2-1 トロッコ問題

 鳳子の手には、再び拳銃が握られていた。和希に渡したはずのそれが、今は冷たく重く、彼女の指先に再び馴染んでいる。どれほどの時間が経過したのか、窓も時計もないこの地下の部屋では知る由もない。ただ、鳳子には永遠とも思えるほどの、重く、耐え難い時間が過ぎ去っていた。

 部屋の中は、赤黒い血の臭いと、漂う腐敗の香りが支配していた。壁には何かが飛び散った跡が染みついており、床には肉片が無造作に散らばっている。ここは、暁の「処理場」。不要になった者たちを始末するための部屋だ。部屋の隅には、既に処理が済んだと思われる人間たちが、整然と並べられていた。その無残な光景が、鳳子の視界を覆い尽くしていた。

「慌てなくていいよ、鳳子。君が答えを出すまで、私はいつまでも待っていてあげるつもりだ」

 その囁きが耳に入る瞬間、鳳子の背筋にぞくりとした寒気が走った。暁がすぐ背後にいる。その存在感は、彼の低く穏やかな声と共に、まるで蛇に巻きつかれているかのような感覚を与えた。鳳子は無意識に拳銃を握りしめ、震えを隠すために、視線を彷徨わせた。

「どうした? 和希が出すトロッコ問題は、いつも簡単に解いていただろう?」

 暁の声が背後からさらに近づき、彼の冷たい息が鳳子の耳をかすめた。その瞬間、鳳子は凍りついたようにその場に固まった。彼が彼女を試しているのがわかる。何を期待しているのか、何を求めているのかもわからないが、鳳子はすぐにそれに答えることができずにいた。

 彼女の目の前には、椅子に縛り付けられたピンク色の髪の女性がいた。彼女は鳳子に向けて恐怖に引きつった表情を見せ、助けを求めるように怯えている。彼女の口元が震え、目には涙が浮かんでいた。鳳子はその女性の姿を見つめながらも、ただ立ち尽くしていた。

 暁からの指示は至ってシンプルだった。殺すか、殺さないか――君が決めなさい。鳳子はその選択肢を前にして、手の中の銃が恐ろしく重く感じられた。それは以前、彼女が一度盗み出し、和希に返したはずのものだった。今また、その銃が彼女の手に戻されている。その経緯すら冷酷な巡り合わせのようで、彼女の心に不安と絶望が渦巻く。

「世成、さん……」

 目の前の女性は震える声で鳳子を呼んだ。

 鳳子は肩をピクリと振るわせ、声の主に目を向けた。その瞬間、彼女は目の前の現実を突きつけられるように受け入れるしかなかった。そこにいたのは――自分の担任教師、蜂谷まりこだった。鳳子の頭は真っ白になり、思考が麻痺していく。

(どうして……どうしてここに蜂谷先生が……?)

 鳳子の胸は不安と混乱でいっぱいになり、息をするのさえ苦しい。呼吸が浅くなり、心臓が早鐘のように打ち始めた。まるで周りの空気が薄くなり、頭がぼうっとしてくる。視界が揺れる中、体がふらついたその瞬間、背後から暁がそっと彼女の肩を支えた。

「大丈夫かい? 顔色が悪いが……無理をしてはいけないよ」

 暁の声は低く、冷たく響く。

 鳳子は暁の声に反応しようとしたが、彼の方へ顔を向けることができなかった。もし目を合わせてしまえば、彼にすべてを見透かされてしまう――自分の弱さや恐怖、そして自分が無視してきた真実までも。鳳子の心は警鐘を鳴らし続けていた。

(気付くな、気付くな……気付いてはいけない……!)

 鳳子は必死に自分を守るように思考を封じ込めた。銃口が彼女の教師に向けられる。蜂谷は絶望的に鳳子を見つめ、必死に体を動かそうとしたが、椅子がギシギシと鳴るばかりで、どこにも逃げ場はない。

「世成さん! お願い、助けて! そんな奴の言うことを信じちゃダメ……!」

 蜂谷の声は涙で滲んでいた。その懇願は、心の奥底に響く。しかし、鳳子は手が震え、判断がつかないまま、ただ引き金を前にして恐怖と戦っていた。全身が震え、彼女の心は二つの選択肢の間で引き裂かれたように感じていた。その時、暁が背後から愉快そうに笑い、彼女の耳元に囁いた。

「無理をする必要はないよ。すべては、君のような子供に拳銃を盗まれる私の部下の不始末だ。君がそれを外へ持ち出したことを、しっかり反省してくれればそれでいい。あとは彼が罰を受けるだけだ。君の手を汚す必要はない」

 暁の声は甘く、冷酷で、彼女を惑わせるように優しい。彼の言葉は一見、鳳子を救うように聞こえたが、その底にある冷酷な意図を鳳子は理解していた。

 鳳子から拳銃を盗まれた部下は、今、別室で拘束されていた。そして、その部屋の見張りを任されているのが和希だった。和希の前にいるのは、その部下一人だけではなかった。拳銃の管理を任されていた責任者、さらに偶然にもその日その部下と共に行動していた別の部隊の人物まで、三人全員が拘束されていたのだ。それはトロッコ問題を模倣する為のただの数合わせ。三人の男たちは無言で椅子に縛り付けられ、重い空気が漂っていた。和希はただ、静かにその状況を見守っていた。

(もし、私が引き金を引かなければ……)

 鳳子の心は揺れていた。この課題を提示された時、暁から告げられた言葉が彼女の耳に残っている。自分が引き金を引かないなら、その三人は和希の手によって殺される、と。あまりにも冷淡な命令だった。そして、和希がその指示を了承した瞬間を、鳳子は鮮明に覚えていた。

(私が殺さなければ、和希が……)

 和希のことを、鳳子はまだ完全には信用していなかった。しかし、彼は記憶を消さないと約束してくれたし、自分を守ると言ってくれた。それには、わずかに信頼の芽が生まれつつあった。だが――

(でも、人を殺すことを簡単に受け入れる人が、私の味方になれるの? 和希は、やっぱり暁と同じ……)

 そう思わずにはいられなかった。鳳子の胸の奥に広がる不安は、次第に重く、そして鋭く彼女を責め立てる。もし自分がここで殺人を避けたとしても、その結果和希が三人の命を奪うことになる。自分のために、和希を人殺しにしてもいいのだろうか? 和希の背負う重荷を、さらに増やしてしまうことが、果たして正しいのだろうか?

 暁の冷たい視線が、すぐ後ろから鋭く突き刺さってくる。彼の呼吸の音が、背中越しに静かに鳳子の耳に届いていた。逃げ場はどこにもない。

「蜂谷先生は、君の大好きな『解決部』とやらを乱したそうじゃあないか」


 暁の声が、再び静かに響いた。その声に、鳳子は深く揺さぶられた。

「解決部」

 その単語が頭をよぎった瞬間、鳳子の体は驚くほど軽くなった気がした。暁の冷たい腕に預けていた体が、ようやく自分の意志で動き始める。拳銃を握る手にはもう震えはなく、指先はしっかりと引き金にかかっていた。心の中で躊躇いが消え去り、目の前の光景はただ一つの目的に集中していた。

 その瞬間、蜂谷の目に映る鳳子の表情は、まるで別人のように無邪気なものに変わっていた。彼女は恐怖で体を凍りつかせ、なんとか言葉を絞り出そうとした。鳳子が引き金を引く前に、何かを伝えなければ――

「待っ――」

 蜂谷が声を発するや否や、銃声が鳴り響いた。空気を切り裂く音が地下の薄暗い部屋を震わせ、薬莢が一つ、カランと冷たい床に転がり、乾いた音を立てる。

 その銃声は、別の部屋にいた和希の耳にも届いた。胸の奥に嫌な予感が走り、心臓がざわめく。それでも和希は冷静さを保ち、インカム越しに静かに暁へ問いかけた。

「……鳳子が撃ったのか?」

 一瞬、静寂が続く。暁の返答が遅れることが、和希の不安を増幅させた。鳳子の状態も、あちらの部屋の様子も確認できない状況が、彼を苛立たせる。わざとなのか、あるいは何かが起きたのか。返事を待つ時間が、やけに長く感じられた。

 焦りを抑えられなくなった和希は、目の前の拘束された者たちを残して部屋を出ようとしたその時――

「ああ、すまない。少し驚いてしまってね」

 暁の声が、冷静を装いながらも微かに興奮を含んだ口調で、和希の耳に届いた。まるで予想外の展開に心を躍らせているかのような、穏やかな笑みが感じ取れた。

「鳳子は撃ったよ。……惜しくも、外してしまったけどね」

 その言葉に、和希は唇を噛み締めた。鳳子が撃った。しかし外した。その事実は和希を安堵させつつも、まだ安心は出来なかった。



 弾丸は蜂谷の顔の数ミリ横をかすめ、背後の壁に深々とめり込んだ。蜂谷は思考が止まり、ただ目を見開いていた。鳳子が引き金を引いたこと、その衝撃は理解できても、現実として受け止められず、ただ呆然としていた。しかし、鳳子はそんな蜂谷に目もくれず、右手首をさすっていた。銃の反動に驚いたのだ。迷宮にいた時はもっと上手く撃てていたはずなのに、今は体の感覚が違う。

 暁は鳳子が本気で蜂谷を撃とうとして引き金を引いたことを理解していた。鳳子は単なる遊びや試し撃ちではなく、迷わずに決断した。暁の心の中では、この「トロッコ問題」と称した試練は、この「撃つか撃たないか」の判断で終わりにするはずだった。それでも、鳳子が再び銃口を蜂谷に向けた時、暁は予想外の展開に面白さを感じた。

 鳳子は拳銃を左手に持ち替えていた。右手を痛めたのかもしれない。彼女は利き手とは逆の手で銃を構え、不安そうに何度か姿勢を調整していた。その様子は、蜂谷を殺すためというより、まるで練習用の的に向かうようだった。蜂谷はもはや人間ではなく、ただの射撃の標的のように扱われている。そこに人間としての価値や命の重みは一切感じられない。

 そんな鳳子の様子を見て、暁の心に新たな興味が生まれた。今まで鳳子をただ精神的に壊れた少女と見なしていた。彼女の母親から受け継がれたのは整った容姿だけで、何の才能も引き継がれていないと思っていた。しかし、もしかすると、今まで眠っていた本当の世成鳳子が目覚めつつあるのではないかという予感が暁を駆り立てた。

「鳳子、拳銃を握るときはこうしなさい」

 暁は自然と鳳子に歩み寄り、彼女に正しい銃の構え方を教え始めた。右手に再び銃を握らせ、左手を下に添え、支えるようにさせる。力のない鳳子には、片手で銃を扱うのは無理があった。暁は丁寧に彼女の姿勢を調整し、銃を胸の中心に持ってくるよう誘導する。足を肩幅に開かせ、右足を前に、左足を後ろに引かせた。

「これなら、多少の反動でも耐えられるだろう。でも、無理に耐える必要はない。撃った後は、肘を軽く曲げて、反動を上に逃がすんだ。肩への負担が少しは楽になる」

「こう?」

 鳳子は暁に言われた通りに姿勢を整えた。そして、暁の手が離れた瞬間、躊躇することなく再び引き金を引いた。銃声が室内に響き、薬莢が床に乾いた音を立てて落ちた。今度は確かに、鳳子は反動に耐えられていた。それでも、体には響くものがあったが、彼女はそれすらも嬉しそうに笑顔で受け止め、暁を見上げた。

「……本当だわ! ありがとう、お義父様!」

 その無邪気な笑顔に、暁は一瞬、驚きと共に胸の奥で何かが揺らぐのを感じた。それは予想外の感情だった。鳳子の純粋さ、狂気と無垢が混じり合ったその瞬間に、暁は何か得体の知れない魅力を見出していた。

「それじゃあ次は、ちゃんと標的に当てられるようにしようか」

 暁は鳳子の頭を優しく撫でながら、その銃口を蜂谷へと正確に向けさせた。その誘導は完璧で、あとは引き金を引くだけで蜂谷に確実に命中するだろう。鳳子は一瞬きょとんとしながら、再び蜂谷に視線を送った。先ほど撃った弾丸は、蜂谷の足元のすぐ側の床へと食い込んでいた。拳銃を構えることに集中していて、全く獲物を気にしていなかったのだ。

 二人がやり取りをしている間に、蜂谷はかろうじて正気を取り戻していた。しかし、今度こそ鳳子の放つ弾丸が自分を貫くと予感して、蜂谷は言葉を発した。

「世成さん!!! 人殺しになってはダメよ!! あなたは解決部として正しくありたいんでしょう?!」

 蜂谷は震える声で叫んだ。

 鳳子の肩がぴくりと反応した。そして、蜂谷に対して怪訝な表情を浮かべた。その表情はまるで、蜂谷の言葉が自身の正しさを否定しているように聞こえたからだ。

「え、榎本さんの言葉を思い出して……ほ、ほら、あれよ……なんだっけ、人が人を……こう……なんか間違ってる……みたいなこと言ってたじゃない!」

 蜂谷の焦りが言葉に滲み出る。彼女は必死に鳳子を説得しようとしていたが、実際に榎本のどんな言葉が鳳子に影響を与えていたのかなんてまるっきり覚えていなかった。

「人を罰するのは法の役割、ですよ。榎本先輩の言葉を借りるなら完璧に復唱して下さいよ。殺しますよ」

 鳳子は冷静に言い放つ。

 蜂谷の顔が青ざめ、絶望の色が濃くなっていく。鳳子の瞳は、まるで感情を失ったかのように冷たい。その瞬間、蜂谷の命が鳳子の決断ひとつにかかっていることが、圧倒的な現実として襲いかかる。

「待って待って待って!! だからね、あなたが私を殺そうとしているのは、間違ってると思わない!? それは榎本さんや解決部への裏切りになるんじゃないの!?」

 それは蜂谷が脳をフル回転させ、必死に絞り出した命乞いの言葉だった。今の鳳子は暁に嗾けられ、まるで楽しむかのように殺人を実行しようとしている。明らかにその引き金となっているのは『解決部』への執着だったが、彼女が盲信している「正しさ」とはかけ離れたものになっていることに気付いていた。

「……解決部への、裏切り……?」

 鳳子の手が、いつの間にか銃を握る力を失っていた。蜂谷が言ったことは正しい。人を罰するのは法の役割、自分がここで彼女を殺すことは間違っている。揺れる思考の中で、鳳子の視線は徐々に冷静さを取り戻し、今にも崩れそうなほどか細く揺れていた。

「ねえ、世成さん。覚えてるかしら? 私の車が、貴方を轢いてしまった時のことを」

 蜂谷の真剣な眼差しが、鳳子をしっかりと捉えていた。彼女の声には、助けを乞う切迫感と、鳳子を真実へ引き戻そうとする熱意がこもっていた。暁はその様子を面白そうに見守りながら、鳳子の肩にそっと手を置いていた。柔らかいその手の重みが、まるで鳳子を過去に縛り付けようとしているかのようだった。

「……あの時、貴方は……その男に突き飛ばされて、道路に飛び出してしまったんでしょう?」

 その言葉に、鳳子の記憶が鮮明に蘇る。暁に突き飛ばされ、車道へと投げ出された瞬間――あの時の恐怖と衝撃が、今、鮮明に胸を締め付けた。彼の手が、まさに今と同じように肩に置かれていたことをはっきりと思い出す。それなのに、彼はその後も微笑んでいた。まるで、それすらも計画の一部であるかのように。

 だが、鳳子はその記憶を認めるわけにはいかなかった。記憶を取り戻していることを暁に知られるわけにはいかない。視線を伏せ、口を噤むことで、何も見ていない、何も思い出していないフリをするしかなかった。

 しかし、蜂谷はさらに言葉を重ねる。

「貴方がそれを認めて証言してくれれば、私は無実を証明できる……! そしたら、貴方をその男から助け出すと誓うわ……! ねえ、世成さん……! 私を、信じて……!」

 涙が溢れる瞳で必死に訴える蜂谷。その声は鳳子の心の奥深くに響いた。今、暁も和希も信じられないなら、蜂谷を信じるべきなのか? 彼女に助けを求めるべきなのか? 鳳子の心はぐらついていた。しかし、蜂谷はかつて解決部を荒らした張本人だ。その事実が、鳳子の心に迷いを与え、彼女を戸惑わせ続けた。

 視線を地面に落とし、銃を持つ手がわずかに震える。鳳子の心は、どちらの道を選ぶべきかを彷徨い続けていた。

 突如、別室から銃声が三発鳴り響いた。その鋭い音は緊張感を一層高め、続いて鳳子たちのいる部屋の扉が勢いよく開かれた。そこに立っていたのは、白衣を血に染め、激しい怒りを滲ませた和希だった。

「凰雅、何で応答しない……!」

 彼は一瞬で状況を把握し、暁の耳から外されたインカムに気づくと、憎悪を込めてインカムを力強く握り潰した。握られたインカムから壊れる音が小さく響く。暁は深いため息をつき、和希に鋭い視線を向けた。

「彼らを殺す指示はまだ出していないはずだが?」

 暁の声は冷たく、低く響いた。今まさに鳳子の本性が露わになろうとしていた瞬間に、和希がその興を削いだことが彼の苛立ちを増していたのだ。だが、和希はその威圧に怯むことなく堂々と返答した。

「鳳子が撃てば課題は終わりだった。その後で三人を処理して解散する――俺は何も間違っていない」

 和希の言葉には、自分の行動が正当であるという確信が込められていた。確かに、暁がインカムを外して指示をしなかったのは彼自身の判断だ。和希は予定通りに動いただけだった。だが、彼の心には疑問が残っていた。鳳子の部屋から二発目の銃声が聞こえたことが、どうしても理解できなかった。

 和希はふと蜂谷へ視線を移した。彼女はまだ生きている。そこに安堵したが、鳳子の方を見た瞬間、彼女の困惑した表情が目に飛び込んできた。

「……先生、人を……殺したの……?」

 鳳子の震えた声が、静かな部屋に響いた。和希はその言葉に、今の自分が鳳子にとって恐怖の存在になっていることに初めて気づいた。

「ち、違う……俺は……」

 焦って弁明しようとした和希が一歩鳳子に近づこうとした瞬間、彼女は後ずさりした。震える手で拳銃を構え、蜂谷を盾にするように後ろに回り込んだ。彼女の目には、明らかな警戒と不信が宿っていた。

「……やっぱり、貴方も、暁も……私を騙しているんだわ! 何が目的なの!?」

 その言葉に、暁の口元には再び冷たい笑みが浮かんだ。鳳子の疑念と和希の焦り。手を取り合うはずの二人の間に亀裂が生まれたことが、暁にとっては何とも滑稽で愉快だった。

 暁は鳳子と和希が血の繋がりを持つ親子であることを知っていた。そして和希が自分に近づいてきた目的も、すべて見透かしている。だからこそ暁は、和希を利用するために鳳子を養子として手元に置いていたのだ。だが、今この瞬間、二人の間に生まれた亀裂は、暁にとって予定外の興味深い展開となっていた。

「鳳子、早まるなよ。君を、守れなくなる……」

 和希の視線は鋭く、鳳子の小さな手に握られた銃に向けられていた。その弾丸が誤って暁に向かえば、すべてが終わる。彼が消えたところで、今のままでは暁の組織は瓦解しない。それどころか、暁を傷付ければ、鳳子は即座に組織の敵として見なされる。そして、そうなれば彼女を守る術はもう無くなる。和希はその恐怖を胸に押し込みながら、静かに暁の盾になるように位置を変えた。

 鳳子の瞳には、和希を睨みつける強烈な敵意が宿っていた。その瞳に見つめられる度に、和希の胸に痛みが走る。まるで彼女の言葉一つ一つが、刃物のように彼を切り裂いていくようだった。

「守るって、何から? 私が視ている世界なんて、あなたには理解できないくせに!」

 その一言で、和希の胸は締め付けられた。歪んだ世界を孤独に生きている鳳子の苦しみを、理解してやることなんて出来なかった。だけど、そこから救い出したいという願いは本物だった。自分の思いは、彼女の心にはもう届かないのか――そんな疑念が心をよぎった。

「私が信用できるのは、解決部だけ……。居場所も、救いも、正しさも! 欲しいものを与えてくれるは、解決部だけ!」

 その言葉に、和希は静かに瞳を閉じ、深い嘆息を漏らした。自分を守ろうとしている彼に対して、鳳子はどこまでも反発し、銃を構え直す。暁から教わったばかりの正確なフォームで、彼女は蜂谷の後ろから堂々と前に出てきた。今の彼女には、かつての脆弱な少女の面影はまるでない。

 胸の奥で沸き上がる苦悩をどうしようもなく呑み込み、和希は静かに瞳を細めた。彼の中で何かが決定的に変わった瞬間だった。覚悟を決めたその顔には、もうためらいはなかった。彼は真っ直ぐに鳳子を見つめ、赤く染まった銃口を彼女へと向けた。

「そうか……残念だよ。また君を殺さなきゃいけなくなる。今回の君は、きっと本物に近かったのに……本当に残念だ」

 その言葉の意味を、鳳子は理解していた。和希の言葉が告げるのは、鳳子の記憶を再びリセットし、すべてを振り出しに戻すこと――これまでの彼女を「殺す」ことだった。

 彼の言葉に、鳳子は一瞬揺れた。しかし、次の瞬間、彼女の顔には冷たく乾いた表情が浮かんだ。

「私も残念だわ……。人殺しにしないでってお願いしたのに」

 鳳子の瞳は、燃えるような決意で固められていた。体の芯から燃え上がるような使命感が、彼女を突き動かしていた。ここで倒れるわけにはいかない。記憶を消され、再び何もかもを忘れてしまうわけにもいかない。仁美里を見つけ出し、彼女の望みを叶えるまで、鳳子はこの世界を敵に回してでも進み続ける覚悟があった。

 瞬間、静寂を破るように鋭い銃声が部屋中に轟いた。発砲したのは鳳子だ。だが、その弾丸が向かったのは人間ではなく、部屋を照らしていた電灯だった。銃弾は正確に灯りを撃ち抜き、部屋は瞬く間に闇へと包まれた。

 突然の暗闇に、和希も鳳子も視界を奪われた。状況が一変し、和希は警戒心を研ぎ澄ませたが、完全な暗闇の中でどこに鳳子がいるのか分からない。しかし、この暗闇の中でただ一人、状況を把握していたのは、密かに準備をしていた彼女だけだった。

「せんせぇ……!」

 鳳子はか細い声で彼女に呼びかけた。ほんの一瞬だけ、もしかしたら見捨てられてしまうかもと考えた。しかし、蜂谷は鳳子の手を取り、そのまま部屋を飛び出した。

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