2.幕間-1966-
うらさびしい真夜中の墓地に二つの足音が鳴り響いている。カランコロンと地面を鳴らす下駄は二足。歩幅の違うその音は、それぞれ大人と子供のようであった。
幼い足音は何度も立ち止まりかけ、すぐにまた歩みを再開するのを繰り返している。本当は来た道を今すぐ引き返したい。そんな名残惜しさが伝わってくる足取りだった。
一方、大人の下駄の持ち主は、幼子の未練を突き放すように冷然な足音を響かせていた。子供の手を引きながらも、決して背後は振り向かない。ただひたすらに目的地に向かっているだけ。もはやそうすることしか許されない。そんな悲壮な決意が漂う物悲しい足音だった。
「父さん……」
「なんじゃ鬼太郎」
歩みを止めることもなく答える父親の冷たい声に、息子は肩をびくりと震わせた。いつも優しく穏やかな実父の初めて見る冷ややかな態度。そこに自分と同じ悲しみを感じ取っていた子供は、おそるおそる言葉を続ける。
「あの、本当に何も言わないまま出てきてよかったんでしょうか……」
誰に、とは言わずとも父には通じる。今二人の心を占めているのは、たった一人の人間だった。
「くどいぞ。事前にそう決めたではないか」
「でも……」
「鬼太郎!」
声を荒げた父親に叱りつけられ、鬼太郎は思わず身を竦めた。悪戯の説教中にも聞いたことのない本気の怒鳴り声だ。それが怖くて悲しくて、足を前に動かすことができない。実父によく似た丸い目には今にも決壊しそうな涙の膜が張られていた。
「……すまん」
息子の怯えた気配を感じ取ったのか、父親は悲しげな声音で短く謝罪した。
「じゃが、わかっておくれ。たとえ恩知らずな振る舞いと罵られても、あやつに話してはならぬ」
「はい。わかってます……」
鬼太郎は暗く沈んだ表情で頷き、「僕のせいで出て行くなんて行ったら、きっと止められますもんね」と自嘲気味に言った。
「それは違う!」
我が子の悲痛な言葉を聞いた父親は、叫ぶように否定して歩みを止めた。勢いよく振り返り、自分の膝下程度の子供と視線を合わせるようにしゃがみ込む。やはりその赤い瞳は息子と同じ哀情をたたえていた。
「お前のせいなどではない。遅かれ早かれ、我らはあやつの元を去らねばならんかったのじゃ」
「で、でも僕が成長しなくなって、人間たちに気味悪がられたから……っ」
「鬼太郎……」
ここまでずっと我慢してきた感情が、片方しかない目玉からぽろぽろ零れ落ちていく。父の大きな手が濡れた頬をそっと撫でた。
「ワシもあやつもそんなことは気にしておらん。じゃがのう、昨年御母堂も亡くなり、このままワシらと共にあっては、本当に人の世から受け入れてもらえなくなってしまう。そうなる前に離れねばならんのじゃ」
ゆっくりと諭すように話す父の言葉を聞くと、ますます鬼太郎の右目から涙が溢れた。
――本当は、父も彼の元を離れたくないのだ。鬼太郎にとってはもう一人の父親であり、数少ない信頼できる人間の男。父が目玉の姿だった頃は、親代わりとして鬼太郎を大事に育ててくれた優しいひと。
父と彼の奇縁は鬼太郎が生まれる前からあり、それは自分の母とも繋がっていたと聞く。
お主には一生掛けても返せぬ恩がある。昔話を語る実父が口癖のように言っては、そのたび涙ぐんでいた。それをいつもよりぶっきらぼうな口調で、赤い顔の養父が嗜める。そんな父たちの姿を見るのが、鬼太郎はなによりも大好きだった。
けれども、幸福な日々には終わりがくる。人間の一生は短く、そして不自由だ。
何年経っても成長しない奇妙な子供と突然あらわれた不気味な父親。真っ当な常人であれば、関わりを持とうとはしない存在である。
そんな連中と共に墓場の隣で暮らす異常者だと、彼が後ろ指をさされているのは知っていた。近所付き合いがとんと絶えてしまったことも、人間たちの輪から外されつつあることも。
でも、いつまでもそんなふうではいけない。これからは人間の身の丈にあった健やかな人生を送ってほしい。それは父も鬼太郎も同じ思いだ。
彼に話せば絶対に反対されることは分かっていた。だから、素っ気ない書き置きだけを残して、彼が寝静まった深夜に親子二人でこっそり出てきたのだ。
「うえ、っ、え、うぅっ……」
彼との別れが寂しくて辛くて、ついに鬼太郎は声を上げて泣きじゃくった。
昨年、本当の孫のように可愛がってくれた養父の母を亡くしたときもひどく悲しくて、冷たくなったおばあちゃんの傍で一晩中涙を流した。それでも実父の冷たい手と養父の温かな手があったから、鬼太郎は穏やかな気持ちで彼女を見送ることができたのだ。
この二人の手があれば大丈夫。そう無邪気に信じられる力強くて安心できる手だった。
――だが今は、氷のように冷えきった震える手しかない。
「――鬼太郎よ。よく聞くんじゃ……」
瞳と声も震わせた父が懸命に言葉を続けようとする。
「あやつの……水木の元を去るのは、お前のせいではない。これは、運命なんじゃよ」
「う、んめい……?」
「ああ」
父は重苦しく頷き、しゃくり上げる息子の身体をそっと抱き寄せた。
「だから、仕方の無いことなんじゃ」
「仕方の無い、運命……」
本当にそうなのだろうか。わずかな疑問が鬼太郎の脳裏をよぎる。しかし震える父の腕を突き放すこともできない。こんなとき、彼がいてくれたら――。
「――なにが運命だって?」
突如背後から聞こえた声に、幽霊族の親子は揃って顔を上げた。
「そんなもんほっとけよ。俺たちには関係ない」
聞き覚えのありすぎる男の声と革靴の足音が、月も星もない暗闇の彼方から響く。直後、小さな炎が灯り、すぐに立ち消えた。そして紫煙を吐き出しながら、声の主は親子の前に姿を現した。
「水臭いぜ、ゲゲ郎。黙って出て行くなんてよ」
「み、ずき……」
晩酌で酔わせ眠り込むのを見届けたはずの男が現れ、父は呆然とその名を呟いた。鬼太郎も驚きのあまり声が出ない。なにしろ人間の足で自分たちに追いつくには、とうてい無理がある距離だったからだ。
「水木さん……。どうやってここまで?」
「なぁに。お前らの挙動が怪しいんで、助っ人を頼んでおいたんだよ」
水木はそう言って、煙草を持っていない方の手で頭上を指差した。黒い夜空に一筋の白線のようなものが見える。白くたなびく反物のような妖怪は青い目をにっこり細めて、地上に向かってひらひらと手を振っていた。たしかに彼の助けがあれば、水木の家からここまで文字通りひとっ飛びだろう。
「なっ……! 一反もめんを買収したのか!?」
「正確には別の奴をだけどな」
まんまと出し抜かれた父が責めるように尋ねると、水木は近くの墓石をちらりと見やった。墓石の影に隠れて様子を伺っていた者が「ひえっ!? 兄サン、俺のことは黙ってる約束でしょ!」と文句を言ってふたたび姿を消した。いつの間にか彼は、人脈ならぬ独自の妖脈を築いていたらしい。
「お前ら顔と態度に出すぎなんだよ」
水木は煙草の煙を吐き出し、呆れた表情と声で続けた。
「給料日前だってのに連日俺の好物ばかりだして、一晩中二人で俺の寝顔を覗き込んでりゃ、どんな馬鹿でも察しが付くぞ」
「ば、馬鹿……」
簡単明瞭な罵倒に、父はやはり呆然と呟き返すことしかできなかった。しかし並々ならぬ決意で水木の元を去ろうとしたのだ。丸い目をきっと吊り上げ、このまま情に流されてしまわぬよう硬い声で友人であり家族であった人間を突き放そうとする。
「……水木、頼む。このままワシらを行かせてくれ。これ以上お主の人生を振り回したくはない」
「うるせえ。そんなの今更だろ」
「それは、そうじゃが……」
「父さん……」
いくら押しに弱いとはいえ、二言で言い負かされている父の姿はさすがに不安を覚える。しゅんと肩を落とす実父と不機嫌そうに煙草を吹かす養父の間で鬼太郎は視線を彷徨わせた。
「……要するにだ」
今にも泣きだしそうな父の気配を察したのか、水木の声は先ほどよりも幾分か柔らかなものだった。
「お前らは、成長しない鬼太郎の見た目を人間たちに怪しまれてしまうのが気になるんだろ」
「まあ、簡単に言うとそうなるかの……」
「なら、ひとところに居なきゃいい」
「え?」
水木は悪人めいた笑顔でにやりと白い歯を覗かせた。
「短期間で引っ越すんだよ。二年ごとくらいに全国回ってりゃ誰も気づきやしねえ」
東京抜かして四十六都道府県だから九十年は誤魔化せるぞ。まるでちょっとした旅行にでも行くような気軽さで水木が言い放つ。幽霊族の親子は思わず言葉を失って、とんでもない提案をする人間を見返した。
それが小旅行などではなく、彼の人生をまるまる使った寄る辺なき厳しい放浪になることはわかりきっていた。今の仕事だって辞めなければいけないだろうし、引っ越し先で新しい仕事や住居が見つかるとも限らない。人間には辛く不安定な旅路になるだろう。まだ幼い鬼太郎にだって、そんなことはわかっているのに。なのに――。
「鬼太郎。お前はどうしたい?」
地面に捨てた煙草を踏み消し、その場にしゃがみ込んだ水木が優しく問い掛けた。
「僕は……」
言い淀んだ鬼太郎は、まだ呆けた顔をしている実父を見つめた。存外感情豊かな赤い目に、迷いと希望の光が揺蕩っている。そしてふたたび養父の方を向くと、彼はいつもの安心できる笑顔で力強く頷いた。
「僕は……」
鬼太郎の右目から、また熱い涙がぽろぽろと溢れ出す。もう止められなかった。
「僕はっ……、父さんと水木さんと、ずっと一緒にいたいですっ……!」
しゃくり上げながら言って、水木の元までだっと駆けだした。十メートルもない距離はあっという間で、両手を大きく広げて待ち構えていた水木の胸に、鬼太郎は思いきり飛び込んだ。水木は「うおっ」と短く声を上げたが、鬼太郎から手を離すことはなく、しっかりと抱き留めてくれた。
「――ゲゲ郎」
胸に縋りついてわあわあ泣く鬼太郎の頭を撫でながら、水木が背後の父を静かに呼んだ。
「……はあ」
深い溜息をひとつ落とし、しゃがみ込んでいた父がゆっくりと立ち上がる気配を感じる。
「ワシの負けじゃ」
苦笑いする声音のなかに、たしかな安堵の色があった。家を出て来たときとは違い、軽やかな足取りで父の下駄が鳴る。その音は鬼太郎のすぐ後ろ、水木の目の前で止まり、そして二人一緒にぎゅうっと抱き締められた。
「おい。暑苦しいだろ」
「我慢せい。……それより水木よ、シャツがびしょ濡れじゃぞ」
水木の抗議を聞き流す父の指摘は、鬼太郎も気が付いていた。前も後ろもびっしょりと汗が張り付いたしわくちゃのワイシャツ。どうやらここまでずいぶん焦って駆けつけてくれたらしい。もちろん父もそれには気付いているのだろう。ふっと微笑ましげに笑う気配があり、水木は悔しそうに口籠った。
「……まだ乾いてなかったんだよ」
「そうか」
今日の日中は気持ちのいい風の吹く見事な秋晴れだった。洗濯物はすべて乾いていたし、そのことはこの場にいる全員が承知していた。けれども水木の濡れた背中に触れる父は、下手な言い訳を聞いても穏やかに頷くだけだった。そうなると、余計バツが悪いのは水木の方だ。先ほどの父よりも盛大な溜息をつき、「ちくしょう」と低く呟いた。
水木はまだすんすん鼻を啜っている鬼太郎から片手を離し、誤魔化すように父の背中を抱き寄せる。そして祈るような声音で、父にひとつの「約束」をさせた。
「――今度は逃げるなよ」
「――お主こそ」
鬼太郎が知る限り、その約束は生涯破られることはなかった。
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