2-4 Flarevoid

 隅田橋周辺の人ごみが少しずつ落ち着き始めた頃、風雅はようやく家族の元に戻ろうかと思い始めていた。元々、花火大会には興味がなかったが、無理やり家族に連れ出され、渋々付き合うことにした。だが、現地に着いても家族の関心は弟ばかりに向けられ、風雅はまるで存在しないかのように扱われていた。その場にいてもいなくても何も変わらない、そんな疎外感に嫌気がさし、彼は静かに人ごみの中から姿を消していた。

 風雅はビルの隙間から時折見える花火を眺めつつ、会場の近くで適当に時間を潰していた。飲食店はどこも混み合っていたが、ドーナツやクレープなどの洋菓子店が店頭販売をしており、そのスイーツを巡るだけで、少しずつ風雅の気分も和らいでいった。花火大会には関心がなかったはずなのに、いつの間にかこの時間が少しだけ心地よく感じられるようになっていた。

 やがて、花火が終わり、夜空の喧騒が静かになった頃、風雅のスマホが振動した。画面を開くと、親からのメッセージが届いていた。「今、どこにいるの?」と、彼の居場所を尋ねる短い文章。風雅は時計を見て、もうこんな時間か、と呟きながら、ふと花火大会の会場に目をやる。そこには、帰り道を急ぐ無数の人の波が押し寄せていた。あまりの人の多さに、すぐに家族の元に戻る気にはなれなかった。

(もう少し人が減ってから戻るか……)

 そう考えた風雅は、親に「戻るのに少し時間がかかる」とメッセージを送り、再び手にしていたスイーツに視線を戻した。甘い香りが鼻をくすぐり、少しだけ疲れた心を癒してくれる。花火の余韻がまだ空気に残っているような気がして、風雅は人の流れが落ち着くのを待ちながら、ゆっくりと夜景を楽しんだ。

 そして、ついに家族の元に戻るために移動しようと、風雅が交差点を渡り始めたとき、一人の少女とすれ違った。ほんの一瞬、視界の端に入ったその少女の姿に、風雅は胸に違和感を覚え、思わず振り返って声をかけた。

「おい、お前――」

 少女――鳳子はゆっくりと歩みを止め、振り返った。その瞬間、風雅は自分が無意識のうちに彼女の腕を掴んでいたことに気づき、慌ててその手を放した。だが、鳳子の目は風雅に向けられておらず、まるで彼を見ていないかのような虚ろな視線が宙をさまよっていた。もし風雅が彼女を掴まなければ、きっとそのまま何事もなかったかのように通り過ぎていただろう。

 風雅は改めて鳳子の姿を見つめ直した。そこには、血だらけで、ボロボロのセーラー服を着て、今にも壊れてしまいそうな瞳を持った少女が立っていた。彼女は、ひび割れたスマホをまるで大事な宝物のように握りしめている。見るからに異常な状況だ。風雅は、その光景を目の当たりにして「ただ事じゃない」と感じた。交差点の信号が点滅を始めるのを見て、彼は鳳子を連れ、再び歩道へと引き返した。

「これでも着てな」

 風雅は羽織っていた上着をそっと鳳子にかけ、前のボタンを丁寧に留めてやった。サイズが明らかに大きすぎて、小柄な鳳子には不格好に見えたが、それでも今の状態よりはましだった。彼女のボロボロになった服を覆い隠しながら、風雅は次にどうすべきかを考えた。

「とりあえず警察か……?」

 そう言いながら、風雅はスマホを取り出した。しかし、その瞬間、鳳子は彼の腕を引き、首を必死に横に振った。彼を止める小さな手は震え、彼女の瞳には明らかな恐怖が浮かんでいた。

「……やっ……警察は、いや……!」

 鳳子の声はかすれていたが、その必死な様子に、風雅はすぐに彼女が警察を極端に恐れていることを察した。強行すれば、彼女は今にも泣き出しそうだ。風雅はため息をつき、「わかった、わかったから、落ち着けって」と、穏やかな声で彼女をなだめながらスマホをポケットに戻した。

 風雅がスマホをしまうと、鳳子は少しだけ安心した様子を見せた。しかし、その体に刻まれた傷跡はあまりにも痛々しかった。風雅は周囲を見渡し、ちょうど数メートル先にドラッグストアを見つけた。

「ちょっとここで待ってろ」

 そう言い残して、風雅はすぐにドラッグストアに向かって走り出した。だが、すぐに立ち止まり、再び振り返る。夜道にこんな状態の少女を一人で残しておくわけにはいかない――そう思い直し、再び鳳子の元に引き返した。

「やっぱついてこい」

 風雅は鳳子を連れ、ドラッグストアの前までやってきた。彼女が警察沙汰を避けたがっていることを察し、店内には連れて行かず、ドラッグストアの入り口のすぐ横に待たせることにした。万が一、店員が通報することを恐れたからだ。風雅は手早く必要なものをカゴに入れ、会計を済ませる。

 もしかして、店から出たときにはもう彼女はいなくなっているかもしれない。そんな不安が頭をよぎりながら、風雅は急いで店の入り口を確認した。そこには、小さく座り込んでぼんやりと夜空を見上げる鳳子の姿があった。風雅は彼女のもとへ静かに歩み寄った。



 二人は川沿いの小道にあるベンチに腰かけていた。夜風が静かに川面を撫で、遠くで聞こえる水の音が心地よく耳に響く中、風雅は脱脂綿に消毒液を染み込ませ、そっと鳳子の前髪を無造作にかき上げた。額の傷口は深く、周囲は青く腫れ、血が滲んでいた。まるで固いものに殴打されたかのようなその痛々しい姿に、風雅は胸が痛んだ。彼は慎重に患部を脱脂綿で拭き取ると、鳳子が一瞬肩を震わせた。風雅は消毒液が傷に染みているのだろうと思い、できるだけ優しく触れようと努めた。その後、ガーゼで額の傷を覆い、テープでしっかりと固定した。

 風雅は手当てをしながら、鳳子に大きな怪我が他にないかとさっと目を走らせた。しかし、鳳子はどこか遠くを見つめたまま、粉々に割れたスマホを両手で大事そうに握りしめていた。それはまるで、スマホに何か大切なものが詰まっているかのような仕草だった。風雅は、壊れたスマホが彼女にとっての大きなショックなのだろうかと考えたが、彼女の表情にはそれ以上の深い闇が漂っていた。まるで、スマホがただの物以上の意味を持っているように。

 とりあえず、これ以上手当てするべき傷はなさそうだと判断した風雅は、深く息をついた。そしてポケットを探り、棒付きの飴を一つ取り出して、鳳子に手渡した。手当ての間、じっと静かに耐えていた彼女への小さなご褒美だ。鳳子は、突然差し出された飴をきょとんとした表情で見つめたが、次の瞬間、自然とそれを手に取っていた。

「……くれるの、……ですか?」

 鳳子は小さな声で問いかけながら顔を上げた。先ほどまで空虚に漂っていた彼女の視線は、いつの間にか風雅をしっかりと捉えていた。その目には、かすかな驚きと戸惑いが浮かんでいた。

「よく我慢したな」

 風雅は優しく微笑みながら、柔らかい声で語りかけた。その言葉に、鳳子は反応するように、彼に着せられた上着の袖をぎゅっと握りしめた。まるで彼に縋るように、強く。その小さな手の力は、今までの不安や恐怖をすべて詰め込んだかのようだった。川面を撫でる風が生温く、鳳子の肌をそっと包んでいく。じんわりと汗が滲み、彼女の体を温めるその熱が、風雅の残した温もりなのか、ただの夏の夜の暑さなのか、彼女にはもう区別がつかなかった。

 ぽたぽたと、鳳子の涙が零れ落ちた。それは彼女が握りしめていたスマホの上に触れ、ひび割れた画面の隙間にしみ込んでいく。ハッとした鳳子は急いでその涙を拭ったが、止めどなく溢れ続ける涙は、彼女の細い指を滑り落ちた。風雅はその様子に気づき、戸惑いながらも何か声をかけるべきか迷っていた。その瞬間、鳳子が震えた声で口を開いた。

「……スマホが……壊れてしまったら……私はもう解決部と繋がれなくなってしまう……。にみりちゃんにもまだ会えていないのに……どうしよう……どうしよう……!」

 彼女はスマホを抱きしめ、大粒の涙を流しながら嗚咽した。その言葉にこもる切実さは、まるで自分の存在そのものが崩れ去るかのような悲痛さを帯びていた。あの時、川へスマホを投げ捨てられなかったのは、それが彼女にとって解決部との唯一の繋がりを保つ手段だったからだ。自分が追われ続ける身だと理解していながらも、唯一の心の拠り所であるそのスマホを、鳳子はどうしても手放すことができなかった。

「解決部……?」

 聞きなれない言葉に、風雅は思わず問い返した。箱猫市に住んでいない彼にとって、その言葉は耳慣れないものだった。鳳子は涙を拭い、息を整えながら、風雅に説明を始めた。

「……私の学園……箱猫市の黄昏学園にある部活動のことなんですけど……。主に掲示板を通して行われる人助けのための部活動みたいなもので、……誰でも書き込みができて、依頼人がスレッドを立てて、それを解決するんです……」

 鳳子は説明しながら、割れたスマホを操作しようとしたが、画面は反応しない部分が多く、解決部の掲示板を開くことができなかった。焦りが彼女の指先に滲み、不安が心を覆い尽くしていく。仁美里との繋がりを失った今、解決部がなくなれば、自分は何者でもなくなってしまう――そんな恐怖が鳳子を蝕んでいた。自分が崩壊していく感覚が襲い、彼女は必死にスマホをタップし続けた。

 その時、画面が奇跡的に反応し、解決部の掲示板が表示された。鳳子は安堵の息をつき、風雅に自分の解決した依頼を見せようとスレッドを開いた。しかし、その瞬間、鳳子は違和感を覚えた。

 ――誰、これ?

 その書き込みは確かに自分の手によるものであり、その時の感情も鮮明に思い出せる。だが、今の自分とはまるで違う人物がそこにいるかのような、不気味な感覚に囚われた。まるで自分ではない誰かが、自分の代わりに書き込んだかのような錯覚。胸の奥が締め付けられるような不安が広がった。

 ――私は、誰……?

 不意に意識が遠のくような感覚に襲われ、鳳子は慌ててその疑念を振り払った。そしてスマホを閉じ、風雅の上着を抱きしめるように自分の腕をぎゅっと強く握りしめた。

「……お前にとって、その解決部ってのが、大事な存在なんだな……」

 風雅は、必死に解決部のことを説明する鳳子に対して、静かに囁いた。鳳子は無言で頷いた。その頷きには、彼女がどれほどその場所に救いを求めていたかが伝わってくる。

「……私……正しいことがよくわからなくて……。でも、解決部には正義があるんです。私はきっと本物にはなれないかもしれないけど、せめて一時でも……自分が正しいって認めてもらいたいんです……。だから、解決部で正しさを見つけようとして、活動を続けているんです……」

 鳳子は、切ない笑みを浮かべながら夜空を見上げた。花火の残した黒煙はすでに消え去り、月明かりが二人の間に差し込んでいた。

「これ、食べてもいいですか?」

 鳳子は、先ほど風雅にもらった棒付きの飴を見つめながら尋ねた。彼女の声には、わずかな戸惑いが残っていた。

「おう。食いな」

 風雅は優しく促した。鳳子はゆっくりと包み紙を剥がし、それを口に含んだ。甘いミルクの味が広がり、普段あまりお菓子を口にしない鳳子にとって、それは新鮮で驚きの味だった。瞬く間に彼女の目が輝き、口元には自然な笑顔が浮かんだ。

「はじめて食べましたけど、すごく美味しいですね。驚きました」

 上機嫌で足をバタつかせながら笑う鳳子は、交差点ですれ違ったときの壊れそうな姿とはまるで別人のようだった。風雅は彼女が元気を取り戻したことに安堵し、胸をなで下ろした。

 しかし次の瞬間、ガリッと音が鳳子の口元から聞こえた。

「は? もしかしてお前、噛んだ?」

「え? 噛まないんですか?」

 二人はお互いにきょとんとした顔で見つめ合った。確かに、飴を噛む人もいる。しかし、それでは本来の甘さを最後まで楽しむことができない上に、歯にも良くない。風雅は眉をひそめ、少し困惑しながら彼女を見つめた。鳳子は少しバツが悪そうに視線を逸らし、申し訳なさそうに呟いた。

「ごめんなさい。こういうお菓子を食べるのは初めてだったので……次はちゃんと噛まずに味わいます……だから、気を悪くしないで」

 彼女は飴を口の中で転がしながら風雅に視線を向けた。上目遣いで彼を見るその姿に、風雅はため息をついて「好きに食えよ」と軽く呟いた。

 その時、生ぬるい風が二人の間をひゅるりと吹き抜け、風雅はその風に乗って近づく足音に気付いた。視線を横に向けると、額に汗を滲ませた男性が立っていた。彼の目は鳳子をしっかりと捉え、彼女の名前を掠れた声で呼んだ。

「鳳子」

 その声を聞いた瞬間、鳳子の肩がぴくりと震えた。彼女はゆっくりと顔を上げ、声の主を確認した。それは和希だった。彼女は和希の姿を認めると、一瞬だけ風雅に隠れるように身を寄せ、彼の腕にしがみついた。その手がわずかに震えていることに風雅は気付いたが、その理由を理解する前に、鳳子は静かに彼から手を離し、ゆっくりとベンチから立ち上がった。

「……先生……」

 鳳子が小さく呟いたその声には、恐れと戸惑いが混ざっていた。風雅は最初、和希が彼女の父親だと思った。和希が鳳子の名前を呼んだその声には、まるで親が子供を心配するような深い愛情が感じられたからだ。風雅にとって、その声色は家でよく耳にするものだったが、決して自分に向けられることはなかったため、だからこそ気付いた。しかし、鳳子が和希を「先生」と呼び返した瞬間、風雅の中にあった二人の関係性に対する予想は崩れ去った。

「あの、お兄さん。上着、ありがとうございました……それから、傷の手当ても……」

 鳳子は風雅に向かって深くお辞儀をし、上着を脱ごうとした。しかし、風雅はそれをすぐに制した。

「いや、それはお前にやるよ。返す必要もないし、不要なら捨ててもいい」

 風雅の言葉には、裂けたセーラー服を隠してあげたいという気持ちが込められていた。

「……いいんですか? これを、私に……?」

 鳳子は、脱ぎかけた上着をぎゅっと握りしめた。自分がふわふわと不安定だった感覚が、ようやく形を取り戻し始めた気がしていた。

「ありがとう」

 鳳子は小さな声で感謝を伝え、深く頭を下げた。そして、再び顔を上げて和希の方を向き、静かに歩み寄った。彼女の瞳にはまだ戸惑いが残っていたが、それでも和希の存在が彼女を支えていた。

「よかった。君がそれを捨てていたら、きっと見つけ出せなかった……」

 和希は、鳳子の手に握られている割れたスマホにそっと手を添え、安堵の表情を浮かべながら呟いた。SIAの協力を得られなかった和希は、鳳子のスマホから発信されるGPS信号を自力で追跡していた。もし鳳子がそのスマホを捨てていたら、彼女を見つけるのはさらに困難だっただろう。

「……捨てられるわけ、ないじゃない……」

 鳳子は震える声で小さく呟いた。このスマホは解決部と繋がるための唯一の手段であり、何よりも、和希が彼女に渡した大切なものだった。それが壊れてしまったことが、彼女にとっては深い喪失感を伴うものだった。

「……先生が私にくれた大切なものなのに……でも、壊れちゃった……画面がね、もう反応しなくなっちゃった……」

 鳳子は、溢れ出る涙を堪えきれずに和希に飛びつき、声を詰まらせながら泣き続けた。心の中には、感情の矛盾がぐちゃぐちゃに絡まり、どうしようもない苦しさが広がっていた。彼女は自分が何者で、何のために生きているのかすらわからなくなっていた。それでも、彼を信じたいという感情だけは、心の中の誰かがで確かに叫んでいた。

「帰ろう、鳳子。スマホは明日、修理に出せばいい」

 和希の落ち着いた声に、鳳子は無言で頷いた。まだ涙が頬を伝っていたが、彼の言葉に少しだけ安心を見つけたのだろう。その様子を見守っていた風雅は、鳳子の帰る場所が和希の元にあることを理解した。和希もまた、風雅に感謝の意を込めた視線を送り、口を開いた。

「世話になった。ありがとう」

 その言葉に続けるように、鳳子も再び風雅に向き直り、もう一度感謝の言葉を口にした。

 いよいよ二人がその場から去ろうとした瞬間、風雅は何かを思い出したかのように声を上げた。

「おい、お前の名前は?」

 鳳子は驚いたように振り返り、きょとんとした顔で答えた。

「……世成、鳳子です。……お兄さんは?」

「俺は廟堂院風雅だ」

「びょう……んん……」

 鳳子は、言いにくそうに言葉を詰まらせた後、少し考え込んでから無邪気に笑い、手を振った。

「風雅くん、またね!」

 その笑顔は、ほんの少しだけ風雅の胸に温かいものを残して去っていった。
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