1-5 禁断の境界を越えて②

 深夜、仁美里はふと目を覚ました。部屋は静まり返り、窓から差し込む月明かりが白いベッドのシーツを淡く照らしている。熱はすっかり引いており、体も軽く感じた。久しぶりに訪れたその普通の感覚を、彼女はじっと確かめるようにしていた。

 ――あの子はどうしているのだろう?

 ふとそんな思いが浮かび、仁美里はそっと視線を動かした。すると、すぐ隣に鳳子の姿が目に入った。もう一つのベッドがあるにもかかわらず、彼女は仁美里のすぐそばで寄り添うように眠っていた。

 鳳子のその姿を見て、仁美里の胸に言いようのない感情が湧き上がった。自分のためにここまでしてくれたことへの感謝と、それを素直に受け入れたくない反発がせめぎ合う。仁美里はそっと体を起こし、隣で眠る鳳子をじっと見つめた。

「あなたが悪いのよ……」

 仁美里は小さく呟いた。その声はかすかに震えていたが、鳳子は微動だにせず、静かに眠り続けていた。

 仁美里は一度、ゆっくりと窓の外へ目をやった。静かな夜。月が凍てついた世界を淡く照らし、その向こうには彼女が育った村があり、村の掟が待ち構えている。

「あなたが勝手に……」

 彼女は再び鳳子を見つめた。寄り添うように眠るその姿を責めるように見つめたが、その責めは自分自身にも向けられていることに気づいた。鳳子が自分をここまで連れてきたことで、禁じられたことを犯してしまった。もしこのことが知られたら、村の人々はどう思うだろう? 自分だけではなく、鳳子だってどうなるかわからない。彼女を守るためにも、今すぐ村に帰らなければならない。

 仁美里はそっと立ち上がり、鳳子の手が自分に触れていないことを確認すると、彼女を起こさないように細心の注意を払いながら、ゆっくりとベッドから抜け出した。足元に力を込め、そっと床を鳴らさないように歩く。背中には罪悪感ともつかない重たいものがのしかかっていたが、それでも彼女は歩みを止めなかった。

 ドアの前に立ち、振り返る。鳳子は静かに眠っている。その無垢な寝顔を見つめる仁美里の胸には、再び言葉にできない感情が渦巻いた。

 ――あなたが、悪いんだから。

 仁美里は心の中でそう呟くと、そっとドアノブを回し、ドアを開けて廊下に出た。病院の冷たい空気が、彼女の決意を凍らせるかのようだったが、振り返ることなく、村へ戻るために足を進めた。



 道路脇の標識を見つけた仁美里は、擬羽村の方向を示す矢印を確認し、迷うことなくそちらへ向かった。夜の静寂が漂い、ひんやりとした空気が肌にしみる。病院で一度温まった体も、薄暗いトンネルの入り口にたどり着く頃にはすっかり冷え切っていた。

 仁美里は足を止めた。トンネルは闇の中にぽっかりと口を開け、その先の出口が見えない。まるで尽きることのない深淵のようで、彼女は思わずその場に立ちすくんだ。冷えた体が恐怖と緊張で固まり、暗闇の向こうに進む気力を失っていた。

(あの子は、どんな気持ちでここを通ったのかしら……)

 鳳子がどうやってこのトンネルを越えてきたのか、仁美里は想像しようとしたが、その気持ちを理解することができなかった。自分なら、どれだけ強い意志があったとしても、この暗く凍えるトンネルを一人で越えるのは到底無理だと感じていた。

 それでも、村に帰らなくてはならないという思いだけが、彼女の背中を押した。

(立ち止まることは許されない……)

 恐怖を無理やり飲み込み、仁美里は一歩を踏み出そうとした。その瞬間、不意に背中に柔らかく温かい感触が広がった。

 驚いて振り返ると、そこには鳳子がいた。病院を抜け出した仁美里を追いかけ、走ってきたのだろう。息を切らしながらも、その瞳には仁美里を探し続けた焦りと安堵が入り混じっていた。

「村に帰るの? 私も一緒に!」

 鳳子は当たり前のようにそう言った。彼女は仁美里を責めることもなく、病院から勝手に抜け出したことに怒る様子もなかった。ただ純粋に彼女の手を取り、まるで何事もなかったかのように優しく囁いた。それは放課後の下校時間に友達と帰るような、そんな無邪気な口調だった。

 仁美里はその瞬間、ますます鳳子がわからなくなった。この子の行き過ぎた優しさには、どこか不気味さすら感じる。純粋な笑顔の奥に、優しさとは違う何かが潜んでいるように思えたが、その正体を掴むことはできなかった。

 それでも、村に帰らなければならないという目的だけは見失わなかった。先ほどまで足がすくんで動けなかった暗いトンネルも、今ではただの道にしか見えなかった。鳳子が隣にいることで、闇の中に一筋の光が差し込んだように感じられた。

 仁美里は鳳子の手を強く握り返した。そして、二人は擬羽村へと続く暗闇の中に、一歩、また一歩と踏み出していった。二人の影は、トンネルの闇に吸い込まれていく。

 トンネルの暗闇が二人を包み込み、入り口が見えなくなった頃、静寂を切り裂くように仁美里が口を開いた。

「本当に私をおぶって、あの病院まで連れて行ったの?」

 仁美里の声にはわずかな震えが混じっていた。長いトンネルを進むにつれ、最初に感じた安堵が冷め始め、何かを話さなければいけないという焦りが心を支配していた。沈黙が、自分の中にある不安を再び呼び起こしそうで怖かったのだ。

「うん! だいたい二時間くらいかな。病院の先生、すごく驚いてた!」

 鳳子は無邪気な笑顔で答えた。その笑顔に、仁美里は心が揺さぶられるのを感じた。

「二時間も……」

 仁美里は無意識に鳳子の手を離そうとした。自分を運ぶために鳳子に無理をさせたという罪悪感が押し寄せ、反射的にその行動を取ったのだ。しかし、彼女が手を抜こうとした瞬間、鳳子はすかさず強く握り返してきた。

 驚いた仁美里は反射的に顔を背けた。鳳子がなぜこれほどまでに優しくしてくれるのか、その理由を知りたくなかった。もし純粋な優しさだとしても、仁美里は誰かに頼ることができない自分に嫌悪感を抱くだけだった。そしてもしその優しさに裏があるなら、仁美里は鳳子に心を開きかけていたことに対して、惨めさを感じることになっただろう。だから彼女は、目を逸らし、無関心を装うことしかできなかった。

「……ママは心配しないの?」

「大丈夫! お母さんはお出かけしてる!」

「ふぅん……」

 村の噂を仁美里は知っていた。鳳子の母親は、彼女の面倒を見切れずに村に置き去りにした。父親が誰なのかも分からず、鳳子は村に来た瞬間から異端の存在だった。そして、その無邪気で不器用な鳳子が村でどう扱われているのかも仁美里は知っていた。彼女に優しくする者もいれば、冷たい視線や言葉を向ける者もいた。

 それでも、鳳子はその冷たい視線や言葉に気づいていないように振る舞い続けていた。純粋なのか、仁美里と同じように気づかないふりをしているだけなのか、彼女の心は読み取れなかった。

「ねえ、今夜はあなたの家に泊まったことにして」

 突然、仁美里はそう言った。

「ん……どうして?」

「どうしてもよ。……あなたは知らないかもしれないけど、私は村の巫女なの。だから、村を出ることは禁止されているの」

「なぜ禁止されているの?」

「……そういう決まりなのよ。あなたには分からないかもしれないけど、とにかくダメなの」

 仁美里は少し強い口調で答えた。説明不足だとわかっていたが、これ以上鳳子に自分の状況を話す気にはなれなかった。話せば、彼女に隠していた感情が溢れ出してしまいそうだったからだ。

「……仁美里ちゃんは」

 鳳子は少し悲しげな声で、俯いたまま瞳を揺らして続けた。

「……私のせいで、村の人に怒られちゃう?」

 その言葉に仁美里は一瞬動揺した。なぜ鳳子はここまで自分を気にかけるのだろうか。その得体の知れない優しさが、仁美里の心を乱していく。

 仁美里は思わず鳳子の手を振り払った。その瞬間、二人の歩調はずれた。

「私は……悪いことをした……」

 ぽつりと鳳子が呟いた。その言葉に仁美里は足を止めた。いつも笑顔でいる鳳子が見せた、初めての落ち込んだ姿に、彼女の胸が締め付けられるような感覚が広がった。

「……だから、内緒にするのよ。私たちが黙っていれば、誰にもバレない。わかった?」

 仁美里は鳳子の肩を掴み、無理やり彼女の瞳を覗き込んだ。その目には、鳳子に黙っていてほしいという切実な願いが込められていた。鳳子は戸惑いながらも無言で頷いた。

 二人は再び歩き出した。しかし、その心には、解けない不安と疑問が残り続けたままだった。



 村に朝日が照らし出される頃、ようやく仁美里と鳳子は擬羽村へと辿り着いた。村人たちはまだ深い眠りの中で、誰もこの村から子供が二人消えていたことに気づいていなかった。静かな朝の気配が村を包み込み、冷たい空気が漂っていた。

「私の家、そっちじゃないよ」

 二手に分かれた道の前で、鳳子は仁美里の服を掴んで彼女の足を止めた。仁美里は振り返り、疲れた顔で鳳子を見つめる。

「……あのね、あなたの家に泊まるっていうのはただの口実よ。もうすぐ夜が明けるし、数時間後には学校に行かなきゃいけない。私は家に帰って、少しでも休みたいの」

 そう言いながら、仁美里は鳳子の手を振り払おうとした。今の仁美里にとって、鳳子の存在が重荷に感じられ、できるだけ早く彼女と別れたい気持ちが強かった。心身ともに疲れていて、これ以上心を乱されたくなかったのだ。しかし、鳳子は仁美里の腕をしっかりと掴み、離そうとはしなかった。

「離しなさいよ」

 仁美里は声を荒げたが、鳳子は無言で首を横に振った。

「でも、このまま帰ったら、嘘をつくことになるよ。だから、朝まで一緒にいよう?」

「あなたが何も言わなければ、誰にもバレやしないわ。それとも、誰かに言うつもり?」

「そんなことしないよぅ………。でも、嘘をつくのはダメだから……」

 鳳子の固い意志に、仁美里は苛立ちを覚えた。

「嘘をつくのはだめって、そんなこと言っていられる場合じゃないの!! あなたにはわからないのでしょうけど!!」

 感情が高ぶったまま、仁美里は鳳子を強引に押し退けた。鳳子はバランスを崩し、田んぼの中へ転がり落ちてしまった。驚いた仁美里はすぐに鳳子を引き上げようと手を差し伸べた。

 その時だった。

「おやまぁ、仁美里ちゃん。朝早くからこんなところで何してるだぁ?」

 遠くからエンジン音とともに、車が近づいてきた。朝の早い時間に、どこかの村人が偶然その光景を目撃し、車を停めて歩み寄ってきたのだ。村人は仁美里と向き合い、穏やかだが詮索するような声で話しかけてきた。

「今、そこの子と何か揉めとったように見えたけんど、何かあったのかい? それに、昨日神主様から電話があってな、仁美里ちゃんが帰らねぇって連絡があったんだぞ。どこに行ってたんだい?」

 村人の問いかけに、仁美里の心臓が跳ねた。予定では、鳳子の家に泊まったことにしてこの事態を収めるつもりだった。しかし、こんな状況では、朝早くに家を出ている理由も、ここで揉めている理由も不審に思われてしまう。仁美里は瞬時に頭を巡らせたが、正当な言い訳が思い浮かばない。

「私が……仁美里ちゃんを無理やり連れ出したんです。村を案内してほしいって、わがままを言ってしまいました」

 仁美里の背後から、鳳子の小さな声が響いた。仁美里は思わず振り返った。泥だらけになった鳳子が、深く頭を下げて謝っていた。

「ごめんなさい」

 鳳子の言葉に、村人は彼女を叱り始めた。

「こぉら、あんたよそ者なんだでぇ、村のこと分かってねぇなら無理させんときな。神様に祈らんといけねぇ時に、こんなことしちゃいけん」

 しかし、仁美里にはその声はほとんど耳に入らなかった。鳳子が自分をかばって嘘をついてくれたことに、胸の奥で不思議な感覚が広がっていくのを感じた。

 やがて、鳳子は顔を上げた。彼女の姿は、朝日を背に影の中に包まれていた。逆光の中で、鳳子がどんな表情をしているのか、仁美里には見えなかった。

 村人はなおも鳳子を叱り続け、彼の手は仁美里の肩を優しく撫でた。まるで彼女を庇うかのように。
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