまえば、認めてしまえば、壊れてしまうから。

 仁美里は、自分が無関心を装って何もかもを受け流していたように、鳳子はその笑顔で、すべての苦しみを隠してきたのだと理解した。そして今、やっと鳳子はその心を解き放ち、仁美里の前で涙を流している。そして、いつまでも鳳子を抱きしめながら、その涙がすべて流れ去るのをただ待ち続けた。
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