シークレット


「草原兄さん、草若兄さん、どねしましょう~!」
「お、久しぶりに聞いたな、若狭の『どねしましょう』。」と草原兄さんは笑っている。
「って、呑気に言うてる場合とちゃいまっせ、兄さん。オチコの泣き声、客席まで響いてるやないですか。喜代美ちゃん、草々の弟子で手の空いたもんおらんのか?」
何事も、初の、となるとアクシデントがつきもの。
草々のヤツの慌ててる顔のひとつでも拝めたらしめたもの、と野次馬根性半分でやって来たとはいえ、おかみさんである喜代美ちゃんが舞台の裏手で、ここまで孤立無援になっているとは思わなかった。
「おりません~!」と青葉マークのお母ちゃん一年生が不安そうに叫ぶ間にも、その腕の中にいるオチコは、おぎゃあおぎゃあと泣き続けている。
「そらそやろな。弟子の会で暇してるやつがおったら、逆に草々にどつかれてるで。」
子どもが泣くのは元気な証拠とばかり、草原兄さんはあくまでどっしりとした構えだ。

そう、今日はなんと、『徒然亭草々弟子の会』なのである。
弟子も師匠もまだまだやし、一門会て言うほどのこととは違うやろ、というので、草々自身がトリで出るのは最初から決まっているというのに、わざわざ『弟子の会』。
しかも、『お楽しみシークレットゲスト』て…………。
とはいえ、こうして小さい子が泣いてる以上は(もう寝床で寄席やってんのとはちゃうねんぞ。)とツッコミを入れるどころではない。
ちなみにチラシを見て「ほんまに草々兄さんて、師匠の真似が好きですね。」と、自分がしたいことを先に取られたような顔で、拗ねた物言いをしていた四草は、今日は三ノ宮の辺りで柳眉とふたり会である。
算段の平兵衛を掛けると言って子どもを連れてスキップしながら出かけて行きよった。あの噺、情操教育に悪いからこっちへ置いていってもええで、と言ったのに。電車で移動するのに疲れてどうせ落語では寝てますよ、とかなんとか言っていたけど、どうなることやら。
オレもそうやったけど、子どもは情操教育に悪いもんほど食いつきがええねんで、エロ本とか……。
と、まあここでおらんもんのこと考えてもしゃあない。
「草若兄さん、この子がむずかってるの、もしかしたらミルクかもしれんから、ちょっとオチコ持っててください。」と言われて喜代美ちゃんにバトンタッチされてしまった。
「ほ~ら、草若ちゃんやでえ。」
あばばばば、とあやすと、一瞬泣き止んだ後で「ほぎゃあ!」である。
「若狭、そろそろ一番太鼓とちゃうか?」と草原兄さん。
「は、はい!」
「ああ~、兄さんスパルタすぎますって。」
「何言ってんのや、若狭は今や一門のおかみさんになったんやぞ。高座が優先や。」
って言っても…喜代美ちゃん困った顔してるやないですか。
今でも焦ると碌なことにならへんからオレは言わんようにしてたのに。
今日の落語会は低予算の中でのやりくりで、喜代美ちゃんがお囃子さんも兼任することになっていて、他の弟子にも鳴り物を順繰りに出番以外の人間で手伝わせているらしい。
一時のうちのおかんみたいなことさせられてんのやな。
「小浜のお母ちゃんは、今日呼べへんかったんか?」と小声で喜代美ちゃんに聞いてみた。
土日であれば、子育ての手の足りない日には、時々小浜から来てくれるのだ。
「魚屋食堂が、地元の日曜市……今は日曜マルシェて言うのに出るて言うので、手伝いに駆り出されてるらしくて。」
「そうかあ。」
「はあ~、オチコ、頼むから泣き止んで……。」と喜代美ちゃんがオレの腕の中のオチコを見て困った顔をしてる。
あかん、なんやちょっとこのシチュエーションにはときめいてしまうな。
草々、今日はお前、もう絶対こっち来るなよ~、と念を送っていると、「あ、なんやええもんあるやないか?」と草原兄さんの声が聞こえて来た。
兄さん、目敏い、目敏いですわ~!!
なんでそこに、といういつもの部屋の隅に、見慣れない大きなつづらと、つづらの上には小さいつづら、ではなくて、かつらがいくつか置いてあった。日本髪に、ちょんまげ、坊主。よりどりみどり。
「あ、それ、明日から木曜まで昼夜と出てくれるチンドン屋さんの私物なんです。」と若狭が言った。
「へえ~。」と兄さんは初めて見たわけでもないだろうに、日本髪のかつらを両手で持って矯めつ眇めつしている。
「朝に日暮亭の前でひと働きしてくれなった後、荷物になるから、て置いてきなったんです。……今朝のは前日入りの宿泊費の分のサービスや、とは言うてくれなったけど、こっちはそうもいかんので、少し時間給でも、明日からの日給でも上乗せさせてもらわんと。」と喜代美ちゃんはおかみさんらしい気の回し方をしている。
「そうなら、その人ら、今日もう戻っては来えへんのか?」と草原兄さん。
「はい。今日は皆さんで大阪観光されて、戻って来るのはまた明日の朝か昼か。」
「そんなら、こんな便利なアイテムを使わん手はないで。」
「はあ?」
「日本髪のカツラ、ふたつあるな。丁度ええわ。」
「丁度ええて何ですか……?」
付き合いの長い同士の嫌な予感というのは、大体良く当たるもんや。
「ちょっと借りますで~。」と言いながら、兄さんがすぽっと被って見せた。
「あ、やっぱり、今時は専業でもないさかい、特注サイズとはちゃうな。」
「ええ?」と喜代美ちゃんが大きな声を出した。
いや、今更そこまで驚くことないんとちゃうか。
草原兄さんてずっとこんな感じの人やからあのオヤジと上手く行ってたんやで、と言おうとしたけど、まああんまりフォローにはなってないわな。
「あんじょう上手い事入るもんやな。」と本人はにこにこである。
「ほしたら、兄さん。」
どうぞ、とまあ、ここで足軽の一兵卒は可愛い姫の体を奥方様にお預けするわけや。
「これでよかろう。」と日本髪のかつらを被った兄さんが笑うと、腕の中の子どもはピタッと泣き止んだ。
「しかし、このまま、また本番でオチコが泣き出したら、事でっせ、兄さん。その頭で外に出るわけにはいかんでしょう。」
「そうなったときはあれでお願いします……。」と言って部屋の隅のカセットテープレコーダーを指さした。「下手な落語聞いたら、オチコよく大人しくなるので。下で小草々くんたちの話始まったら多分泣き止むと思います。それまであれで場を繋いでてください。」
「よろしくおねがいします!!」と頭を下げて、喜代美ちゃんはお囃子さんをやるべく慌てて下に降りて行った。

「若狭、今あいつ、下手な落語て言うたか?」とカツラを被ったままの草原兄さんが言ってオレと顔を見合わせた。
「言いましたね……。」とオレが言うと、ふたりで吹き出した。
「あいつも、相当おかみさんの貫禄付いて来たな。」と言いながらカセットテープレコーダーの再生ボタンを押すと、

――つ、徒然亭ワカサ、で、ございまぁす!

「「あの日の録音、まだ取ってあったんかい!」」



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