2-3 閃光と凛華の夜

 隅田橋の上には、花火を見るために集まった大勢の人々がひしめき合っていた。夜空に次々と打ち上げられる火の花が、まるで絵画のように広がり、群衆は誰もがその美しさに魅了され、歓声を上げていた。花火が空で開くたびに、人々の目は上空に釘付けとなり、その瞬間だけ、日常の喧騒が消えていた。

 その華やかな群集から距離を置き、鳳子は建設中のビルの一角に身を潜めていた。街の明かりも届かない、暗い鉄骨の影に佇む彼女は、静かに胸を撫で下ろしていた。蜂谷とはあれ以来逸れてしまったが、彼女が無事に逃げ切っただろうと自分に言い聞かせる。鳳子は依頼の任務を遂行できたというわずかな達成感に、心が満たされていた。夜空に一瞬だけ広がる花火の光が、視界の端に映る。その美しさに、思わず自分が追われる身であることを忘れかけ、儚い平穏が彼女を包んだ。

 しかし、心の中で警戒が完全に消えることはなかった。周囲に意識を研ぎ澄ましながらも、花火が上がるたびに人々の歓声が彼女の耳に届く。この喧騒ならば、追手にすぐには見つかることはないだろう。鳳子はそう自分を納得させ、人ごみをかき分けてたどり着いたこの場所なら、朝まで安全に過ごせるだろうと考えた。

「疲れた……」

 そう呟きながら、鳳子は鉄骨にもたれかかり、疲弊した体を休めるために目を閉じようとしたその時、不意に耳に届いた音が彼女の身体を凍りつかせた。誰かが建設中のビル内部に入ってきたのだ。足元に散らばった工事道具が乱暴に蹴散らされ、乱れた足音が近づいてくる。耳を澄ますと、何かを探しているような動きが感じられた。鳳子は一瞬にして理解した――追手が来たのだ。

(どうして……ここがわかったの……?)

 鳳子の心は恐怖で押しつぶされそうになった。うまく逃げ切ったと思っていた。群集に紛れて、誰も自分の居場所など突き止められないはずだったのに。焦りが全身を駆け巡り、鼓動が速くなるのを感じる。息を殺し、どうやってこの状況を切り抜けるか必死に考えた。震える手で、腰に隠していた拳銃の残りの弾を確かめる。

「……一発……」

 鳳子の指先は冷たくなり、手のひらは汗で湿っていた。弾はたったの一発。それに対して、足音の数から察するに追手は少なくとも四、五人はいる。無理だ。どう考えても勝ち目はない。暗闇の中で、鳳子の呼吸が浅くなり、冷たい恐怖が胸を締め付けた。彼女の視界には、再び夜空に広がる花火の閃光が一瞬だけ映る。それは美しく、無邪気な光景だったが、今の彼女にとってはあまりにも遠い、手の届かない世界だった。

(……ここを離れるしかない……)

 鳳子は、心の中でそう呟きながら周囲をじっと伺った。彼らがこのビルを探し回っている間に、別の出口から抜け出して新たな安全な場所を見つけなければならない。ゆっくりと物音を立てぬよう、慎重に立ち上がり、気配を悟られないように静かに足を進める。彼らの気配が遠のくのを確認しながら、別の出口を目指して移動し始めた。

 しかし、ふと頭の中で疑問がよぎる。

(安全な場所って、一体どこにあるの……?)

 心の中にぽっかりと空いた空白が、急に大きくなり始めた。何の指針もないこの世界で、運命に抗う意味を見失いかけている自分に気づいた瞬間、全てがぐらりと揺れる感覚に襲われた。歩みを止め、鳳子はじっと自分の手を見つめた。

 今になって思い返す――自分はずっと、仁美里に守られてきたのだと。蜂谷に車で轢かれたあの日、軽い打撲で済んだのは、仁美里が自分を守ってくれていたからだ。あれが偶然ではなかったことを、今ならわかる。災害迷宮へ挑んだ時もそうだ。鳳子が見たくない現実や認めたくない真実を、仁美里はそっと遠ざけてくれていた。擬蟲神という呪いになった後も、仁美里はいつも寄り添い、鳳子を守り続けてくれたのだ。それは歪んだ形ではあった。だけど、ずっと。

(逃げ続けて……もし仁美里ちゃんを見つけられなかったら……)

 心も体も疲れ果てていた。もう限界だった。鳳子は、やっと手にした現実が平穏とは程遠い、暗い世界にあり、その中に囚われていることに気づいた。夜空に花火が打ち上がり、光の華が広がる。その美しさに、思わず手を伸ばす。その瞬間、鳳子は思った。自分も、あの花火と一緒に消えてしまいたいと――。

「いたぞ!」

 背後から男の声が響いた。すぐに迫ってくる足音。だが鳳子は振り返らなかった。目の前の美しい光景をただ見つめ、胸に焼き付ける。夜空に咲く花火の下で、彼女は静かに決断した。

(さようなら……)

 顎に拳銃の銃口を押し当て、引き金を静かに引いた。しかし耳に響いたのは、発砲音ではなく、乱暴に体を押さえつけられる音と男の罵声だった。

(引き金は引いたはずなのに……どうして……?)

 目を見開き、信じられないという表情で鳳子は手に握られた拳銃を見つめた。だが、その拳銃はすぐに男の手によって奪われた。

「また逃げられたら面倒だ。足でも撃っておくか」

 男はそう言いながら、奪った拳銃を鳳子の右足に向け、引き金を引いた。しかし、またしても銃口からは何も出ない。

「……なんだこれ、ジャムってるじゃねーか」

 男は苛立ちを隠し切れず、拳銃のスライドを引いて弾詰まりを解消しようと試みた。その姿を見た瞬間、鳳子の胸に不思議な感覚が広がった。最後の一発が発射されなかったことに、運命の導きを感じたのだ。まるで、ここで諦めるべきではないと、仁美里がそう告げているような気がした。

 その瞬間、鳳子は大きく息を吸い込み、全身に力を込めた。そして――

「た、助けて――!!」

 腹の底から、精一杯の叫び声を上げた。誰でもいい。この絶望的な状況から救ってくれる誰かを――ただその存在を求めて、彼女は声を絞り出した。

 「こいつ、大人しくしろ!」

 男たちは、鳳子の顔面に拳を叩きつけ、無理やり黙らせようとした。拳が頬に当たる度に、鈍い痛みが彼女の体を駆け巡るが、鳳子にとって痛みは怖いものではなかった。生まれた時から、母親から、そして数々の状況で与えられ続けてきた痛み。それは、もはや鳳子にとって馴染み深いものだった。彼女は怯むことなく、再び声を上げ、激しく抵抗を試みた。

 しかし、その叫びは、夜空に打ち上げられる花火の音にかき消されてしまう。彼女の必死の声が、遠くの歓声と光の中で虚しく溶けていく。次の瞬間、男の粗い手が彼女の口を塞ぎ、鳴り響く花火と共に、鳳子の声は完全に封じられた。

 それでも、鳳子の身体は止まらなかった。全身の力を振り絞り、必死に身をよじらせ、両手両足を動かして抵抗を続けた。だが、彼女の力は、屈強な男たちの前ではあまりにも微弱だった。男たちは、少女のもがく姿に支配欲を強くかき立てられた。

「なぁ……生きてさえいれば、どんな状態にしても問題ねぇよな?」

 一人の男が低く息を吐きながら言った。暁からの指示は明確だったが、具体的な方法までは指示されていない。鳳子が肉体的な痛みに耐えている以上、精神的に追い詰めるしかない――そう自分を正当化し、男は満足げに微笑んだ。

 その瞬間、彼の大きな手が、鳳子のセーラー服の胸元にかかり、力任せに布を引き裂いた。

(――あ……)

 鳳子はその瞬間、自分が自分ではなくなる感覚に陥った。まるで、自分の身体が他人のものになったかのように、冷静で冷たい視線でその状況を見つめている――そんな錯覚。身体が動かない。意識が遠のいていく。まるで、別の世界に自分が吸い込まれていくような感覚だった。

 そのセーラー服は、暁が鳳子に与えたものだった。黄昏学園に入学する際に、彼が手配してくれたもの。それまで鳳子は、ずっと母親が買ってくれた古びたセーラー服を着続けていた。擬羽村が災害に襲われた後も、変わらず着続けたその制服。暁も宵子も、鳳子に与えたその服には特別な意味を持たせてはいなかった。ただ、実用的で必要だからという理由だった。しかし、鳳子にとってそれは違っていた。

 鳳子にとって、誰かの理想に応えることは、自分の存在を確かめるための唯一の手段だった。制服は、そんな彼女にとって「自分が何者であるか」を保証してくれる、心の鎧のようなものだった。それを引き裂かれた瞬間、鳳子の心は動揺した。

 思考が乱れ、過去の記憶が次々と押し寄せる。彼女を襲ったのは、ただ服が破かれたという事実以上の感情だった。暁に対してはもう信用できないと決め、彼の元から逃げ出したはずなのに、彼から与えられた制服を引き裂かれたことにショックを受けている自分。それは、彼女の心の中に矛盾した感情を浮かび上がらせた。

 そして、その矛盾が自分自身を裂き、心の中に隠れていた数々の記憶や感情――見たくもない過去が、まるで無数の蛆虫のように鳳子の心を這い回っていた。自分の記憶が一つ一つ紡がれていたそれまでの思い出が、今、目の前で壊されていく。

 だが、それ以上に彼女を襲ったのは、目の前にいる男たちがこれからしようとしている行動が、自身の深いトラウマを呼び起こしたことだった。彼女の心と体はその恐怖に凍りつき、動くことができない。

 まさに男の手が鳳子の肌に触れようとしたその瞬間、鈍い音が響き渡った。次の瞬間、男は悲鳴を上げ、まるで何かに強烈に弾かれたかのように遠くへと飛んでいった。突然の衝撃に、男たちも、そして鳳子も何が起こったのかすぐには理解できなかった。

 一瞬の静寂が辺りを支配する。さっきまで夜空を鮮やかに彩っていた花火も、この一瞬だけはその咆哮を止めたかのようだった。息を詰めるような時間が過ぎ、男達は呆然とその場に立ち尽くしていた。しかし、次の瞬間、隅田川の空が再び大量の花火で埋め尽くされた。クライマックスの時間が来たのだ。夜空に広がる閃光は、まるで舞台の幕を開くように、周囲を眩しく照らし出した。

 その光に照らされたのは、赤髪を揺らしたチャイナ服姿の少女だった。少女の姿が、夜空を背景に浮かび上がる。鋭い視線、引き締まった表情。彼女の出現に、鳳子も男たちも、皆が驚愕の目を向けた。

「数人がかりで一人を襲うとは何事アルか!」  

 少女の声が響き渡る。彼女は状況を瞬時に把握し、迷うことなく男たちに立ち向かった。次々と襲い掛かる男たちを、流れるような動きで蹴散らしていく。その動きは華麗でありながら凄まじく、まるで夜空を駆け抜ける流星のように鮮烈で美しかった。

 鳳子は、目の前で繰り広げられる光景に呆然として立ち尽くしていた。まるで夢でも見ているかのように、その少女の姿に見つめていた。力強く、そして優雅なその動き。彼女の凛々しい姿は、鳳子の心に深く刻まれていく。

 気がつくと、少女は鳳子に群がっていた男たちをすべて打ち倒し、彼女を庇うようにして彼らに立ちはだかっていた。鳳子の目の前に立つその姿は、夜空に輝く花火を背にしながら、まるで戦士のように力強く、そして頼もしかった。

「事情はわからないけど、私が何とかするから大丈夫アル」

 少女は振り返り、鳳子に優しく微笑んだ。その瞳にはどこか陰りがありながらも、確かな安心感を与える力があった。鳳子は彼女の瞳の中に、夜空に打ち上げられる牡丹の花が瞬いているのを確かに視た。

 しかし、その瞬間だった。倒れていた男の一人が、よろよろと立ち上がり、静かに少女の背後に銃口を向けた。鳳子は驚いて口を開いた。

「あ、あの、後ろ――!」

 鳳子が言葉を発したその瞬間、少女はすでに動いていた。後ろ脚を軽やかに回し上げ、銃を持つ男の手を正確に蹴り上げた。軽やかなその動きに反して、何かが砕けるような音が耳に残った。鳳子は息を呑んだ。その見事な動きに、ただ圧倒されていた。

 その後も、次々と立ち上がろうとする男たちを少女は瞬く間に屈服させていった。まるで一瞬一瞬が永遠のように感じられるほどの緊張感が続く中、やがて花火大会が終わりを迎える頃には、男たちは誰も起き上がることなく、地面に倒れ込んでいた。

 夜空には黒い煙が漂い、花火が全て燃え尽きたことを静かに告げていた。火薬の匂いと静けさが鳳子の鼻をかすめ、先ほどまでの喧騒が嘘のように消え去っていた。その中で、ただ一人の少女が立ち尽くし、鳳子を守るようにして静かに息を整えていた。



 隅田川周辺は、花火大会を終えて帰宅する人々でごった返していた。楽しそうな笑顔や、少し疲れた様子の家族連れが行き交う中、鳳子はその流れに逆らうように隅田橋の中心へ向かって歩いていた。喧騒の中にあっても、彼女の心は静かに沈んでいた。

 先ほどの少女とは、建設ビルの中で別れた。最初は、鳳子の無事を心配し、共に逃げることを提案してくれたが、鳳子は自分の状況を上手く説明できなかった。さらに、見知らぬ彼女をこれ以上巻き込むのは危険だと感じた。特に、暁に彼女の存在を知られるのだけは避けたいという直感が強くあった。だから鳳子は、感謝の気持ちを精一杯伝え、少女に背を向けて歩き出した。

 隅田橋の中腹あたりにたどり着いた頃、鳳子はふと立ち止まり、スマホを取り出した。薄暗い街灯の下で画面を見つめると、そこには蜘蛛の巣のようなひび割れが広がっていた。画面を点灯させると、いくつかの部分がノイズに覆われていた。恐らく、高速道路での衝突の際に壊れてしまったのだろう。鳳子は、ひび割れた画面を無表情で見つめた。

(あいつらが私の居場所を突き止めた原因……)

 追手たちが自分の居場所を突き止めた理由を、鳳子はずっと考えていた。そして、その答えが今手にしているスマホだと気づいた。暁や和希が自分を追い続けられたのは、このスマホに仕込まれたGPSのせいだろう。彼女が購入したときから、すでにそれは仕込まれていたのだろう。このまま持っている限り、自分の居場所は常に監視され続ける。だから、手放すしかない。

 鳳子は川面に映る暗い水の流れを見つめ、手に握ったスマホに力を込めた。これを川に投げ込めば、少なくとも自分の居場所は追われなくなるはずだ。暗く静かな川は、何もかもを呑み込んでしまうだろう。手を振りかぶり、スマホを投げ入れる準備をした。

「――……っ!」

 鳳子の手が止まった。腕が震え、そのままゆっくりと下ろされる。スマホを投げ捨てることはできなかった。たったこれ一つ捨てれば、自分は自由になれるはずなのに、その簡単な行動すらできない自分に、深い嫌悪感が込み上げてきた。

「そこ、橋で立ち止まらないでください!」

 後ろから交通警備員の声が聞こえた。鳳子は振り返り、その人物と目が合った。「あぁ、やっぱり私のことか……」そう思いながら、鳳子は肩を小さくすぼめ、その場を離れた。

 人々の流れに紛れながら歩く鳳子は、まるで酔ったように頭がくらくらしていた。道すがら、様子がただならぬ彼女に声をかけてくる者もいた。額からは血が流れ、制服の胸元は破れたまま。それを隠そうと、顔を伏せて背を丸めて歩いていたが、やはり異様な姿が目立ち始めた。

「ちょっと、そこの君……どうしたんだい? その格好……」

 低い声に驚いて顔を上げると、目の前には警察官が立っていた。警察は鳳子の姿を確認すると、表情を険しくし、無線に手をかけた。

「隅田橋で未成年を保護。着衣に乱れあり。応援を――」

 鳳子は無意識に一歩後退った。目の前で淡々と職務を進める警察の姿に、鳳子の心は急速に乱れ始めた。体の奥底から憎悪と混乱が湧き上がり、自分でも抑えきれない衝動が走った。

「……えして……」

 鳳子は無意識に掠れた声で呟いた。そして再び、自分が自分でなくなるような感覚が彼女を襲う。確かにここに自分は存在しているのに、鳳子はまるでその自分を見失い、心が遠くへ飛び去ってしまうように感じていた。次々と浮かび上がる記憶は、どれも彼女が実際に体験し、感じてきたはずのもの。それなのに、それらはどこか遠い、別の誰かのもののように思える。知っているはずの激情が、まるで他人のもののように彼女を支配していた。

「にみりちゃんを、返してよ!!」

 その言葉は意識とは裏腹に、鳳子の口から飛び出していた。鳴り響く声に、警察官は驚き、目を丸くして彼女を見つめる。蘇るのは遠い過去の記憶――あの日、彼らは鳳子から仁美里を無理やり奪い去り、鳳子を縛りつけ、冷たい言葉で責め立てた。最後には、鳳子を劣悪な施設へと追いやったことを覚えている。

 その鮮烈な記憶が、感情の波と共に押し寄せ、鳳子の心は一気に崩れた。息が詰まり、胸が締めつけられるような苦しさが襲う。頭の中は混乱し、目の前の現実と過去の光景が入り混じって、何が今で何が過去なのか、わからなくなっていく。

 ――自我を保てるなら、僕は絶対に君の記憶を消さないよ。

 突然、和希の言葉が脳裏に蘇る。そうだ、自我を失ってはいけない。鳳子は必死に冷静さを取り戻そうと、心の中で叫んだ。しかし、過去の憎しみがあまりにも強く、今この瞬間の自分を保つことができない。目の前の警察官にその感情を向けずにはいられなかった。彼が仁美里を奪ったわけではないと分かっていても、憎しみは抑えきれなかった。

 ついに耐えきれなくなった鳳子は、警察官を振り切るようにしてその場から走り出した。警察官が後を追おうとする気配を感じながらも、鳳子は小さな体を活かし、人ごみの中をすり抜けるようにして逃げ続けた。心臓が高鳴り、息が乱れる。だが、鳳子は止まることなく、その先を目指してひたすら走った。
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