4-5 Refloresis

 ステージライブが終わった直後、鳳子は深い疲労に包まれていた。体育館に集まった無数の人々の数に圧倒され、周りのざわめきが頭の中でどんどん響き渡っていく。いつもなら見慣れた光景も、疲れ果てた今の彼女には毒だった。鳳子は頭がぼんやりとする中、よろけながら人ごみをかき分けた。目に映るのは、不気味に蠢く醜い芋虫のような人影たち。彼女はその中から和希の姿を探し求めたが、見つけられない。おそらく彼も、この圧倒的な人混みに近づけずにいるのだろう。

 周りの人たちは鳳子の歌を褒めたたえている。それでも、彼女の耳には、それらの言葉は鼓膜を鋭く削るような不快な音にしか感じられなかった。褒め言葉など、今は求めていない。ただ、一人になりたい。静かに、そっと放っておいてほしい。けれど、誰一人として彼女のその心を理解してくれる者はいなかった。

「せん、せ……鳳仙、先生……」

 かすれた声で和希の名前を呼んだ。しかし、その声は虚しくも届かない。とうとう限界が来た鳳子は、ふらりと足元が崩れ、地面に倒れ込みそうになった。その瞬間、胸元に温かな感触が伝わり、誰かが自分を支えたのだと気づく。

「おっと、大丈夫か? 疲れてるんだろ。はーい、みんな。離れてくれ。この子は俺が保健室に連れて行くから」

 その声とともに、周りにいた人だかりが少しずつ引いていった。鳳子の体を支えているその声の主は、見知らぬ男だった。鳳子はぼんやりとした視界で彼の姿を確認しようとしたが、頭が混乱していて、姿がよく見えない。ただ、彼の指先が鳳子の体の輪郭を確認するように、ゆっくりと動いているのをぼんやりと感じた。

「先生……せんせ、たすけて……」

 鳳子は再び和希を呼んだが、その声は届くことはなく、男の耳には聞こえていないかのようだった。

「ん? 大丈夫だって、ちゃんと保健室に連れて行くよ。看病もしてやるさ」

 男はそう言いながら、意識の薄れかけた鳳子を無理やり引っ張り、人気のない校舎の方へ向かい始めた。鳴り響く喧騒から少し離れたおかげで、鳳子の意識は一瞬だけ冷静に戻り、胸の奥に警告の鐘が鳴り響いた。

「や、やめて……! 離して!」

 鳳子は叫び、男の手を振り払った。その瞬間、彼の束縛から逃れ、力を振り絞って走り出す。だが、彼女が向かったのは皮肉にも、男が連れて行こうとしていた人気のない校舎だった。後ろで、男――遠山たくみは、鳳子の背中を見ながらにやりと笑った。

「なんだ、自分から人気のない方に行くなんて、案外その気だったのか? そういう趣向も悪くないね」

 彼は小さく呟き、楽しそうに鳳子の後ろ姿を追いかけ始めた。



 鳳子が人ごみを避けて、人の少ない方へと進むのは、彼女の心に深く根付いた逃避の習性だった。歪んだ視界に映る群衆から逃れたい、触れられたくないという本能的な恐怖が、無意識のうちに彼女をその方向へと導いていた。さらに、この黄昏学園は小中高一貫校で敷地が広大であり、日常的に通っている場所でありながら、慣れ親しんでいない区域も多かった。結果的に、鳳子が辿り着いたのは、自分の知っている学園でありながら、全く見覚えのない静かな校舎の裏だった。

 背後には、あの男――遠山たくみが迫ってくる。恐怖と疲労が重なり、思考はまとまらない。来た道を戻るわけにはいかない。鳳子は遠くに微かに聞こえる喧騒を頼りに、ただ前へ進むしかなかった。途中、校舎の窓をいくつか引っ張ってみたが、どれも固く閉ざされ、鍵がかかっている。希望はどんどん潰されていく。

(……今度からハンマーは常備しておく必要がありますね……)

 自分の準備不足を呪いつつも、鳳子は慎重に足を運び、行き止まりにならないよう細心の注意を払った。後ろから聞こえるたくみの足音が、次第に近づいてくるのがはっきりと分かる。心臓の鼓動が速くなり、呼吸が乱れていく。焦りが募り、身体は重く、冷たい汗が背中を伝った。

 やがて鳳子は、開けた空間に出た。そこは、中等部の中庭だった。空が四角く切り取られ、静かな空気が漂うその場所には、大きな一本の木が立っており、ベンチがその周りを取り囲むように配置されている。近くには噴水があり、水しぶきが煌めいていた。静寂と美しい風景が一瞬だけ鳳子の不安を和らげた。その水しぶきの向こうに、彼女の目は一つの後ろ姿を捉えた。

 悍ましい虫ではない――確かに「人間」の形をしている、誰かの背中。

「――せんせい!」

 鳳子は叫び、何も考えずその人物に飛びついた。彼女の歪んだ視界の中で、はっきりと「人間」の姿に映る人物はたった一人しかいない。和希以外に疑う余地はなかった。ようやく、自分を助けてくれる人に出会えたという安堵が、鳳子の心に一瞬の平穏をもたらした。彼女は強くその人物を抱きしめた。

「はぁ? こんなところまで来て、彼氏持ち? 追いかけて損したな」

 背後から聞こえるたくみの足音と、彼の嘲笑するような声が近づいてくる。

 たくみの軽蔑混じりの言葉に、鳳子の身体はさらに強張り、恐怖が再び心を蝕んだ。彼女は助けを求めるように、その人物の背中に隠れるように回り込み、さらに小さな声で「助けて……」と呟いた。

「お前は――……」

 不意に頭上から響く低い声が鳳子の耳に触れた。その瞬間、驚きと混乱が彼女の心に広がる。鳳子は無意識に声の方向を見上げ、きょとんとした表情を浮かべる。そこに立っていたのは、和希ではなく、墨田川の花火大会で出会った青年――廟堂院風雅だった。しかし、鳳子の記憶からその出会いはすでに抜け落ちており、彼が誰なのか分からなかった。さらに、和希以外に「人間」として正常に視える人物がいることにも、驚きを隠せなかった。

「あ、その……ごめんなさい、人違いで……! いきなり抱きついてしまって……本当にごめんなさい!」

 鳳子はすぐに風雅から距離を取り、頭を下げた。心臓は早鐘を打ち、混乱が渦巻いていた。どうして和希じゃないの? どうしてこの人がはっきりと見えるの? 頭の中で鳴り響く疑問は解消されないまま、鳳子の身体は震えていた。

 風雅もまた、突然の出来事に言葉を失っていた。彼女の緊張が伝わってくるが、状況が呑み込めず、ただ彼女を見つめていた。その時、たくみの低い声が背後から再び鳴り響く。

「なんだ、君らそういうんじゃないんだね。じゃあ、この子は俺がもらっていくわ。じゃーね、おにーさん」

 たくみは不敵な笑みを浮かべながら、鳳子の腕を強引に掴み、無理やりどこかへ連れ去ろうとした。鳳子は恐怖で身体を硬直させ、逃げることができなかった。しかし、その時――たくみの足が突然引っ張られるように止まった。

「待てよ」

 風雅の鋭い声が響き、たくみの腕が止められた。風雅は鳳子を後ろから守るように左腕で抱きしめつつ、右手でたくみの腕を力強く抑えていた。その瞳は冷たく光り、「その手を離せ」と無言で訴えていた。二人の視線が交錯し、緊張がその場に漂う。

「事情は知らねえけど、怖がってるだろ。どこに連れてくつもりだ?」

 風雅の声は低く鋭く、力強さを持っていた。たくみはその言葉に微かに戸惑い、目を細めながら振り返った。風雅の圧力に気づいたのか、たくみは何かを悟り、しぶしぶ鳳子の腕を解放する。

「はいはい。わかったよ。ま、別に誰でもいいし。じゃあな、お二人さん。……はぁ、今日は本当にどいつもこいつも……ハズレばっか……早く榎本ちゃんに会いに行こう……」

 たくみは軽く肩をすくめ、捨て台詞を吐き、ぶつぶつと呟きながらその場から立ち去った。遠ざかる足音を聞きながら、鳳子はようやく心の底から安堵の息をつく。しかし、身体の震えはまだ止まらない。風雅の腕の中で、彼女は崩れるようにその場にへたり込んだ。

「……ありがとう、ございます……」

 彼女の声はかすかで、疲れ切っていた。それでも、鳳子の中には、ようやく救われたという感覚がじんわりと広がっていく。



 二人は、穏やかな秋の空気に包まれた中等部校舎の中庭にあるベンチに座っていた。鳳子はライブの疲れで体を休め、風雅は手にしたパンフレットを見つめながら、この後どこを回ろうかと考えるための静かな時間を求めていた。風雅がこの場所に辿り着いたのは、文化祭の喧騒を避け、落ち着ける場所を探していた結果だった。中庭の静けさと、時折聞こえる噴水の水音が、彼らに一時の安らぎを与えていた。

「それにしても、さっきのステージライブのボーカルはお前だったんだな。似てるとは思ったけど、気づいたのは、抱きつかれた時だぜ」

 風雅はふっと柔らかく笑いながら、隣に座る鳳子に視線を向けた。花火大会の時と今では、メイクや衣装のせいで印象がかなり違うが、鳳子の燃えるような赤い瞳だけは彼の記憶に強く残っていた。彼女の瞳はただの紅ではなく、まるで灼熱の炎にくべられた鉄のように強い輝きを持つ。風雅はそんな少女に再び出会えたことに、内心どこかで安堵している自分を感じていた。文化祭に訪れた理由は別の目的があったが、心の片隅では彼女に再会できるかもしれないという期待が、ほんの少しあったのだろう。

 しかし、鳳子の瞳は揺れていた。不安の色が浮かび、彼女は何かを言いたげに沈黙を守り続けた。風雅は彼女が言葉を紡ぐのを待ちながら、じっとその視線を受け止めていたが、次第に彼女の表情に違和感を覚えた。彼女の瞳には困惑が滲んでいる。何か声をかけるべきかと迷い始めたその時、鳳子は体を少し彼の方へ傾けた。風雅の顔をじっと見つめ、そして静かに呟いた。

「私には、貴方の記憶がありません。でも、貴方は私を知っているんですか?」

 その瞬間、秋の冷たい風が突然中庭を吹き抜け、すべてを攫うように大きく舞い上がった。風雅の手に握られていたパンフレットは宙に舞い上がり、そして鳳子の黒髪に飾られていた薔薇のコサージュまでもが風にさらわれた。コサージュが外れたことで、鳳子の髪はふわりとほどけ、ステージで整えられた髪型から本来の姿に戻った。空に流れる雲、風に舞う木の葉。その永遠にも感じられる一瞬の中、鳳子は目の前の事実に困惑を抱き、風雅は彼女の言葉に驚きを隠せず、ただ見つめ合っていた。

 風が静まったころ、風雅はふと気づいた。自分が無意識に鳳子の手を握っていたことに。あの突風の中、彼女がまるでどこかへさらわれてしまいそうで、気づけば手を伸ばしていたのだ。彼の手はさっきまでパンフレットを握っていたが、今は鳳子の手をしっかりと掴んでいる。それに気づいた瞬間、風雅は慌てて手を離したが、鳳子はそれに気付いている様子はなかった。ただ、凛とした視線で風雅を見つめ続けていた。
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