4-1 初夏

 初夏の空気が、草の香りとともに村中に漂っていた。朝早い時間にもかかわらず、陽射しは少しずつ力を増し、ほんのりと汗ばむ季節が到来している。木々の間を抜ける風が、涼やかにセーラー服の襟元を揺らすたびに、仁美里は心地よさを感じていた。

 鳳子に会える。それを思うと、仁美里の足取りは自然と軽くなり、時折、無意識に手元の鞄を握り直したり、髪を整えたりしてしまう。

 通い慣れた道を曲がり、村の中心から少し離れた寂れた無人のバス停が見えてくると、仁美里の心は少しだけ高鳴った。彼女の目は、すぐにそこにいる鳳子を捉えた。

「ふうこ」

 優しい声で名前を呼びながら、仁美里は少し急ぎ足で鳳子へと近づく。鳳子は、まるで太陽を見つめるかのように空を見上げ、飛行機が描く白い線を目で追っていた。

 仁美里の声を聞いた鳳子は、すぐに振り返ってにっこりと微笑む。

「おはよう! にみりちゃん」

 鳳子の笑顔は、初夏の陽射しのように明るく、純粋な輝きを持っていた。それを見て、仁美里の胸の奥に小さな温かさが広がる。いつの間にか、自分もまた笑顔を返していた。

 二人は自然と手を繋ぎ、柔らかい日差しの中を並んで歩き出す。朝の風が、二人の頬を撫でるように通り過ぎ、道端には色とりどりの花々が静かに咲いていた。

 バス停からの通学路は少し遠回りだったが、その時間さえも二人にとっては貴重なひとときだった。仁美里は鳳子と一緒に過ごせるこの瞬間が、何よりも大切なものであることを感じていた。

 学校へ向かう道すがら、畑仕事に向かう老夫婦とすれ違った。彼らは仲良く並んで歩く仁美里と鳳子に目を留め、微笑みながら声を掛けてきた。

「あら、仁美里ちゃんに鳳子ちゃん。おはよう。相変わらず仲がいいのね~」

 その温かな言葉に、仁美里と鳳子は顔を見合わせて、微笑みながら声を揃えて挨拶を返す。

「「おはようございまーす!」」

 二人の間に流れる空気は、以前とは全く違っていた。かつてはそれぞれが心に傷を抱え、決して交わることのなかった思いが、今ではしっかりと結びついていた。失われた時間を取り戻すかのように、二人は互いを思いやり、寄り添う日々を過ごしていた。

 村人たちが鳳子を虐げようとすれば、仁美里は決してそれを見過ごすことはなかった。仁美里が立ち塞がることで、表立って鳳子をいじめる者は次第に減っていった。村の中でも、彼女たちの明るい笑顔を見て、快く受け入れる者も少しずつ増えていた。

 しかし、全てが変わったわけではなかった。神主や信心深い者たちは、いまだに鳳子を異端視し、彼女を庇う巫女である仁美里を決して許そうとはしなかった。彼らは陰に身を潜めながら、二人が再び村の秩序を乱す瞬間を待ち続けていた。

 平穏な日常の裏には、そんな悪意が渦巻いていた。しかし、仁美里と鳳子はその狭間で絆を育み、互いに支え合いながら歩み続けていた。

 やがて二人が学校へと到着した時、仁美里は校門近くに見慣れない一台の車が止まっていることに気づいた。ナンバープレートはこの地域のものではなく、都会的な光沢を持つ黒い車体が不自然に場違いだった。仁美里の胸に一抹の不安がよぎり、鳳子の母親のことが脳裏に浮かんだ。嫌な予感がして、彼女は無意識のうちに繋いでいた鳳子の手を強く握りしめた。

 二人が下駄箱で靴を履き替えていると、突然、教師が静かに近寄ってきた。その表情は少し曇っていて、何か言いにくそうだった。

「世成さん、ちょっといいかしら。貴方にお客様が来ているの」

 教師の気まずそうな言葉に、鳳子は一瞬戸惑った表情を見せた。しかし、仁美里はすぐに教師の表情の裏に潜む事情を察し、嫌な予感が現実味を帯びたことに気付いた。

「ふうこのママが来てるの?」

 仁美里は、目を細めながら冷静に教師に問いかけた。その鋭い視線に、教師は一瞬たじろいだが、やがて曖昧に首を横に振った。

 教師は、以前よりも明るくなった仁美里の変化を知っていた。鳳子と仲良くなったことで、彼女の生活にも良い影響があったのだ。しかし、その反面、鳳子のこととなると仁美里は過剰に攻撃的になる一面も持っていたことも教師は知っていた。

 それは、例えば鳳子の持ち物をクラスの子供がゴミ箱に捨てた時のことだ。仁美里はその子供を同じ目に合わせるべく、彼の持ち物をドブ川へ捨てたのだ。反発してきた子供と喧嘩になり、激しくぶつかり合ったこともあった。

 教師はそんな仁美里の性質を知っていたため、余計な刺激を与えないように、慎重に言葉を選びながら告げた。

「いえ、お母さまではないんだけど……お母さまに関係することで、お話があるの。ちょっと申し訳ないんだけど、乙咲さんを外部の人と合わせるのはあまりよろしくないから、教室で待っていてくれるかしら?」

 仁美里は教師の言葉に不安を覚えながらも、唇を噛みしめて鳳子から視線を外したくなかった。だが、巫女である仁美里は村の規律により、外部の人間にその存在を知られてはならないという掟がある。彼女はそのことを重々理解していたため、悔しいながらも頷かざるを得なかった。

「何かあったら、すぐに私を呼ぶのよ」

 仁美里の真剣な瞳に、鳳子は少しだけ不安そうな表情を浮かべたが、優しく微笑んで答えた。

「うん。大丈夫だよ。またあとでね」

 鳳子は何も心配することはないというように微笑んで、教師に導かれるまま教員室の方へと歩いて行った。その背中を見送りながら、仁美里は胸の奥に澱のような不安を抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。
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