5-1 歪んだ記憶の中で

 その夜、私はベッドに横たわりながら、静かに窓の外に浮かぶ月を見上げていた。夜風がカーテンを優しく揺らし、空気がひんやりと肌に触れる。いつもなら、帰宅してすぐに疲れ果てて眠りに落ちるところだったはずなのに、今夜はどうしても眠れなかった。黄昏学園の掲示板を何気なく覗いてから、私の目はすっかり冴えてしまっていた。

 その掲示板には、心に重くのしかかるような依頼が投稿されていた。


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【依頼】
依頼人:榎本 宗一

掲題の通りだ。行方不明の孫娘を探してほしい。
二週間前に孫が世話になっていた友人宅の保護者から連絡があり、
孫は箱猫市外の母親の家に行ったと連絡を受けた。

しかし電話で母親に確認したところ、その日の夕方に娘は箱猫市に帰したとのことだった。
それきり孫娘の行方がわからなくなっている。

警察に相談しても、孫娘なら家にいるだろうと認知症のジジイ扱いだ。
言いたいことはわかる。私も何故こんな事になっているのかはわからない。
だが孫娘の所属していた解決部の方々なら何かわかるだろうと、こうして依頼した次第だ。

どうか私の孫娘、沙霧を見つけ出してほしい。
私はもう二度と自分の身内を失いたくなどない。
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 その投稿を見た瞬間、胸の奥にあった違和感が急に鮮明になった。まるで、ずっと目をそらしてきた事実を無理やり目の前に突きつけられたような感覚だ。

「そういえば……榎本先輩を解決部の掲示板で見かけなくなって、随分経つような……」

 その疑問が胸に浮かび、私は身を起こした。黄昏学園に通う日々の中で、榎本先輩の姿が見えなくなっていたことに気づくまでに、どれほどの時間が過ぎたのだろう。あまりにも忙しく、日常に埋没していた私は、それにすら気づかなかった。ベッドの上でスマホを手に取り、塞翁先輩へのDMを開くと、無意識に指が動いた。


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【DM】
To:塞翁小虎
From:世成鳳子

夜分遅くにすみません。榎本展でお預けしたドーナツって、榎本先輩にお渡ししていただけましたか?
それと、ここ最近榎本先輩を、解決部の掲示板上や、学校でも見かけていない気がして……。
榎本先輩のこと、私も捜索したいので、差し支えなければ分かる範囲で何が起きているのか教えていただけますでしょうか。
ご無理であれば、このDMは無視してくれて構いません。よろしくお願いいたします。
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 メッセージを送信した直後、私は慌てて時間を確認した。午前一時過ぎ――なんて非常識な時間に送ってしまったのだろう。取り消せないメッセージに、後悔と焦燥が混ざり合い、どうしようもない自責の念が私を押し潰す。布団に顔を埋め、心臓の鼓動が耳元で響く。息を整えようとするが、どうしても心のざわつきが収まらない。

 すると、暫く間を置いて塞翁先輩からDMが届いた。まさかこんな時間に起きてるなんて、と私は思いつつもそのメッセージの内容を確認した。


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【DM】
To:世成 鳳子
From:塞翁 小虎

 いえいえ!なんだかおれも眠れてなかったので、時間帯のことは気にしないでください。

 それで、お預かりしたドーナツなんですけど、黄昏祭で榎本さんと会えなくて……。結局ドーナツはおれの家に持ち帰ってしまいました。すみません……。

 あの、分かる範囲で榎本さんのことを教えてほしいとのことなので、おれが言っても差し支えのない範囲で、榎本さんのことお話しますね。

 まず、榎本さんは約半年前から家を出て、オダネネの家に居候してました。そして榎本さんは、先日の終末迷宮を最後に、解決部を退部されました。……いろんな要因があって、今、榎本さんの存在が消えかかっていて。それで、オダネネは榎本さんの存在証明のために、いつまでもここにいちゃいけないって、同時に家出をしたんです。オダネネは今、おれの家に居候してるんですが、榎本さんがどこにいるのかは分かりません。LINEをしても、返事がなくて……。

 おれの方でも榎本さんを探しています。世成さんも榎本さんを探してくださるとのこと、すごく心強いです。ありがとう。
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「解決部を退部……? 消えかかってるって何……? 存在証明って……?」

 自分の知らない情報が一斉に目に飛び込んできて、思考が止まる。もっと詳しく聞きたかったが、塞翁先輩も榎本先輩のことでいっぱいで、無知な私に全てを教えることなんて無理だろう。私はお礼のメッセージだけを送信して、やがてスマホの画面を閉じた。

 榎本先輩が失踪したという現実が、私の心に突き刺さる。まるで冷たい針が胸に打ち込まれたかのように、痛みが広がっていく。榎本先輩とは、それほど深い関係ではなかった。それでも、彼女の存在は、解決部にとって、いや、私にとっても欠かせないものだった。彼女は、私が生まれつき持ち合わせていなかった「正しさ」を具現化した存在だったからだ。

「榎本先輩……」

 ゆっくりと目を閉じ、彼女の顔を思い浮かべようとする。しかし、脳裏に浮かぶのは、ぼんやりとした黒いシルエットで、まるでノイズがかかった映像のように歪んでいた。服装は、学生服ではなく、もっと堅いフォーマルなコートを身に着けていたような気がする。髪の色も、紫か青か曖昧で、はっきりとは思い出せない。さらに、ほっぺたには何かバーコードのような奇妙な落書きがあったような気がする。

 何度思い返しても、彼女の姿を完全に視覚化することはできなかった。それでも、断片的に少しずつ鮮明になりつつある気がする。かつて榎本先輩は、私の視界の中で歪んだ一部に過ぎなかったのに、今は少しずつその輪郭が浮かび上がってきているのだ。

「そうだ、学生裁判の時に――」

 私ははっとして、慌ててスクールバッグをひっくり返し、日記帳を探し出した。そして数か月前のページまで遡り、目的のページに辿り着くと、そこで手がぴたりと止まった。そこには、私が初めて榎本先輩と言葉を交わした時のことが記されていた。

 ヒトガタカイリの掲示板で、匿名で投稿された人物の目的や正体を暴くための学生裁判――その為に、榎本先輩は私に「弁護する」と声をかけてくれた。当時、私にとって解決部はただのボランティア団体のようにしか思えていなかったし、今の私の胸に燃え滾るような情熱は一切無かった。匿名で私にヘイトが向けられても特に気にすることもなく、すべてどうでもいいと感じていた。

 それでも、榎本先輩は私を弁護すると言ってくれたのだ。その言葉を今でも鮮明に思い出す。日記の文字を指でなぞりながら、彼女が私に向けてくれた温かい言葉が、まるでその瞬間に戻ったかのように胸に響く。

 ――世成君、私はオカルトには詳しくないが天才だ。

 彼女の声が、まるで今でも耳元で聞こえてくるかのように、私の中で蘇る。

 ――だから今回の件とは関係なくとも、私は君の力になる事ができる。今後記憶を取り戻すのにオカルト以外の力が必要になってくる事もあるだろう。

 ――そうでしょうか?

 その時、私はまだ彼女を完璧には信じ切れていなかった。その疑いが胸に刺さり、いまだにその記憶を思い返すたびに、胸が痛む。

 ――もし君がその違和感を解消するのに他者の助けが必要だと感じたら、その時は遠慮なく私を頼ってくれ。何せ私は名探偵だからな。

 その言葉の綴りをなぞり、私はふと笑顔を浮かべた。

「名探偵、ですか」

 彼女は確かにそう言った。だからこそ、今の私には貴方が必要だ。記憶を取り戻すために、この胸に刺さった違和感を解消するために。私は再びスマホを手に取り、画面を点灯させた。塞翁先輩へのDMを開き、指が自然と動く。

「榎本先輩のLINEを教えてもらおう……」

 こんなやり方は卑怯かもしれない。ずるい人間だと思われるかもしれない。もしかしたら、榎本先輩の心をさらに追い詰めてしまうかもしれない。それでも、貴方はいつだって正しい。だから、悪い手段しか選べない私を、どうか貴方が罰してほしい。
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