しまだ珈琲店




<1>
 残暑の更に名残のように、少しの蒸し暑さを残した秋口になると、ふとした拍子にどうしても思い出してしまうことがあった。
「…………」
 時刻は二十三時過ぎ。街灯の照らす帰り道を歩きながら朔夜はぼんやりとその光景を顧みる。
 狭くて暑い工具箱と壁の間。油のにおいが鼻の奥に燻る。今思えばたった二人でかくれんぼをして何が面白かったのか知れない。ババ抜きぐらい簡単でつまらない遊びだったけれど、あの頃の二人にとって二人で遊ぶことに意味なんて求めていなかった。二人でいるそれだけで楽しかったし嬉しかった。子供心というのはそんなものだ。
 三十秒をゆっくり一分ほどかけて家の真ん中で読み上げる朗二の声が微かに聞こえる程度には遠く遮断された車庫の暗がりは、隠れるには最適の場所だった。子供の身体でむりむりに入ってぴったりはまるほど狭かった工具箱と壁の隙間は我ながら絶対に誰にも見つからない自信があった。
 朗二にはもちろん、実の父にも、母にも。
「さんじゅ! もういいかーい!」
 二階のある一戸建て。その横に小さなガレージをも持つ土地持ちの実家は、それだけで裕福の象徴なのだと自分で金を稼ぐようになった今だからこそとても良く分かる。
 共働きなど今時珍しくもなんともないが、不規則な生活を余儀なくされるベテラン看護師の母の生き方と若い頃から資産形成にぬかりのなかった父のライフスタイルとはさぞ真反対だったことだろうと思う。
 両親のことは、いつの頃であっても特別仲がいいとも悪いとも思ったことは無かった。
 でも、物心がつくころには二人の間に所謂「愛」という形のものは無かったんじゃないかと思う。幼心に察せるぐらいなのだから、きっとあからさまだったのだろう。
 それを理解出来てから、二人の愛情のカタチが自分自身なのだと悟るのにあまり時間はかからなかった。
 大事にされてきた自負はある。父からも母からもそれぞれ両方の愛情を注がれてきた自覚も。余りある幸福を疑わず、これ以上何かを求める必要もないのだと、最初から与えられ終えていた気さえした。
 だからこそ寂しさや物足りなさを覚えてしまうのは人間のいけない心理だと思う。
 はっきりとした理由などないが、自ら率先して心配させるようなことをして何かを補おうとしていた時期の自身の気持ちは未だに蟠りとなってここにある。あるということは、消化しきれていないのだろうけれど、今更求めるのは馬鹿らしい。
 誰から見ても十分に愛されてきたはずの人生。
 なのに、常に二人にとって自分とは本当に必要な人間なのかどうかを、どうしても確かめたい渇望の感情とは一体どこから湧いてくるものなのだろう。今だって分からないのに、幼い頃の自分が分かるはずもなかった。
 蒸し暑いガレージの奥の奥でぎゅっと縮こまりながら耳をそばだてる。かくれんぼに興じる頭の片隅では悪癖のようにもしも自分がいなくなったらと想像した。もしも今すぐに透明人間になれたら、自分がいなくなった時の父と母の反応が見られる。びっくりするかな。泣いてくれるかな。朗二は泣きむしだからすぐ泣くだろう。お隣のおじさんとおばさんはどうかな。朗二がいなくなったのと同じぐらい、泣いてくれるかな?
「…………」
 心配してくれるだろうか。二人で抱き合って泣いてくれるだろうか。もし自分が生まれたことで二人の中の愛がなくなったのなら、このまま消えてまた二人に還ってあげたいと強く思う。そのほうが、多分、自分も寂しくない。
 そのほうが、多分、みんな幸せ。
 強烈な猜疑心が胸の辺りをスカスカにさせてきて泣きそうになってくる。
 いいなあ、と無意識に思う。いいなあ、ろうは。お父さんもお母さんも明るくて、仲良しで。
「よっ」
 短い掛け声のあと、突如ガレージのシャッターが上がった轟音で心臓が口から飛び出るぐらいびっくりして身体が固まった。微動だにせず縮こまったまま、耳だけが敏感に尖る。
「オーラーイ。ゆっくりね」
 紛れもなく父の声だった。まだ心臓がドキドキしている。恐らく半分趣味で営む便利屋の仕事から帰ってきたのだろう。一年を通してべらぼうに忙しいという程の事もなければ一切依頼がないというわけでもなく、収入はまちまちだろうが本当に気ままな仕事には違いなかった。
 ならば、中古の軽トラをバックギアに入れて操っているのは朗二の父だろうなと思う。子供が出来るよりずっと前に隣の空き家に越してきた嶌田家とはもう十年以上の付き合いになるらしい。
 表向きはお隣同士家族ぐるみでとても懇意の仲だったが、どちらかというと、父同士がより親密だった。親友みたいな、それこそ兄弟、家族みたいに行き来することは珍しくない。
 そうなると必然的に、互いに共働きの都合を汲んで、保育園が終わったあとも一緒に帰宅して四六時中どちらかの家に二人きりでいることが常だった。
 よく考えたら変に隙間だらけの家族だった。今更になって気が付く。
「はいおっけ。さんきゅーね。一人だときついなって思ってたから助かっちゃったよ」
「いーえ。あ、もう先にアイス食わせちゃう?」
「うん。その前に」
「ん……」
 仮にもかくれんぼの途中だったし、二人がこのままガレージから出て行くのを息を潜めてやり過ごそうとしていたのだけれど、その一瞬だけ訪れた沈黙が妙に気になってしまったのが、思えば自分の人生の、もとい、朗二の将来の運の尽きだった。
 半分まで降りたシャッター。逆光気味に黒く浮かんだ二人のシルエットは恋愛アニメのチープなキスシーンにそっくりだった。そっと唇が離れてすぐ、父が物憂げに俯く。
「…………」
「……初ちゃん、なんだって」
「ばっか、言えるかよ。てか追及する気もないし。今本当のこと全部並べても、誰も幸せになんないからな」
「……ひゅう、……男気ィ……」
「うるせー。十中八九おれが全部悪いんだろうし。いいよもう。今に始まったことじゃないらしいし」
「許せるんならちゃんと大好きだって言えればそれで済むんじゃないのか?」
「…………は? 許せるなんて一言も言ってない」
「……」
「そんな、……心広くない俺、普通に悔しいし……寂しい……。今まで何も知らなかったのも情けなくて、むかつく、でも」
「…………」
「朔夜可愛いから、今はまだ全部、このままがいい……」
「…………強い。えらい。さすが俺の推し。これからお前がどういう選択をしてもさ、俺は味方だし今は全力で慰めるよ」
 その言葉通り、車のドア越しに迷わずまっすぐに伸びた手が頭を撫で頬を撫で身体を抱き寄せて背中を撫でた。無言でされるがままの父はもしかしたら泣いていたのかもしれない。
 逆光でよく見えなかった。否、本当は、大事そうに優しく慰められながら抱きしめて貰える姿が、その行為が、妬ましくて羨ましくて途中から目を逸らして蹲っていたせいでその実はよく覚えていない。
 そのあとすぐにガレージのシャッターは閉じられて、二人は外へ出て行った。
「……ずるい、父さん……」
 狭い隙間にはさまりながら、半べそで漏らしたその本音は生まれて初めて抱えた確かな虚無だ。
 父の空虚を埋めてくれるお隣さん。母はとっくの昔に誰かにそれを求めていた。それなのに、どうしてとそれからずっと思っていた。
 どうして誰もこの空虚の埋め方を教えてくれないのだろう。寂しさや虚無に明確な理由などなくとも、あんな風に誰かに理解されながら優しく抱きしめてもらいたい。
 ずっとそれを、求め続けていた。

「朔夜? おかえり。おっそ……。バイト?」

 そんな憂鬱な記憶のエンドロールの最中に、聞きなれた声がして顔を上げる。気づけば家の前にいて、反対の道から歩いてきていたらしい朗二とこんなに奇跡的なタイミングで鉢合わせてしまえるシチュエーションに死ぬほどセンチメンタルになってしまう自分がいた。
「エモ……」
「顔暗ァ……。きついならやめれば、バイト。合ってないんじゃね?」
「……」
「なんかボロっちいし。捨て犬みたい」
 こうして何事もなく大学に通う歳になっても、両親は変わらず愛のない幸せな家庭を演じている。今でもお隣さんと父との関係があるのかは分からない。興味もない。
 そんな中今日までずっと片時も離れずに隣にいてくれた朗二は、きっと自分の運命の人である以外ない。
 だって、朗二がいてくれたから、空虚な世界には色がつき灯りがともった。寂しくて虚しくて気が狂ってしまいそうな冷たい夜も、いつも隣で温もりを与え続けてくれた。誰にも渡したくない。誰にも譲りたくない。誰に理解されなくてもいいから、世界で唯一の寄り辺である朗二という存在を手放したくない。例えば二人でいることを、朗二が不幸だと泣いたとしても、そんなことで諦められるほど自分は大人でいられない。
 あの日ガレージで二人が心を交わし合う様子を垣間見てしまった時から、人生における全ての指針は朗二を中心にして回っている。執着している自覚はある。何をしていても消えない寂しい気持ちを誤魔化すために朗二を愛するという行為自体に依存しているのだとも分かる。
 でも、そうでいなくては自分が何のために生きているのかという虚無感に負けてしまう。結局意味なんてないし、気が付いたら終わっているようなフツーの、誰にとってもどうでもいい人生。
 ならせめて、朗二にだけ、世界でたった一人、朗二にだけで構わないから、好きだと、必要だと、そう思われていたかった。
 そんな執拗な執着が実を結び、中学二年になった年から朗二とは恋人同士として付き合っているが、何かと理由をつけて表立ってそのことを出したがらない姿には密かに傷ついてしまう。最も、幸せかどうかと言われたら、朗二が側にいてくれるだけですこぶる幸せなことには違いない。
 けれど、幸せだから不安ではないかといえばそうじゃないし、八割、……九割はずっと不安な気持ちがぬぐえずにいる。
 今は辛うじて受け入れてくれているけれど、そのうち「男が嫌」になるかもしれない。朗二の人生を邪魔する気なんてないのに、朗二の未来には一体いつまで自分が組み込まれているのかと思ったらそれこそ怖くてたまらなくなる。
「さく?」
 でも、きりがないとも思う。
 この先どうせ何を得られても一生満たされない気はしている。付き合っても不安、セックスできても不安、四六時中一緒にいても、きっと不安。だから、仮にいつか結婚できたってこの不安は消えない。
「……」
 物理的に何日も生身の朗二と離れていると、そんな思考ばかりに陥ってしまう。
 他人という誰にも特に興味がないので飄々としているとよく言われるが、根が死ぬほど陰キャなので朗二がいなくなったら多分すぐ死んでしまうと思う。
 死のうとしなくても、死にたくなくても、多分。
「……つかれたなあ……。見て、チマメ。挟んだ」
「だから、仕事内容が合ってないんだって。器用なんだからもっと繊細な仕事探せよ」
「別に合ってなくねえよ。楽しいもん。てか今月初めて会えたな? 通帳見せっこしようぜ」
「やだ。お前んち電気ついてなくね。飯は」
「さっき唐揚げ買ってきた」
「え、マジ? どこの?」
「どこでしょ~。因みにコンビニではありません。部屋きたら食わせてやってもいいぜ」
「え、いく! 白飯持ってく! もう行っていいの?」
「……はは、うん」
「すぐいくっ、鍵かけんなよ!」
「へいへい」
 元々今日は帰ったら連絡しようと思っていた。自分だって疲れていただろうに、唐揚げと聞いた途端慌ててバタバタと駆けていった朗二は、昔から食い物の話になるとアホみたいに元気になる。食べるのも作るのも好きだし、将来はお店を出したいとはにかんでいたのがとても懐かしく思える。それぐらい、朗二には着実に目標に向かって突き進む精神力があった。
 だから、大学に入ってからは講義の時間以外はほとんどが飲食店でのバイト漬け。朗二が空いていないとなると正直誰といても死ぬほど暇だったので仕方なく同じぐらいバイトに勤しんではいるが、最初から夢も目標もない自分にとって朗二がやりたいことを助けてやることぐらいしか貯金の使い道なんて未だに思いつかない。
 勿論、使うべき場面があったなら自分の為に使うのだってナシじゃない。貯めておいて損がないというのは父の暮らしぶりを見てきたら余計にそう思う。とっくに成人もしたし二人で住もうとも言いたいけれど、実家暮らしの生活費ほど節約になることもまあない。そうでなくとも朗二からは大学の四年間、なるべく稼いで資金を貯めると先に宣言されているので、わざわざ水を差すような真似もしたくなかった。
 たまに予定を聞いてもバイトだと言われ続けるのにも飽きたし、こっちもこっちでシフトが不定期なので休みもまちまち。その結果、互いの行動が上手く把握出来ずにここ最近はまともに顔を合わせていなかった。
 大学生になったらいろいろ自由になれるだろうし、今まで以上に朗二と二人で過ごせる時間というのを期待していただけに大人になるってこういうことなのかな、と正直ちょっとへこんでもいた。
「…………」
 家には当然誰もいないので、玄関と階段にだけあかりを付けて二階の自室へ上がると、まだ蒸し暑くてすぐにクーラーをかける。汗臭いインナーごと服を脱ぎ捨て部屋着のティーシャツを被ったところで、朗二が下で叫んだ。
「あがるよー!」
「おー! あ、冷蔵庫からなんか飲み物とってきて」
「おう!」
 どこまでも気ままな父は、たまに遅くまで帰らないことがある。今日のように母が夜勤でいない日に重なると、家には自分以外誰もいなくなったがもう大昔からよくあることなので何とも思わない。実際、朗二と二人きりになりたい時には都合も良いし現にこれを利用して初めてのセックスはここでした。
 昨年の冬、まだ高校生の時だった。お互いに勢いだったし正直いろいろ大変だったこともあって、それ以来最後までするのはホテルでだけと二人で決めていた。
「じゃーーん、コシヒカリちゃん! バイト代でいいランクのやつ買っちゃった」
 唐揚げの入ったビニール袋をローテーブルにのせてテレビをつけたら、ほぼ同時に朗二が部屋に入ってきた。コメの詰まったタッパを出しながら迷わず自分の真横にくっついて嬉しそうに座ったのでちょっとびっくりした。
 なんにせよ、久しぶりに触れた体温がエロくてちょっとだけ息を止めた。
「あとウェルチあったから持ってきた」
「どーもどーも。はい、答え合わせどうぞ」
「いえーーい。あけます、あっ一番星! やっぱり! すでにうめ~。塩?」
「醤油と両方ある。どっちにしろ今日は連絡しようと思ってたから」
「やったーー! よしよし、えらい、いいこいいこっ」
 いきなりがさがさと頭を撫でられて動揺する。ブランクがあるのに躊躇なく触られると嬉しいような照れくさいような気持ちになって、うまく躱せなくて困る。まあでも、久しぶりに会ったにしては機嫌がよくて何よりだ。お触りが嫌でないことは確認できたので無遠慮に撫でつけてくる手を掴んでやんわり制止する。
「……おまえぇ、わざとやってんだろ……」
「ん~? まあ、唐揚げ嬉しいからオマケってとこだな。でもしないよ」
 まだ何も言ってはいないが、最初にびったりくっついてきたのは向こう。風呂もまだだし汗もしこたまかいてはいるが、今更気にしてもしょうがないので抱き寄せて頬っぺたに口をつけてみる。
「抱っこしたいですろーくん」
「してもいいけどしねーよ。いいから食おうよ」
「どっちだよ。前来て前」
「汗くさ。暑。……引っ越しの仕事きつくないの?」
「別に。……軽いけどでけーんだよなお前……」
「余計なお世話だよ」
 細身の身体を小さくしてやけに大人しく足の間に収まったはいいけれど、唐揚げを頬張るのだけは意地でもやめないのを見てシャツの裾から手を入れて直に腹を撫でてみる。さらさらとかじゃ全然ない。汗ばんでぺたぺたする。
「……えー、しようよー」
 それでも、触れたら死ぬほど愛しくて、可愛くて大好きで、後ろから抱きしめながら一生一緒にいて欲しいとより一層強く思う。
 だが、こうして力いっぱい抱きしめてもぴくりとも反応しないでもくもくと唐揚げを食べながら黙っているので、さすがにこれ以上しつこく迫るのも今日はやめておくことにする。部屋では最後までしない約束だし、いつ父が帰宅するかも分からない。
 せっかく久々に会えて機嫌も悪くない。風呂なら一緒に入ってくれるかもしれないし。仕方なくまた強めに抱きしめなおして我慢する。
「……ろう次いつ休み……」
「え明日」
「っは、ふっ……ざけんな、もっとはやく言えよバカ…………ホテル行けたじゃん……」
「てか、さくの父さんどこいったの?」
「え?」
 唐突にそう言われて驚いた。どこに行った? 知らないし興味もないからと放置していた。というか、今その話をする意味も分からなくてちょっとイラっとする。
 俺といるときに他の男の話すんな、とは実の親が対象だと割と言いづらかった。
「……知らね。聞いてない。どこでもよくね?」
「いつ帰ってくんのって聞けよ」
「ええ、なんで……」
「帰ってくんなら外行きたいし、来ないなら泊まりたいんだもん」
「……え……?」
「あ?」
「え、すんの……?」
 ここでやっと唐揚げを咀嚼するのをやめた朗二は、身体をぐりんとねじって驚愕の表情でこちらを見つめた。
「っえっっっっ、しねーーのっ……!? 俺明日休みなのにっ!? い、いみわかんなっ……」
「は? ……え、……ん……!? 俺じゃないよ今のっ俺悪くないよね!?」
「いや、はあ……。そういうとこ、察せよマジで、こんだけべたべたしといてお前我慢できんの……」
「で、出来なかったらここでぶち犯されんのお前だろうがよっっさすがに俺だって同意でしてえよっっ」
 朗二がむっとして一瞬ぴりっとした。慌てて口を噤んだが、言わなくてもいいことを脳直で口走ってしまうのはお互い様だった。
 因みにこういう時、何があっても朗二は絶対に謝らない。ひょろくて背も小さかった幼少時代から周囲になめられて扱われてきたのが相当影響しているようで、口喧嘩と正当防衛で朗二が負かされたことなど一度も見たことがなかった。
 こうなった時の解決策として一番手っ取り早いのはソッコーで折れること。でもたまに、こっちがあんまり悪くないことも過剰に詰められたりすると当然やり過ごしはしない。世界で一番好きな人に違いはないが、兄弟みたいな距離感でもあるので喧嘩はしょっちゅうだし意地の張り合いも常態化しているところがある。
 だから、大人気ないなんてことは二人の間では普通のことでもあるわけで。
「萎え。もう知らん、帰る。からーげごちそーーーさまっ」
「いやおい、ふざけんな、都合悪くなると逃げんのマジやめろ。察せとかいうならシフトぐらい教えろっつの」
「逃げてない。聞いてこないから言わなかっただけじゃん。俺だってお前がバイトするの知らなかった」
「それは絶対言った! てか毎日毎日遅くまでいないのはお前。タイミングもなかった」
「言ってない。俺は最低でも週一回は休みにしてる。シフト知らないのは俺だって同じだしタイミングもくそもない。メッセでも電話でもすりゃいいじゃん。うざ」
「うぜーのはお前だっつの! メッセも電話もブーメランだろうが! てかバイトはこれ絶対言ったから」
「言ってねえ」
 膝立ちのままひどい形相で見下してくる生意気な顔を見ていると心底むかつく。久しぶりに会えたのに最悪。でも帰られるのは正直もっと最悪。むかつくけど一緒にいたいというバカみたいなジレンマに唸る。
「もういい帰る。はなせ」
「あああっ……もお、なんだよっ、久々なのに、じゃあシフト表送りゃ満足かよ?」
「っ……そんなんっフツーっっ、……送れよ、送るでしょ普通、まじでむかつくなお前」
「はいはい、いまおくりますよっそもそもフツーなんだったらおめーもよこせボケ」
 かなり険悪なムードのままシフトの写メをメッセージで送ると、すぐに朗二からもシフト表が送られてきた。しょうもないとイライラしながら眺めていると、どうやら火曜日が固定休のようなので来月のシフトはそこに合わせて休みを組もうと思案する。
 全く言葉足らずもいいところだ。火曜が毎週空いていたなんて初耳だ、と言うのはなんとか堪えて頭をがしがしと掻いた。それもこれもコミュニケーション不足のせいなのだ。自分が聞かなかったからだと言われたらそうでしかない。
「はーもー、来月は休み合わすぞ、いいだろっ!」
「……。てか、何でお前が怒ってんの!? フツーさ、バイトするって決めたらこっちの休みいつとか聞かないもん!?」
「…………えっ」
「勝手にバイト始めて休みも聞かないでシフト組んでさ、いない会えないってそんなん一生会えるわけなくねっっっ! 会う気あんのかって話だよ」
「え……??? わ、……分かってたんならはやく言えよ……」
「俺は一応お前の講義に合わせてシフト組んだつもりだっつの。なのにさ、知らない間にバイト始めてるし、連絡も、なんつーか、……あんまこなくなるし……とうとう愛想つかされたのかと思ってたわ」
「…………」
「つーか明日シフト入ってんじゃん。さっさと飯食って風呂入れ。むかつくからぜっってーーしないけど、ゲームはしたいからまだいてやる」
「…………ぇ……」
 かつてこれほど突如心の雲が晴れたことなどあっただろうか。
 あんなに絶望的な状況からご褒美レベルでの朗二のデレが衝撃的すぎて、正直もう頭がホテルにしか向いていない。愛想を尽かす? 俺が? 朗二に? それこそ一生あり得ない。本当に一ミリもあり得ないのに朗二もそんなことで不安になるのかと意外に思う。無理だ。こんなに急に大事にされているのだという実感がわくと嬉しくて泣いてしまいそうだった。ぽっぽしてくる指でそっとスマホの画面を叩いて時間を確認してから、至極冷静に財布を開く。給料日だったので一万円札が八枚入っていた。ナイス。
「…………」
「……ねえ、前のとこから進めた?」
「やってません。ところでろーくんや。言わなきゃわかんないようなのではっきり言うね。俺金持ちだから駅前からタクってホテル行こ。今」
「……えぇ……」
「ええじゃない。ぜんっっぶ謝る。今の俺が全部悪いからたのむっおねがいっ! ここで親父帰ってきて中断絶対に嫌」
 意地も矜持も一瞬で霧散したので本当にゲームをしようとしていたらしい両手を握りしめると、呆れたようにそっぽを向いた朗二の耳がほんのり色づいたのでこれはまんざらでもない。安堵してもう一度ぎゅっと手を握る。
「めんどくさ。じゃあ、……明日バイト休んで」
「え、や、やすむーーーーっつか、だったらもう今月でやめるわ。バイトにだけ当たりきついし……」
 どさくさに紛れて本音が出たが、本当のことだった。辞めるのもそれはそれで面倒なので我慢していたが八人いた同期は三ヵ月弱で既に半分以下。時給はそこそこだけれど遅い時間の業務もあるし社員がいちいち偉ぶってくるのでストレスフルではあった。
 中途半端なことをするのも癪だけれど、朗二のためだしもうどうでもいい。そう思ってふと朗二を見ると嬉しそうに目がきらきらしていてびっくりした。さすがにらしくない姿過ぎて、人間働き詰めるとろくなことにはならないのだなと密かに引いた。
「うんっ! やった、じゃあ毎週さ、今日みたいにして会おうぜ。一緒に飯食お」
「はい食います。月曜ね。あれ、火曜は?」
「いや、お前……だから察せってっっ……毎週一日半は二人でいたいなっつってんのっっっ……」
「……は~……は~~い……」
 今度こそ呆れた風に首を傾げた朗二だったが(……マジ? それバイト始めるとき言えねえの……?)とは寸手で言わずに堪えられたこの口が偉かった。そっとひと撫でして、そそくさとテレビとクーラーのスイッチを切った。




<2>
 所謂、女性経験というのは生まれてこの方一度も無かったが、なにせ保育園の年長の時から朗二のことを恋愛対象として見てきただけに、性的な行為への好奇心は昔から人一倍強い方だった。
 だから、中学に入ってすぐAV鑑賞と唆してまんまと朗二の身体を触ることに成功したし、キスも射精も愛撫もその先も、自分とする限り嫌なことやいけないことではないのだということを少しずつ少しずつ既成事実を作りながら植え付けてきたつもりでもある。
 その甲斐あって強がっていても根は受動的で流されやすい性格の朗二には、我ながら上手いことしてこられたなと今も常に思っている。
 ただ、誰に唆されても困るので不用意に口にはしてこなかったが、適正で言ったら心配になるぐらいボトムの才能が朗二にはあるように思う。
 というのも、初めて二人でエッチな動画を見た時に、”どっちが気持ちいいと思うか”とわざと聞いてみたことがある。朗二はその時羞恥に目を伏せながらもはっきりと「されてる方がいいに決まってる」そう、真顔で答えた。
 その状態から「される快感」を覚えさせるのは想像していたよりとても簡単で、本人が思っていた通りの快楽だったかどうかはさておいてもトップとボトムの役割について不満や疑問を持たれたことは絶対に一度もないことには正直自信しかなかった。
「やばここ、キレーじゃん。高い? 金へいき?」
「まあ俺金持ちなんで。あと月末なんで」
 てかてかに光る安っぽい革張りのソファの背後にはやや幅広のセミダブルベッドが置いてあった。壁との距離は狭いので解放感はないが風呂は広そうだ。因みにリニューアルオープンしたばかりで小綺麗なだけで、別に部屋の料金は高くない。いつもは足が向かない範囲まで来たのでタクシー代がちょっと嵩んだぐらいだった。
 何はともあれまずは風呂だろう。そう思って財布とスマホをズボンから出して風呂場の電気をつけた。
 予想通り、洗い場と同じぐらい大きな浴槽が備わった広い風呂だった。これなら男二人で入っても全然余裕だろうし狭いと文句を零される心配もなさそう。安心して振り返ると、なんだか乗り気でない表情の朗二が珍しくどもった。
「うん……風呂先? どうせ汗かくじゃん……」
「ん? あらあら~? まさか待てないかんじ~?」
「……」
 想定外の言動で咄嗟におどけてしまったが、自分達が付き合いだしてからはおおよそ五年。おそらく男女のカップルに比べたら多いとは言えない身体の交わりで、照れも相俟ってか朗二は行為に対してはいつも淡泊だった。勿論、男同士だというだけでハードルが高いし、身体の負担が大きいのも分かるので決して文句など言えない。続けて何回もしたことだってあんまりないし、そもそも今まで朗二から積極的にしたいとは言われたことすらない気がする。
 なのに、久々の逢瀬だからか、はたまた密室に入って気が緩んだからか、仮にそうだったとしても朗二からセックスを急かすような言動は超超レアな一面であることには間違いない。
 無言でソファにかばんをぶん投げた朗二が不満げにぶつぶつと零しながら脱衣所に入る。
「……いやわりと、……ガチで……バイト嫌じゃないけど何かしらやっぱ疲れてるっつーか……酒飲ましてくれるかエッチするか、マジでどっちかはやくしてほしいんだけど……」
「えっなに、驚くほど限界過ぎん……?」
 若干震えている様にも見える手がシャツのボタンをはずしていくのを目で追いながらTシャツを脱ぎ捨てる。ここでセックスか風呂かと言われると当然、当たり前のようにセックスなのだが、果たして真に受けていいのかどうか迷うぐらいには自分にはまだ理性があった。我慢していたのはお互い様なのだし、煽るのも大概にしてほしいなと無駄に心頭滅却していると急に横から腕を引かれて顔を上げた。
「てか、こんなしたいの俺だけだったりする……? 恥ずかしいんだけど……」
「……え、…………」
 言葉通り、ほんのり赤く染まった顔にまっすぐ見つめられてかなりドキっとした。初めての時を彷彿とさせる不安げで切実な眼差しは、さっきまで余裕があったはずの理性の糸をぴんと張り詰めさせてくる。目線は外さないままため息を吐いた。
「もしかして煽ってる?」
「……べつに……」
 もとい、ストレス万歳。
 腰から抱き寄せてわざと昂ぶりを太ももに押し付けてやると過敏になっているらしい細い身体がびくっと震えた。言わなくても意図が伝わったみたいで安心する。
「……う……」
「上脱いだだけで興奮してんの? 風呂入れんのかしらそれ」
「は、いれない、だからもうしよって言ったんじゃん……」
「口あけて」
「ぁ……」
 ぱかっと開いた知能指数だだ下がりなだらしない口を塞いだらもう終わり。アダルトビデオ顔負けの深くて長い舐め合いは、どんなに危ないドラッグよりもキモチ良くキマって醒められない。自分が我慢できないだけなら理性も保てるのかもしれないが、朗二からがっつかれたら最早たまったもんじゃない。
 だってそれって、好きな人から自分が求められている、そういうことでしょ?
 自分達の求める愛とは決して美しも尊くもない、即ち様々な空虚と抑制の混ざり合う汚い欲求の塊なのだと思う。触れたい、優しくされたい、我慢しないで欲しがりたい、与えたい、喜ばれたい、求められたい、受け入れて欲しい。
 見ればこんなにどろどろに汚れている。自分の両手も、心も体も。でも、朗二だって清廉潔白かと言われたら多分そうじゃない。理解や欲を他人に求めるのはいっぱしに汚く狡く、だからこそ安心して汚し合える。綺麗じゃないから、求め合える。
「朗、ゴムあっち、ベッド行こ」
 キスだけでふらふらになるほど感じている様子の朗二を支えつつ、ガッチリ組み繋いだ手を引いてベッドに急ぐ。再び急いて口を交わしやっと前を緩く撫でつけると、大袈裟に跳ねた腰を押さえつけてゆっくり組み敷きながら浅く息を続ける朗二を見下ろした。
「……え、聞いていい? ストレス溜まったらこんなえろくなんのお前……」
「モラル……」
「こんなろーくんハジメテなんだもん」
「全然会ってくれなかったじゃん。てか……今までストレスって、どうやって発散してたっけなおれ……」
「さあ。好きなもん食うぐらいしか思いつかない。腰あげて」
 言いながらズボンと下着に手をかけ引っ張った瞬間、朗二の足がびくっと閉じた。間に挟まれて身動きが取れず困惑して朗二を見ると、みるみるうちに耳から首まで真っ赤になりながら両手で顔を覆ってしまった。
「え、なに……」
「……待って俺……中にローション仕込んで……」
「は……!?」
「っ……やばこれ、見られんのはずかし、ちが、だ、だってさ、すぐしたかっ……」
「?????? ん? え? つまりびっちゃびちゃってことです???????」
「い、や、……ち、ちがうっバカァっ……」
「マジか~~。違わねーだろ、足開け。どっちにしろ脱がなきゃなんも出来ねえし」
「マジで恥ずかしい、……最悪……」
 顔は覆ったままに朗二の足から力が抜けていくのが分かった。手早くズボンをひっぺがして先走りが染みた下着をわざとゆっくり剥がすと、素肌との間には透明な糸が細く引き、しばらく凝視してしまうほどにはどエロかった。
「……仕込むって、中に入れたのこれ、どこ知識だ……」
「っし、……しにたい、やばすぎ」
「やばすぎだなあ。見て、前も後ろもびしゃびしゃ」
「う、や、フツーにしろって……! きもい言い方萎えるからっ……」
「だってホントなんだもん。無理だわ。ゴムつけます」
 いつもなら、受け入れる側の朗二に負担がかかるのを懸念して九割の時間を前戯に割いていて、セックス=前戯みたいなところがあったのだけれど、思わぬ据え膳を食らわないわけにはいかない。そもそも朗二の口からすぐしたいなんて言葉、もう一生聞けないかもしれないわけで。
「……朗くん、君の仕込みローションとかいうやばい行いで俺百回イケそう。責任とれますね」
「っ、あ……さく、……さくや……」
「ストレス極悪じゃない? 何キャラ……?」
「っいいいいいからはよいれろっつのっ……! 人に遣われるって思ったよりタイヘンだったのっ……! どっちかっつうと嫌だけど、やっぱ金は欲しいじゃんっ!」
「それ今言うこと?」
「き、……アッ……ぃてくれ、なかったから……今、ぐち、ってんのっ……」
「ん~、やっぱ朗はへんだよなあ」
 スウェットと下着を腿まで下げて、中から溢れるローションでべったり濡れた入口に慎重に押し込んでいくと、締め付けの緩急にもっていかれて何度か軽く零したがほとぼりの醒める気配は微塵もない。百回あるな、と異物の侵入に身体を震わせ耐える朗二の前をそうっと握って緩く扱いてやると喉の奥から堪えきれない甘やかな喘ぎがもれてくる。
「あ、あ、ぅ、前だめっ、さく、さくやあ、奥がびりびりするから、いく、まっ……イ、」
 一説によると、絶頂時のアナルの締め付けはアルミ缶を簡単にへこませられるほど強い力なのだとか。
「っイーーっ……! タ、ぐう、ちんちんもげますろーくんっ、力抜いてっよしよしっ」
「う、あう、はあ、やめろ、ざけんなっ」
「すまん。でも朗、いたくなかったらあとちょっと我慢して」
「いやすげー醒めた、ごめ、ぬいて……」
 ただでさえ急所なのにいきなり負荷をかけられたら普通なら思わず腰が引けてしまう場面だ。
 正直背中がぞぞっとするほど我に返ったが、なんとか堪えて動かずにいたのを褒められたい。もちろん、抜けと言うので従うけれどぜんぜんまだいける。
「えろかった~でも秒殺だったな~たまってましたかね~」
「ないな。昨日したもん」
「元気じゃん! 俺まだしたいんですけどお……」
「いれんのはもうやだ。風呂入ってからなら口でしてもいい」
「オイてめー!! 何露骨にきたねえって顔してんだよ!!!!」
「えーしてねーけどーー。でもちょっとヤ~。つかしっかり出してんじゃん。ゴムとっていい?」
 元気ではあるが甘くばかり達しているので少し敏感だ。無造作に伸びてきた細い指が雑に触れてくるので思わず手首を掴んで牽制する。
「はいやめてね、デリケートだから今」
「……だってバキバキのまま風呂行くの?」
 言いながら、問答無用で白濁まみれのコンドームをずるずると剝がされ充血した昂ぶりをあらわにされるとそれはそれで変に期待してしまう。黙って生唾をのんだ次の瞬間外気に触れて過敏になった先をぱくっと食まれてのけぞった。
「あっ、ばっかやめやめっ! さわ、くちっ……風呂ォっっ! ヤンナイってうそじゃんっウっ……」
「は……きたね。でもなんか無駄にハイトクゥ」
「す、……ぁ、ろうっ……」
「ン……ぇッ……う、ふ……」
「おまっ、えぐすぎっ、ァまってまっ、て、きもち、ぃっ……!」
「うっ……ぐ、」
 完全に油断していたのに喉まで深く咥え込まれながらえづかれて、あっという間に星が飛ぶほどの強烈な快感だった。多分十秒もなかった。脳が痺れてくらくらする。急に気持ちよくなりすぎたからか咽び泣きたいような感覚に陥り、情緒が激しく乱れていることに動揺する。
「はあっ、っ……やば……ヤクギレって感じ…………」
「いえーい、ちょっと達成感。てか鼻の奥はいったあ、痛え……」
「最悪じゃん……ろうちょっと寝よ……ボクは病みました」
「えー???」
 心も体も鉛のように重たくなって、なんだか地獄の底にいるみたいな気分だった。与えるのも与えられるのも愛は加減が難しい。朗二の腕を掴んだままごろんとベッドに横になると、足の指先がひやっとした。ちらっと見るとついさっき朗二が外してくれたコンドームだった。口を縛っていなかったようで中身がシーツに零れている。嫌悪感は勿論あるが、片付ける気力などない。ひとまず知らん顔で足をずらして共存することに決めた。
「……」
「えーいきなり超賢者じゃん。なんで病んだ?」
「……賢者モードに理由などない……君は優しくよしよししなさい……」
「あ~めんどくせ~~なも~~よ~しよしよしよ~~し。ったくさくはほんっといつまで経っても軟弱だよな」
 どさっと真横に横たわった朗二に頭を乱雑に撫でられると、ちょっとだけ気持ちが温まる。そのまま半裸でぼーっとしていると、下着を拾って履いた朗二がさっさとかけ布団をかぶせてくる。
「バイトで疲れてメンタルがたがたなんじゃないの。別に稼ぎたくもないくせにさ」
「……だって朗二いないと暇なんだもん」
「ふーん。じゃ、引っ越しのバイトやめたらまたなんかやんの?」
「んー……まだやめてねーしなんも考えてないっす」
 煩悩に夢中で気が付かなかったが、室内はかなり空調が効いていたようで布団にくるまっていても少し寒いぐらいだった。せっかくホテルまで来たというのに、風呂もまだだしセックスも半端。でも今日はもうこれ以上情緒が乱れるのは嫌だ。なんにもしたくない。それを察してかつべこべ言わずに大人しく横になった朗二の身体を抱き寄せる。いつもより濃い皮脂の匂い。触れている肌はやっぱりぺたぺたした。嫌な気分は微塵もしないが、朗二にとってはどうか知らんなとゆっくり目を瞑る。
「……てかおれくさくね……。やっぱ風呂は入ろっかなあ……」
「じゃあさ、駅前の喫茶店いけよ」
「……バイト?」
「うん。けっこうなじーさんがやっててさ。珈琲美味いの」
「募集してんのかよ」
「週に二日からって貼り紙してあった」
「ふーん……」
 突然言われても正直可もなく不可もない。大学生のバイトなんてそんなものだ。やれと言われたことをこなすぐらい誰にでもできることだろうしよっぽどブラックでない限り、何をやったって一緒。それに自分には朗二のようにバイトをする目的も目標もないから尚更。
「俺、さくが淹れた珈琲飲みたい」
「……たかがバイトに店の看板背負わせてくんのその店……」
「提供はさせてもらえなくても道具借りて練習すりゃいいじゃん! よくない? そしたら俺の店でバリスタとして雇ってやるよ」
「ええ~……」
「俺二十六には独立するぜ! どうせやりたいことないんだから、見つかるまで俺と一緒に店やったらいいじゃん」
「……珈琲別に好きじゃねーんだけど」
「ふん。嫌いでもないくせに。でもバイト先は決まりな! 土日、バイト前に寄るから」
「ま~、……受かればね」
 こんな時、例え嘘でも夢なり目標なりを適当にすら言葉に出来ないほど自分は空っぽだった。それなのに、朗二のちゃんとした将来に組み込んでもらえたのが嬉しい反面、少しだけ情けないなと思えて気のない返事をしてしまった。
 明日もその先も、今日と同じ平穏が当たり前に訪れるのだとはどうしても信じられないのは何故なのだろう。今がこれほど幸せであることが不安で仕方ないのは自分にしかない感覚なのかなと思うと、なんだか寂しかった。意地を張って素直になれない相性。以心伝心なんて出来るわけないのに、言わなくても分かって欲しいといつも欲張ってしまう。
 長い間家族よりも近い距離感でいたせいで、気持ちを伝えるのが気恥ずかしい感覚はよく分かる。でも、朗二の在り方は多分、これからもっともっと歳を重ねていっても変わることはないのだと思う。
 勿論、それでいいと心から思う。だからこそ自分もずっと”変わらない”でいようと楽に思えるのだから。
「…………ろーくん、リピートアフターミー。”あいしてる”」
「あ? ノーサンキュー」
「たまにはおっしゃい。俺が元気になるんだから」
「俺は態度で示す人間なの。愛してないやつのきたねえチンコは咥えねーんだよ」
「はしたないうえに言葉も汚いのやばくねえ??」
「ヨすぎて情緒不安定になったやつに何も言う権利ない。ホルモンバランス大丈夫か?????」
「いやいや、ほんと、俺じゃなかったらそのやべー語彙とっくに愛想尽かされてるからね君」
「……」
「……あ、……えー……? 地雷わかんねー……」
 急に黙るので言い過ぎたのかとたじろぐと、朗二は横向きのまま真顔でこちらをじいっと見つめた。
「お前なんも分かってないよね」
「はーい……」
「朔夜にしかできないだろこんな態度。最低の素顔だっての」
「え?」
「これが俺の素ではあるよ。でも、世界中で朔夜にしか許してもらえない顔でもある。そんなの分かってんだよ」
 思わずはっとするほど純粋なその眼差しが痛いほどまっすぐで、本心かどうかなど疑う余地もなかった。目を逸らせないまま黙っていると、朗二はふっと微笑んで睫毛を伏せた。
「愛も好きも俺は簡単に言いいたくないけどさ、……それでも朔夜は分かるでしょ」
「…………」
 あの日ガレージで見た父親同士の口づけは、幼心にもとても刺激的で同時に官能的でもあった。確かに羨ましかったし、自分に与えられないものを貪る父の姿が妬ましいとも思った。
 でも、心の片隅で、それ以上の歓喜の興奮があったことは生涯忘れ得ないであろう強い感覚だった。
 それまで、朗二のことをいくら好いても自分と同じ男の子なのだから恋愛的に結ばれることは許されないのだと勝手に思い込んでいた。仲が良いより先に進めない隔たりがたかが性別のせいであるのが憎たらしくてたまらなかった。
 けれど、そうじゃないのだと、例え男の子同士であろうとも互いに絆し求め合えたら、性別も年齢も家族も未来も関係なく愛し合うことだって不可能じゃないのだと思えたら今まで押し殺してきた朗二への全ての感情に価値がついたような気がして震えるほど嬉しかった。
 あの瞬間から、この世界には朗二より大事なものなど存在しなくなった。
 好かれなくても嫌われても、一緒にいることが、或いはいられないことが不幸だと泣いて暮れる人生だったとしても、朗二が自分を忘れない限りこの愛は尽きもせず、終わりもしない。
 永遠に朗二の中に巣食っていく。それが何よりの、自分の最高の生き方なのだと信じているから。
「……分かるわけねーだろ。ほんと傍若無人っつーかなんつーか……」
「寧ろお前の方が大変なんだぜ。俺みたいな性格悪いやつに惚れ込んでさあ。苦労するよ」
「あっはは! 間違いない。お前もそんな風に自分のこと思うんだ。なるほどね~」
「俺はクソがつくほど陰キャなの。……一緒にいて不幸になってもしらねーよ」
「ふん、不幸上等。言っとくけど、俺は一生、死んでも朗のこと離さないから」
「……ふふ……うん」
 微かに頷いたのに驚いて顔を覗くと、眠たそうに数回ゆっくりと瞬きをした朗二は急にぴたっとまぶたを閉じた。
「え……寝た……」
「……ゥ、……ふ……」
「…………べりー……赤ちゃん……」
 結局朗二も体力的には限界だったということだろう。もうだいぶ遠のいた漠然とした不安をまだ少し引きずりながら寝顔をみつめていたが、労働とセックスの疲労感でさすがに眠たくなってきた。枕元を探って室内灯のスイッチに手を伸ばし押し込んだはいいけれど、何から何まで全部の光源が消えアホほど真っ暗になった。可笑しくなって一人で笑っていると、もそもそと身じろいだ朗二がウルサイと小声でぼやいた。


 翌朝、午前七時ぴったりに切り忘れたアラームが爆音で鳴った。
 起きる必要ないのにアラーム鳴らしてんじゃねえと朗二には散々キレられたが、バイト先に休みの連絡を入れなくてはならなかったので結果的に助かった。いい職場では決してないが寝坊で当日無断欠勤はさすがに気が引ける。
 今はようやく二人で湯舟に浸かってゆっくりと身体を覚醒させている最中。浴槽が大きいので互いに向かい合って足を延ばしてもまだ余裕がある。広い風呂は平和の象徴だなとしみじみ思う。
「さくー、今日このまま駅前の喫茶店行ってみようぜ」
 顎まで沈んで微睡んでいた朗二が思い立ったようにそう言ってこちらを見つめてきた。濡れた黒髪が艶っぽいなとぼんやり思う。結局昨日は互いに一回ずつしか射精出来ていないし、リベンジするなら今しかないとは思っている。
「いいけど、決めるかどうかはまた別の話っすよ」
「珈琲飲みたい。この前ナポリタン食ったけど、たまごサンド食ってみたい」
「ふむ。ブランチかね」
「さくも飲んだら好きになる。これ予言」
「こわ。惚れ薬でも入ってんのかしら」
 何気ないふりでお湯をかいて朗二の細腕を掴んで引っ張ると、特に抵抗もせずにすんなりと抱かれにくる。ワンチャンあるなと期待して耳元に鼻を押し付けた。
「……あれ、朝からイイ感じっすか?」
 返事の代わりにちゃぷ、と波立つ水音が響いたあと、朗二はあっけらかんと首を横に振った。
「お前病むからやだね」
「えっ」
「そのせいで一回しかしてないし昨日。メンタル強化しろ」
「ええっ、お言葉ですがいれんのやだやだ侍誰でしたっけ?」
「はああ?? てめーは突っ込むだけだからいいかもしんないけど、俺ケツにチンコ突っ込まれてんだぞ???? 変な筋肉めっちゃ使って死ぬほど疲れんだけど???? てかそれ、いれなきゃセックスじゃないって言ってんの?????」
「あああー違います違いますっ、ごめんなさい、すいませんっ、ゆる~くイチャイチャしてもいいですかって聞きたかっただけなのっ」
「しねーーし、ほんっとデリカシーなくて腹立つ、一人でマスかいとけメンヘラ」
 売り言葉に買い言葉は良くない良くないと思っていても所詮は癖。慌てて下手に出たが、時すでに遅しだった。
 こうして、貴重なシチュエーションであった会えない時間が育てたはずの愛は何処、結局相性は極悪から進展しないままぷりぷりしながら罵詈雑言を残して風呂場を去った朗二の残像にがっくりと肩を落としたのだった。










「あ、あそこあそこ。純喫茶って感じでよくね?」
「いやおまえ、まさかと思ってたけど店名な……! 狙っただろ」
「だはは、うけるっいーじゃん、下手したら乗っ取れそうじゃね?」
「アホか」
「なんで~~。同じしまだのよしみじゃないの~~」
「却下」



>>>しまだ珈琲店(終)

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