5-4 添付ファイル

 その夜、私は机に向かっていた。時計は既に深夜の三時を過ぎ、部屋を照らしているのは卓上のライトだけ。薄暗い部屋の机の片隅には、夕飯前に急いで買ってきたドーナツが数個置かれている。たくさん買ったはずなのに、思考を巡らせているせいか、いつの間にかほとんど食べてしまっていた。頭を使うと、やけにお腹が空くものだ。

 私は、榎本先輩に送ったファイルを確認しながら、彼女がそれをどう受け止め、次にどんな行動を起こすのかを考え、ひたすらノートに書き記していた。

「やっぱり、擬羽村には絶対に行くと思うんですよね……」

 そう呟いて、私は動かし続けていた右手をぴたりと止めた。さすがに眠気と疲労が来ている。休憩ついでに自分が書き記したメモを最初から読み返すことにした。

 まず前提として私が榎本先輩へと送った資料は「擬羽村災害に関する新聞記事」、「服用している薬の実物写真」ならびに「診療録」、「住民票」、「戸籍謄本」だった。

 私が失ったのは、擬羽村災害に関する記憶と、それ以前の記憶。気がついた時には、既に視界が異常で、目に映る全てが歪んでいた。

 鳳仙先生は、私の歪んだ視界を「心の病気」と考え、さまざまな薬を使って治療を試みているけれど、私はどうしてもそれを「呪い」だと思わずにはいられない。擬羽村で起きた災害は、その多くが説明のつかない不可解なものとされているし、村には古くからの信仰も存在していたらしい。

 当時、週刊誌やオカルト専門の作家たちによってこの災害は話題に取り上げられ、考察本や、それをもとにした創作作品が次々と発行された。私がオカルトに興味を持ち始めたのも、この新聞記事を読んだことがきっかけだ。

「でも、まずは情報収集から始めますよね」

 呟きながら、私は残り少ないドーナツの一つを手に取り、ふわふわの生地にかぶりついた。噛んだ瞬間、中からとろりと濃厚なクリームが溢れ出し、口の中に甘さと滑らかな舌触りが広がっていく。そのひとときは、まさに至福だった。

 私は榎本先輩にはなれないけれど、ドーナツを齧ると、なんとなく彼女から勇気をもらえるような気がする。だから、この作業のお供にドーナツを選んだのだ。軽く息をついて、次の資料に視線を移す。それは薬と診療録に関するものだった。

 ●主訴:記憶障害、視覚の歪み、頻繁な悪夢
 ●診察結果:下腹部に幼少期に負った裂傷の痕がある。精神的なトラウマが確認され、解離性健忘の可能性あり。精神的要因による視覚の歪みがあるが、視力自体は正常。
 ●診断:解離性健忘、心的外傷後ストレス障害
 ●治療方針: 認知行動療法、カウンセリング
 ●薬物療法:抗不安薬、必要に応じて睡眠導入剤

「これは心が落ち着かない時に飲むお薬……これは眠れない時に飲むお薬で……んん」

 薬は銀色のシートに包まれ、名前がカタカナで記されている。製薬会社名や成分量の表記もあり、「この薬はこんな名前だったのか」と思いながら、一つ一つ確認していた。ところが、ふと気づく。記憶をリセットされるときに飲まされている薬だけは、他の薬と違い、ローマ字で「Oblivict」と書かれているのだ。それだけでなく、その薬だけが、どういうわけか薬物療法の記録欄に一切記載されていない。何故なのか、そのことが頭から離れなかった。

「お……び? ……んん、」

 その表記が読めずに、一瞬思考が止まった。

 医療に関して、私は圧倒的に知識が足りない。榎本先輩なら何か知っているかもしれないが、これは「世成鳳子」という謎を解く、自分自身への挑戦でもある。たとえ榎本先輩を見つけるまでの遠回りになったとしても、医療についてもしっかり調べておこうと決意した。

「知識を求めるなら、黄昏学園の図書室……書店や図書館も可能性はありますね。……あとは、専門の人に聞く……」

 脳裏に浮かんだのは鳳仙先生の顔だった。しかし、なぜか彼は協力してくれないだろうという直感があった。信頼しているはずなのに、胸の奥に何か引っかかるものがある。それはまるで、私の知らない自分が何かを警告するかのように、静かに呼びかけている感覚だった。

「ううん。だめよ、先生のことを疑っちゃ!」

 私は頭を振り、湧き上がる疑念を無理やり振り払った。そして、残りの資料に目を向ける。まず目に入ったのは、戸籍謄本だ。

 ●本籍地:山梨県山梨市雲見ヶ原字擬羽村860番地

 その地名がどこか遠く感じられる。擬羽村――私が記憶を失い、大切な友人を失った場所。その時、私は身元不明の遺体が詰め込まれたぬいぐるみを抱いていたと言われている。友人の生存について考察するならば……いや、今はもう、真実に向き合う覚悟を決めなければならないのかもしれない。

 次に目を落としたのは、筆頭者の名前だった。

 ●筆頭者:世成宵子

 お母さんの名前だ。だけど、私の中で母の姿はもうぼんやりとしている。記憶に残るのは、冷たい水の中で首を掴まれている感触だけ。そして今、お母さんは栃木の刑務所にいる。

「お母さん……」

 お母さんに会いたい。その気持ちが心の奥底から湧き上がってくる。居場所はわかっているのに、大人たちは決してそれを許してくれない。彼女に会うことが禁じられているのは、接触禁止命令という制度のせいだった。なぜ、他人が家族の絆を引き裂いていいのだろうか。

 ●氏名:世成鳳子
 ●生年月日:平成22年4月1日
 ●出生地:日本
 ●父:(記載なし)

 ぼんやりと視線を下へ滑らせると、次に目に入ったのは私自身の情報だ。そしてその下にある「父」の欄には、冷たく「記載なし」と書かれていた。父のことを誰かに聞いたことはないし、誰も答えてくれたこともない。

 ●特記事項:保護者変更、世成宵子が服役しているため、令和5年3月5日に暁凰雅が世成鳳子の保護者として登録された。暁凰雅は筆頭者ではないため、世成鳳子は依然として世成宵子の戸籍に残っているが、保護者としての役割は暁が担っている。

「……違うわ。私の面倒を見てるのは鳳仙先生じゃない!」

 思わず声に出してしまった。お義父様のことは正直、苦手だった。書類上では私の保護者を名乗っているけれど、実際のところ、私の世話はすべて鳳仙先生に任せきり。彼はこの家にもほとんど帰ってこない。でも……。

 私は住民票に視線を移した。

 ●住所:東京都箱猫市箱猫3189番地
 ●世帯主の氏名:暁凰雅
 ●続柄:養女

 もしお義父様が私を養女として迎え入れてくれなかったら、私は解決部と出会うこともなかっただろう。それに、私の治療のために、鳳仙先生を直接雇ってくれたことにも感謝している。お義父様のことは苦手だけど、接点が少ないせいで、なかなか絆を深められずにいるけれど、いつか鳳仙先生のようにお義父様も信頼できるようになる日が来るかもしれない――そんな風に思うこともある。

「榎本先輩には、戸籍謄本と住民票は恐らくあまり役に立たないでしょうね」

 これが記憶を取り戻すための手掛かりになるとは思えない。ここに書かれているのは、冷たく無機質な文字で記された、変えようのない事実だからだ。それでも、私のことを何も知らない榎本先輩に、少しでもヒントになればと思って送った。彼女なら、何か見逃しているものを見つけてくれるかもしれない――そんなかすかな期待を抱いて。

「さて……続きの調査は明日にして、今夜はもう寝ますか……ふわぁ」

 カーテンの向こう、窓の外はうっすらと明るくなり始めていた。夜更かししていることが鳳仙先生にバレたら、きっと叱られるだろう。私はノートをスクールバッグにしまい、静かにベッドへ潜り込んだ。
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