4-6 FLOWER-LOST
廟堂院風雅は、廟堂院ホールディングスの御曹司として周囲には知られていた。しかし、その裏には複雑な過去があった。実は彼は正妻の子ではなく、父親が妾に産ませた不義の子だった。跡取りのいなかった廟堂院家に引き取られ、表向きは息子として育てられたが、実母が病で亡くなり、さらに正妻が男子を出産すると、風雅は廟堂院家にとって不要な存在となった。
今日、彼がこの黄昏学園の文化祭に訪れたのは、次の誕生日、つまり十八歳の節目を機に遠く離れた土地で新たな人生を始めるための候補地として、箱猫市とこの学園を見ておきたかったからだ。新しい場所で自分の居場所を見つけようとする彼の選択肢の一つがここだった。
彼がこの文化祭に訪れたのは昼頃だった。周囲の賑わいに包まれながらも、まだ本格的に祭りを楽しむ気分にはなっていなかった。せいぜい、鳳子のステージライブを遠くから眺め、その後に運営スタッフから配られた黄昏祭のパンフレットを手に取ったところだった。いよいよこれから学園の各所を回ろうかと思い始めたその時には、どことなくこの学園にも悪くない印象を抱き始めていた。なのに――。
「ごめんなさい……もしかしたら、人違いだったり……しますかね。今の私はメイクもしているし……勝手に期待をしてしまってごめんなさいです」
鳳子の言葉が、風雅の胸に深く突き刺さる。心のどこかで再会できるかもしれないと思っていた少女が、自分のことを覚えていないと告げた。その一言が、風雅の中にあった期待や高揚感を一瞬で打ち消し、冷たい現実へと引き戻した。
しかし、彼女が言う「人違い」ではない。今、風雅の隣に座っているのは、紛れもなく隅田川の花火大会で出会った鳳子に違いなかった。彼女の記憶がどうして失われてしまったのかはわからないが、風雅はその記憶を呼び覚ます手がかりとなる言葉を探した。彼女に、過去の記憶の一片でも思い出してもらいたいという願いが彼の心にはあった。
「……隅田川の花火大会、覚えているか?」
静かに問いかけた風雅の言葉に、鳳子は眉をひそめて記憶の奥を探るような表情を見せた。しかし、何かが厚く濃い霧に覆われたように、記憶は朧げで何も思い出せない。その代わり、鳳子には心当たりがあった。空白の日記、記憶が欠落している期間。もし、その欠落の中にこの青年との出会いがあったのなら、彼が「正常」に視える理由も理解できるかもしれない。
「それって、何月何日ですか?」
鳳子は身を乗り出し、真剣な眼差しで風雅に問いかけた。胸が高鳴る。彼女にとって、これは失われた時間を取り戻すための大事な手がかりだった。抜け落ちた記憶の断片がこの青年と繋がっているのだろうか――その思いが彼女の心を駆け巡る。
鳳子の真剣な瞳を見つめた風雅は、少し戸惑いながらも、視線を逸らしつつ、その日付を思い出し、彼女に告げた。その日付は、鳳子にとって記憶が欠けている空白の期間にぴたりと当てはまっていた。
「そう……そうだったんですね……! よかった……本当によかった……!」
鳳子は、その瞬間、もう二度と戻らないと諦めていた宝物をようやく見つけたかのような気持ちに包まれた。目に涙が滲み、安堵の笑みが自然と浮かぶ。ずっと見つからなかった失われた記憶の手がかりが、今目の前にいる彼だったのだ。鳳子は思わず風雅の手をそっと握り、その手の温もりに触れながら、再び彼の瞳を見つめた。
「もし、貴方がよろしければ、その時の話を聞かせてくれませんか? 私は貴方のことを知りたいんです……もう二度と、忘れたくないから」
彼女の声はかすかに震えながらも、強い意志が込められていた。歪んだ世界で「正常に視える」二人目の人間である彼が、何者なのかを鳳子は知りたかった。
思い返せば、和希も最初から「人間」として視えていたわけではない。長い時間をかけて、互いの信頼を積み重ね、やがて彼が「正常」に視えるようになったのだ。だから、風雅も同じように、彼との間にどんな時間を過ごし、どんな信頼を築いたのかを知りたかった。
「空白の鳳子」にとって、彼はきっと特別な存在だった。鳳子はそれを確信し始めていた。だから、失われた記憶の中で、どうして彼が特別な存在になったのか、その理由を理解したいと切に願っていた。
「あ、あ、もちろんお礼はしますよ! 文化祭で案内できることがあれば案内しますし、何より私は解決部なので! 困ったことがあれば、何でも頼ってください!」
鳳子は力強く両手で握り拳を作り、彼の手助けをする意欲を示した。その姿に、風雅はふと、先ほどパンフレットを失くしてしまったことを思い出した。さらに「解決部」という彼女が口にした部活動にも興味を引かれる。黄昏学園を見学しに来た彼には、知りたいことが山ほどあった。関係者である鳳子が案内を申し出てくれるというのは、まさに理想的な展開だった。何よりも――。
――もう二度と、忘れたくないから。
その言葉と、真っ直ぐな眼差しが風雅の胸に深く響いた。彼女の決意と想いがこもったその一言が、彼の心の中で静かに反響し続けた。
◆
「風雅くん、風雅くん。お昼ご飯は食べましたか?」
鳳子は風雅に視線を向け、明るい笑顔で問いかけた。その無邪気な表情に、風雅は少し戸惑いを隠せず、口ごもりながら答えた。
「い、いや……まだだが……」
お昼ご飯は、黄昏祭の売店で適当に済ませようと考えていたため、まだ食べていなかった。屈託のない笑みを浮かべる鳳子に対し、風雅は今の状況に少し困惑し、言葉を詰まらせながら答えた。
彼が困惑していた理由の一つは、鳳子の両腕の動きにあった。彼女が無意識に風雅の腕に絡ませているその仕草は、男女が腕を組むような親密さを感じさせるものだった。しかし、その一方で、どこか周囲から身を隠すために縋りついているようにも見えた。そのぎこちない、不器用な所作には、下心のような意図は全く感じられず、むしろ風雅に違和感を与えていた。
そして、人混みが特に密集している場所を通るたびに、鳳子の手には自然と力が込められていた。そのたびに風雅は、彼女が何かを訴えているのではないかと感じ、鳳子に視線を向けた。しかし、彼女はただ静かに地面を見つめているだけで、何も言わずに沈黙していた。
それが何度か繰り返されるうちに、風雅は彼女のある癖に気付いた。鳳子は人混みが多くなると、無意識に恐怖を感じ、その不安が手に力を込めるという形で表れていたのだ。彼女の手が握る力の強さが、彼女の心の内を風雅に伝えていた。
次の瞬間、風雅と鳳子は不意に人ごみの中へと迷い込んだ。周囲は雑踏で溢れ、二人はその中に押し流されるように進んでいく。鳳子は、やはり風雅の腕を強く握っていた。彼女の指先に込められた力が、その内心の不安を無言で伝えていた。この群集から抜け出すにはまだ時間がかかりそうだった。
「大丈夫か?」
風雅は、鳳子に優しく問いかけた。彼女は視線を足元に落としたまま、小さな声で「もう慣れたはずなんですけどね……でも、大丈夫です」と、寂しげに呟いた。その言葉はどこか空虚で、彼女が視界に映るものすべてを避けるようにしているのが感じ取れた。
そんな彼女の姿に、風雅は思わず手を伸ばし、彼女の片手をしっかりと握った。迷子にならないように守るかのように、そして彼女の不安を少しでも和らげるために。その手の温もりが、鳳子の不安を少しでも軽減してくれることを風雅は願っていた。
やがて、二人は人ごみを抜け出すと、タコ焼きの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。目の前にはタコ焼きの屋台が立っており、その香りに反応した鳳子の表情がぱっと明るくなった。
「風雅くん、風雅くん! タコ焼きを食べましょう!」
鳳子は元気にそう言うと、屋台の列に並んだ。待ち時間の間も、彼女の笑顔はまるで先ほどの不安が嘘のように明るく輝いていた。やがて二人の順番が来ると、タコ焼きを焼いている金髪にメガネをかけた店員――一ノ瀬が笑顔で鳳子に声をかけた。
「やあ、世成君。来てくれたんだね。クラスのお化け屋敷にステージライブ、その合間に解決部の巡回までしてくれて、本当に助かっているよ。今日はおまけでタコさんを二つ多めに入れてあげよう」
「一ノ瀬先輩、ありがとうございます! これからも解決部のためにがんばります!」
鳳子の声には決意と喜びが込められており、彼女の目が輝いていた。一ノ瀬は笑顔でタコ焼きをパックに詰め、鳳子に渡そうとした。その瞬間、鳳子がポケットから財布を取り出そうとしたが、その前に風雅がさっと必要な金額を一ノ瀬に差し出した。
「風雅くん、風雅くん! 私が払いますので……!」
鳳子は慌てて風雅を止めようとしたが、一ノ瀬はすでにお金を受け取り、にっこりと微笑みながら「毎度ありがとうございます」と礼を述べた。
「年下に奢らせるわけにはいかないだろ。ほら、早くタコ焼きを受け取れよ」
風雅の穏やかな声に、鳳子は一瞬戸惑いながらも、列の後ろに並ぶ人々に気付き、急いでタコ焼きを受け取った。周りに迷惑をかけないようにと、そっとその場を離れようと歩み出す。
「一ノ瀬先輩! 私、解決部が大好きです! また、次の依頼もがんばりますので!」
去り際に、鳳子は一ノ瀬に向かって深々と頭を下げた。普段は遠い存在に感じていた先輩に、直接思いを伝える機会がやっと訪れたからだ。ずっと心に秘めていた感謝の気持ちを、この瞬間に表せたことが、鳳子の胸に安堵と喜びをもたらしていた。一ノ瀬という存在は、鳳子の歪んだ視界にとっては「人間」に近い存在だった。それはまだ確かなものではなかったが、彼女が信頼する解決部への憧れが、一ノ瀬に重ねられていたのだ。
その姿を、一ノ瀬はただ微笑みながら静かに見送った。
◆
二人は、タコ焼きを手にしながら木陰のベンチに腰を下ろした。穏やかな風が葉を揺らし、タコ焼きの香ばしい香りが漂う中、鳳子は一つ食べ終わるごとに、解決部について風雅に説明を始めた。
「今のが一ノ瀬先輩って言って、解決部の部長さんなんですよ。私は解決部のおかげで変われたんです。だから、一ノ瀬先輩には本当に感謝しています」
彼女の顔には、一ノ瀬への強い敬意が表れていた。風雅は、彼女のそんな真っ直ぐな想いに感心しつつも、ある疑問を口にした。
「そういえば、解決部の巡回もしてるって言ってたけど、今もその時間なのか?」
鳳子はスマホを取り出そうとポケットを探ったが、そこには財布しか入っていなかった。解決部の掲示板をチェックしようとしていたのに、スマホがないことに気づき、顔が一気に青ざめた。焦りの中で、これまでの行動を必死に思い返す。そして、ライブが始まる直前に、演出の邪魔にならないようにと舞台袖の棚にスマホを置いてきたことを思い出した。
青ざめた表情でうつむく鳳子の様子に気づいた風雅が、心配そうに「どうした?」と優しく声をかけた。
「体育館に、スマホを忘れてしまいました……まさか、あんなに多くの人にもみくちゃにされるなんて思わなかったし、疲れていて気づけなかったのです……」
彼女の声は今にも泣き出しそうで、「これじゃ解決部の掲示板を確認できない」としょんぼりと呟いた。そんな彼女を見て、風雅は最後のタコ焼きを彼女に差し出し、自分のポケットからスマホを取り出した。
「掲示板は誰でも見れるんだろ? 俺のスマホじゃダメか?」
「いいんですか!? それじゃ、お言葉に甘えて……」
鳳子は感謝の笑みを浮かべながら、風雅のスマホを借りて解決部の掲示板にアクセスした。二人は頭をくっつけるようにして、ひとつの画面を覗き込んだ。掲示板には文化祭に関する注意喚起や調査結果がびっしりと並んでいた。その中に、不審者情報の投稿があり、風雅はそれに目を留めた。
「金髪にサングラス……この特徴って、さっきの男のことじゃねえか?」
さっきの男がナンパ目的で文化祭に来ていたことは明白だったが、まさか掲示板にまで書かれるほど悪質な行為を行っているとは風雅も予想していなかった。鳳子に被害が及ぶ前に助けられたことに、彼は密かに安堵した。
一方で、鳳子は何気なく呟いた。
「え、さっきの人がこの遠山たくみさんだったんですね……」
特徴がこれほど一致しているにもかかわらず、鳳子は掲示板の書き込みを見てもあまり実感が湧いていない様子だった。まるで自分がその男の標的になりかけていたことを理解していないかのような振る舞いに、風雅は不自然さを感じた。
「特徴がまんま一致してるだろ? まさか、もう忘れたのか?」
少し笑いを含ませながら、風雅は鳳子に問いかけた。それは彼女に探りを入れるための一言でもあった。
もし鳳子が何らかの記憶障害や病気を抱えているのなら、花火大会での出会いを覚えていない理由が理解できるかもしれない。風雅自身も、なぜ彼女が記憶を失っているのか、その真相を知りたかったのだ。
「……そう、だったかな……」
鳳子は困ったような笑みを浮かべ、弱々しい声で答えた。そよぐ風が彼女の小さな声をかき消しそうになる。風雅はその瞬間、自分が触れてはいけないものに触れてしまったと直感した。記憶に関わる話題を出すことで、彼女を傷つける危険性は承知していたが、その闇が予想以上に深いことを感じ取った。
しかし、ふいに冷たい小さな手が風雅の頬に触れた。驚いて視線を向けると、真剣な眼差しで彼を見つめる鳳子がいた。
「……風雅くん、風雅くん」
彼の名を呼ぶ彼女の声には決意が込められていたが、どこか躊躇いも感じられた。
「あのね、私……」
鳳子はゆっくりと息を吸い、静かに吐いた。唇は自然に動き出していたが、頭の中には様々な思いが渦巻いていた。信じてもらえないかもしれない。異常者だと切り捨てられるかもしれない。伝えることで、何か大切なものが壊れてしまうかもしれない――そんな不安や恐れが、鳳子の心を支配していた。
それでも、心の奥底で彼にだけは全てを晒してもいいと思っていた。
届かなくてもいい。理解されなくても構わない。ただ、彼の問いに対して、真実を伝えたい。その一心で、鳳子は口を開いた。
「――全ての人間が、悍ましい化け物に視えるの」
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