禍に恋わずらう




『わざわいにこいわずらう』

 辛抱、ならず。理性なんてものはあっけなく崩れ去った。
 純白に|包ま《縛ら》れた体を強引にベッドへ沈め、覆い被さる。幸か不幸か「やってしまった」という微かな罪悪感が過ったのは、男を押し倒したその直後だった。欲望に任せて乱暴に扱ってしまった事への、反射的な恐れ。しかしベッドに転がされた男の方といえば、嫌がるそぶりも怯える様子も皆無だった。

「ふふ、よくできました」
「ッ……テメェなぁ」

 男は楽しそうに笑う。ペットでも愛でるかのように、掌で頬を優しく包み込んで撫でてくる。「この私を前にして我慢など出来るはずもない」とでも言いたげな、自信と期待で満ち溢れた忌々しい笑顔。この程度の扱いで傷つく程脆弱な肉体でも、怯える程内気な性格でもないのは嫌という程承知している。そもそもコレは組み敷かれておとなしくしていられるようなしおらしい男でもない。やられたら倍返しが行動理念の基本みたいな奴だ。これが俺でなかったなら、拳か蹴りが真っ先に飛んでくるばかりか原型をとどめない程度には炎の矢で肉体を抉られているところだろう。しかして何故俺の身にはそんなことが起こらないのかと問われても、単に『そういう性質だから』としか言いようがないのが何とも虚しい。この行為そのものが懇意のみから来るものならこちとら喜んで迎え入れる所存だが……例えるならこの男にとってこれは、そう。食事ではないだろうか。意味など当然、「必要不可欠である」ということに尽きる。

「して欲しいならはっきりそう言いやがれ、同意にならねぇだろ」
「私を先に押し倒したのはお前だろうに」
「ぅぐ……それはその……悪、かった。すまん」
「ッあはは、冗談だよ」
「くそ、笑うなっての……!」

 今宵の逢瀬、きっかけや約束なんて大層なものはなかった。
 偶々担当になっていたマスターミッションの相棒役としての戦闘訓練と、いつも通りの面子とシミュレーターでの模擬戦三昧。思い切り汗をかいて満足し、部屋に戻って気分だけ愉しむシャワーを浴びた。しばらくくつろいで、そろそろ寝ようかと思った所でこの男がひょっこりと部屋を訪ねてきたのだ。こんな夜更け、元より紆余曲折あってそのような間柄になった相手。男も最初からそのつもりだったのだろう。お互い今日あったことを報告する程度の他愛ない言葉を交わしつつ、気付けば男は頻りに俺の身体に触れていた。それは腕や指へのさりげない接触から始まり、頬や首筋をさすり、大胆にも背中や腰、太腿にまで回るようになり。甘えるように、或いは誘うように触れてくる。無遠慮に他人の体をべたべたと触るのはどうかと思うが……それだって今に始まったことではなかった。むしろ半分くらいは好きに出来る|所有物《おもちゃ》か何かだと思われているに違いない。しかし「何だ」と問うても「別に」と素っ気なく返されるだけだった。俺を擽る指先とその手付きは淫靡そのもの、しかし俺を見上げてくる真っ黒な眼にはまるで邪気がない。あからさまでありながら、あくまでも「そんなつもりはない」を装い続ける。だから余計に性質が悪い。まだるっこしい。元より俺には情交を断る理由も拒否権もないのだから、ヤりたいなら素直にそう言えばいいだろう。いつもは自分から俺に乗っかって魔力を絞り取っていく癖に、今日はどうしても俺に襲わせたかったようだ。頬を撫でてやると猫のように掌に擦り寄り、しかし顔を近づけるとふいとそっぽを向く。やわく俺の腕や胸板に触れ、滑らせる指は口よりも饒舌で、「この先が欲しいなら無理矢理押し倒してみろ」と挑発するのだ。どっちが決定的に我慢出来なくなるかの、根比べ。いつの間にか勝負にされていた。しかしこの手の勝負、短気な俺はあまりに分が悪い。勝算などある筈もなく、俺はあっさりと手前の情欲に敗北した訳だ。
 そこまで徹底したプレイをご所望なら、押し倒されたらちょっとくらい怯えるなり呆けるなりの無垢な演技でもすればいいだろうに、そこまで合わせる気はないらしい。この男なりの、羞恥心の表れなのかもしれない。人としてのコイツはともすれば幼子にさえ見えてしまう程に純真だが、根底にある父より受け継いだ神の性質までは無垢になり切れないということか。あちらの貌は神々の王とも呼ばれる旧き支配者の神格、それも当然だ。

 だからこの男、アルジュナへの罪悪感が。
 無駄の極まった気遣いであることも重々承知している。

 ……分かってはいるが、これとて性分なのだからどうしようもない。確かにアルジュナは、俺にとっての天敵に相違ない。しかしそれはこの男から見た俺もまた、同じ筈なのだ。この男を気遣う心をあと少しでも削ろうものなら、その瞬間俺は憤怒に呑まれてその|肉《からだ》を引き裂き、|霊核《しんぞう》を抉り出して握り潰すような鬼神に成り果ててしまう。

「やきもきするアシュヴァッターマンがかわいいものだから、つい。それに……」
「なんだよ」
「アシュはもう何も言わなくたって私を分かってくれる。……だろう?」

 分かりたくもない。ないが、抱えた事情の大凡が分かってしまう以上どうにもならない。
 アルジュナには俺に対する危機感というものがあまりに欠如している。何をしようが自分の方が強い、優位であるという、絶対の自信からなのか。はたまた自分の思い通りに事が進んで、浮かれているだけなのか。どっちにしろ舐められているということに変わりはないのだから腹立たしいが、この甘ったるい空気を自ら壊すような真似だってしたくはない。できる限り、むしろ焦れるくらい優しくしてやって丁度いいのだろう。

 軽く触れあう程度の口付けを交わしながら、白衣を繋ぐ鎖の間に手を差し込み、紫のインナーの上から脇腹へそっと指先を這わす。アルジュナはくすぐったそうに、ふふ、とちいさく笑って身じろいだ。致し方無いとはいえ上を脱がすことが出来ない、というのは中々やりにくい。出来て精々、詰めた首元を少し緩めてやるくらいか。情欲を妨げるようなその白衣の縛めは、俺にもアルジュナ自身にも解けないものだ。それは最後の、超えてはならないボーダーラインのようでもあった。

 褐色の素足が、真っ白なベッドシーツを容赦なく乱していく。さっき取り替えたばっかりなんだが……なんて不満も詮無きものだ。所詮はエーテルでしかない肉体。汗が散ろうが精が飛ぼうが汚れなど残りはしない……が、皺だけはどうにもなるまい。時折俺の愛撫を邪魔するように腕にじゃれついてくる今宵のアルジュナは、随分と機嫌が良い。それはまぁ、佳い。コイツの機嫌が悪いとロクなことにならない。

「アシュ、ねぇ」
「ん?」
「もっと」

 アルジュナは俺の頭を抱き込んで、顔を引き寄せる。夜天の瞳に映る手前の金眼は我ながら飢えた獣のようで、どうにもいたたまれない。しかして視線を逸らせる程、醒めてもいない。触れる程度だったぬるく浅い口付けが、舌を絡めて吸い合う熱く深いものへと変わってゆく。

 食事に例えはしたが、これは魔力供給を主な目的とした性交渉という訳でもない。そも|魔術師《マスター》や霊脈等の補給源から繋がっている|経路《パス》以外の方法を取る魔力供給なんてものは、どう頑張ってもまるで足らない魔力を無理矢理工面するための苦肉の策でしかない。他者の血液の摂取や直接粘膜を介した性交渉による魔力供給は、食物を魔力変換するよりまだ効率は上がる。しかし補給路が断たれている訳でなし、そもそもこのカルデア内においてそんな危機的状況に陥る確率などほぼ無いに等しい。現環境においてこんな行為は、きわめて効率の悪い不要で全く意味のないものでしかない筈だった。

 そんな不要だった筈の行為が何故必要になり、意味が無かった筈の行為が意味を持つようになってしまったのか。
 それはアルジュナが自らの心に掛けた二重のロックを、|契約者《マスター》である藤丸立香と大勢居る使い魔の内の一騎である俺が、うっかり壊してしまったからだった。一つだけならまだ良かった。二つも壊せばもう歯止めなど利くわけがない。

 好きが高じると相手を殺して喰いたくなる、|偏執狂《パラノイア》。そんな血に混じった人ならざるモノの精神による暴走を止める為の『主食』の代わり……と言えば分かりやすいだろうか。困ったことに人間規準の倫理観で制御できる範疇の衝動ではない、人の血に混じった|異形《かみ》の血の性質に起因するどうにもならない問題だ。むしろ人間社会としての秩序を保とうとする精神力と道徳心のみでこんなものを常時抑え込んでいた今までが奇跡だったと言ってもいい。
 とはいえ、アルジュナは自らセーフティラインを設定していた。超えてはならない一線を超えるというサーヴァントにあるまじき大失態を犯したのは、俺の方だ。優等生風紀委員の皮を被った傍若無人ぶりも大概にしろとは思うが……この男の領域に踏み込み過ぎたという非は当然此方にある。

 言ってしまえば俺は|スケープゴート《みがわり》であり、|非常食《いけにえ》だ。何でもこいつの抱える衝動は情欲に酷似している為、抑制には性交による欲求の解消そのものが最も効果的なんだとか。この男の特別にならなかったからこそ逃げ延びたマスターと、特別にされてしまったが為に逃げられなかった俺である。どっかの俺も|どっかのこいつ《アルジュナ・オルタ》に似たような感じで飼われていたらしいが、多分捕まるケースの方が珍しいのだろう。ろくでもない構造をした肉体。獣の|性《さが》を抑える為だなんて最低な口実。それでも好きな相手と一緒にいられるなら願ったり叶ったりだと、吹っ切れた男にあっけらかんと口にされてしまっては、返せる言葉などある筈もなく。

 奇跡と呼ぶには烏滸がましい。さりとて運命と呼ぶにも歪み過ぎている。
 ……俺は未だに、この男の情愛に心を委ねられない。
 それは俺の思う『愛』とコイツの思う『愛』に、致命的なズレがあるからに他ならない。
 いつ崩れ去るかも分からない。この行為が命綱の役割を果たせているのかどうかも、定かではない。
 いくら言葉を尽くそうとも、分かり合えないもの。
 どれだけ肌を合わせようと、相容れないもの。
 どれほど吐息を重ねようと、決して交わらないものはある。

 愛とは現実を容赦なく歪める。我ながら馬鹿げたことをやらかしたと思ってはいるが、檻から出してしまった以上はどうにもならない。それは最後の枷を外し決定的な自由を与えてしまった、俺の責任というやつだ。仇敵だろうが原初の意志があろうが、どうしても手放せない『なにか』を、俺は作ってしまった。言葉になんて出来ないような、言葉にするのも無粋ななにか。情愛と因縁は別物だ。愛していながら仇敵であると男の首に刃を充てることは出来よう。この男との関係は、そうやってどうにかこうにか両立させた危ういものだった。

 しかし俺がこうして散々悩んでいようが、コイツときたらお構いなしなのである。なんせアクセル全開無敵のわがまま王子だ。生前どんなに願っても手に入れられなかった『欲しいもの』を、今のこいつは全て手に入れてしまった。もう怖いものなんか何もない状態だ。
 身内からの愛情。神による「正しくあれ」という呪い。歪んだ願望機としての役割。それらから解放され、ただの一騎のどこにでもいるサーヴァントとして扱われる身軽さと心地よさ。生前よりもずっと楽しそうにしてくれやがるおかげで、大概こちらもどうでも良くなってしまう。ただ笑っていてくれればそれでいいなんて、そんな願いがいつまでも叶えられ続ける筈がないだろうに。

 唇を重ねる程に、アルジュナは熱欲で潤んだ黒い瞳を嬉しそうに細める。後頭部に回されていた腕の力が緩み、顔を少し離した時だ。

「……ッ!」

 がぶ、と喉笛に咬み付かれる。
 しかし微かな痛みに肝が冷えるような心地こそしたものの、歯は唾液で皮膚の上をゆるりと滑り、力はまるで掛かっていなかった。何のことは無い、ただの愛咬らしい。完全に、遊ばれている。……何が楽しいのか、アルジュナはそのままあむあむと唇で俺の喉元をついばんだり首筋に舌を這わせたりしていた。愛撫の感触で焼けつく程煽られる情欲に反して、手前の命を掌の上で転がされているようなおぞましく不快な心地。

「ッん、……くすぐってぇよ」

 それでも動揺なんて、見たいと言われようが表に出してやるつもりはない。試すようなこの行為もまた俺という歯止めに対する、信頼の証そのものであるからだ。隙を見せることがこの男の嗜虐心を一層煽ることになる。煽ったらどうなるか。入れてはいけないスイッチが入るだけだ。それを防ぐ為に行為に及んでいるのに、きっかけにしてしまっては本末転倒が過ぎる。

「お返しだ」
「倍以上返ってきてんぞ」
「そうでなくては意味が無い。……当然だろう?」

 最初に言葉もなく誘ってはのらくらと躱し続けていたのはそっちだろうに、なんて言い草なのか。ならこっちだってやらない訳にはいかないだろうと、アルジュナの耳に唇を落とし、やわく歯を立てる。耳の穴に差し込んだ舌先でふちを撫で上げ、じゅる、とわざとらしく音を立てて吸い上げれば、下敷きにした男の体が震えた。

「ふ、ぁッ……」

 アルジュナの甘ったるい声と吐息に、腹の下に血が集まっていくような熱と重苦しさを感じる。数度の逢瀬で知ったが、存外耳を愛でられるのがお好みらしい。舌先で耳のかたちをなぞり、執拗に甘噛みする。アルジュナの腰が微かに浮き始めた。白衣を捲り、腰から尻に掛けてきつく巻き付けられた三本もの黒いベルトを片手で丁寧に外していく。矢筒を外してあるならこれも霊体化させればいいだろうに……と思うのは流石に無粋か。これはアルジュナが自らに科した多くの縛めの中で、辛うじて解けるベルトだ。自分でやるより俺が直接外していく方が、ずっと興奮するらしい。我慢している分、それくらいの我儘は通してやるべきだろう。わざと時間をかけてゆっくり全てを解き終えると、スラックスの布地を持ち上げるそこを自ら俺の太腿へ摺り寄せてくる。見上げてくる漆黒の眼は、もうすっかり劣情に塗れていた。

 お望み通り、愛でてやろうと手を伸ばした所で―――突然、着信音が部屋に鳴り響いた。

「ッうお!?」
「っ!?」

 互いの息遣いと小さな声をまるまる塗りつぶし、無機質な音はけたたましく部屋中に響き渡る。

「なんだぁ?」
「…………む」

 誰だ、こんな夜更けに通信を寄越すのは。空気読めや。
 折角盛り上がりかけていた情欲が一気に霧散して苛立ちはしたが、出ないわけにもいかない。仕方なくベッドから起き上がり、浮かび上がった電子モニターの応答パネルをタップしようとして……それより早く伸びてきたアルジュナの指先によって強制的に通信は切られた。

「おいコラ、勝手に切ってんじゃねーよ俺宛だぞ」

 ……珍しいことをするものだ。
 徹底的に外面に気を遣う猫被りなコイツがこんなことをしでかすとは。手前の仕業がバレなきゃいいとでも思っているのか、よっぽど俺に飢えているのか。

「五月蠅い、邪魔をする方が悪いに決まっている」
「マスターだったらどうすんだよ」
「それはないな。マスターから我等に用向きがあるなら、時間を合わせて直接会いに来て下さる筈だ。こんな夜中に何の前触れもなく連絡を寄越すような無作法な方ではない。管制室からの緊急連絡であれば館内全域でアラートが鳴るだろう。それすらないなら誰からであろうと、さして重要な連絡でもあるまい」

 案の定、アルジュナはすっかりご立腹だった。そりゃそうだ、恋人同士の睦み合いに割って入るなど、普通であれば馬に蹴られて死ねと罵倒される所だ。それだけでなくこいつにとっては楽しみにしていたディナータイムでもある。先ほどのプレイもどきは一体どこへやら、今度は俺を押し倒して腹の上に乗り上げ、容赦なく後ろ手で俺の股間を弄り始めた。

「ッおい、だからって……ッこ、らっ」
「大体このカルデアに何騎の|弓兵《アーチャー》が召喚されていると思っている。マスター直々の命でないなら、私もお前も動く道理はない、っ……」

 こいつ、もう完全にヤりたいモードだ。俺の魔羅にしか興味がなくなっている。いつもの風紀委員面など影も形もない。
 しかし相手も一回の切断でおとなしく引き下がってくれるような奴ではなかったらしい。アルジュナが俺の下着を寛げようとしたところで、部屋に再び着信音が響き渡る。通信を切ろうとするでかい猫の腕を制止し、伸し掛かってくるでかい猫を押しのけ、今度こそ電子モニターの応答パネルを叩く。盛大な舌打ちの音と共に、部屋の空気が冷えていく心地がした。着信が来るまではあんなに上機嫌だったのに、二度に亘る邪魔でアルジュナの機嫌は更に急降下している。見た目は品行方正そうなこいつが舌打ちするなんて、女神が知ったら卒倒しそうだと頭の片隅でぼんやりと考えた。

『アシュヴァッターマン、夜分に邪魔をする』

 そしてモニターに映し出された通話の相手はよりにもよって、アルジュナの兄貴……カルナだった。

「カルナかよ……さっきはすまん、通信切っちまった。どうしたよこんな時間に、何かあったか?」

 カルナが連絡を寄越してくるのも珍しい。
 アルジュナと言えば……モニターに映りたくないのか、頭からシーツを被ってベッドの隅で縮こまり、隠れてしまっていた。

『ああ、急用だ。……そこにアルジュナがいるな? 何故シーツを被って蹲っているのか理解に苦しむが……先ほどアシュヴァッターマンに応答させず着信を切ったのはお前だな』
「………………私に何か用か」

 現実は甘くない。真実だけを視る兄貴の眼を前にしては、シーツなど障害物にすらならなかったらしい。アルジュナも観念したのか渋々とシーツを剥いで起き上がり、これでもかという程低い、唸るような声でモニターに顔を寄せて返事をする。シーツを被って隠れたりまるで嫌いな奴を威嚇するようなその姿勢、本当に猫の様な男だと呆れ混じりの溜息が出た。

『お前ともあろうものが他人の部屋に転がり込んだ挙句、部屋主宛の着信を勝手に切断するとは驚いた。余程アシュヴァッターマンに執心なようだな』
「…………それはいいから、さっさと要件を言え!」
『いいだろう、手短に用件だけを述べる。つい先ほど管制室で微小特異点の反応を検知した。トリスメギストスⅡが同行メンバーの選定にお前を指名したそうだ。ダ・ヴィンチがお前の部屋に連絡を入れたそうだが、応答がなかったようでな……|探《・》|し《・》|て《・》|欲《・》|し《・》|い《・》と頼まれた』
「館内放送でいいだろうに……!」
『空想樹解析班は交代で休んでいる時間だぞ、緊急アラートで彼らの貴重な休息を妨げるわけにもいくまい』
「ぐっ……だからって、何で貴様は私が此処にいると知っている……!」

 苛立ちを隠そうともしないのは、カルナの前だからだろう。これでマスターや他のサーヴァントがいればもう少し猫を被っているところだ。どうやらアルジュナの奴、通信を寄越してきたのが誰だか察した上で勝手に切っていたらしい。……何だこいつ。時間感覚操作なんて未来視紛いの事をやってのけるその魔眼染みた目は、通信先の相手すら透視してしまうのか。モニターに映るカルナはアルジュナの言葉を聞き、眉をひそめた苦い顔をして、言葉を返す。

『アルジュナよ、察しが悪いにも程があろう。……否、あれでも伝わらなかったのだから俺はやはり言葉足らずなのだな。この夜更けにお前が自室に居ないとなれば、向かう所など一つしかあるまい。それとも何か、お前は深夜徘徊の癖でもあるのか? その様子では取り込み中だったようだが……悪く思え、これも仕事だ』

 ああ、成程。要はカルナの奴、また貧乏くじを引いたのか。つくづく間の悪いヤツだ。アルジュナに連絡が付かない時点で俺とアルジュナがナニをシているのか管制室のメンバーには大方予想が付いてしまい、何も知らないマスターやマシュに連絡を任せるわけにもいかず、カルナに白羽の矢が立ってしまったということか。
 それにしてもカルナときたら、この最悪のタイミングで通信しておいてそれを言うのか。間も悪ければ言葉のチョイスも壊滅的なのは相変わらずらしい。徹底的に図星を突かれたアルジュナは赤くなったり青くなったりを繰り返した後、モニターに殴り掛かるような勢いでまくし立てた。

「ッ嗚呼もう最低な気分だ! マスターやダ・ヴィンチならばまだしも! 貴様に邪魔された挙句指図されねばならんとは!!」
『……む、俺とてお前達の蜜月の邪魔をしたい訳ではないのだが……。今からブリーフィングだ、身支度を整え次第すぐに管制室に来い』
「ええいうるさい! 謂われなくても分かっている!!」

 ほんの一瞬だが微妙に落ち込んだ顔をしていた辺り、カルナも本当に邪魔をしたくてしている訳ではないのだろう。ノウムカルデアの要とも言える至極の演算装置が推奨した結果である為どうにもならないが、代われるものなら代わってやりたいとも思っていたのではないか。アルジュナの受け答えも完全に反抗期真っ盛りの弟だった。血縁であることが知れた後で再会したから、なのだろうか。生前に比べ、ずいぶん丸くなったものだと思う。仕事放棄と見做されかねないこの駄々っ子ぶりも、兄貴に甘えている証左なのかもしれない。ただ「好きな奴と好きなことをしていたい」なんていう子供のような我儘は、アルジュナを心底頼りにしていた他の兄二人には口が裂けても言えなかっただろうから。

「あー……一応聞くけどよ。俺はお呼びでない、のか?」

 ほぼ一方的な兄弟喧嘩を目の前で展開されて完全に置いてけぼりを喰った俺は、とりあえずカルナに自身の出撃の有無を聞いておく。

『アシュヴァッターマン、生憎だがお前の出番はない。おとなしく寝ていろ』
「あっそ……」

 いっそ気持ちが良いくらいのばっさりとした否定だった。その言動で散々周囲を怖がらせたり逆上させたりしているのだろうに、カルナのこれはどうしても直らないものらしい。俺は今更なんとも思いはしないが、世知辛い男だ。カルナとの通話を終え、振り返っておそるおそるアルジュナの顔色をうかがう。

「……アルジュナ」
「………………ぅぅ」

 アルジュナはもう怒りを通り越して落ち込んでしまっていた。今にも泣き出しそうな程に拗ねている。それもそうか、衝動の抑制も込みにした強引な関係でも、お互いに懇意の意思はある。逢瀬を楽しみにしながら俺の部屋を訪れて、盛り上がり始めた所でこの仕打ちだ。流石に可哀想になってきて、ぐりぐりと頭を撫でてやる。するとアルジュナは黙って俺の肩口に顔を埋めて抱き着いてきた。

「あー、なんだ、その。帰ってきてから続き、やりゃいいだろ」
「……」
「んな心配しなくても、ちゃんと待ってるし」
「…………」
「気が済むまで付き合ってやるから、な?」
「………………ぅん」

 抱きしめて慰めるように髪にキスを落としていると、ようやっとか細い声で返事が聞こえてきた。ちょっと泣いたのだろう、アルジュナはすん、と小さく鼻を啜る。

「約束、だぞ……?」
「おう」
「絶対、だからな……?」
「二言はねぇよ」

 アルジュナは俺の胸板にうりうりと額を擦り付けながらそんな会話を交わすと、名残惜しそうに身体を離した。顔を上げて気付けのようにぱん、と自分の両頬を叩く。

「待っていなさいアシュヴァッターマン。微小特異点の修復、すぐに終わらせてきます」

 ベッドを降り、乱れた着衣を直すそのきりりとした表情に安堵した。着信がある直前まで経口で俺の魔力を摂取していたからか、上手く仕事モードへ切り替えられたようだ。解いた三本のベルトも締め直し、腰に矢筒が実体化する。同時に姿を現したガーンディーヴァを手にすれば、いつもの【英雄アルジュナ】の出来上がりだ。アルジュナが、踵を返してオートドアに向かう。

「…………ぁ」

 ―――その白い背を見た途端。
 じり、とうなじに嫌な痛みを覚えた。
 焼けつくように熱い、痛み。ぐらぐらと眩暈がする。

(あれは俺のモノだ)
(あれを殺していいのはワタシだけだ)
(あれの白い衣が紅く染まる様はさぞ美しかろう)
(引き裂いて、切り刻んだあれの血肉は、さぞや――――)

 浮上した自分であって自分ではないナニカの意思に、背筋が凍る。冷たい汗が流れ落ちる。
 ……ああまずい、ただのお預けの筈がまさか|こ《・》|っ《・》|ち《・》にまで影響するとは。|発生《たんじょう》の経緯は異なれど|根《・》|本《・》|は《・》|同《・》|じ《・》であるという弊害か。

「ッ、ぐ、ぅ」

 白衣の背中は、とても見ていられなかった。ずっと眺めてなんかいたら首裏に掴み掛って、そのままへし折ってしまいそうだった。嗚呼吐き気がする。夕べに食べた食物などとうに魔力に変換されている。喉をこじ開けたところで何も出はしない。それでも喉にせり上がってくるなにかに耐えかねて顔を伏せ、口を手で強く押さえる。

 例えば脳髄。例えば耳元。
 それはいつ何時であろうと構うことなく俺に喚き、嘆き、響く。

 コレは■の世にあってはならぬ■/しかして■の世になくては成り立たぬ■
 ■■■には不要とされた異物/■が斃すべき真性の■
 ■の欲より生まれ出で、■に仇成す■■の化身/辿るべき|道《うんめい》を違えた■■である、と

 見える筈のない、知る筈のない後ろ姿。
 背に大きな孔の空いた青と白の外套が翻る様が、瞼の裏にちらつく。
 孔から二股に裂けていくその外套の形はまるで―――黒い泥を垂れ流す|地獄の窯《せいはい》のようだと思った。

「……アシュヴァッターマン?」

 声を掛けられて顔を上げると、ソレは首を傾げて此方を振り向いていた。外套など付けてはいない、いつもの白い長衣姿。
 しかし俺が何を堪えていたのか、ソレには分かっているらしい。眼差しはどこか、悲しげでもあった。

「……なんでもねぇよ、オラ行ってこい。皆待ってんだろ」

 仇という|因縁《たいぎ》よりも遥かに性質の悪い、殺害衝動。
 こんな理不尽な欲望になど、負けてたまるものか。頭を振って吐き気を無理矢理誤魔化し、笑ってアルジュナを送り出す。

「ああ、いってくる。……『俺』が帰るまで、壊れちゃ駄目だよ」

 アルジュナは寂しそうに笑い返し、俺の部屋を後にした。

 それは誰が悪いわけでもない。
 生前が如何なる出自であろうとも、生前に何の因縁があろうとも、今このカルデアにいるアルジュナは紛れもない|英雄《にんげん》だ。
 例えその中身が救いようのない■■でしかなくとも、存在そのものが人の安寧の為に滅ぼすべき■であろうとも。
 「消されて然るべき」なんて道理は、どこにもない。

(■われるのは、生前こいつの全てを否定した俺だけで十分だ)

 それは誰しもが抱く、「そうであったら良い」という心を体現するに過ぎない概念。
 ……何よりまだこいつは、|俺《・》|以《・》|外《・》の誰をも■ってなどいないのだから。









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