5-2 歪んだ世界の中で

 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、薄明るい部屋を照らしている。外では小鳥たちがさえずり、静かな朝の訪れを告げているはずなのに、私の胸は不穏な感情でいっぱいだった。ベッドの上に座り、私はスマホを見つめていた。昨日、掲示板で依頼を見た後からずっと頭の中を巡っていた考えが、ついに行動に移る瞬間を迎えていた。

私は塞翁先輩から榎本先輩のLINEアカウントを教えてもらい、メッセージを送ることを決心していた。躊躇いがないと言えば嘘になる。指が震えるのを感じながら、ゆっくりと文字を打ち込んでいく。

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【LINE】  
To:榎本先輩  
From:世成鳳子  

榎本先輩へ。2Beの世成と申します。  
学生裁判の時は大変お世話になりました。  
こちらのアカウントは、私が塞翁先輩に無理を言って教えてもらったものです。もしも不快な思いをさせてしまったのなら、どうか私を叱責して下さい。

さて、今回LINEを送らせて頂いた目的は、名探偵である榎本先輩に、私から個人的にご依頼したいことがあったからです。報酬はもちろんお支払いします。お望みであれば、ドーナツもご用意いたします。

以前、学生裁判の際に「記憶を取り戻したい時は力を貸してくれる」と話してくれたことを覚えていますか? 私は結局、今も記憶を取り戻せず、心にある違和感を解消できないままでいます。

私の知る全ての情報を開示しますので、どうか私の記憶を、私の友達を見つけて下さいませんか?

これはきっと榎本先輩にしか解決できないと思っています。どうか、よろしくお願いいたします。
  
(添付ファイル①)  
(添付ファイル②)  
(添付ファイ......  
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 メッセージを送信した瞬間、胸の奥で何かが押しつぶされるような感覚が広がる。榎本先輩に何が起きたのか、私は詳しくは知らない。けれど、彼女の誠実さと真面目さを思えば、きっと過去の約束を守ってくれるはずだ。私はその善意に付け込み、無理に彼女を誘い出そうとしている。

「っ…………!」

 悪いことをしている――そう実感した瞬間、まるで肺が水で満たされたかのように息苦しさが押し寄せ、呼吸が詰まる。今の私は正しくない。ただの「悪い子」だ。否定された存在。生きることすら許されていない。湧き上がる負の感情に飲み込まれ、スマホを握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。

 そんな時、不意に部屋のドアがノックされた。登校の時間になっても部屋から出てこない私を、鳳仙先生が呼びに来たのだろう。扉の向こうから名前を呼ばれるが、私は返事をする余裕がなく、ただ縮こまっていた。やがて扉が静かに開き、視界に映ったのは鳳仙先生の足元だった。その足が私の方へ駆け寄ってきて、そっと私を抱きかかえるように支えてくれた。

「どうした? 具合が悪いのか?」

 鳳仙先生の声は優しく、温かさが私の肩に伝わってくる。それでも私は、弱々しく首を振った。

「……ううん、苦しくて……お薬をちょうだい。学園には行きたいから……」

 心の安定を保つ薬を求め、私は全身を鳳仙先生に預けた。それでも、スマホだけはしっかりと握りしめたままだ。榎本先輩を見つけるまでは、私自身の記憶を断ち切るわけにはいかない。日記や解決部の掲示板に、記憶の足跡を少しでも多く残しておかなければならないのだ。



 私が体調を戻し、黄昏学園に登校できたのは昼過ぎだった。鳳仙先生は最後まで心配してくれていたが、今の私には立ち止まっている時間なんてない。何より、今すぐに確かめるべきことがある。私は一ノ瀬先輩へ会うために、生徒会室へと急いだ。もしかしたら、彼女は自分のクラスで過ごしているかもしれない。でも、私が最後に彼女を見た場所が生徒会室だったせいか、無意識に足はそちらへ向かっていた。

 生徒会室の前に着くと、そこには一枚の張り紙があった。いつの間にか行われていた生徒会選挙の結果を示すものだ。そもそも一ノ瀬先輩が生徒会長であることすら知らなかった私は、生徒会選挙には全く興味がなかった。それが、この瞬間までは。

――黄昏学園次期生徒会長を『中学部1年 一ノ瀬濫觴』に命ず。

「……え?」

 私は何度も張り紙に目を凝らし、文字を読み違えていないか確認した。けれど、その一言しか出てこなかった。

 一ノ瀬先輩は高等部3年D組のはずだ。文化祭で直接、彼女と言葉を交わしたくて確認は何度もしていた。では、この「一ノ瀬濫觴」という人物は、同姓同名の別人なのだろうか? ……いや、ここで立ち止まって考えても仕方がない。この扉を開ければ、きっと一ノ瀬先輩がいる。そして、疑問に答えてくれるはずだ。そう自分に言い聞かせ、私は勢いよく生徒会室の扉を開けた。

「……誰も、いない」

 薄暗く静まり返った生徒会室に、ぽつりと呟く。そこは清掃が行き届いた無人の空間だった。肩の力が抜け、その場に崩れ落ちた。不安が頭の中を支配し、心がかき乱される。自分が自分でなくなるような感覚に襲われ、意識が遠のいていく。その時、午後の授業の開始を告げる鐘の音で現実に引き戻された。

「もしかしたら、自分の教室にいるのかも……!」

 ふらつきながら立ち上がり、私は3年D組へと向かった。授業が始まる時間なのだから、生徒は皆教室にいるはず――そう自分に言い聞かせ、足を速めた。しかし心は不安でいっぱいだった。高等部の校舎へと走り、教室の看板を確認しながら3年D組を目指す。途中、通り過ぎる教室の中から教師が怒鳴った。

「こら! 廊下を走るな! 授業中だぞ!」

 けれど、その声も耳には入らなかった。やがて目に飛び込んできた「3年D組」の看板。その教室の扉を勢いよく開け、私は声を上げた。

「一ノ瀬先輩!!」

 教室中に響いた私の声で、授業は中断され、生徒たちが一斉にこちらを見た。しかし、教室内に一ノ瀬先輩の姿はなかった。

 ――ねちゃねちゃ、ぐねぐね。

 教壇の近くにいた芋虫が、不気味で耳障りな音を立てながら私に近づいてくる。何を言っているのかは分からない。ただ、その姿は悍ましく、見るだけで気分が悪くなる。そう思った瞬間、私は気づいた。この教室の椅子に並んでいるそれらが、じっとこちらを見ている。粘着質な音を立てながら蠢くその姿は、まるで波打つように動き、その醜さに思わず眩暈がした。私は恐怖に駆られ、逃げ出すようにして教室から立ち去った。

「一ノ瀬先輩がいない……」

 もしかしたら、解決部の待合室にいるのかもしれない。何か緊急の依頼があって、対処に追われているのかもしれない。私は授業中で静まり返る校舎を駆け抜けた。

 やがて、待合室に辿り着いた。そこはいつも通り、狭く雑然とした空間だった。管理する人がいないため、物が乱雑に放置されている。中央の机には「ご自由にどうぞ」と書かれた置手紙と共に、空の菓子箱があった。中には、もともと何かしらのお菓子が入っていたのだろうが、既に誰かに食べられてしまっていた。

 私はその空き箱を手に取ると、視界がじんわりと滲んでいった。この部屋にも、一ノ瀬先輩の姿はなかった。空っぽの菓子箱が、今の私の心そのもののようで、惨めさが込み上げてきた。膝が崩れ、私はその場に泣き崩れた。

「解決部は、私の大切な居場所だったのに……」

 解決部は、私にとってかけがえのない居場所だった。私が信じる正義があり、憧れがあり、唯一、私の正しさを保証してくれる場所だった。それなのに、その正義を教えてくれた榎本先輩も、その解決部を率いていた一ノ瀬先輩も、いつの間にか姿を消してしまった。その事実は、まるで解決部そのものが跡形もなく消え去ってしまったかのように、私の心に虚しさを残した。瞬間、走馬灯のように、今まで奪われたものや手離したもの、諦めてきた全てが脳裏に蘇った。

「奪わないで……! これ以上、私から何も奪わないで……!」

 声を上げて泣き叫んでいた。喉が痛くなるほど泣き続けたのは、これが初めてだったかもしれない。やがて埃だらけの床に倒れ込んだ。涙が止まらず、息を吸うたびに埃が喉に入って咳き込む。それでも、泣くのをやめられなかった。その時。

「おい、大丈夫か!?」

 突然、男性の声が耳に飛び込んできた。次の瞬間、暖かい手が私の肩と背中に触れる。その温もりに、混乱した視界の中でようやくその人物の姿を確認する。黒いノイズのように歪んで見えたが、悍ましい芋虫ではないと分かった。彼は、確か……解決部の顧問の先生……。

「柴崎……先生……?」

 私はかすれた声で呟いた。柴崎先生は私に何か質問をしていたが、その言葉は耳に入らず、曖昧な返事しかできなかった。やがて、彼は私をしっかりと抱き上げ、そのままどこかへと走り出した。走る方向をぼんやりと感じながら、これはきっと保健室へ向かっているのだと理解した。安心感が胸を満たし、私はそっと意識を手放した。



 次に目を覚ました時、私の視界に映ったのは、見慣れた保健室の天井だった。ぼんやりとした頭で周囲を見回すと、カーテンの隙間から柴崎先生の姿が見えた。部屋の薄暗い光と静けさが、少しだけ私を現実に引き戻す。

「柴崎先生……」

 私はまだ少し重たい体を起こし、かすれた声で彼に呼びかけた。すると、柴崎先生はすぐにこちらに気付き、私の方へゆっくりと歩いてきた。カーテンを静かに開け、私の顔を覗き込むように確認する。

「もう体調は大丈夫か? 一応、保護者には連絡を入れてある。今、迎えに来てもらってるからな」

 柴崎先生の言葉に、私はわずかに安堵した。本当は今すぐにでも、この黄昏学園から消えてしまいたい。私が当たり前だと思っていた世界は、すべて音を立てて崩れ落ちていった。その絶望が喉を締めつけ、息をするのも苦しく感じる。胸の奥に重くのしかかる不安が、私を動けなくしていた。

「ところで、どうして解決部の待合室にいたんだ? オレがたまたま授業の空きコマで校内を巡回してたから気付けたけどさ……」

 その問いかけには、私を気遣う優しさが滲んでいた。だが、柴崎先生のその声を聞いた瞬間、私はハッと気づいた。混乱し、歪み始めた私の視界の中でも、柴崎先生だけは微かに「正常」だった。彼の姿が、まだ私の中で「解決部」が完全に崩壊していないことを示しているかのようだった。

 私は思わず彼の袖を掴み、震える声で問いかけた。

「柴崎先生……あの……一ノ瀬先輩は、どこにいますか……!?」

 焦燥感に駆られた私は、言葉を詰まらせながらも必死に訴えた。すると、柴崎先生は少しだけ沈黙した。その沈黙が、私の中の不安をますます膨らませる。気づけば、私は彼の袖をさらに強く握りしめていた。

「……一ノ瀬が、どうかしたのか?」

 柴崎先生の静かな声が、私の耳に響いた。私は必死で言葉を紡ぎ出す。

「い、いないんです、よ……! 生徒会室にも、3年D組にも、解決部の待合室にも……どこにも見当たらないんです! ……一ノ瀬先輩が……どこにも……どこにもいない!!!」

 涙が止めどなく溢れ、私は言葉を詰まらせながら訴え続けた。胸の中で膨らんだ不安と恐怖に押しつぶされそうになり、前のめりになっていた私を、柴崎先生がそっと支えた。息が乱れ、もう何も言葉にできない。ただ、胸の奥に抱えた不安と焦燥が溢れ出しそうだった。

「……それこそ、解決部としてお前が解決すべき謎なんじゃないか?」

 その一言が、私の心に突き刺さった。

「私が……解決すべき謎……」

 その言葉が心に響き、私は無意識にその言葉を復唱していた。一瞬、柴崎先生の顔がはっきりと見えたような気がしたが、それはほんの一瞬のこと。すぐに視界が歪み、彼の姿は再びノイズのようにぼやけた人影へと戻った。

 その時、保健室の扉が静かに開き、「世成鳳子を迎えに来ました」という声が響いた。そちらに視線を向けると、そこに立っていたのは鳳仙先生だった。

 歪んだ世界の中で、唯一正常に見える存在――安心を与えてくれる私の先生。鳳仙先生の姿を確認すると、私は抑えきれずにベッドから飛び降り、彼の胸元へ飛び込んだ。心臓が激しく鼓動し、喉の奥から溢れる感情を抑えられなかった。

「先生、助けて……今すぐお家に帰りたい……! ここは怖い……怖くて……私が消えてしまいそうなの……! 先生……先生……!」

 私は、嗚咽をこらえきれず、震えながら鳳仙先生に懇願した。声がかすれて言葉が上手く出てこない。世界がどんどん崩れていくようで、足元がぐらつく。自分という存在すらも、この歪んだ世界の中で消えてしまうのではないかという恐怖が心を支配していた。

 鳳仙先生は黙って、私の震える肩をそっと抱きしめてくれた。その腕の温もりは、驚くほどに熱く、まるで体が火傷してしまいそうなくらいだった。それでも、その温もりだけが、私を現実に繋ぎ止めてくれる唯一のもので、私はその腕の中に縋るしかなかった。

 不安に押しつぶされそうな心が、少しずつ先生の温もりに溶かされていく。鳳仙先生の静かな鼓動が、私の中の嵐を少しだけ和らげてくれた気がした。だけど、胸の奥にある恐怖はまだ完全に消えていない。それでも、今はただこの瞬間だけは、彼の存在に救われている気がした。

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