8話
BACKBONE.
8、インスピレーション
大方SNSがそういうものだと思えてきた頃には、下駄箱の手紙の山や知らない女の子からの呼び出し、果ては登下校中の軽い隠し撮りなどにはもう全くと言っていい程驚かなくなった。
こうなっては変に意識しても仕方がないので、道端で声をかけられたら普通に返答するし写真を撮ってくれと頼まれたら快く引き受ける。まあ、そこに何ら嫌味臭さを感じさせないのは晴祝慶人の恐らく才能というやつで、その丁寧かつなんとも平凡な対応は瞬く間にどちらかと言うと良い噂としてどこまでも広がっていった。
よもや、コルガバの放送がプチバズリだとしたら、やはり選抜回とはオオバズリと言わざるを得なかったわけだが、一番近くにいる数少ない人間が変わらずそのままでいてくれたのでひとまず今のところはオオバズリの波には飲み込まれずに何とか自身を保っていられた。
因みに、今回のテイクオフ選抜メンバーは、撮影の次の週に五人揃ってデビューが決まった。
静まり返ったレッスン室で自分以外の選抜メンバーが次々に名前を呼ばれていったわけだが、正直全く呼ばれる気がしなかったので想像通りの顛末に素直におめでとうと喜んだら、平良に殺されるかと思う剣幕でキレられた。
曰く、おめーはそれでいいんか、と。
『…………』
『やれるのにやらねえのは怠慢じゃねえのか!』
『……いや……怠慢では、ない、と……』
別にマネージャー、引いては会社のこの采配は決して悪くないものだと思う。だから多分これで良いのだと言おうとして口ごもると、次には松が珍しくアンダー生の統括マネージャーにハレに俺たちは必要ありませんか? と柔和な声で問うていて驚いた。
これまでのイメージで言うと、松崇仁とはどんな場面であっても一番合理的な判断を誰よりも冷静に下せる人間だと思っていた。それは恐らく、その場に居た誰もがそう思っていたのだろうから尚更おかしな空気になったのだと思う。
だが、そんな最もらしくない人物からの抵抗でもっても端正な笑顔で躱したマネージャーはただ淡々とこう言った。
『ないですね。全くお呼びじゃないでしょう。何故なら彼の目標とは”みゅうと一緒の場所に立つ”ことですから』
静寂にキン、と耳鳴りがした。全員の呼吸が止まったかと思うぐらいの真空。一瞬だったがややあって、やはり余裕の笑みを浮かべたマネージャー自らがその空白を掻き消すのだから人が悪い。
『はっは。君もそういう顔が出来るのですね。嘘です。晴祝慶人くんは単純に出席日数とそれに伴う基準点が全然足りません。一緒にしてあげたいのは山々なのですが、ルールですから』
そんな堂々とした軽口には、しばらくきょとんとした表情で固まっていた松だったが、意図的にふっと息を吐いたかと思えば穏やかな眼差しでこちらを見つめそれはざんねん、とだけ小さく呟いて笑った。
『……』
そこでようやっと初めて自分の中に、もしもこの先この人達とグループ活動をしていたらどういう人生になっただろうかというパラレルが派生した。想像したらそれは勿論悪くないし、もっと言えば勿体ないぐらいの素晴らしい分岐だったことだろう。
けれど、平良や松がこうして無理やりにでも繋いでくれようとしなかったら、自分ひとりじゃ一ミリだって考えもしない世界線であることに違いはない。ならばきっとして、これでいいのだろうと心から納得しながらも、ほんの少しだけ一緒に行けないのは寂しいなと思えたのも実際で。
そして、セオリー通りに行くならば、トップ成績の五人が抜けたレッスン場はその瞬間からのちに続く実力者がアンダー生のパフォーマンスレベルを牽引していくことになる。
つまり、どんな形であれ選抜された身ならばその役割を担うのは当然でなくてはいけないとも言えた。
だが少なくとも今は引っ張る側にはどうしてもなれそうにない出で立ちでいるジレンマを、慶人本人も、無論何にも選ばれなかったその他大勢も、大きな引っかかりとして感じていたのは明らかだった。
例え常からは信じられないほどレベルの高いパフォーマンスをたった一度披露できたとて、条件外では全く凡の晴祝慶人とはゼロヒャクでいうところのゼロなのだ。結局しがないアンダー生としか位置づけられないのもそれはそれで仕方がないことでもあるわけで。
「ハレちゃんおはよ~! ねえねえ、今日夜空いてる?」
「おはよ。来て早々終わったあとの話すんなよ……」
その瞬間からレッスン場が四面楚歌になってしまった慶人にとって、何があってもいつでも出会った頃のまま等身大でいてくれるマツリが隣にいる時だけが唯一心の解放時間だった。開始時間ギリギリにレッスン室に駆け込んできたマツリの姿に安堵してそそくさと側に駆け寄ると、ようやく人と喋れたと内心ほっとする。
「みゅうくんが会いたいから連れて来てって。てかハレちゃん、みゅうくんからの連絡見てないでしょ?」
「れ、連絡……? いやそんなまさかっ! なんかいろいろ社交辞令ってやつだろっ……そもそもみゅうさんが俺なんかのことまともに相手にするわけないじゃん!?!?」
今となってはモデル部のエースという肩書を持つマツリと対等に話せるというコネクションですらもやっかみの対象になっているだろうし、これ以上出る杭になるメリットはなし。よもや会話に聞き耳を立てている連中に聞こえるようにと声が心無し大きくなったのは否めない。
するとマツリはそれらの全てを見透かした目で呆れたようにじっとこちらを見つめながら口をちょっと尖らせた。
「一昨日連絡したけど返ってこないって結構へこんでたよ」
「……は!? うそ、おと、おとといっ……!?!? え……!?」
「うん。……なんかあー!? ツアーの準備ひと段落したからー! 選抜の時の話の続きがしたいってさあ~~! ちな返事くれないってめちゃ機嫌悪そうだった~~!!」
「いやめろやおまえっっっこえがでけえからああああああああ」
慌てふためいて思わずマツリの口を塞いだが、そんなことよりまずは事実確認だ。急いでスマートフォンを出してメールの画面を開くと、なんと紛うことなき「みゅうさん」からの未読件数一通という夢のような表示を認識して脇から変な汗が噴き出たのが分かった。
だって、だって、オタクにとっての推しの連絡先なんて正直なところ非現実的なツールに違いなくて、用もないのに連絡が来るなんてまずあり得ないし、ならば万一用がある可能性が少しでもあるのかと言われたらそんなものは勿論、微塵も、一ミリも、ゼロ以下の可能性だったわけで、それでもいつか、もしデビューなどが出来た暁にはそういう挨拶も必要になるのかなと寝る前にほのかな夢を抱いてむふふする用途でしかな、てかせっかく推しが連絡をくれた!?しかも一昨日、つまり昨日の前だから二日も前にくれていた(?←まだ疑ってる)のに、それに返信していない、というか気づいてすらいなかった場合は法律的に何と言う罪状になるのだろか!?!?!?検索
「いや待ってやば、無理なんだけど……普通にありえない……打ち首……?」
「ほらー。もう業界人なんだからスマホは毎日チェックしなさいて。今日行くってぐらい返信しとかないと拗ねちゃうよ。あの人拗らせたら最悪なんだから。てか、レッスンはじまるよーん」
「こんな……どう謝っていいか……死にたい……」
結局、終始動揺していただけで返信も間に合わないし、心ここに非ずでのレッスンも最低最悪のコンディション。だが、そのお陰で周囲の刺すような視線やあれこれに気を揉む余裕がなくなったのには正直とても救われたと慶人は心の片隅で思っていた。
何にも上手くいかない日だったが、この後久しぶりに生身のみゅうに会えるのかと思ったらそれ以外の他の何をも気にしていられなくなってしまう。
思えば今日までもずっと目まぐるしく移り変わってきた世界線は、たった今を目で追うだけでも本当は精一杯。
それでも、ひとたび望幸恋の名前が出れば疲れ切って弱っていたはずの心臓が今一度ドキリと躍動し、言わばどうでもいいとも言える些細な暗鬱についてを一瞬で振り払ってしまえる。
究極、望幸恋という劇物とは臆病で繊細な慶人にとってのとても強力なカンフル剤だった。
推しとは暗い夜の道標たる北極星であり人生を共にする太陽と月である。一歩を踏み留まる弱い日も、震えながら先へ進む強い日も、どんな時でもそこにあることで幾度勝手に命を救われてきたことか。
今日会えるならば今こそそれを素直に伝えたいと思った。みゅうさんがいるから世界は素晴らしいのだと気が付ける。みゅうさんがこの世界に生まれてきてくれたからこそ、こんな凡人の物語は前へ前へと展開していけるんですと。
「す、すすすみません、すみませんん……」
「よお~晴祝慶人くんよお~、俺に返信しないとかいい度胸じゃんかよ~……」
「はああああああああ、すみませ、すみませんんんんんんん、ごめんなさい、地獄に落ちる覚悟はできてますっ何でもするのでっどうかこの通り、本当に本当に申し訳ございませんっっ……」
「み~ろ~よ~ラインを~~、俺だから良かったものの、これがもし仕事の連絡だったらどうすんだ君は~……」
「はい、はい、すみません、ほんとその通りです、すみませんっ」
さて、レッスンを終えてすぐに駆け付けた飯屋にて引くほどどんよりと曇天を背負って佇んでいた北極星だか太陽だか月だかの望幸恋は、慶人の想像より五百倍は機嫌が悪そうな面持ちだったし、想像していた遥か千倍はテンションが低くて一体どうしようかと思った。
座敷の個室でおこがましくも自分のせいだと思いこんで土下座で平謝りしていると、トイレに寄るからと後から合流したマツリが後ろ手に引き戸を締めながらしらっとした顔でやめなよ、と呟く。
「おい、まったく。体調悪いだけでしょ? 八つ当たりかわいそう」
「体調が……!?」
「ウルセエ。別に当たってねえ。俺は事実を忠告してんだよ」
「え、やばめんどくさっ、俺関係ないのにトゲトゲしないでよっ。ハレちゃんもそんなぺこぺこして調子のせないでよね!?」
「えっ……」
「てかそれパジャマでしょ絶対。髭剃れるなら着替えてこいよ! 会いたいって言うから連れてきたんだからハレちゃんに幻滅されないように気を付けなよね」
マツリがそう言うのを聞いて恐る恐るみゅうのことをよく見てみると、確かに血の気の帯びないかさついた目元にはメイクみたいなくっきりとした隈が居座っていてドキっとする。部屋着に近しいラフな格好も正直全く気にはしていなかったが、言われてみればかなり襟ぐりがくたびれた古っぽいティーシャツだった。
「なに、晴祝慶人くんって俺が汚いと幻滅すんの」
「滅っっ相もございません」
「最低の絡み。熱計ったの? 具合良くないならくんなよっ子供かっての」
「ああも、ほんっとうるせえ、俺はハレと喋りたいの、黙ってろよばか」
「はあ~~~~~???」
「え、え、あのっ、」
「腹立つ~~! ごめんねハレちゃん、ホントこういうとこなんだよ。怒っていいから!」
「っいいーーーからお前まずこっち来いよっ、今から俺とだけ喋れ……!」
「もう、馬鹿じゃないのほんとに!!!! はやいとこ嫌われろ!!!」
「ウルセーバカ!!! ばか!!! ばーか!!!」
「っッおいっ!!!!(怒)」
「…………;;;;」
びっくりするほど乱暴な二人のやりとりを見ておろおろとしていると、ふいに熱っぽく潤んだ瞳のみゅうと真正面から目が合って心臓がぎゅっとなる。
これじゃあまるで駄々っ子だ。いったいぜんたいなんて切ない目で人を見るんだろう。何がどうしてそんなに“嫌”だというのだ。否、なんでもいい、分かったから、どうか願わくばそんな顔をしてまで何かが足りないと思わない人生でいて欲しかった。
そう思った瞬間、慶人の心の底の部分がぱかっと開いてたった今この状態のみゅうと対峙する為に必要なもの以外の一切が全部抜け落ちていった気がした。
立場とか遠慮とか最早推しということすら一旦忘れなくてはとほぼ無意識に思う。躊躇う気持ちをかなぐり捨てて慶人はその目をみゅうと深く交えたままに今自分が抱えている強烈な不安を素直に正直に吐き出した。
「具合、よくないですか……?」
「……べつに」
「もしかして俺に会うために無理して来てますか?」
「え? ……んなわけ、ない、……こともない、けど、あれ、わからん……頭痛い……なんの話……?」
「もしそうなら、今度からは絶対やめてください。もう二度と連絡見逃さないし、みゅうさんに呼ばれたら俺絶対いつでもどこにだってすぐ行きますから、約束します」
「…………。噓吐いたらハリセンボン飲ますぞ」
「飲みます。針でもハリセンボンでも何でも喜んで飲むから、みゅうさんも身体しんどい時には絶対無理しないって約束してください」
「……」
「みゅうさん……」
返事は無いが、推しが仮にも命の危機だというのにここで引いては人間失格だ。体調が悪い、つまりは病人。病人に推すも推さぬもないだろう。人として誠心誠意休養を取るよう勧めねばなるまい。自分でも驚くほど自然に両手を握って心なし強くぎゅっとしながらうるんだ目を見つめていてやると、決まり悪そうに横に逸らされた目線がゆっくり戻ってきてはまたどこかへ行く。
「……てか説教かよ、……生意気……」
「いいえ、断じて。人生の大先輩に向かってそんなこと誓ってしませんから、今日はお家に帰りましょ……なあんにも心配しなくて大丈夫ですからね~~……」
「……」
依然、むすっとした表情は変わらないまま握った両手に目を落として黙ってしまったみゅうが頷いてくれるのを必死に待っていると、スマートフォンをいじりながら一部始終を黙って見ていたマツリが心底呆れた表情でぼそりと呟いた。
「みゅうくんマジでダッッサ。ハレちゃんがいい人で心底良かったよね」
「…………!」
その途端、いきなりぶわっと耳まで真っ赤になったみゅうに驚いて、思わず凝視した。握っていた冷たい手もみるみるうちに熱くなって、一瞬で見目にも分かるほど我に返ったみゅうが火照った頬のまま慌ててこちらを見てくる。
「っっウワっ、……ご、ごめんっ……!!!!! 調子悪くてめっちゃ素だったっ……ほんとごめ、態度最悪だな!?!? はずかし、性格良くないから繕えないとこうなるんだけど、いや、じゃなくてマジですまんっ……!!!」
「あ、いや……え……」
「あああマジでこんなこと言いたかったわけじゃなかった、ごめん、ごめんなさい……いやでもさ、でもってか……ラインは返してほしいよ……スルー寂しかったんだけど……」
「っそれは本当に見てなかった俺が全面的に悪いですっっみゅうさんからの連絡スルーなんて出来ないですからっ今後はちゃんとチェックいたしますので……!!!!」
「うん……」
しょぼくれた犬みたいに項垂れて、とてもきまり悪そうに頭を掻いたみゅうだったがその直後、ざあっと顔面が真っ青になって固まる。
「……みゅ、みゅうさ……?」
「あ゛~~~、てかやば、し、しんどぉ……マアもマジで悪かった俺帰る……」
「えっだ、大丈夫ですか……!?」
青くなったり赤くなったり機嫌が悪かったり急に繕ってみたりと目まぐるしく変動するみゅうの情緒の不安定さは誰が見てもきっと異常だと感じるし実際おかしかったのだろう。
また病的な蒼白に戻った顔でよたっと席を立って出て行くみゅうを、何も言わずにしばらく目で追ったマツリが短くいくよと言って立ち上がった。
「え?」
「えじゃないよ。一人暮らしの不調って怖いんだから。ただの風邪だって拗らせたら死ぬんだからね」
「……? どういう……」
「どう見てもやばいじゃん今の。外であんなこと言うみゅうくん見たことないから流石にちょっと心配だよ」
「え、そ、そうなんだ……?」
マツリの後について急いで店を出ると、大通りの並びにある社宅マンションに向かってただまっすぐに歩くみゅうの背中が見えてほっとする。足早に歩き出すマツリの手がなんとも自然にこの腕を引くので一緒になって歩き出したけれど、途中でさすがに疑問に思う。
「え、ねえマツリ……?」
「ん?? ね、ハレちゃん、好きなのは分かるけど、今は深く考えないで具合の悪いみゅうくんを看病することだけに集中するんだよ。分かった??」
「……え!? 待って俺も行くの!? みゅうさんち!? え!?」
「行くよ。行くでしょ! 推しなんだから最後まで面倒みなきゃ」
「えっ、待って、待って待って、む、むりなんだけどっ……」
くたびれたスウェットのポケットに両手を突っ込んでのろのろと歩くみゅうにはあっという間に追いついた。マツリが半歩後ろからさも当然かのように大丈夫? と問うと同じくさも当然のようにしてみゅうは小さくサミィと答えた。
「やっぱ熱あるんじゃん」
「ある。多分八度超えてる。具合悪。ま~じで横になりたい」
「馬鹿じゃないの……。先生呼ぶ?」
「いらない。いつもより疲れただけ」
初秋とはいえ寒いと言うには流石に無理のある気温なのでこの湿った暑さの中みゅうだけが寒くて震えているのだと思うと薄っぺらい生地のTシャツから浮いた猫背の背骨がたまらなく不憫に見えてくる。
マンションの敷地に辿り着くと広いエントランスを潜り抜け、エレベーターを待つそのわずかな間にもみゅうは普通に立っていられずに上を向いたり下を向いたり足踏みしたりして落ち着かなかった。
「あ~~~、さみ~~しんどい~~~……」
「流石にしんどそ~……ハレちゃんが抱きしめたら治るんじゃない?」
「ナニソレ~治りそうじゃん~。やって」
「冗談言ってる場合じゃないですよ……」
「冗談でこんなこと言わねー。寒いんだよほんとに。手ぐらい握れよケチ」
みゅうとマツリはけらけらと笑ったけれど、申し訳ないがそれどころじゃなかった。こちとら推しの住居に侵入するという人生屈指のピンチが訪れているのだ。
ファン心理の葛藤は勿論だが、未だ完全には三次元的にこの世界に落とし込めてはいないみゅうという存在をじわじわと実感するようでなんとも未知の恐怖を感じる。
さっきは咄嗟の出来事過ぎて手まで握って休むよう説得出来たものの、冷静に考えたら脳みそが沸騰するほど差し出がましいことをしたと羞恥すら感じてきた。何がおうちに帰りましょうだ。熱でおかしくなかったら絶対絶対こっちが嫌われていたというものだ。今ばかりはみゅうの頭がおかしくてよかった。いや、良くないか。いやまずはよかった。いやいやよかったは駄目か。身体のことだし何かあったら絶対よくないよな、良かったは不謹慎だ、でもひとまずは、
「ハレちゃん、俺一回自分の部屋言って荷物おいてくるから何かあったらよろしくね」
一人で悶々としていると、マツリの声で我に返って咄嗟に上を見上げる。エレベーターの階数表示盤には4の数字が白く光っていた。
「えっ!?」
「あいつの部屋六階なのよ。申し訳ないんだけどお湯沸かしてくんない……」
「あはいっもちろん……!」
さっさといなくなってしまったマツリを他所に廊下の最奥、一番左の部屋の前で止まったみゅうがボタンとカードキーで玄関の扉を開けたその瞬間、
「エアコン消してたから暑いと思う」
「は………………」
めちゃくちゃいい匂いがしてきて倒れそうになる。否、この匂いがどこのルームフレグランスなのかぐらい公的な情報で把握していたし実際真似して一度自分の部屋に置いたこともある。あるのに、その匂いとは全然まったく違う香りのような気がして思わずみゅう本体の背中を見つめたまま立ち尽くす。
「スリッパとかねえんだウチ……汚かったらごめん、掃除できてない最近」
「いえ、お、おゆ、わかしま……」
「おう、サンキュー……元栓開けて。ヤカンそこ。俺湯たんぽ探してくるから火見てて……」
「はいっっ」
まさか嗅覚でころされそうになるとは思っておらず心頭滅却しながら言われるがまま直立不動でコンロの前に立ってはみたが、やはり好奇心には勝てない。
カウンターキッチンから見える向こう側である広々としたリビングをそっと覗くと、正面にはベランダへ続く大きな掃き出し口が見えた。何故ベランダだと分かるのかというと窓にはカーテンが無くグレーのコンクリートが丸見えで上半分は真っ暗な夜空だったから。その近くに大きめのベッドとローテーブル、テレビは見当たらないが代わりにノートパソコンが一台テーブルの上に置いてあった。
それ以外には床に白地で黒のシャギーが入ったシンプルなラグがひとつ敷いてあるだけで、本当に必要最低限のものだけが佇んでいる超ミニマルな部屋。
以前から私物は極力増やしたくないと公言しているのを知っていたので宣言通りのイメージ通りで普通に感動してしまう。
そのままリビングから目線を横にずらしていくと、右側に続く部屋の扉が半分開いているのが見えたので、みゅうはあそこに湯たんぽを探しに行っているのだろう。
見た感じはとても綺麗で新しい。かなりゆとりのある広さだけれど、間取りとしては1LDKになるのだろうか。冷静に分析しつつも最初に言われた通り、エアコンは付いていないので室内はとても蒸し暑く、コンロの熱も相俟ってあっという間に額には汗が滲んだ。
「悪い、これお願い……。暑いよね。でもエアコン嫌だから……俺寝たら窓開けていいから」
「いえ、はい、大丈夫です! お湯入れて持ってくので横になっててください」
「ありがとーー……」
というか、寝たら帰ってもいいわけではないのだなと正直思った。いらぬお節介かもしれないが、部屋の中に人が居てもちゃんと休めるものだろうかと内心心配になる。
手渡されたミルク色のプラスチック容器にお湯を注いでふと何の気なしに目をやると、外側のカバーとして包まれていた白いもふもふの正体が可愛らしいひつじのキャラクターだということに気が付いて思わずびくっと手が止まる。
「……」
瞬時にこれはファンからのプレゼントだと察した途端、なんだか自分が触ってはいけないものだったような気がして静かにパニックになる。送り主もまさかみゅう以外の人間が触るとは到底想像もしていまい。どうしよう。真摯な愛情を汚しているようで気まずい。
「やけどきをつけてな」
「あ、っっはいっ」
タイミング良くベッドから掠れた声がそう催促しなければ、もう二度と触れなくなるところだった。仕方がないので、なるべく触れる面積を考慮しながらごめんなさいと呟いて抱えてみると、その異常とも言える湿った温もりが相俟って物凄い罪悪感が胸の奥からせりあがってきて吐きそうになる。
「ありがとう。冷蔵庫に飲み物あるから好きなの飲んで」
「……ハイ……」
なんとか運んで手渡すが、最早拷問にならないかと心配になるほど熱々の湯たんぽを大事そうに抱きしめるのを固唾をのんで見つめてから毛布を掛け直してやる。更にその上から肌掛けも被せるといよいよおかしな光景だった。
「暑くないですか……?」
「ん、いまんとこだいじょぶ。ありがとね」
「いえ」
「…………ねえ」
小さく呼ばれるので近くまで寄ると、充血してつやつやに濡れた目がまたもやせがむようにして見つめてくるのでやっぱりどうにも困ってしまった。そんな顔をされたら誰だってどんな願いであっても叶えてあげたくなるに決まっている。ズルいほど魅惑的な瞳の魔力に取り込まれ、一体何が欲しいのかと身構えているとみゅうは重そうな瞼でゆっくりと瞬きながら俺も、と譫言みたいに呟いた。
「俺も、ハレとステージやりたいなあ……」
「え……」
「……いつか絶対、約束ね……」
「ぁ……は、い、……」
うん、と安心したように息が漏れてそのまま静かに目を閉じる。まるで映画みたいにして眠ってしまった端正な顔立ちにしばらく見惚れていたらなんだか無性に泣きそうになってやっと目を逸らした。
よく分からないが全身に鳥肌が立った。一緒にライブをする? いつ、どこで。なんで? 今更心臓がドキドキして息が上手く出来ない。勿論そう言ってもらえただけでも十分嬉しい。嬉しいけれど怖かった。
だって、今の自分では絶対に辿り着かないはずの世界線がもうすぐそこにまで迫っているような気がして。
望幸恋と一緒のステージに立ちたい。何もそれは決して対等というイメージでは本当に全く無かったので底なしの自己肯定感がまた更に深くなっていく。
当たり前だが、急にそこには行けないだろう。いくらなんでもそれは分かる。きちんと段階を踏んで、もっといっぱい、もっと大きなチャレンジと成功を繰り返して辿り着くべきだ。例え望幸恋の望みだとしても、未熟な自分のままそんな勿体ない場所には行けない。否、行きたくない。
あまりにも突飛で想像も出来ないので無意識に目を瞑ると、真っ先に平良の怒った顔が浮かんだ。
もし本当に望幸恋と対等にステージに立つ日が来るのなら、もしかしたら先般のデビューメンバーには入っていなければいけなかったのかな、と余計なことを考える。
無論、自分としての実力があるわけじゃないから選ばれないのは当然だったが、つまりあの時までにデビュー出来てもおかしくない技術を身に付けなくちゃいけなかったのかなあ、と入所してから今日までの自分の軌跡を思いながら少し項垂れる。
全部自分で決めて精一杯やってきたつもりだけれど、やっぱり高校生活もアンダー生も両方を上手くやろうとするから今求められている場所に立てていないんじゃないだろうかと葛藤する。
本当ならあそこでデビューが決まって、これからあの六人でステージ経験を踏んで、ある程度の実力をつけて、みゅうさんと一緒にステージをやることになる流れ。そうしたら、周りから分不相応だと思われることもなければ、こんなにも自分に自信がなくてそれが情けなくておまけにいらなく悔しい気持ちにもならなかっただろう。
結果は結果だから仕方がないけれど、少なくとも偽物の個性じゃこの先はいけない。自分なりに自分の良いところをちゃんと認めて向き合って自信と技術を身につけていかなくてはならない。考えるのは簡単だ。でも、その着実だが地道な行程のことを考えたら、なんと遠く、長く果てしないことかと、途方に暮れる。
果たしてそんな自分を、みゅうさんはいつまで待っていられるだろう。
「…………」
ガチ、とドアロックが外れる重たい音がしてハレちゃん、と小さくマツリの声がする。
すぐに立ち上がって玄関へ向かうと、チェーンのかかったドアの隙間の向こうで頬をふくらませたマツリが黙ってドアを閉めた。
チェーンを外してドアを開けてやると、意地悪、と呟いたのが聞こえた。
「てかこの部屋あっつ~……。熱中症になっちゃわないこれ? まだ寒いって?」
「熱高いんだと思うよ。湯たんぽ抱いて毛布被って寝てるもん」
「やばくない????? 死なない????」
そうは言いつつ、エアコンは付けずに窓も開けないマツリはきっとみゅうが疲れてこんな風になってしまうことを幾度か経験しているのだろうと察する。
長い手足を投げ出して無防備に床に寝転がる能天気な姿を見ていたらなんだか余程ほっとした。
「あー、暑いー。何か飲む? ツアー前だからこんなヨワヨワになっちゃってんだと思うけどこうなる前にメンテぐらいしろよって感じだよね~」
「はは……。推しの命の危機だって思ったら怖いよほんと……」
「みゅうくんの地雷未だによく分かんないんだよ。忙しいのは分かるけど、何にダメージくらってんだかイマイチ。やたらしつこくご飯誘ってくる時は大体煮詰まってる時だから、ハレちゃんも自分に余裕ない時は行かない方がいいよ。共倒れしちゃうから」
「そうなんだ」
「……あ、え、ねえマウントじゃないよ? この人本当に友達いないから全部俺のとこに来るわけ。俺だって仕事あるから毎回付き合ってはあげられないし、メンタル不安定な時は人が側にいないと駄目なタイプでさ、……ほんと、マウントじゃなくてね?」
徐々に上体を起こしながら必死になって困った顔をするので思わず笑ってしまう。
「別に何とも思ってないよ。寧ろみゅうさんがしんどい時頼れる人がたった一人でもいてくれてよかったなって思ってるよ。じゃなきゃこんな限界、何回も乗り越えられなくない?」
「ま、消去法だけどねえ。でも初ツアーが終わった時ぶりだよこんなの。あの時も熱すごくて電話口で喋んなくなっちゃったから急いで見に行ったら玄関で気絶してびっっくりしちゃった。ソッコー救急車呼んだけど……」
「こ、怖っ……」
「でしょ~? その時に鍵開けられなくて俺が凄いてんぱっちゃったから、そこから合鍵預かってるんだ。だから今日チェーンかけられてたのブチ切れ案件」
「えっいや俺合鍵なんて気にしてないからっ」
「ほんと~~? ハレちゃんがみゅうくんのことどれだけ大好きか知ってるから、余計な誤解は全部解いておかなきゃねって思って……」
「んっ~~、まあ~~? マツリくんはみゅうさんの特別だからあ……? 実際俺の入り込む余地などないんですけど~~……」
「やめてよっ目が真剣っ洒落になってないからっ」
声を潜めて二人でけたけたと笑っていると、ベッドの中でみゅうがごそごそと動くのが分かった。気になったのでそっと覗き込んではみたものの、頭の半分以上が布団に埋もれていてその様子は窺い知れない。
「暑すぎないかな……」
「上は剥いでもよくない? もはや脱水で死んじゃうよね」
そうっと肌掛け布団をめくると、見目にも暑そうな毛布に包まるみゅうの身体が必死になって呼吸を繰り返しているのが目に入り、何とも言い難い不安と安堵の入り混じった感情で胸がいっぱいになった。心配性でストイック過ぎるのがウィークポイントだとは何かの雑誌で話していたのを思い出すが、こんなに極端に身体の負債を溜め込む人だとは思わなかった。
「……みゅうさん身体弱い?」
「何言ってんの丈夫だよ。こんなにタフな人間そうそういないでしょ。馬鹿みたいに詰め込み過ぎなんだって。動けなくなるまでやる普通?」
「無理するのが当たり前になってるのかな」
「よくこれでツアーとか出来るよね? もしも身体の限界をアドレナリンで超えてるんならさ、マジでアドレナリン切れた直後にしぬ可能性ゼロじゃないと思わない?」
「…………」
「……冗談だよお、そんな顔しないでよお……」
「フィフティフィフティな気がしてツライ……」
マツリから見ても無理のある身体の使い方なのだと分かってしまったら尚更不安になった。
でも、だからこそ望幸恋はあんなに完璧なのだとも思う自分もいた。誰がどこから見ても揺らぐことのないスター像を維持し続けられるのはひとえにたゆまぬ努力でしかないのだ。だからきっとそれが損なわれるぐらいなら最初からやらない。プライドの質が桁違いに高い人。
ふとマツリが立ち上がってキッチンへ向かった。静かに冷蔵庫を開けて炭酸を一本持ってきてくれる。
「ありがと」
「ご飯食べられなかったよね。あのお店、みゅうくんの行きつけで美味しいとこだからまた今度連れてってもらいなよ」
「うん。機会があれば……」
「いくらでもあるでしょ。みゅうくんも落ち着いてるみたいだし交代でシャワーしよっか。レッスン終わって直行だったからべとべとでしょ?」
「あ、……うん。行ってきていいよ。俺見てるから」
「ほんと~? じゃあささっと行ってくる。ついでに下のコンビニ行ってご飯買ってくるね」
「ありがとう。助かるよ」
「じゃ、待ってて! チェーンかけないでね!」
こうして正味一〇分も居ないで躊躇うことなくさっさと部屋を後にするのは実に合理的で行動力のあるマツリの性格らしいなと感心した。
歳の割に大人顔負けの冷静さと判断力も兼ね備えていて何より肝が据わっている。きっとみゅうだってそんなマツリだからこそ全幅の信頼を置いて頼りにしているのだろう。
無論、嫉妬の気持ちは限りなくゼロなのだけれど二つも年が下なのに、自立のジの字も知らない自分とは大違いだよなと人生経験の未熟さが不甲斐なくてちょっとだけ落ち込む。
「…………」
気持ちが落ち着いた途端、疲れた身体が横になりたがるので床にそっと仰向けになって天井を見つめる。
元より眠るつもりなどなかったが、みゅうの体調もこれからの自分のことも、漠然とした大きな不安を握り潰すようにして胸の前でぎゅっと手を組んで目を瞑る。
焦っても仕方がないのなら、これまで通りでいいからやれることを頑張ればいいと思える反面、どうしたらもっと早くもっと近くに行けるのかとやはり考えてしまう。高校中退しようか? バイトを増やせばいける? でも周囲になんて言ったらいいだろう。それで俺は後悔しない? 最速はどの道だ。今が本当にそうなら、まだまだ、もっともっと頑張らなきゃいけないんじゃないか。そうなら今日まではもしや平良の言う”怠慢”だったのだろうか?
ふいに課せられた未来への重圧でいっぱいなまま、いつの間にかうとうとと微睡む。
浅い夢ではどこにも行けず、ぼんやりと時が過ぎるのをただ何も出来ずに待っていることがどれほどもどかしいことであるのかを、たった今慶人は苦々しく経験していた。
*****
回る天井に目を瞑ってからはおおよそ四時間が経った頃、汗ばんだ身体の不快感に目を開けると熱源であるもふもふのひつじが腕の中で燃えていて恋は思わず身を捩る。
身体の悲鳴に従って残暑の室内で湯たんぽと毛布という狂気の沙汰で強制的に温まった身体は、どうやら不調を根こそぎデトックスできた様子。体感的に熱も下がった気がしたのでゆっくりと起き上がると上も下も毛布もシーツも汗でぐっしょり濡れていた。
「……最悪ゥ……」
少し頭がふらつくが、喉も乾いたし水でも飲もうとベッドから足を降ろしたその瞬間、その先が床ではない何かに触れた感触でびくっと動きを止め、視線を落とす。
「…………」
辛うじて声には出さなかったが、同じぐらい汗だくで仰向けに床に伸びていた晴祝慶人のあまりの存在感のなさには今期最高にびっくりしてしまった。
そして同時に、これまでの経緯が脳裏に蘇り一呼吸おいて嘆息する。
「おい、こんなとこで寝んなよ、フツーに踏むんだけどっ……ハレ! 起きろ!」
「ゥヤッ……」
眠りが浅かったのか、咄嗟の呼びかけには素早く反応しホラー映画みたいにして急に目をひん剥いた様子を見て口元が緩む。寝るつもりもなかったのだと分かるが床で寝かせておくのも可哀想だし、着替えたら布団を敷いてやろうと思案する。
「!!! あっ……!? 俺寝てっ……すみ、あ、てかっ起きて大丈夫ですかみゅうさんっ」
「うん。おかげ様でめちゃ汗かけたからだいぶよき。暑かったろ。窓開けていいって言ったのに」
「寒いといけないと思って……何か飲みますか……?」
「いいよ。自分で行ける。マツリは? 来なかった?」
「来ました! シャワー浴びるって言って、あとついでに飯買ってくるって出て行って、それでいつの間にか……寝てました……」
気まずそうに頭を掻いた慶人がちらっと壁の時計を見たのにつられて何気なくそちらを見ると、時刻は二十三時半過ぎ。元より今日は帰す気もなかったが、そういえばレッスンの後だったなとふと気が付く。
よく考えたら散々だったことだろう。一日中レッスン場で歌って踊って疲れたろうに、飯も食べ損ねた挙句汗も流せないまま床で寝ることになるなんて。
「ほんと全部ごめんな……。先にシャワー使って。服のサイズ何?」
「さ、先にとは!? いや、もう体調平気なら俺出て行きますからっ……ゆっくり休みたいですよね……!?」
寝ぐせがついた頭を必死の形相でぶんぶんと横に振るのを見て笑いそうになったが何とか堪える。いちいちオーバーリアクションでうざ可愛い。
「……それさあ、俺が許すと思ってんの? こんな時間にどこ行くんだよ。居て欲しいって言ったのこっちなんだから今更遠慮しないでよ。Lしかないけどちっちゃくないよね?」
「……ええ、いや、お借りするわけには……」
「なんだよ。全裸でいいってこと? それとも潔癖かなんか?」
「どっちもちがいますけどっ……」
うだうだ言って埒が明かないのでマツリに電話してとりあえず下着だけは調達してもらうことにする。まあ、確かに初めて入った憧れの先輩の部屋で先にシャワーを借りるのも服を借りて着るのも若干ハードルが高いのかと思わなくもない。
理解はできるがそんな憧れなんて感情にはすぐに慣れるとも思っている。というか早く慣れて境界線の内側、もっと踏み込んだ心の側に来て欲しいというのが本音だった。
無論、表面上で慕ってくれる後輩は今現在もたくさんいたし、もっと言うなら表面上仲良くしてくれている業界人も多くいる。
表面上とあえて言うのは大体の人間関係はその義務的な付き合いでもって成り立つし、そこに本心が伴わなくても良好であるのなら何の問題も全くない。たまにソウイウ流れで抱いてみた女達にですら、表面上、或いは本能的な熱しか感知しない。つまり、この世界で生きるのに本心からの親しみや愛情は必須の項目ではないということ。
だからこそ一見地味な晴祝慶人から感じ取る信仰心にも似た執着とはもう一生誰からも与えられないと諦めながらも渇望している本物の愛情なのではないかと期待してしまう。勿論、手放しにとは言えないので偽物のボロが出るのを待っている節も少なからずある。裏切られるのが心から怖い人間からすると期待したり信じたり、求めたり晒したりするのは自殺行為に程近いものだと自覚しているから尚更だ。
見極めたいからもっと知りたい。そうなんじゃないかと思っただけで傾倒しそうになるのを堪えるのだってストレスだった。本当はもっと早くもっと近くでもっともっと限りなく本当の部分を見て触れて、やっぱりそうだと安心したかったのだ。
でも、同時にやらなくてはいけないことが多すぎてそんな時間すら取れなかったというのが実際で。自分でもまさかツアー前の身心の無理が祟っておかしくなった精神でもっても未だ未確定の晴祝慶人の愛情を求めてしまうとは想像していなかった。
今思えばフラストレーションの大きな要因は絶対にそこで、作業の合間にちらついてしょうがない晴祝慶人へのたくさんの問いを山積みの義務に邪魔されて一つも解消できないというストレスが苛立ちになって募ってしまっていたのかもしれない。我ながら弱いなと呆れてしまう。
「……反省。じゃマツリ来る前に俺先に入るから。勝手に帰んなよ」
「あ、はい……ごゆっくり……」
「ん~……やっぱなんでもいいからたまには連絡欲しいよナァ……」
「えっ」
答えは待たずに脱衣所の扉を閉める。聞きたいことはもちろんたくさんあったけれど、どうにもそれだけではもう解消しきれないほどのガチガチの独占欲が芽吹いていて静かに目を閉じて己の心になんとか制止をかけようとする。
表面上の好きに愛が宿らないと生まれつき感覚として知っているためか、どれほどそれらを纏って欲して塗れてみても心の中にまで届くことなどこれまで一度もなかったように思う。
マツリの言葉は愛とは違うし時にとても鋭利だったが、少なくとも表面上の自分だけをなぞらえて物事を言ったりしないと分かったからこそ信頼できた。それだって二人で何度も言葉を交わし懐を探るようにして互いをまさぐり合って得たものだった。
でも、晴祝慶人とはパーソナルな部分についてをちゃんと喋ったことすらなければ無論、心同士が触れあう機会など微塵もなかった。
早合点で傷つくのは自分。無理に近づいて理想を壊しても嫌。でももうこんなに期待して欲している。そんな無意味な葛藤も本当は心底疲れる。
『あれ、みゅうくんは?』
『うん、今シャワー浴びるって』
『えー、熱下がったのかな? じゃーん、パンツ~。蛍光イエローにしてあげたよ♪』
『派手ッ』
突如扉の向こうで響いたマツリの声にはっとして顔をあげると洗面台の鏡に映ったひどく疲れた目をした自分と対峙し嘆息する。
それにしても初対面も同然の人間にこれほど不安定な姿を見せてしまったのは人生で初めてだった。不思議とプライドも羞恥もさほどなかったが、それもやっぱり常の自分からするとおかしかった。
マツリがいい例だが、一度でも他人に甘える心地よさを知ってしまえばそれこそもう一人では立てなくなるから厄介だ。でも、見せてしまったからにはきっと晴祝慶人には次に辛い時も側に居て欲しくてたまらなくなるのだと思う。
果たしてそれが、晴祝慶人のためにはならなかったのだとしても自制のきかないその時の自分には成す術など何一つないのも知っている。
殊、不調の原因は全て自分よがりの性格からくる気疲れによるものだと知っていた。だったらそれを改善するのが一番の解決策だというのはきっと子供にでもわかる正解だ。
『俺居ていいのかなあ……』
『遠慮なんてしなくていいでしょ~。みゅうくんはハレちゃんが大事にしてくれるのを求めてるんだもん。減るもんじゃないんだしいっぱいいっぱい愛してあげたら喜ぶよ』
『いや、そもそもみゅうさんのは愛とかいう問題じゃないよ……真面目な人なんだろうし、仕事モードに入ったら生活にまで手が回らないの想像ついちゃうよな』
『まあ、みゅうくんがもっと自分のこと大事にしてくれればいい話ではあるんだけど』
例え解決策が分かっていても、自分じゃそのやり方が本当に微塵も、これっぽっちもわからないから辛かった。
与えられることでしか満たせないのは人間的な欠陥で、普通はきっと誰でも自分のことをある程度大事に出来るだろうし優先順位が常に他人にあったりなどもしないのだろう。
愛されたいけどそれに足る自分であるのかはいつも不安だった。完璧でいたい、常にだれかの要望に応えていたい、だってそれでしか自分の存在価値が見いだせない。
そんな神経をすり減らすやり方がやはり辛いと思ってはみるのだけれど、そう素直に口にするのも実際とても怖かった。装っているからそうなのか普通の人が当たり前に出来ることを知らない自分が露になるのが凄く怖い。
世間や周囲に、マツリにすらも未だに親が誰かを知られるのは嫌だと思ったし、どういう環境で育って誰に何を言われてきたか察せられるのも、不憫だと可哀想だと或いはおかしいと特殊だと”普通”と線引きをされてしまうのも絶対に絶対に嫌だった。
『……でもそりゃそうだよな……。あんなに優しくて他所ばっかり先に大事にしちゃうんだから、自分まで手が回らないんだよなきっと』
『他人を優先するって言ったって限度があるでしょ~!?』
『でもさ、俺が今までずっと見てきた表側がいつでも完璧だったのは少なくとも自分よりファンのことを最優先に思ってるからでしょ。今外で声かけられても疲れてない顔絶対出来ちゃうもん。どう思われてたいかってのは結局愛情じゃん。それを保つのがきっとみゅうさんのプライドなんだろうし……』
『……理解は出来るけど。でも究極、それって命より大事なものか? って話になるじゃん』
『大事なんだよ。だって、今だって命削って完璧造ってるんだよ? 目的のためなら自分の身体のSOSだって無視できるぐらいにはさ。言いたくないけど、他人ありきの自分だって思い込んでるから自分を大事にするって発想がそもそもないんじゃないかなって』
「…………」
妙に心にすとんと落ちたその結論は、今まで生きてきたなかで一番自分の人生にしっくりくる言葉だった。
自分だけでは満たせないと感じてきたから外側に向かって求めてはみたものの、与えられてもちっとも満たされないと感じる理由がついに分かった。そもそも自分を愛する理由も意味も分からないからだ。誰からも愛されるべき人になりたいと飢えの設定を作ったのは自分。求められた人物像など最初から無かったはずなのに、勝手に“完璧”を造り上げてきたのは間違いなく自分自身だった。
それなのに結局自分の理想に苦しんで、こうして他人に迷惑をかけている。制御しきれないほど自分を追い詰めるメリットなんてないのに、愛されたい為にそうせずにはいられない。やれないことはやらなきゃいい、ただそれだけのことのはずなのに。
否、本当は気が付いていたのかもしれない。だけど、”それだけのことも出来ない欠陥品”、そう認めるのも、一人じゃ怖くて向き合えなかっただなんて。
心の奥底に潜む根深い劣等感をぐちゃぐちゃにされた気がして身体に力が入らなくなる。洗面台に手をかけながらゆっくりとしゃがみこんで目を閉じると、暗闇にまた晴祝慶人の声が聞こえてきた。
『うわ、分かっちゃったかも。だから皆が好きになるんだ。つまり、みゅうさんにとっては全ての人が例外なく特別だって思って活動してくれてるわけでしょ。俺命貰ってるってことだ。だからみゅうさん見たら元気になるしどうでもいいこと気にならなくなるぐらい生きようって思うんだ』
『……なんかでもそれ、命削らせてるの自分だってことにもならない?』
『うん、だからさ、……返してあげたらいいんじゃない!?』
『かえす??』
『そう、貰ったぶんだけ俺が今度は命あげたらいいんじゃないかな!? やば、真理だ。なるほど、推すってそういうことなのかも』
『え、ど、どういうこと~!?!?』
その瞬間、ここには何も残っていないと思い込んでいたからこそ真っ暗だった目の前の空洞に、ポツリぽつりと赤い光が少しずつ灯った。
与えた分だけ貰えばいい? 良く考えてみれば与えて終わりだったことなど望幸恋という人生においては一度もなかったことに今気付かされる。
ざあっと、さざ波のように広がるサイリウムの躍動。赤だけじゃない、黄色、緑、ピンクに青、紫もオレンジもそれぞれのプライドをもって懸命に揺れる。
好きの度合いを比較なんてできないようにその光には強いも弱いも無くいつのどこでもどんなだれでも平等な輝きだった。けれど、そこに愛情が灯っていなかったことなどただの一度もなかった。皆の時間をお金を気持ちを、ここに集めてくれたからステージにはスポットライトが当てられる。そんな当たり前の奇跡を今までに幾度目の当たりにしてきただろうか。
頭の隅々まで熱い鼓動が急速に駆け巡る。チカチカと明滅する瞬きは苦しかった道程の山頂でのみ見られるインスピレーション。ステージ前にこんなに足りなくなるのは最早物理的な枯渇なのかもしれないと思う。あの熱い光から放たれる愛情が、曰く命が、決して永久のものではないからなのかもしれないとその貴重な瞬間瞬間の生命力を思い出す。
だから欲しくてたまらなくなるのか。何度も何度もステージに立ちたくなるのか?
他の誰にも評価されなくていいから、赤い光がより多く大きく揺れるのを、期待するのだろうか。
「…………」
それからは完全に自分の精神世界にトリップしていると自覚する。眩暈にも似たステージの幻想でふと横を見てみると、そこにはどうしてか晴祝慶人が立っていた。
そう認識した途端、赤の光はいつの間にか全て消え、代わりに客席の一面を眩い白昼のサイリウムと月夜が波打つ黒のサイリウムが交互に犇めいた。
晴祝慶人がみゅうさん! とにっこり笑って嬉しそうにセンターステージを指さす。
つられてそちらに目線をやれば、目が眩むような閃光を背景にしたおそらく望幸恋がいて、音が止んだ真空みたいな耳鳴りの最中、母音にしてあいうと彼の口元がそう言ったのを見た。
「……ライズ…………」
脱衣所の扉が急に開いて思わずビク、と身体が震えた。驚いた顔のマツリがすぐに隣にしゃがみこむ。
「何してるの!? 具合悪い!?」
「………………」
「みゅうくん!?」
「……あー、……ん、ちょっと立ち眩みして…………休んでた……」
久しぶりにきたあまりに鮮明なインスピレーションに夢見心地で顔をあげると、扉の外から心配そうに覗き込む晴祝慶人がこちらをじっと見つめていた。その曇りのない純粋な目を見ていると、やはりこの出会いとは自分にとって特別なものだったのだと理解した本能が勝手に興奮するのが分かる。
まるでずっとずっと出会いたかった、心から求めていた存在だと気が付きたかったのだと魂が沸き立ち歓喜しているかのように。
「ハレ」
「え、はいっ……」
「はやくデビューしてよ。そしたら一緒にステージやろ」
「……へ……」
ゆっくりと立ち上がり、垣間見た未来の一コマを忘れないようにもう一度よく創造する。
今告げる必要はないのであえて言わないでおくが、名前も決まった。形はどうあれきっと自分主導の企画になるのだろう。
晴祝慶人と望幸恋の二人ユニット、“RI2E”。
晴れの日の朝、世界中の誰にでも平等に光|《あい》をもたらすサンライズ。晴祝慶人がそうやって燦然と光り輝くための陰影となり、初めて世界に必要な存在として自分はやっとこの物語に織り込んでもらえる。そうすればきっと、晴祝慶人さえもこんな自分を唯一無二の一対として認めてくれようとも。
永く空いたままだった空洞が埋まる感覚がする。深い愛に足ることを知るのだと今確信して心から安心する。母にも父にも与えることなどできなかった慈愛の概念を、だからきっとして晴祝慶人が注いでくれるというのだろう。
「ああ、いい。最高。いやあ、俺の未来はすこぶる明るい、泣きそう」
「ねえいい加減にしてよ……熱でおかしくなったの……」
「救急車呼びますか……!?」
「はい結構です。シャワー浴びますので野郎はさっさと出てってください」
「っっもう、マジで気持ち悪いんだけど……! 倒れないでよー!?」
「超元気なんで大丈夫です♪」
こうして望幸恋の狂ったインスピレーションにより、晴祝慶人が辿る先への因果律がたった今強く強く弾かれた。
未来とは今と同時に多数存在し、瞬間瞬間の選択でもって無限に分岐が広がっていくもの。
あまりにも平然と動く心臓のせいで人は毎秒を意識的に選んでいることを忘れがちだが時間が進んでいるというだけであっても未来の結果とは必ず二択のうちのどちらかでしかない。
やめるか続けるか、進むか留まるか、喋るのか噤むのか、やるかやらないか、求めるか与えるか、そして例えば、生きるか、死ぬかなど。
無論、その選択に正誤や善悪は一切ない。代わりに、全ては自分の選んだものだというどうしようもなく明確な事実だけが唯一確かな未来の答えであるということを、多くの人は気が付かないまま生きるを選び、励んでは悩み、苛んではまた選ぶのである。
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