2-1 笑顔の魔法
擬羽村の朝は、いつも通り冷たく静まり返っていた。鳳子は、誰にも気づかれないように微笑みを保ちながら、村の道を歩いていた。
「おはようございます!」
道端に立つ村人たちに、いつも通り挨拶をする。だが、返事はない。村人たちは鳳子の存在をまるで無視しているかのように、会話を続けている。鳳子の微笑みは、その冷たい反応にわずかに揺らいだが、すぐに笑顔を強く保とうとした。
「きっと忙しいだけ」と、鳳子は自分に言い聞かせながら、歩みを進めた。
商店に着くと、鳳子は少し緊張しながら扉を開けた。わずかに残されたお金を握りしめ、必要なものを買うために店の中へと入る。店内には、いつも親切にしてくれていたはずの店主のおばさんがいた。
「これをください!」
鳳子はレジに商品を差し出す。しかし、店主は無表情で彼女を見つめ、冷たく値段を告げた。それは、いつもよりも高い値段だった。
「えっと……その値段だと、少し足りない、です……」
鳳子は、手の中の小銭を確認しながら、小さく呟いた。
「なら買わなくてもいいよ。他にお客さんが待ってるんだから」
店主の冷たい言葉に、鳳子の胸の奥がじわりと重くなった。いつもなら優しくしてくれていたはずなのに、今ではまるで別人のようだ。鳳子は困った顔を一瞬浮かべたが、すぐにそれを笑顔で覆い隠した。「ごめんなさい、また今度にします」と言って、商品を棚に戻し、店を出た。
外に出ると、冷たい風が鳳子の頬を撫で、髪を乱した。彼女は一度、深く息を吸い込んで吐き出し、笑顔を保とうとしたが、今度はその笑顔がうまく作れなかった。
鳳子は微笑みの形を保とうと頑張るが、内側から何かが崩れていく感覚が広がっていた。笑顔の裏で感じていた自分の感情が、ゆっくりと無くなっていく。まるで冷たい霧の中に飲み込まれていくように、心が静かに凍りついていくようだった。
村人たちの視線を感じたが、そこには優しさのかけらもなかった。
「やっぱりあの子は宵子の娘だから、ろくなことをしないんだ」
「禁忌を犯すなんて……しかも、巫女様に掴みかかっていたと聞いたよ」
声が冷たい風に乗って、鳳子の耳に届いた。
鳳子はその言葉を聞いても、泣きたくはならなかった。ただ、心が静かに遠ざかっていくような、喪失感を覚えた。まるで自分が誰か別の存在になってしまったかのように、何も感じなくなっていく。
しかし、それでも鳳子は笑顔を取り戻そうとした。自分が「正常である」と示すために、笑顔を作らなければならない。宵子からそう教えられていたからだ。彼女は無表情になりかけた顔をこわばらせ、必死に笑顔を作り直そうとした。
◆
翌朝、鳳子は教室に入ると、いつもと変わらない静けさが彼女を迎えた。クラスメイトたちは彼女に気づいても何も言わず、無言で彼女を避けるようにしていた。鳳子は何も感じないかのように笑顔を浮かべ、自分の席に座った。だが、その笑顔はどこか硬く、ぎこちないものだった。
授業が始まり、クラスの雰囲気は落ち着いたものだったが、隣の席の子供たちがひそひそと話し始めた。
「あの子、何か悪いことをしたんだってさ」
「禁忌を破ったって聞いたよ」
「悪い事をしたってママが言ってたわ」
鳳子はその声に反応せず、ただ前を見つめていた。しかし、ふと隣に座る仁美里の方に目を向けた。仁美里は無表情でノートに視線を落としていた。彼女の指先が軽くペンを回しているが、どこかぎこちない動きだった。
鳳子が仁美里を見つめると、仁美里は一瞬だけ視線を動かし、鳳子と目が合った。だが、すぐに視線を逸らし、興味がないかのように窓の外をぼんやりと見つめ始めた。彼女はまるで何事もないかのように振る舞い、無関心を貫くその姿に一切の感情を感じさせなかった。
◆
昼休みになると、鳳子は一人でお弁当を広げた。クラスメイトたちは誰も彼女に近づかず、遠巻きに彼女を見つめていた。鳳子は静かにおにぎりを手に取り、食べようとしたが、突然、クラスメイトの一人が近づいてきた。
「ねえ、それ何食べてるの?」
その子供は無邪気な顔で鳳子のお弁当を覗き込んだ。鳳子は一瞬戸惑いながらも、笑顔を作り直し答えた。
「おにぎり! 自分で作ったんだよ!」
「ふーん、お母さんは作ってくれなかったの?」
その子は嘲笑うように言った。宵子が鳳子を村に置いてから、一度も戻ってきていないことなど、村中の誰もが知っていた。そして、その子はわざと鳳子のおにぎりを手に取り、無遠慮に床へ落とした。
「ごめんね、落としちゃった! あ、もう食べられないね」
クラスメイトたちはその様子を見て笑い出した。しかし、鳳子は無表情でおにぎりを見つめたまま、何も言わなかった。しばらくして、彼女はゆっくりと床に落ちたおにぎりを拾い上げ、それをそっとお弁当箱に戻した。
クラスメイトたちは、その行動に一瞬言葉を失った。彼らにとって、床に落ちたものを再び食べるという行為は信じられないものだった。
「え……それ、食べるの?」
鳳子は答えず、ただ淡々とおにぎりを手に取り、無表情のまま食べ始めた。彼女にとって、食べ物は貴重なものであり、無駄にできる余裕などなかった。母親が残したお金はほとんど残っていないことを理解している。だから、それが床に落ちたものであっても、捨てるわけにはいかなかったのだ。
クラスメイトたちは困惑し、鳳子の行動を信じられないというように見つめていた。彼らは笑うこともできず、ただ鳳子が当たり前のように食べ続ける姿に、恐怖のような感情さえ覚えていた。
「おかしいよ……」
「普通、食べないだろ……」
彼らはひそひそと再び囁き合い、鳳子から距離を取るようにして、その場を去った。
鳳子はそのまま一人で昼食を食べ終え、静かにお弁当箱を片付けた。誰にも気づかれないように微笑みを保とうとしたが、その笑顔はどこか空虚で、何も感情が伴っていなかった。
◆
冷たい夕方の風が吹く中、仁美里は校庭の片隅で掃除用具を洗っていた。バケツに水を満たし、ゴシゴシとブラシでモップをこすり続けている。その動きは無駄がなく、彼女の内面の苛立ちを隠すように冷静だった。指先がかじかむほどの寒さの中、誰もいない校庭は静かで、彼女の作業音だけが響いていた。
その静寂を破るかのように、背後から鳳子の声が響いた。
「仁美里ちゃん!」
鳳子は無邪気な笑顔を浮かべながら、仁美里に近づいていった。彼女はまるで寒さを感じていないかのように軽やかだった。
「あれから村の人達には怒られたりしてない? 私はちょっぴり失敗しちゃったけど、仁美里ちゃんが怒られていないなら、本当によかった!」
鳳子は朗らかに話しながら、仁美里の近くに立ち止まった。しかし、仁美里は一切振り向かず、冷たい視線を掃除用具に向けたまま無視を貫いた。鳳子の言葉は彼女に届かないかのようだった。
鳳子はそれでも気にせず、楽しげに話し続けようとした。だが、次の瞬間、仁美里は無言のままバケツに手を伸ばし、冷たい水を鳳子へとぶちまけた。冬の冷たい水が鳳子にかかり、彼女の体が一瞬凍りついたように固まった。
「んん……っ」
鳳子は驚きのあまり声が出なかった。全身がずぶ濡れになり、冷たい水が肌に染み込んでいく。それでも、彼女は状況を理解できずに仁美里を見つめた。
仁美里は冷淡な表情で鳳子を見下ろし、ため息をつきながら言い放った。
「もう学校に来るの、やめたら?」
その声は冷たく、鋭く鳳子の心に突き刺さった。だが、鳳子はその言葉を聞いても、ただ黙って仁美里を見つめた。仁美里の顔には、どこか苦しそうな表情が浮かんでいた。その顔を見た瞬間、鳳子は何かを感じ取ったように微笑みを浮かべた。
「ごめんね、仁美里ちゃん。私はまた、間違えちゃったね」
鳳子は、仁美里に水をかけられたにもかかわらず、微笑んだ。まるで仁美里を安心させるかのように、優しく笑いかけた。
その瞬間、近づいていたクラスメイトたちがその場に立ち止まり、二人のやり取りを目撃した。彼女達は驚いた表情で立ちすくみ、一瞬の間を置いてからひそひそと話し始めた。
「うわ……みた? 今の乙咲さんの行動……」
「……いくら何でも真冬に水をかけるなんて……」
「とかいって、あんたも今朝なかなかエグイことしてたじゃん。キャハハ!」
「あなただって一緒でしょ。てか、早く教室戻ろう。どっちにも関わりたくないし」
彼女達は、その場を立ち去った。誰も仁美里にも鳳子にも近づかない。学校の子供達にとって、二人の存在は理解しがたく、関わりたくないものだった。
仁美里は無言のまま、再び掃除用具を洗い始め、鳳子は濡れたままで立ち尽くしていた。
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