6-1 かみさまかみさまかみさまかみさまかみさまかみさま
祠の中は、ひんやりとした冷気に包まれていた。薄暗く、無言の静寂が漂うその空間には、ただ擬蟲神の御神像が鎮座しているだけだった。石でできたその神像は、無数の昆虫の足と不気味な形をしており、仁美里を冷たい瞳で睨みつけているように見えた。その異様な存在感に、仁美里は一瞬、体をこわばらせる。
冷たい石の床に膝をつき、彼女は御神像に向かって「かみさま」と繰り返し呟く。まるで壊れた人形のように、感情を失ったその声が、祠の中に虚しく反響していた。響くのは、仁美里のかすれた声と、冷たく湿った床に擦れる衣の音だけ。天井の隙間からわずかに差し込む月明かりは、かろうじて空間を照らしているが、その光は彼女の絶望を救うにはあまりにも弱々しかった。
「かみさま……かみさま……かみさま……」
その言葉は祈りというより、絶望から生まれた鳴き声のようだった。何もすがるものがない中で、仁美里はただ、この場所に祀られている神様に縋るしかなかったのだ。彼女の瞳は、何かに怯えるように揺れ続けている。
夜になると、遠くから鳳子の悲鳴が響いてくる。それは、仁美里にとって最も恐ろしい時間だった。鳳子の叫び声が聞こえるたび、彼女の胸は恐怖と後悔で締め付けられ、背中には冷たい汗が伝った。体は硬直し、震えが止まらない。自分の両腕を抱きしめ、震える体を無理にでも抑え込むようにして耐えようとするが、鳳子の声が鳴り止む気配はなかった。
「わたしが、悪いんだ……ふうこを、手放さなかったから……私のせいで、こんなことに……!」
鳳子の悲鳴が響くたびに、仁美里の中で自責の念が膨れ上がっていく。自分がここに閉じ込められている間、鳳子がどれほどの苦しみを味わっているのか、その想像が彼女を容赦なく追い詰めていく。夜が訪れるたび、その苦しみはますます深まり、仁美里は限界に近づいていた。
朝になると、鳳子の悲鳴は途絶え、村に静けさが戻ってくる。その瞬間、仁美里の心はさらに締め付けられた。鳳子がもう声を上げないということは、彼女が死んでしまったのではないか――その恐怖が仁美里を押し潰し始める。
「……生きてるよね、ふうこ……?」
声にならない言葉を呟くたび、胸の奥が凍りついた。息が詰まり、心臓が強く締め付けられるような感覚が彼女を襲う。頭の中に浮かぶのは、鳳子が倒れ、もう二度と目を覚まさない姿。その光景が何度も脳裏に焼き付くたび、仁美里は頭を抱え、必死にその考えを振り払おうとした。
「いや……いやだ……ふうこ、死なないで……!」
自分に言い聞かせるように叫んでも、心の中ではもう限界が近いと感じていた。村の男たちが鳳子に何をしているかは、仁美里自身がよく知っている。あの傷を負わされながら、それでも鳳子が耐えられるはずがない。彼女の心は、次第に追い詰められ、壊れかけていた。
祠の冷たい石壁に背を預けながら、仁美里は無意識に鳳子の悲鳴を待ち望むようになっていた。初めは、その声が聞こえるたびに胸が締め付けられたが、今では、その悲鳴が鳳子の生きている証となっていた。苦しみの声こそが、鳳子がまだ存在しているという唯一の証拠だったのだ。
しかし、その夜、いつも聞こえてくるはずの悲鳴がどこにもなかった。村は静まり返り、鳳子の声はどこからも聞こえない。祠の中の静寂が際立ち、仁美里の心は次第に恐怖に押し潰されていく。
「……ふうこ……?」
震える声で鳳子の名前を呼んだが、返ってくるのは風の音だけ。胸が締め付けられるような不安が押し寄せ、心臓が激しく鼓動を打ち始めた。
「どうして、答えてくれないの……?」
手が震え、息が苦しくなる。いつも聞こえていた鳳子の声が、今夜は一切響かない。仁美里は、体が冷たくなり、全身の力が抜けていくのを感じた。鳳子がもういなくなったのではないか――その恐怖が彼女を包み込み、膝から崩れ落ちた。
「ふうこ……お願い……声を聞かせて……!」
手を震わせながら、祠の壁を叩いた。何度も祈るようにして壁を叩き、鳳子の声が再び響いてくることを願ったが、祠の中に響くのは無音の静寂だけだった。
「……どうして、擬蟲神様はお救いくださらないの……?」
祈り続けてきた神様が、今何もしてくれないという事実に、仁美里は初めて疑念を抱いた。これまでの苦しみをすべて捧げてきたのに、神様は一度も応えてくれなかった。彼女と鳳子を救ってくれるはずの擬蟲神が、ただ無言で彼女たちの苦しみを見過ごしている。胸の奥で怒りが膨れ上がり、仁美里は拳を強く握りしめた。
「どうして奇跡の一つも与えてくださらないの!?」
祠の中で叫び、仁美里は拳を壁に叩きつけた。痛みが手に走るが、そんなことはどうでも良かった。怒りと絶望が彼女の心を蝕み、神様への信仰が揺らぎ始めていた。
「嘘なの……? 何もかも、嘘だったというの……? ふうこに……救いはないの……?」
答えはどこにもない。神様も、誰も彼女を救ってくれない。冷たい石の床に崩れ落ち、仁美里は泣き崩れた。鳳子の悲鳴も聞こえなくなり、彼女にはもう希望のかけらすら残されていなかった。
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