9話
BACKBONE.
9、SYNAPSE
それから二ヵ月間をかけて各所をめぐったワンスリーのツアー全てが無事に閉幕したのを皮切りに、みゅうからは本当に頻繁に連絡がきた。
大体は飯の誘いで、マツリがいることもたまにあったが、八割、否九割は、みゅうと二人だけで店に入った。
始めこそ緊張もしていたのだけれど、もういい加減固くなってもいられないほどには回数が重なっていたし、勘違いでないのならどんどん砕けてずぶずぶの関係になっていくのをみゅうが望んでいるような気さえした。
「おつかれ~~~。俺今日胃が痛いからハレ好きなもん食いな~~~」
「胃が……!? いやそれ帰ってゆっくりしなきゃいけないやつじゃないですか……何で俺呼ばれたんだ……帰りましょ、次も絶対来ますから」
「うんー。で、何食うの?」
「聞いて、みゅうさん、聞いてください……」
今日のみゅうとていつになくくたびれた風貌で何かの作業で徹夜明けか、忙しくて余裕がない状態なのかと察する。
これは自分でなくとも毎週の様に数か月をかけてみゅうと付き合っていれば分かることだと思うのだが、この人はどうやら忙しくなればなるほど人との交流を密にとりたがるという不可思議な傾向にあった。
まあ確かに余裕がない時ほど息抜きが頻繁にしたくなるのだと何かの雑誌で言っていたのを知っているけれど、こんなに雑で強引な息抜きだとはやっぱり予想していなかったわけで。
「忙しいですか?」
「まあ、……うんー、……いやあのさあハレ、お願いがあるんだけどお……」
「勿論! なんでしょうか」
「ツアー終わって寂しい~……褒めてぇ……」
「何っ!? 分かった、どこから!? 顔!? 声!? 存在かな、全てにおいて有難いみゅうさん、生まれてきてくれてありがとうございます、太陽系一優しくてかっこいい人間、ツアーお疲れ様です。東京公演は全部行かせて頂きました。感想は手紙送ってるので割愛いたしますが、ひとまず最高でした……。今期のドラマ見ました、映画も見ました、全部全部良かった、感想は長くなるので必要ならあとでラインしますね。みゅうさんやっぱどこにいても存在感あるから画角入ったらすぐ見つけられるの大好きです、話変わりますけど新しいトレカの写りがめっちゃ好きで、あの髪型にしようと思ったヘアメイクさんにお金を払いたいんですが誰ですか? てかまた話変わりますけど、ワンチャン(※ワンスリー公式配信チャンネル)北海道ロケのサムネの天使感異常ですよね、この世のものとは思えんほど綺麗でびっっっっくりしました、衝撃的すぎて壁紙ですこれいま、海岸でギターひかせてくれた企画さんにも金払いたいんですけど誰ですか、ああ、あとワンスリーパケのリップも、見かけたらすぐ買っちゃうから多分向こう二年ぐらい俺リップクリームいらないっすわ。ありがてえ。ちな今塗ってまして、保湿感は最高です」
「ああ~~んえぁぁ~~、……ちがうね、……思ってたのとぜんぜん違うんだけど露出全部チェックされてんのって地味に嬉しいわ、ハレだいすきぃ握手してぇ…………」
へなっと力なく突っ伏して差し出されたみゅうの右手は、ガサガサに乾いていてドキっとする。最も、どれだけ乱れていたとしてもオフのみゅうに幻滅するなど毛頭あり得ないが、本当に普通に身体が心配過ぎてそっと両手で包んで握り返す。
無理はしないで欲しいけれど、仕事という観点から言えば忙しいのはいいことなのかもしれない。そもそもそんなことを気に掛けられる立場でないのは百も承知なのだがつい目の前にある姿形が荒れているとやっぱりいらない心配をしてしまうのが人間の性というもので。
「みゅうオタクとしては、どれがこんなに消耗させてんのか勘繰っちゃいます……」
「消耗ね~。苦手な人と映画やってたから余計なー……ま、色々心配なっちゃって俺が勝手にこうなってるだけなんだけど」
「やっぱり不安になりますか」
「な~るよそりゃ~。関わってる人の分だけ金と時間がかかってんだから」
「…………」
時折、みゅうの考え方とはあまりにも広大な視点過ぎて、聞いただけで疲れてしまうことがあった。何においても常人の五百倍は視野が広いと思うし、多角的な観点過ぎてその全てを上手く丸くおさめることなどこの人以外にはやりきれないと常々思う。
でもそれはきっと、みゅう自身の仕事の在り方という拘りでもあるのだろうし文字通りそれに則った行動しかしていないのも事実。だから仮に面倒だと細かいと思った人がいてもみゅうが自分で全部やることかと思えば、その在り方については誰も何も言えやしないのだろう。
それにしたって、心を許そうと決めた人間の前では少しの体調不良など気にする素振りすらも見せないで荒療治ばかりを繰り返すし、むしゃくしゃするというから飲ませれば小グラス二杯の酒でぐらんぐらんに酔っぱらったりも平気でした。真面目でストイック過ぎる分抱えているものが多すぎるんじゃなかろうかと心配でしょうがなかった。
のそりと身体を起こして飲もっかなと小さくみゅうが言うので、黙ってドリンクメニューを差し出すのだけれど、胃が痛いと言っていたのにやめておけとは強く言えないこの距離感が今日はまたいつにも増してもどかしく感じる。
そんなこちらの心情など例え分かっていたとしても素知らぬふりをするのであろうみゅうは、つまらなさそうにメニューを見ながら、ふと顔をあげてこちらを見つめてきた。
「あれ、てかさ、今更過ぎんだけどハレの家どの辺?」
「……え、と、北区の端っこです。実家から通ってるんで」
「もしや遠い? マジか、電車どのぐらいかかる?」
「三十分ぐらいかな……。電車代もったいないからなるべくチャリで来てます。あ、今日は事務所に置いてきたんで気にしないでくださ」
「チャリ……!?!?!? 何お前アスリートかなんかなの!?!?」
「あ、いや、お金が……バイトするにも体力的に週に二、三日がギリで……」
「バイト? 学校は?」
「高校は今のところ普通に行ってます! だから平日レッスン入れる人羨ましいなって」
あれから色々と考えはしたのだけれど、やっぱり高校を中退だとかそんな思い切ったことの出来る度胸が自分にあるはずもなく、結論としては現状維持でやれることをやっていくという意志をより強固に固めることしかできなかった。相変わらずレッスン場では気まずい雰囲気が続いてはいるが、それにもちょっとずつ慣れていくのだから人間とはつくづく順応性の高い生き物なのだと日々体感している。
それを聞いて一瞬何かを考えるように黙ったみゅうだったが、次にはいつものように余裕たっぷりの笑顔に戻っていた。
「……えら。すごいじゃん。自分で月謝も用意してんだ」
「まあ、だから週末だけでも手いっぱいではあるんですけれども……」
「バイトかあ。何してんの? 大変じゃない?」
「全然! やってること大したことないんで。家のすぐ近くにある親戚のバー? で皿洗ったりホールしたり、手伝いみたいなものですから……」
「バー」
「はい。なんか……とにかくスゲー変なとこで、こだわりが個性的というかちょっとフツーじゃないというか……知り合いの店じゃなかったら絶対行くことないだろうなみたいな……」
「え、待ってそれお前の親戚が経営してんの?」
「ですね。バイト俺だけだしあんま時給は高くないですけど……」
矢継ぎ早に続いた質問に必死になって返答していたが、どうやら余計なことまで明かしてしまったと気が付いたのは、何を反射したのかみゅうの目がきらんと一度光ったのが見えてからだった。いたずらっ子のような顔つきでにやりと笑うので否が応でも次の展開を予想してのけぞってしまう。
「なにそれやば! 今から行こうよ」
「……いや、やっぱり……!?」
「マアに出てこいって電話して」
「みゅうさん待って! マジで大丈夫です、行かなくていいっっ……」
「あ、ひかるくん! こないだからすいません、ソルトアイス二つ。チェックで~。ごめんね忙しなくて。また今度出直すから」
「す、すいませ、え、あの、」
「電話。はよ」
途中まで注文を取りに向かって来ていた顔なじみの店長が笑って頭を下げるのを見ながら、とりあえず条件反射で言われた通りにマツリの番号を呼び出す。その間にやっと遅ればせながらこのあとの光景をもやもやと想像してみた。
みゅうさんと、マツリが、”シナプス”に来る? そしてあの破壊と創造を具現化したような混沌に足を踏み入れる……だと……?
「いやいやダメダメ、だめでしょあんなとこ、みゅうさん、行かなくていいって、ほんとに大丈夫です……あ、もしもしマツリ……? ごめん急に……」
「出た? 貸して~」
カオスが更にカオスになるだけでしかない。人も疎らだしメニューもヘンテコだし何せマスターの頭が少々おかしいのだからしょうがない。親戚じゃなかったらまず関わり合わない人種。とにかく案内するのは絶対に嫌だ。取り上げられたスマートフォンに向かって楽し気にしているみゅうを正面に見て一体どうしようかと目を白黒させながら困っているとみゅうが通話しながら何て店、と短く問うてくる。
「あ、シナプス……で、す……」
「激渋。北区のシナプスだって。出てくる?」
「……ああ、……くそぉ……」
「マジ? 楽しみ。アイス食ったら駅行く。まだ来てない。二分のがいいかな。次は六分ね。おっけ。じゃ出るときまた連絡する。ハレ、アイス食ったら二十時二分のに間に合うように出るぞ」
「…………はい……」
一生の推しに面と向かって押されたらノーと言えるわけもない。かくして、入所後一年と約半年が経過しようとする秋の夜にカオスとカオスがシナプスを介して奇しくも接点を持つこととなってしまった。
BACKBONE.
9、SYNAPSE
「あ、……えー……お待たせ致しました。ビッグ蕎麦オムライス海老天のせでございます」
「わ~~い! ありがと~!」
「すげ~~~でけ~~ちょっとちょうだいよ~~」
「…………」
ところで、この店には本当にまともなフードメニューがなかった。「ビッグ蕎麦オムライス海老天のせ」このオーダーが入ったのは慶人がバイトを始めてから今日が初めてだったが、ピザのLサイズぐらいあるでかい皿に胃袋みたいなオムライス(中身は十割蕎麦なので正確にはオムそばでは?)とその上にブラックタイガーの天ぷらがのっていた。ちなみに天つゆをぶっかけて食べる。
よほど腹ペコだったのか届けてすぐにいただきますとその芸術的産物をスプーンで豪快に頬張ったマツリが口に入りきらない蕎麦を垂らしたままカっと目を見開いた。
「…………! ハぇひゃん」
「あ、はい……不味い……? 水いる……?」
「にゃ~~っほぇおいひ~~~~~~~~っ!」
「ねえ~~っ、俺も俺も~~~」
向かい合った側から身を乗り出して子供みたいにオム蕎麦をせがむみゅうをじっと見ていると、頭の芯からバグを感じて慶人は思わず店の低い天井を見上げてしまった。
さて、実家のすぐ近くにあるヘンテコ(と言うと怒られるので言わないが)なダイニングバーであるここ「シナプス」とは、慶人が幼い頃、それこそ父が生きていた頃から既にあった晴祝家にとっては馴染の深い場所でもあった。
というのも、店主は母親の従兄弟。晴祝家に婿養子として入った父親とも気が合ってすぐに意気投合した。慶人に至っては物心がつく前から世話になっているので普通に懐いてはいたのだが、いかんせん世間一般から見れば店主の見た目があまり良くはなかった。長く伸ばした赤髪を後ろできっちり一つに束ね、首には蛇のタトゥーだし、飲食店の癖に厨房では煙草の煙が途切れたことがない。万一、初対面でこの出で立ちと三白眼のいかつい視線を向けられ一歩退かない人がいたら見てみたかった。店の雰囲気だって、どこもかしこも真っ黒なアングラで間違っても初見で入りやすいとは言えないものだったわけで。
「よしちゃん。持ってって」
「あ、うん……! ありがとう……!」
常日頃出来立てを一秒でも早く届けろと言われているのでカウンターの向こうから声をかけられた慶人は反射的に急いで向かう。
今日は平日なのに珍しく三つあるうちのテーブル席の空きはひとつだけで、七席あるカウンターにもお得意様が二組座っていたし、狭いながらも適度なざわめきを感じた。
恐らく一人で忙しかったはずなのに、事前に事務所の先輩と行くと連絡したからか店の最奥にある空きスペースに休憩用のソファとローテーブルを並べてパーテーションまで立てて個室のようにしてくれていた。
要するに、見た目で誤解されがちだったが実の性根はとっても優しくて繊細な人だった。慶人の父が事故で死んだあとも頻繁に家に出入りしては憔悴した母の代わりにご飯を作っておいてくれたり、失意の最中にあった家族のあいだに入っては他愛のない会話をもたらしてくれたりと、冗談抜きで引きこもりになったり逆にぐれたりしなかったのはこの店主、もとい祝詞開|《のりとかい》のお陰であると慶人が心から信頼している数少ない人間の一人でもあった。
「先輩だっけ? なんか飲むの?」
「ええと、右の方だけ成人だからアルコールいいかな……」
「別にいいけど、身分証は出してもらうよ」
「うん、言っておく」
適当に頼んだつまみを運びつつ、マツリと一緒になって海老天のしっぽをかじっていたみゅうに何を飲むかと声をかけると、即座に一番高いノンアルと答えた。
「あれ、飲まないんですか?」
「ん、いや酔いそうだし今日はやめとくわ。ヨシチャンに恥かかすわけにいかないからなあ」
「え……」
「もう。酔うまで飲まないって選択肢がないのはダメなオトナなんじゃないの~??」
「マツリくん、うるさいよ。制御出来る自信がない時に飲まない選択が出来るほうがよっぽどオトナだろうがよ」
苦笑しながら裂きイカのチョコディップを何の躊躇もなく頬張ったみゅうは、顔色を変えずにアタラシイと呟いた。
「てかオカーサンの従兄弟なんだっけ? あまりにもイカシてるけど人生相談とかやってる???」
「や、ってません多分……怖くないですか? めちゃくちゃ優しい人ではあるんですけど……」
「そんなのお料理に出てるよねえ。豪快且つ繊細ですごくおいしい!! で~す!!」
そう言ったマツリの視線にはなんだかデジャヴを感じて恐る恐る振り返ると、やはりそこには伝票を持った開が笑いもしないで立っていた。
「それは何よりです。ドリンクいかがいたしますか」
「あ……、ノンアルでおすすめいただきます。今日は突然すみませんでした。次は酒飲ませてください」
ここで、生来生粋の人たらしであるみゅうが後輩の親類という超重客に対して何のためらいもなく立ち上がり頭を下げるという行為自体はもう半分ぐらい予測していたので間髪入れずに大先輩の望幸恋さんです、となんとかくっつける。
どうでもいいことかもしれないが、繊細策士と繊細職人が相俟って相性が悪くなければいいなと勝手にドキドキしてしまう。
対する開をちらっと見たが、やはり相変わらずの無表情で軽く会釈をするに留まるのも辛うじて想像していた通りだったのだけれど。
「いいえこちらこそ。遠くまでわざわざどうも。苦手なものは?」
「ないです。あ、酸味ちょっと控えてもらえたら今日は嬉しいです」
「はい。そちらは?」
「俺はウーロン茶で!」
「はい。よしちゃんは」
「お、俺も、ウーロン茶で……」
「コーラね。で、”みゅうさん”。よしちゃんてアイドルになれそうなの?」
しかし、そこで突如湧いて出た突拍子もない開の言葉には、思わず息を呑んだのは言うまでもないが呑んだ空気の塊がでかすぎて一瞬慶人に心臓につっかえる。
「夢のまた夢なんじゃないのかねえ」
「っまっっって! 何言ってんのカイちゃん……!!!」
「養成所だってタダじゃないしさ。もちろん、俺が費用出してるわけでもないし、よしちゃんがやりたいことに文句言うつもりも全くないけど、いつまで経ってもこの地味なイッパンジンでしかないよしちゃんにはそういう素質が一ミリでもあるもんなのかねえと思って」
「……」
「…………」
「…………ちょ、そ、そんなこと、……二人の前でいうな、……そう簡単にいかないから皆一生懸命目指してんだよ……」
「逆に、一生懸命やってなれんのか。この一年ちょっとは、全くの無駄じゃなかったのかって今俺は彼に聞いてんの」
慶人の制止も聞かずに朴訥と続けた開の目にはただまっすぐにみゅうだけが映っているのが分かったが、どうすることも出来なくて言葉に詰まる。
だがそれよりもまず正直に、今まで開がそんな風に自分のことを思っていたのだと知ってしまったことにひどく狼狽えてしまった。
だって、祖父も母もこの分岐の選択において反対はしなかったし増してや誰からも正面きって“無理だ”、“なれない”とは今日という今日まで一度も言われてこなかった。
飽くまで周囲に迷惑はかけないようにと自分なりに精一杯やってきたつもりで、けれど実際、開が言うように全くなれない、なれる素質のゼロな可能性をこの一年半で考えたことなど一瞬もなかった。
勿論、これまでのアンダー生には入所三ヵ月で早々にデビューした人も、ついさっき諦めてアンダーを辞めていった人も両方数えきれないほど居た。
何かを制限するほど強い覚悟を決めたり、期限を設けて自分を追い詰めるようなやり方がすこぶる苦手な慶人にとってはこの一年半が長いとも短いとも思っていなかったし、ただ自分がやれる最善の最速で今日まで辿り着いたというそれだけのことだった。
だから、夢のまた夢、そう言われたら確かに夢みたいな話なのかもなとそう思う。たまたま上手いことこうして幾つかの縁が繋がったことに対しては多少思い上がっていた気もする。
それでも、客観的に見た自分が一年を超えてレッスンに通っても芽の出ない癖にのらりくらりとそこにしがみ付く愚か者だとは今の今まで考えが及ばなかった。
一生懸命やったらなれるか。正直まだ分からない。じゃあこの経験は全くの無駄なことだったのか。それも分からないが、もしもこの先もステージに立つ機会なくアンダー生を辞めるという選択をしたら、それが開の言う“無駄”になってしまうということなのだろうか。
経験も出会いも、喜びも悔恨もこれまであった全ての出来事も? それはやはり違うとは思ったのだが、俯いたまま何も言えないでいると、黙って聞いていたみゅうがふとどう思う? と呟くので思わず顔をあげる。その目はとても冷静にマツリを見ていた。
「えっと、すみません、ハレはアンダー生だし正直まだステージにおいてのパフォーマンスは何も見てないので俺はそこちょっと分かんないんですけどお……」
「ハレちゃんは基礎最初から上手いもんね~。ド素人だって聞いてびっくりしたもん。覚えもいいし。そもそも真似っ子ならプロだし?」
「ふ、それは置いとくにしても。歌の評価は?」
「今のとこ普通? 壊滅的な音痴とかじゃないんだから及第点でしょ」
「演技は?」
「土日だけだと演技のカリキュラムは追いつかないよね流石に」
「……まあ、うん……」
「正直回数は関係ないよウチのシステム。今の評価は?」
「あ、えとBの五十六点です」
「良くね? 全体の何番目?」
「十三番目です……。五十三分の十三」
「Bの半分で十三番目なら全体のレベル高いじゃん。十分だよ。まあ、そんなところで“カイちゃん”さん。つまり俺たちが何を言いたいのかと申しますと、“アイドル”は職業なんでなりたいと思ったら目指せるってことです」
「…………」
「別に特別なスキルを最初から持ってる必要はないです。金は確かに最初はかかるかもしれないけど、それは何かを学ぶ為ならどれだって一緒だと俺は思う。ステージに立つために足りないものを金をかけて身に着けていくってだけですよね。ハレが本気でパフォーマーになりたいなら勉強してなればいい。ただそれだけの話なんで」
「そうそう。一回外に出る覚悟を決めたらさ、光り方なんて後からお客が決めるの。輝くのに素質とか必要ないんだよ、オジサン」
「マア! オジサンじゃねえだろバカっ、すみませんこいつ口が悪くて……」
「えーオジサンはオジサンじゃん。てかそもそもさ、オジサンにはハレちゃんがどれほど愚かに見えてるわけ? やれもしないことを無駄に足掻いてしがみつくタイプだって本気でそう思ってんの? 絶対思ってないくせに、変な親心でハレちゃんのなけなしの自己肯定をぐちゃぐちゃにすんのやめろよ。せっかくここまできたのにさ。この人がどれだけ自分にじs」
「いいいい~~すぎっ、マジでお前ほんとやめなさい初対面なんだからっっ……」
逆上スイッチの入ったマツリの口を慌てて塞いだみゅうを後目に、文字通りしかもこんなに簡単にぐちゃぐちゃになってしまった自己肯定感とやらを背景にして慶人は驚くほどセンチメンタルに酔っていた自分が殊更情けなく思えた。
心の底から夢のようなことだとはもちろんいつでも、毎秒毎秒思ってはいる。思ってはいるのだけれど、それは確かであるのだけれど、でもやはり今起こっているリアルタイムの出来事に対していつまでも夢みたいだとは思ってもいられないのが現実というやつで。
憧れだったみゅうさんと言葉を交わせる世界線。スマホを開けばすぐに何かを伝えられるというなんとミラクル。凄い。確かに凄いけれど、それが手に入ってしまったのは本当なのだからしょうがない。
浮足立っているだけじゃいられないほどこんなに近くで奇跡が常に起こっている。
それはすなわちもう、自分自身ですら画面の外側にいた地味なイッパンジンではいられないことと同義だということを開じゃなくとも思い知らなくてはならないのである。
「…………」
というか、そんなことよりも開の意地悪な問いについてを、二人がとても真剣に受け止めて言い返してくれたのが純粋に嬉しかった。マツリの言う通り、親でも兄でもないが、他人でも決してない開が愛情をもって未来を危ぶんでくれていることもちゃんと理解できる。
ふと、本当にありがたいことだなあと実感して胸がジンと熱くなった。物の言い方としては人を不快にさせかねないので頂けないがそれより先に、改めて開という存在の偉大さにいつも助けられているということを今こそ素直に感謝しなければならない気がして。
「カイちゃん……先のことはちゃんとは分からないけど、……ごめんね、心配ばっかかけて……」
「…………」
「父さんが居なくなっても、カイちゃんがずっとこうやって気にかけてくれたから、俺今すごく人生楽しいよ」
「…………」
「ありがとう。最後の最後には何の成果も出せないのかもしれないけど、もう少しだけ俺頑張りたいから、これからも見守っててくれる?」
すると、これまでの全ての言葉たちに黙って耳を傾けていた開の睫毛が下を向いてゆっくりと瞬いた。呆れたような声音だったが、穏やかな顔をしていた。
「別に。よしちゃんが間違えてないならいいさ。急にアイドルなるっつって、いつまで経っても全然垢抜けねーから心配になったんだよ」
「やば、それはそうだよね。いつまで経っても童貞臭すごいもん」
「おいマア」
「ごめ~ん」
「っっふたりとも余計なお世話だよっ……」
「……。そんで? みゅうさんとやら」
再び蒸し返された開の問いかけに、咄嗟にみゅうの方を見ると、今までに見たことのないくらい優しい眼差しにぶつかってそこから目が離せなくなった。
「結局君は俺の問いに答えてないけどさ。なれんの? よしちゃん、アイドルに」
「…………そりゃもう、」
もちろんです、と深く満足気に頷くみゅうを見た開は珍しくほんの少しだけ笑って伝票に目を落とすとこう言った。
「それならいい。慶人をよろしく」
その二時間も後、終電を目指して三人並んで駅までゆっくりと歩いて向かっていた途中、静かな声でみゅうから親父さん亡くなったの? と問われた。外灯はあれど駅までの裏路地は結構暗い。建物の間からは大きな月が見えていた。
「はい。小学生の時に。その頃からあの人、俺の面倒も母の面倒も見てくれてたから。今日色々うるさくてホントにすみませんでした」
「謝るとこじゃないだろ。それぐらい大事なんだよ。そんな風に思ってくれる人がいるのって本当にすげーことなんだから。同じぐらい大事にしたほうがいいよ」
「そうだよ~。……俺も生みの親はもうどっちも死んじゃったけど、今の父さんのことは好きだし大事にしてるよ」
「……え、そうなの?」
意外にも真っ先にみゅうが驚いた顔でそう言った途端、びゅっと強い風が吹いて一瞬間が空いた。マツリがうんと小さく頷く。
「今一緒にいるのはねえ、母さんの再婚相手なんだ。血は繋がってないけどまあまあ仲いいよ~。でも、義務教育終わったら一人で暮らしたいし、養子縁組も何れは解消しようと思ってて」
「……何で」
「何でって? そんなのいつまでも縛っておくの可哀想じゃん。宝、……って名前なんだけど、宝は母さんが好きだっただけで俺の面倒見る権利なんていらないでしょ。俺も負担だって思わせたくはないし」
「……。寂しくないの」
「…………んー、……母さんが死んだ時よりは寂しくないかなあ。って、ごめん、俺の話にしちゃったよね、ハレちゃん、とにかく開オジサンは大事にしなねっ」
月夜に映えるマツリの綺麗な長身は、今もまだ伸び盛りの真っ最中。大人びた風貌、果てはませた口ぶりからかいつも忘れてしまうけれど、マツリはまだ十五歳の中学生である。それを思うとやはり年齢にはそぐわないほどのとても成熟した精神を持ち合わせているのだと思い知らされる。自分の人生が誰しもの経験出来るものだとは限らないこと。全ての人の人生にある起伏にはそれぞれ唯一の物語が必ず存在しているということ。
「…………」
慶人は二人のやり取りを黙って聞きながら、肉親を失う痛みが僅かに内側に蘇ってきそうになって気持ちを逸らそうと咄嗟に月を見上げた。
かつては、居た記憶がここに在るから悲しいと思うこともあった。
それでも、この悲しみが少しずつ過去になっていくのはそれはそれで侘しくて寂しいものだと知った。人が忘れる生き物なのはそうしないと生きていけないから。身体で覚えた真理はまっとうだけれどどちらにしろ強いか弱いかの違いだけで、二度と止まない痛みであることには変わりなかった。
心の軋みを必死に抑え込みながら静かにうん、と返事をしてふと何気なく隣を見遣ると、歩きながらぼうっと前を見つめるがらんどうの目をしたみゅうに釘付けになる。
「…………」
夜のあかりを何一つ反射しない真っ暗なその目が果たしてどこを見ているのかは分からない。けれど、とにかく心がざわっとするような冷たい冷たい鉛の色をしていた。
「……みゅうさん……?」
「…………疑似的に、っつうか……」
「え?」
「まあ、人として、なのかな……そういう気持ち、分かった気にはなれるけど……俺は両親と上手くやれなかったから」
「……」
「なんだろ…………羨ましい、のかな、てか、……なんか俺いま……すげえ傷ついてる……」
言う間にすっと目から光が零れたのを見た慶人がびっくりして立ち止まると、マツリも怪訝な顔でみゅうの顔を見つめていた。
「え、何、……みゅうくんだいじょぶ? 飲んでないんだよね?」
「だ い じ ょ う ぶ じ ゃ ね え よ」
「ええ?」
「……傷ついた、悲しくておかしくなりそう……声出して泣きたいんだけど……」
「知らんがな……。何勝手に傷ついて泣いてんの……怖いって……」
「みゅ、みゅうさん……ティッシュありますよ……」
「ヴ、くそぉ、……お前らの人生が悪いんだよ、絶対ツラいのに泣きもしないでさ、……」
「……そりゃ昔はいっぱい泣いたよ。でもさ、ね、ハレちゃん、いつまでもめそめそしてらんないのが人間でしょお? もう、しっかりしてよみゅうくん!」
「無理、見てるだけでしんどいもん、」
突っ立ったまま両手で顔を覆って涙を流すみゅうの姿とは、さながらドラマのワンシーンのようで妙に現実味に欠けていた。だってあまりにも綺麗すぎた。月夜の路地裏で他者の人生にエモーショナルを見出して泣くだなんて感受性が豊かであるにも程がある。
駅はもうすぐそこだったがどうしようもないのでマツリと顔を見合わせながら黙って佇んでいると、鼻を啜ったみゅうは一言だけ、えもい、と息と一緒に吐き出してから下を向いたままゆっくりまた歩き出す。
「これ俺十日は引きずるかも……」
「……てか感情移入が深すぎでしょ。ニュースとか一発じゃないの?」
呆れた風にマツリが言うと、当たり前だろ! とやっとみゅうが顔をあげた。目が真っ赤だった。
「見ないよ普段から! 逆に普通にニュースとして受け止められる心がどうかしてんだよ。てか必要? 誰かの悲しみを記事としてオープンにする意味がわかんねえよ」
「繊細すぎだよ。よく今日までこの仕事しながら生きてこれたな」
心底面倒そうにみゅうを一瞥し、そそくさとマスクを取り出したマツリを見て、みゅうも思い出したかのようにだるそうにマスクを手にする。田舎とは言え駅前に行けばそれなりに人がいた。ここで知り合いに見つかっても面倒なので慶人もキャップを深く被りなおすと、その隙間でみゅうと一瞬目が合った。
「……いやそりゃ……仕事の時はンなこと言ってられないし、全部生身で受け止めたりはしないよ? でも今はオフだしさ、……全身全霊でノンフィクションの情動を浴びてしまったんだよ俺は……」
「……ふ~ん。両親と上手くいってないっていうのも初めて聞いたし、いろいろ意外。ね、ハレちゃん。またシナプス一緒に行こうよね」
「あ、……うん……あんなとこで良ければいつでも……」
そうして、改札を抜けた二人になんとか手を振ったは良かったが、慶人はいまだ目の周りがびしゃびしゃなままだったみゅうのことが心配でたまらなかった。というか、隣を離れて冷静になればなるほどなんて心の優しい人なんだろうと恐ろしくも思えた。
確かに見ているうちではみゅうのアンチは極端と言えるほど少ない。でも、一人もいないわけじゃないのを知っていたから余計に心配になる。
もし万が一、誰かの心無い言葉のたった一つでもが、今日みたいにみゅうの生身に届いてしまったら一体どれほど傷ついてしまうだろう。
逆に、大袈裟でなく今までの人生は大丈夫だったのだろうか。不意に向けられた悪意に心の奥底にまで達する大けがをしてこなかっただろうか?
否、そんなわけがないよなと心がぎゅうっと苦しくなる。
きっとみゅうの広大な視野の広さとは数多の傷跡から生み出した防護壁なのだと勝手に腑に落ちる。数えきれないほど他者で傷つくその度に、それらを救う方法を経験則から造り上げてきた。
結果、どこから見ても完璧な優しさは、彼の人当たりの良さとして振舞われ触れてきた全てのものから自分自身を護っているのだろうし逆に全てのものを護ろうともしているのだろう。
深いがやはり自己犠牲的で危うい。自分がボロボロになるまで他者に与え続けられるのはもとより、その対価を受け取るのは嘘でも上手いとは言い難いのだし。
みゅうの優しさと献身に触れてしまえば与えたいと思う人間など少ないはずもない。そのどれもにはちゃんと愛がこもっているはずなのに臆病だからか全部を丸のみできないのだと見ていて分かる。
全くの他者よりは多少心を許せているであろうマツリや自分なら安心して受け取ることも出来るのだろうがそれだけでは圧倒的に足りていない命の返答はもしかしたらみゅうにはもう幾何も残っていないのかもしれないと急に怖くなった。
家路も風呂も夕飯の最中も、それこそ寝る前になってもみゅうの泣いている顔が離れなくてとうとうしんどくなる。
布団に入ったまま暗い天井をしばらくじっと見つめていたが、一人でもやもやしているよりかはちゃんと連絡をしてみようと思い立ち、スマートフォンを取り出して大丈夫ですか。おやすみなさいと短いメッセージを送る。一分もしない間にすぐに既読になったので、これはエゴだがひとまずはほっとした。
何が?
泣いてたから気になって
泣くっていうか、あれは気持ちの昇華だよ
俺は劇場型だから表現しないと溜まってく一方なの
泣いたら昇華できるんですか?
まあ
大体は
そうなんだ
俺泣くのはあんまり得意じゃないから心配になっちゃって
大丈夫ならいいんです。おやすみなさい!
大丈夫。ありがとね
おやすみ
「…………」
スマートフォンを胸の上に置いて空を見つめるも、画面の明るさに慣れた目はしばらく何をも映さないので目を閉じた。電磁波みたいな渦巻のざらざらが瞼に浮かび、やがて霧散していく。
慶人にとって泣くこととは未だに克服出来ない父の死という出来事からの大きな後遺症の一つでもあった。
本当は誰かが悲しくて泣くのでさえも心がざわざわとしてとても落ち着かない。抱えた悲しみの大きさは人の見た目や言動から推し量ることなどできないからこそ尚更。
今日のみゅうは傷ついたと言って涙した。
それが例えばどのぐらいの程度で、すぐに治るのか、一人で居ても平気なのか、時が経てばひとりでにまた一切の屈託なく笑顔になれるのかと不安になってしまう。もしも側にいることで癒えるのならば可能な限り寄り添いたいし遠慮しないで言って欲しい。
できることならもっともっと大事にしてあげたい。あの人の純粋な全部の感情が誰かの哀しみや憎しみによって損なわれるのは絶対にいけない。まるで湧き出るようにして心の奥底が多くの望みをこれほど無意識に欲しているのが嫌でも分かる。
そして、その裏側、或いは表側が必死に警告灯を光らせながら注意喚起していることも。
永遠のない今世では、大事なものを抱えるといつか必ず失う痛みを引き受けることになる。父がそうであったように、母がそうであるように、祖父が、数少ない友人が、大事な存在であればあるほどその悲しみとは深く痛烈で簡単に癒えやしないだろう。
それでも世界に愛情は必要か?
それでも人生に、他者との強い繋がりは必要なのか。
いつの間にか酸素と一緒に不安を吸っては吐いている気分になる。まずいと思いながらも呼吸が次第に苦しくなってきて手指が、足先が、冷たく痺れて強張っていく。もう振り払えない。みゅうの涙に呼応して漠然と過る死という概念への大きな恐怖が突如として全身にフラッシュバックする。
母の泣き叫ぶ声が耳の奥でこだまする。大勢の黒い服。光る真っ白な布。白檀の匂い消し。これほど冷たい手足は、頬は、わざと冷やしたものだと子供でも分かった。あっという間に家中明るい夜を超えても悲しみに冴えた頭には同じ問いが何日も何日もぐるぐると徘徊する。人はどうして死んでしまうのだろう。こんなに苦しくて寂しくて、どうしようもない気持ちになる出来事がどうしてこの世界に、存在するのだろう。
心臓がバクバクと脈打つ。頭の隅は思ったよりも冷静だったが依然身体はぎゅっと委縮して動かない。トラウマをこれほどはっきりと思い出すのはとてもとても久しぶりだった。だってついこの間までそうなってしまう要因になり得る多くのことをなるべく避けて生きてきた。
母に心配をかけまいと、心の宝箱にしまって鍵をかけた感情を感じる機能。同時に世界のトーンを意図的に落としたのは欲望を制御するためでもあった。
欲しいものを手に入れたらきっとして何かを手放す必要があると思った。いらないものなんて持っていなかったはずなのに、父がいなくなった根拠を自分の人生から見つけ出そうと躍起になって疲れ果て、わくわくするような心の動く方向へ行くのが自然と億劫になった。
いいことの反対は悪いことで、その逆も然り。心が動きさえしなければ何かにときめくこともなく、つまり、欲しがらなければその対価を奪われることもない。悪いことで留まっていられたら、次のいいことも来ない代わりに、その次の悪いことだってくるはずがない。ごく最近までそう頑として信じてもいた。
「……っ……!」
我慢して瞑っていた目を見開いて、布団から跳ね出る。急いで電気のスイッチを付けると震えている自分の右手が見えた。
でも本当は、と慶人は泣くのを堪えて必死に深呼吸を繰り返す。
本当は、ずっと前から気が付いていたのだ。あの時みゅうの瞳の煌めきに惹かれた感情を無視できないほどに”いらない”の反動もたくさんたくさん己の内に溜まっていたこと。
みゅうの存在を知ってそれまでの我慢の理由を考える間もなく自分から何かをやりたいとまで思ってしまった時点で、その気持ちや行動に準ずる感情に最早何の制限もかけられないということ。
それで言えば、父が死んだという大きな大きな悪いことの反動は、間違いなくみゅうとの出会いだった。
失ったものは二度と戻らない。勿論、代わりじゃない。あてがっているつもりもない。当たり前だがそれぞれの存在の重たさは天秤にはかけられない。今ここに再び持ってしまった大事なものを最後まで全力で全うするしかなかった。
だからこれからも人生の推しだと思えたみゅうと出会ったこの世界線で小さくても大きくても良いことと悪いことを順番に繰り返し繰り返し経験していくのだろう。
頑なに一人だったこれまでとは違う、みゅうやマツリ、これから出会う多くの人達と恐らく”感情的”になって。
「…………」
息も絶え絶えに慶人はなんとかテレビの電源を入れる。デッキに入れっぱなしのDVDはお気に入りのみゅうの露出集。深夜のバラエティ、初期の音楽番組、短いコマーシャル、みゅうという存在を知ってから尚、世界の色に陰りが見えた日にはいつだってこれを見て生きてきた。
なのに、これに頼るのもどうしてか久々で、今日までの自分は意識的にトラウマを抑え込む余裕などないほどによっぽど日々に夢中だったんだとぼんやり思った。
震えながらも画面の中で歌って踊るみゅうをひたすらに見つめていると、強張った身体が少しずつほぐれていくのがわかる。ようやく純粋にみゅうさんかっこいいなと思えたところで、床に蹲って一息つく。
「……うぅ……」
一度パニックになってしまえば母か祖父に宥めてもらわなければ治まらなかった発作的な不安定さだったと思うが、なんとか一人で落ち着けたし泣かないで済んだので心底ほっとした。小学生の頃は頻繁にこういった状態に陥っていた記憶があるものの、みゅうと出会ってからは本当に今日が初めてだった。
たった数分の出来事だったのだろうが、安心したらどっと疲れた。しばらくぼーっと床に座っていると冷や汗の滲んだシャツが肌寒くなってくる。仕方がないのでやれ着替えようとクローゼットに立った瞬間、ベッドの上に置いていたスマートフォンが震え画面には通知が光った。
時刻は既に零時を回った。大きく表示されたみゅうのSNSには、今まさに見ているのであろう夜空に浮かぶ明るい月の写真に明後日は満月らしい、とそう一言添えられていた。
殊、みゅうは普段から空の様子には敏感で、満月とか新月とか月の満ち欠けを話題にした投稿が少なくなかった。そのせいか、月や星を見ると自然とみゅうを連想するというのはワンスリー界隈なら特段珍しいことでもなくて。
確かに今夜の月は大きくて明るかった。泣いているみゅうとの対比を思い出して何となくカーテンを開いてみると、眩い月光に照らされて束の間見惚れてしまう。
あれでいて自分では光っていないというのだから不思議な話だった。太陽が照らさなければ地上の誰にも知られることはなかったであろう冷たいモノクロ。
「……」
ふと、もしもみゅうが月だというなら、一体全体何を反射すればあんなに眩しく光るのだろうと思った。太陽より繊細ではっきりと美しく光り、夜の闇にも真昼の青にも一つだけぽかんと大きく目立つ。生まれつき自分で輝く術を持った星々がどれほど胸を張ってギラギラに瞬こうとも何かの強い強い光を跳ね返して輝くみゅうには、到底適わない。
みゅうを照らして止まないとても強い光の在処。太陽たるみゅうの輝きの源?
「…………」
無論、正解は分からない。見当もつくはずがない。オーバーヒートした回らない頭でこれ以上何かを考えても仕方がない。月を見るのはやめて画面に目を落としハートを押す。
それにしても、既に数万件を超えるいいねの数にはなんだかよほど安心する。こんな時間にも同じ瞬間を生きている人がこれほどいて、その誰もがみゅうの言葉を心待ちにしている。そして、多くはきっと自分と同じように今を生きる糧にしているのだろうから。
例え受け取れる量は僅かでも、なるべくたくさんの人の愛が届くといいなと何気なく見たコメントの一番上には朴訥と「死んでもいいわ」と書いてあった。
慶人は一瞬、ひどく曲解だと思った反面、なるほどな、と感心もしてしまった。
ともすれば、今まで気が付けなかったけれど、みゅうの愛の伝え方にはいつもこうした小さな矜持が隠されていたのかもしれない。オフの脆さを知れば知るほど、寂しいと素直に口に出来ない心の弱さを垣間見たようで、結局また少しだけ心配になってしまったのだけれど。
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一年半は短いでしょうか。長いでしょうか。
個人的にはとても短い時間だと思います。
開も分かってるよね
※この物語に登場する人物、団体名等は全てフィクションです※
祝詞 開
ハレ母の従兄弟。初恋は勿論ハレ母。専門生まではアプローチしていたが留学を機に落ち着く。正直全く相手にされていなかったので諦めてはいたものの結婚した時はやっぱりめちゃめちゃショックだった。でもハレ父が良い人過ぎて全然憎めなかった。二人が幸せを体現するのを見て家庭に憧れを持つものの、例により何となく世帯を持つのを躊躇っている。ハレのことはめちゃくちゃ好きでずっと気にかけてきてたのでぽっとでのみゅうはちょっと嫌い。フレンチ三年、和食五年ののち独立。彼女なし。
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