1.起
水木はきっかり百歳で死んで、めでたく極楽行きとなった。いわゆる大往生である。
まさか自分が天国に行けるとは思ってもいなかったので、地獄の沙汰が下った際はもう一度心臓が止まるかと思ったほどだ。
こうしてうっかり永住することになった極楽での待遇は、それはもう信じられないくらい良かった。
極楽には「四荘厳」と言われる四つの特徴があり、それぞれ「宝樹」「宝池」「天楽・金地・天華」「化鳥・微風」という。
黄金に輝く地面には宝石の成る樹木や功徳のある水で満ちた池があり、素晴らしい音色や唄うように囀る鳥の声が聞こえてくる。天空から一日三回花が降ってきて、かぐわしいそよ風がその花弁を運ぶ。常に聖なる神光で明るく照らされた不死の世界――まさに理想郷だ。
極楽亡者への手厚い待遇は、環境や土地だけではない。まず非常に恵まれた衣食住が保障される。一人につき一軒、新築の一戸建て住宅が与えられ、基本はその邸宅で生活することになる。家事炊事は極楽の善良な精霊たちが一切をやってくれるし、食事も彩り豊かで文句なしに美味い。さらに外見も生前もっとも生命力に溢れていた頃の姿にしてもらえるため、水木は三十代半ばの肉体に戻っていた。銀幕俳優に似ているとよく囁かれた男盛り真っ只中である。
――極楽に往って生まれるから「往生」なのだ。ここに来たばかりの水木はそう確信していた。
「なんで……」
現世の者が聞けば羨むばかりの至れり尽くせりな空間で、極楽在住数年目の水木は力なく呟いた。その顔つきは理想郷の住人とは程遠い虚ろなものだ。
ある意味死人っぽい風貌の水木がいるのは、極楽を管理する天上人から与えられた一軒家のリビングだった。白を基調としたシンプルなインテリアで、木の温もりが感じられる安らぎハウスである。電化製品や収納家具も充実していて、永遠たる終の棲家としては申し分のない設備だ。
でも水木はもううんざりだった。
バランス重視の健康的すぎる一汁三菜とかやたら目隠しにこだわる白っぽい収納とか食えもしないのに大量に置かれた観葉植物や可愛らしい花とか毎朝強制参加させられる公園ピラティスとか――とにかく水木の三十代昭和男の肉体と精神は限界を迎えつつあった。
「なんで……天国にはファミチキがないんだよっ……!」
カリなんちゃらとかいうメーカーの天国支店から配給されたモケットグリーンのソファに座り、水木は悲壮感を漂わせる声で項垂れた。
そう。この男、極楽での丁寧な暮らしがまったく肌に合っていなかったのだ。
最初は水木も天国での優雅な生活を享受しようとした。親切な近隣住民たちと共に公園でヨガやピラティスを行い、ガラスのケトルとソーサーでハーブティーや手作りシフォンケーキを楽しみ、ウッドデッキに面した庭の家庭菜園では季節の花々と共にスイスチャードやルッコラなどの青菜を育て、夜はアロマオイルが香る間接照明を灯した部屋でゆったりと読書をしながら過ごす。
そういう穏やかで時間に追われぬ暮らしを数ヶ月続けてみた。結果、雑で不健康な嗜好品が圧倒的に不足している生活により、ストレスが限界値を突破しそうになっている。
「ファミチキ……ファミチキが食べたい……あとビールと煙草……」
高級ソファの布地に水木の涙がじわりと染み込む。まごうことなき男泣きだった。
「水木さんみたいにエネルギッシュな人がこっちに来るなんてすっごく珍しいよぉ。いいご家族や友人がいるんだねぇ」と水木に教えてくれたのは、いつ会っても笑顔を絶やさない恵比須顔の極楽政府の職員である。極楽生活の基本はほとんど彼に説明してもらった。
「近年稀に見る手厚い追善供養だったらしいねぇ。よかったねぇ」
「ありがとうございます……」
水木は苦笑するしかなかった。追善供養とは、故人の冥福を祈って行う供養のことである。この供養が手厚いほどに故人の冥府での待遇は良いものにされていた。一般的には死後の最終的な行先が決まる四十九日がもっとも重要な供養とされているらしい。なお、追善供養に参加する者は親類縁者のみならず人数は多ければ多いほど良いとか。その中でも子供からの供養は孝養とされ、来世査定にも影響が強い。水木に実子はいないが、友と共に育て上げた自慢の一人息子がいる。その子が仏壇や墓の手入れをきちんとしてくれたおかげで、水木は極楽に行けることになったのだ。
その行い自体は、とても有り難い。生前聞いていた段取りとは違うが、それも養い子の親孝行だろう。その件については納得済みだ。
納得できていないのは、酒と煙草と塩分とコレステロールが排除された生活である。念のために言っておくと、天国での食事が不味いというわけではない。見た目と栄養素を重視しすぎな食事メニューだが、味は今まで食べた中でも一級品ばかりだ。肉も魚も野菜もすべてが美味かった。けれども水木の欲しているメニューは一度たりとも出たことがない。肉の献立だって揚げ物ではなく野菜多めの棒棒鶏とか低温調理された鶏むね肉とかだ。いくら美味でも塩分と油っぽさが欲しくなる。
くわえて食事の際に必ず出されるのが極楽桃と呼ばれる果実だ。極楽桃、通称は極桃。見た目は現世の果物の桃とそう変わらず、味もあちらの物より甘くて瑞々しい。この桃は陽の気を体内で生成する効能があるため、天国の亡者は一日一個の摂取が望ましいとされていた。
その半強制的な桃食も水木にとってはストレスだった。たしかに極楽桃を食べると活力が溢れてくるが、問題は匂いである。桃自体の香りではなく、水木の体臭が問題だった。これを食べ続けているとフルーティーな体臭になってしまうのだ。見た目三十過ぎのおっさんから桃の香りが漂う絵面に、水木は自分で耐えきれなかった。
中国には「桃娘」という桃だけ与えられて育った少女の伝承があると聞く。体液や排泄物までもが桃の香りや味になるという。なんとも気色の悪い話だが、今の自分も体臭だけとはいえ桃男になりかけている。
――これ以上こんな場所にいてはいけない。水木は死人らしく青白い顔で確信した。
ここには成人病まっしぐらな食事や嗜好品もなく、肉体だけは健康そのものだ。おかげで不健康フルコンボだった水木から、フレッシュでフルーティーな桃木化しつつつある。そのことについて不満を覚えている亡者が自分以外に見当たらないのもおそろしい。生前に枕の加齢臭が気になったことはあるが、桃の豊潤な香りでうんざりする羽目になるとは。死んでみないと分からないこともある。
極楽行きになる人間は、もともと根っからの善人で非常におおらかな気性の持ち主が多いそうだ。たしかにこちらで出会った亡者は皆一様に恵比須顔っぽい。極楽職員が言うように、水木みたいに死ぬまで乱れた食生活と煙草と酒を止めなかった人間が来るのは本当に珍しいことだった。
さて、桃っぽくなりつつある水木は考えた。息子や友人の手厚い供養のおかげで天国に行けたわけだが、水木が求めているのは丁寧な暮らしではなく雑な生活だ。やたらが多くて日光がめっちゃ入ってくる広くて綺麗な開放的な邸宅よりも、六畳一間の和室アパートでナイター見ながら缶ビールとコンビニ総菜をつまむのがいい。
生前の自分や現代人が聞いたら「逆贅沢野郎!」と拳で殴られそうだが、これも死者の特権である。なにしろ健康に関しては一切気にする必要がないので。
そうして、こちらに来てから持て余していたバイタリティをフル活用し、ついに水木は楽園からの脱出法を発見した。
それは、地獄の観光ビザである。地獄には罪を犯した亡者以外に、彼らを罰する獄卒や妖怪たちも住んでいる。そんな地獄の住人たちのための居住区は、ビザさえあれば極楽の亡者でも滞在することが可能らしい。「地獄の歩き方」なるガイドブックには、昔訪れた海外のナイトマーケットのような雰囲気の写真が掲載されていた。そこに映る屋台飯はもちろん、コンビニや居酒屋の看板を見ただけでなにかが決壊しそうだった。
本来、極楽地獄間の行き来は非常に厳しい出入国審査が義務付けられている。特に地獄側から天国への入国には、長く執拗な取り調べがあるらしい。一方、天国から地獄に行くのは、はっきり言ってゆるゆるのゆるゆるだった。なぜなら「観光です」の一言だけであっさり通してもらえるからだ。あまりにも適当すぎるが、そもそも極楽には閻魔庁での厳格な裁きを通過した善人亡者しかいない。そんな選りすぐりのお人好したちが地獄に行ったところで、大人しく観光を楽しむ以外の行いをするはずがないという大前提があるのだ。
そういうわけで、水木の地獄在留資格取得許可申請も、だいたい二分くらいであっさり受理された。窓口職員のにこやかな対応を見る限り、書類の記入漏れ以外は確認されなかったようにも見える。
「地獄観光かぁ……。聞いた話ですけど、夜市の人魂ライトアップが綺麗で見応えがあるらしいですよぉ。こっちには夜がありませんからねぇ」
「へえ、そうなんですか」
「ご旅行楽しんできてくださいねぇ」
「ありがとうございます」
水木は久しぶりに心からの笑みを浮かべ、「受理」が捺印された申請書類を受け取った。
――地獄は、天国だった。
水木は地獄最大の夜市通り「幽霊市場」入口のネオン看板の前で滂沱の涙を流していた。
天上よりも重力負荷のかかる身体に鞭を打ち、全力疾走で辿り着いた先には桃源郷があったのだ。あまりの感動で嗚咽まで漏れ出そうになる。どう見ても不審者だった。
こんなところでお縄になるわけにはいかない。なんとか涙を拭った水木は、夢にまで見た市場の姿を改めて眺めた。
常に厳かな光明に照らされている天国と違い、日照時間の短い地獄は星ひとつない曇天の夜空が日の半分以上を占め、怪しい薄紫の煙霧が終始辺りを漂っている。店舗や屋台の軒先に連なる青白い人魂は、提灯代わりだろうか。魑魅魍魎でごった返す大通りを照らす様は、まさにこの世のもとは思えぬ幻想的な光景だ。
中国の怪奇譚には「鬼郷」と呼ばれる亡者のマーケットの話が数多く存在するらしい。マーケットは四川の成都近辺にあるとされ、幽鬼と人間が雑居する奇々怪々な鬼市だと耳にした。鬼郷の実物を見たことはないが、おそらくここと近い雰囲気なのだろう。
「……よし」
いつまでもここで感涙していても仕方ない。水木は期待で打ち震える身体を抑え、ようやく幽霊市場に足を踏み入れた。
目に映る店々はたこ焼き、焼きそば、かき氷など日本の祭りでもお馴染みのものから、小籠包や麻油鶏、様々な果物の生搾りジュースなどのもある。食品以外にも雑貨や衣服店もあり、ひとつひとつ覗いていたら一ヶ月以上かかりそうな規模だった。
毎晩千件以上の店が立ち並ぶ夜市というだけあり、訪れる客の数も相当多い。このマーケットもどこまで続いているのか、入り口からではまったく果てが見えなかった。
水木は食欲をそそる匂いと音を出す屋台群には目も呉れず、ある一店舗を目指してひたすら進んでいた。水木が欲しているものがすべて揃っている緑青白のトリコロールが印象的なあの店――そう、ファミリーマート幽霊市場支店だ。外見は現世の店舗と変わりないように見える。幽霊市場には、ファミマ以外にも人間界で見かけたよく知るチェーン店がちらほらあった。
いったいどのような契約を結んでいるのか、はたまた無断フランチャイズしているのか水木には分からない。仮にも亡者の罪を裁く閻魔庁のお膝元だ。前者であってほしいと思うが、そんなことは後回しである。
ごくりと大きく喉を鳴らし、自動ドアを潜る。聞き慣れた独特の入店チャイムがなり、紺色の制服を身に付けた三つ目の鬼が低い声で「いらっしゃいませー」と挨拶した。
水木は競歩でドリンクコーナーに向かうと、スーパードライのロング缶二本を両手に掴んだ。そしてわき目もふらずにレジまで一直線。レジ台の上に缶ビール二本を置き、興奮を隠しきれない声で叫んだ。
「ファミチキひとつ! あと二十二番のカートンも!!」
毎月十五日に支給される亡者年金で支払いを済ませ、店先の喫煙スペースに移動する。水木以外の喫煙者はおらず、何故だか涙ぐんでいる亡者に奇異な眼差しを向けてくる者もいない。
ずっと目頭を熱くさせている水木は、ビニール袋に震える手を突っ込んだ。指先に少し熱めの温もりが触れる。黄色の包装紙に包まれたファミチキを取り出し、切り取り線から勢いよく破いた。ロング缶も一本開けて、右手にファミチキ、左手に缶ビールという出で立ちになる。
「い、いただきます……っ」
早口の涙声でそれだけ言った。ばくり。瞬間、口内に油と肉の楽園が広がった。ずっと待ち望んでいた脂質と塩分と高コレステロールの味だ。
「うまい……うまぁ……い……」
水木の青い瞳からぼろぼろと涙が零れる。今まで死んできた中でこんなに美味い飯は食べたことがない。極楽の美食を前にしても、水木は迷わずファミチキを取るだろう。
ファミチキを二口、三口と食べ、今度は缶ビールをぐいっと一気に煽る。油の味が残る舌と喉に流し込まれるアルコールの美味さは、もはや言葉に出来なかった。この一杯のために俺は死んだんだ。感動のあまり妙な思考になっているが、水木本人はまったく気づいていない。上機嫌のまま半分ほど減った缶ビールを足元に置き、真新しいカートンボックスから煙草をひと箱取り出した。ピース――水木が生前から愛用している銘柄だ。
水木は慣れた仕草で一本咥え、カートンボックスに付いてきたライターで火を付けた。
「…………」
ここでも言葉はいらなかった。至福の一服。死後にもかかわらず死ぬほど望んでいた味と煙が肺を真っ黒に満たす。
やっぱりここが天国だ。頬を伝う幾筋もの涙。水木はふたたび男泣きをしながら、三種の神器たる嗜好品を味わっていた。
「……水木?」
ふと、長年耳に馴染んだ声に呼ばれた。ファミマの隣のヤモリ焼きの屋台からだった。
「お主、水木か……!?」
カラコロとこちらも聞き慣れた下駄の音を立て、屋台の店主らしき男が飛び出してきた。
「水木! やはり水木ではないか!」
そう言ってイモリ焼きの店主は、大きな赤い目から水木の比ではない勢いでおいおい泣き始めた。
「お、お前……」
水木はファミチキとピースを落とさないようにするのが精一杯で、声が出なかった。
老人のような白髪に藍染の着流し、襖よりも高い背丈を更に底上げする二枚歯の駒下駄。そして見慣れぬ赤い捩じり鉢巻きを頭に巻き、同じく赤い布紐でたすき掛けをしている。
死んでも忘れるはずがない。六十年以上家族のように過ごした男――。
「ゲゲ郎っ……!?」
「みじゅきぃ~!」
死に別れたはずの友人との再会は、ファミリーマート幽霊市場支店の前だった。
◇
「いやぁ……あのときは驚いたぜ。また心臓が止まるかと思ったくらいだ」
「悪趣味な冗句じゃの」
中身が半分減ったビールジョッキを片手に、水木は向かい席でメニュータブレットを操作する男に笑いかけた。
「ゲゲ郎、俺にもメガ金麦追加な」
「仕方ないのう。ワシは……緑茶ハイにするか」
「緑茶ハイって、またずいぶんと年寄り臭いやつを……」
「とり天を頼んだから、さっぱりしたのが飲みたいんじゃよ」
苦笑するゲゲ郎は慣れた手付きで注文を済ませ、自身のプレミアム・モルツのグラスをぐいっと飲み干した。
幽霊市場のファミマ前で水木とゲゲ郎が再会してから数年の月日が経っていた。
あの日予期せぬ再会を抱き合って喜んだ二人は、そのまますぐ近くの鳥貴族に飛び込み、閉店の朝四時までがっつり飲み明かした。そこで水木が観光ビザで地獄に来たこと、ゲゲ郎が知り合いに頼まれてヤモリ焼きの屋台をやっていたことなど、お互いの近況をジョッキ片手に語り合う。後半は飲み過ぎて記憶が曖昧になってしまったが、久しぶりにとても楽しい夜を過ごせた。
それ以来、鳥貴族幽霊市場支店はすっかり二人の行きつけの店となり、今夜も楽しく飲んだくれていた。この分だと二次会は水木の借家で飲み直すことになるだろう。
こちらでの仮住まいは自身で探しても良かったので、水木は年季の入った木造長屋を借りることにした。大正や昭和初期によく見かけた長屋は、天国での白く広い邸宅よりもずっと居心地が良かったのである。時折隣人たちの生活音が聞こえてくることもあるが、それにもすっかり慣れてしまった。よく分からん鳥の鳴き声しかしない家よりずっといい。
それになにより、ゲゲ郎と彼の実子であり水木の養い子の鬼太郎がいる。あのあとすぐに鬼太郎とも再会した水木は、生前と同じように幽霊族の親子と地獄の日々を過ごしていた。
二人は妖怪ポストに投函された依頼を確認するため、定期的にゲゲゲの森のツリーハウスに戻ってはいたが、依頼がなければ三日に一度の頻度で水木の長屋に入り浸っている。それが嬉しくて楽しくて、つい酒とつまみと駄菓子を買い込んでしまうのだ。
そして唯一の懸念事項であった観光ビザの延長も、相変わらずのゆるゆる対応ですぐさま受理された。人間界であれば病気治療など余程の事情がなければ許可されないが、「いいよいいよぉ。次の人生まで長いんだし、ゆっくりしてきなよぉ」とあっさり延長手続きが済んでしまった。延長された滞在期間は百年。寿命の心配がないとはいえ、時間感覚がおかしくなりそうな大盤振る舞いだった。
「お待たせしましたー! メガ金麦と緑茶ハイです」
「おお、ありがとう」
ドリンクを運んできた店員にゲゲ郎が柔和な笑みを浮かべて礼を言った。
「これも下げてもらっていいかい」
「あ、はい」
「悪いね」
水木は空になったジョッキと皿を店員の方へ寄せた。二人掛けのテーブル卓は手狭なので、こまめに下げてもらった方がいい。
そして食器を持った店員が席を離れた直後、にわかに入口の方が騒がしくなった。
「なんか騒がしくないか?」
「ふむ。また妙な客でも来たんかのう」
全品三百七十円という破格の値段設定のためか、この居酒屋チェーン店には悪鬼羅刹のような厄介な酔客が訪れることも多い。良く言えば幅広い客層の店なのだ。またその類いかと水木たちは一旦静観していたが、騒動の真相はすぐにわかった。
「極楽亡者の水木さんですね」
「そう、ですが……」
店を騒がせていた客たちは、なぜか真っ直ぐ水木とゲゲ郎のいるテーブルに向かって来た。岩のように頑強な体躯、鋭く尖った大角を頭に生やした恐ろしい姿――ひと目で獄卒と分かる三人の鬼たちだった。
「少しよろしいでしょうか」
「いきなりなんじゃお主らは」
質問の体ではあるが有無を言わせぬ獄卒の言葉に、むっと顔をしかめたゲゲ郎が水木を庇うように立ち上がった。
「幽霊族の末裔。あなたには関係ありません」
「関係あるとも。この者はワシの唯一無二の友じゃからな」
そう言って、両者は無言で睨み合う。一触即発――争い事が嫌いなゲゲ郎には珍しくそれも辞さない雰囲気だ。
「待ってください。私にどのような用件でしょうか?」
「水木」
ゲゲ郎が気遣わしげにこちらを見やる。心配するなという気持ちを込めて頷くと、ゲゲ郎から発せられていた威圧感がふっと消散した。やはり無理をして自分を守ろうとくれたらしい。本当に優しい奴だ。水木はこの男と死後も友人でいられることを誇りに思った。
一方、放置される形になっていた獄卒たちは、呆れをまったく隠さぬ態度で続けた。
「極楽政府から水木さんに出頭要請が出ています。あなたの――極桃未食の疑いの件について話を聞きたいとのことです」
「なっ……!?」
「ごくとう……?」
青ざめた顔の水木と首を傾げるゲゲ郎。対照的な二人の反応を見て、ついに獄卒たちから気怠げな溜息が漏れた。――馬鹿かこいつら。
「強制送還!?」
在地獄極楽大使館のとある一室。水木はクソガキの鼓膜を破りかねない大きな叫び声を上げて狼狽した。
「待ってください! そんないきなり……」
「いきなりじゃないでしょぉ、水木さん」
極楽住人らしい穏やかな恵比寿顔で、大使館職員が無慈悲にぶった切る。
「こっちに来ても極桃は食べてねって言われてましたよねぇ。どうして忘れちゃったのぉ?」
「それは……」
もっともな指摘をされた水木は言葉に詰まった。
地獄の食生活が天国よりも丁寧じゃないことは、極楽政府も承知の上だ。暴飲暴食をした魂は、転生後悪人になることが多いらしい。それゆえ、地獄滞在中の極楽亡者には、陽の気を生成してくれる極楽桃の摂取が義務づけられていた。水木も渡獄前に極桃の木が生えた植木鉢を極楽政府の職員から手渡されている。念のため十年に一度は花屋で状態を見てもらうよう言われていたこともたった今思い出した。おそらく、いつまでも水木が花屋に来ないので極桃未食の罪が発覚してしまったのだろう。
「申し訳ございません……。こちらでの生活が忙しく失念しておりました……」
「そう言われてもねぇ……」
きっかり四十五度の角度で最敬礼の謝罪をする水木に、極楽職員は困惑を滲ませた溜息をつく。
水木とて当初は極楽で過ごしていたときのように、きちんと毎日の極桃ノルマを果たすつもりだった。しかし入獄初日で解禁された嗜好品と友人との再会による感動で、以降はすっかり忘れてしまったのである。さすがに植木鉢を捨てたりはしていないが、水やりなどの世話も不要なため水木の部屋で物言わぬ観葉植物扱いをされていた。
「こっちに来てから一個も食べてないんでしょぉ? それはもう、すぐにでも極楽に戻らないとだねぇ」
「で、ですがっ……!」
「強制送還ですねぇ」
なおも弁解しようとする水木の言葉を遮り、極楽大使館職員は無情な判決を通達する。
「一応罪人扱いではないから拘束はしないけど、絶対逃げちゃ駄目だよぉ。あと今日からでも極桃食べてくださいねぇ」
「食べます! 何個でも食べますから……!」
「駄目だよぉ」
声色だけは優しいがそこに人情的な温かい響きは皆無だった。こちらの事情や意見などを考慮するつもりは一切ないようだ。天国の沙汰は金でも人情でもどうにもならなかった。
「強制送還は三日後ですからぁ。水木さんも滞在中に友達とか顔馴染みができただろうし、その間に挨拶しておいてくださいねぇ」
深い絶望で目の前が真っ暗になる感覚を、顔面蒼白の水木は生前ぶりに強く感じていた。
「水木!」
おぼつかない足取りで極楽大使館からとぼとぼ出てくると、正門前の街路樹の下に佇んでいたゲゲ郎が素早く駆け寄ってきた。
「大丈夫か? 今にも死にそうな顔色じゃぞ」
「駄目だ、三日後に強制送還だとよ……。あともう死んでる……」
「そんな……」
ゲゲ郎の小粒な梅干しみたいな目に動揺が浮かぶ。
「今から桃を食べても許してもらえないそうだ。こっちに来てから年甲斐もなく浮かれていた俺が悪いんだが……」
「たしかにここでの水木はずっと浮かれちんぽじゃった。しかしこれはあまりに情けも容赦もない対応ではないか」
「浮かれぽんちだ……」
このまま極楽に強制送還されてしまえば、二度と地獄への観光ビザは発行してもらえないだろう。最悪の場合、幽霊族の親子との面会も却下されるかもしれない。彼らは自由に現世と冥府を行き来できる種族だが、死の気配が強いせいか極楽側からはあまり歓迎されていないらしい。このいざこざがなかったとしても、極楽亡者の水木と面会許可が降りるまで数十年は掛かる可能性もあったようだ。
「ゲゲ郎……。いったいどうすりゃいいんだ……」
「水木……」
青い瞳を潤ませた水木は、ゲゲ郎の肩に思わず縋りついた。
ファミチキ……ゲゲ郎……豚骨ラーメン……鬼太郎……ポテトフライ……カマンベールコロッケ……鶏皮チップ……。水木の脳内に税込370円均一の居酒屋メニューと幽霊族の親子の顔がよぎっては消える。しかし彼らとも三日後には永遠の別れとなってしまう。やたらと白くて広い家で塩分やコレステロールとは無縁の規則正しい丁寧な生活がふたたび始まるのだ。
またよく分からん赤い大根とかレーズンと人参とナッツの洒落臭いサラダとかを食わせられるんだろうな……。肉料理が出たところで、どうせサラダチキンのアレンジレシピとかである。バター醬油風味の焼鳥丼なんかは絶対に出てこない。そう思うと、水木の目からついに涙がぽろりと零れた。
悪いとは思いつつ、涙が滲んだ顔をゲゲ郎の骨張った肩に押しつける。今や亡者の水木の方が低体温なため、八時間額に貼り付けた冷えピタみたいなゲゲ郎の体温はとても心地良かった。
ゲゲ郎は、少しの間黙って水木のされるがままになっていた。それからややあって、生温い両手を水木の後頭部と背中にするりと回した。ごく軽い力でさらに抱き寄せられる。
ゲゲ郎の白い頭が少し下がり、色素も厚みも薄い唇が水木の欠けた左耳に近づけられた。地獄の空気よりも熱く細い吐息が耳朶を擽る。この体勢を端から見ると、間違いなくいかがわしい逢引き現場にしか見えないだろう。
それを意図したのか分からないが、周囲に聞こえぬよう潜めた小声で彼はそっと囁いた。
「……強制送還を回避できる方法が、ひとつだけある」
「なに……?」
それはいったいどんな魔法だ。思わず頭を上げた水木の目に、とても複雑そうな友の顔が至近距離で映る。あとから振り返ると、あのときは彼も少しばかりやけっぱちだったのかもしれない。
「――水木よ。ワシと偽装結婚して、地獄の配偶者ビザをを取得するのじゃ」
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