4-2 焔硝

 教師に連れられて、鳳子が応接室に入ると、そこにはスーツ姿の見知らぬ男性がソファに腰かけていた。彼の顔には見覚えがなかったが、その纏う影は、どこか母親――宵子と似ている気がした。

 男性は、鳳子に気付くと笑みを浮かべ、優しげに声をかけた。

「やあ、初めまして。君が世成鳳子だね。母親に似た目をしているから、すぐにわかったよ」

「お母さんを知ってるの?」

「もちろんさ。君のことは宵子からいつも聞かされていたよ。君は自慢の娘だってね」

「ほんとう?」

 鳳子は男の言葉に疑いもなく、嬉しそうに笑みを浮かべた。教師は鳳子を男の向かいのソファへと座らせ、様子を見守っていた。鳳子の心がほころぶ様子に一瞬安堵したが、男の次の言葉でその空気は一変した。

「さて、自己紹介をしよう。私は暁と言う。君のお母さん――宵子とは古くからの友人なんだ」

 鳳子は、足を揺らしながら興味深そうに暁の言葉に耳を傾けた。宵子の事をあまり知らない彼女にとって、母について語られることは珍しく、それだけで好奇心をそそられた。しかし、次に暁の口から語られた言葉は、鳳子の夢を砕くものだった。

「君のお母さんは、警察に捕まったんだ」

 鳳子は、時間が止まったかのような感覚に陥り、言葉を失った。

 どれだけ冷たく、無慈悲な仕打ちを受けようとも、鳳子は母親からの愛を求め、信じ続けていた。いつか母親が自分を愛してくれる日が来ると、固く信じていた。その信念は、呪いに近い約束のように彼女の心を縛りつけ、母の帰りを待ち続ける唯一の拠り所となっていた。

 たとえそれがほとんど無に等しい希望であったとしても、その小さな可能性にすがり、夢を見ることで、鳳子は何とか明日を生きる力を得ていた。しかし、暁の言葉は、そんな彼女のわずかな希望を無惨に打ち砕いた。鳳子は不意に喪失感に襲われた。

 暁が宵子にかけられた容疑や刑罰について説明を始めたが、鳳子の思考は既に止まっていた。母が捕まったという事実が現実として受け入れられず、彼女の心は仁美里のことへと向かっていた。

 今のこの感情を誰に話せるだろう? そう考えたとき、鳳子にとって仁美里だけが支えであることに気づく。

 教師がそんな鳳子の肩を揺らし、優しく声をかけた。

「世成さん、大丈夫ですか?」

「え、あ……はい……」

 鳳子は反応したが、その顔には話を全く理解していない様子が見えた。教師は気まずそうに説明し直そうと口を開いたが、それを遮るように暁が口を挟んだ。

「いえ、どのみち、他の選択肢はありません。先生も余計な厄介事は避けたいでしょうし、あとは私が責任を持って手続きを進めますので。その子は私が引き取りますね」

 教師は戸惑った。鳳子の意思を確認すべきだと考えたが、暁の目が鋭く教師を見据えた瞬間、背筋が凍りついたような感覚が走った。

「先生、母親が帰らない家に、女の子を一人で放置できますか? この地域の福祉がどれほどのものかは存じ上げませんが、この子の意思という問題ではなく、現実問題ですよ」

 暁の言葉には圧力が込められていた。教師は反論しようとしたが、その場の空気に呑まれ、言葉が出なかった。正直なところ、鳳子がこの村の人間ではないということも頭をよぎり、これ以上この件に深入りすることを避けたい気持ちが湧いていた。

 そのとき、突然扉が勢いよく開け放たれた。ノックもなく割り込んだその存在に、全員が視線を向けた。

「だめよ、そんな勝手なことは許さないわ」

 その声を聞いた瞬間、鳳子の胸が高鳴った。彼女が慌てて視線を向けると、そこには仁美里が立っていた。

 仁美里は暁を真っ直ぐ睨みつけた。暁はその視線を軽く受け流すように、唇の端を少しだけ吊り上げ、嘲るような笑みを浮かべた。そして、再び冷ややかな目を教師に向けた。

「田舎の子供たちは随分と自由なんですね。教鞭をとるのも大変でしょう?」

 暁は低く冷たい声で皮肉を投げかけた。教師は、その声の冷酷さに思わず身を縮めたが、慌てて仁美里の方に駆け寄った。

「お、乙咲さん! 教室で待っているようにと……!」

 教師は焦りながら仁美里の肩に手を伸ばした。しかし、仁美里はその手を振り払い、暁の目の前まで堂々と歩みを進めた。そして、もう一度鋭い目で暁を正面から見つめる。彼女の威勢に一瞬、暁の眉が僅かに動いた。しかし、すぐにまたあの冷たい笑みを浮かべ、彼女を見下ろした。

 二人の視線が交わった瞬間、仁美里の肩がほんの一瞬だけ微かに揺れた。暁の笑顔の裏に隠された冷徹な瞳から発せられる冷気は、彼女を瞬く間に包み込んだ。それは、今まで味わったどの恐怖よりも深く、底知れぬ闇のような冷たさだった。

 地獄そのものが眼前に広がったかのような感覚に襲われたが、仁美里は決してその恐怖を表には出さなかった。自分を奮い立たせるように、平然とした態度を保ちながら言葉を絞り出した。

「話は聞いたわ。ふうこを引き取るって? ……貴方、一体何者なの? ふうこの何なの?」

 暁は微笑を崩さぬまま、仁美里の問いに答えるかのようにゆっくりと身を乗り出し、まるで蛇が獲物を狙うかのような冷ややかな視線を仁美里に注いだ。

「お嬢さん、火山の噴火を目にしたことがあるかい?」

「――え?」

 暁の唐突な問いに、仁美里は困惑した。火山と聞いて、彼女の頭に真っ先に浮かんだのは富士山だった。富士山が近い将来、噴火する可能性があると、どこかで耳にしたことがある。だが、もし富士山が噴火したら――擬羽村は、炎の海に呑まれてしまうだろう。その光景を想像して、仁美里は一瞬だけゾッとした。

 だが、そんな彼女の動揺を気にする様子もなく、暁は話を続けた。

「私は一度、実際に火山の噴火を見たことがあるんだ。あの光景は壮大で、美しいものだった。だが、噴き出した溶岩も、冷え固まってしまえば、ただの黒く冷たい石に過ぎない」

 暁の声が一層低く響き渡る。彼はふと足元に目を落とした。視線の先には、床に転がった小さな石ころがあった。埃に紛れて、誰も気に留めていなかったそれは、こんな寂れた村の放置された応接室においては、不思議なものではなかった。仁美里も、自然と暁につられてその石に目を向ける。

「お嬢さんが今、どれだけ熱を帯びて噴き出そうと、冷めればそれで終わりだ。冷静に考えて行動しないと、その感情もただの無価値な石と同じだよ」

 彼の冷たい声に、仁美里は知らず知らずのうちに拳を握りしめ、体が震えるのを感じた。暁の言葉の真意が突き刺さると同時に、彼女は心底腹が立った。しかし、彼を睨みつけようと顔を上げた瞬間、彼女の全身が凍りついた。

 暁は、じっと仁美里を見下ろしていた。先ほどまでの薄い笑みは消え、代わりに冷たく鋭い視線が彼女に突き刺さる。何か得体の知れない恐怖が、じわじわと体の奥底から湧き上がってきた。まるで、彼の目の前にいるだけで、自分が小さな石にすぎないことを思い知らされるような感覚だった。

「――お前は誰だ?」

 暁の声は低く、冷ややかで、体の芯にまで響き渡るほど恐ろしい響きを帯びていた。

「わた、しは――」

 言葉が喉に詰まる。冷静になって、やっと自分の愚かさに気付いた。名乗るべきではない――この男に、自分の存在を知られてはいけない。もし知られれば、村が危険に晒される。仁美里は直感的にそう悟った。

 今まで、仁美里は外部の人と接触することが何度かあった。しかし、それは彼女の存在が徹底して隠されていたわけではなかったからだ。たまたま道端ですれ違ったり、簡単な会話を交わす程度では、彼女が村の巫女であり、戸籍すら存在しない子供だとは誰も思い至らない。

 それでも、村の長を務める神主は、外部の訪問者がある場合には、なるべく仁美里を近付けないよう指示を出していた。それは、ここに居合わせた教師も承知していることだった。だからこそ、暁が仁美里の正体に迫るような言葉を発した時、仁美里だけでなく教師もまた焦りを覚えていた。

「ご、ごめんなさい、うちの生徒が、不躾で……! 話はもう済んだことですし、私たちはこれで失礼しますね。世成さん、短い間だったけど、東京でも元気でね」

 教師は慌てて仁美里の肩を掴み、無理やりに扉の方へと誘導する。仁美里は何かを言おうとしたが、言葉が出てこない。ただ、視界の端で鳳子を見つめていた。鳳子もまた、不安そうな瞳で仁美里を見つめ返していた。

(……これでお別れなの? 本当に?)

 部屋の外に追いやられ、教師に引っ張られるようにして教室へ向かわされる仁美里。その背後で、暁の「それじゃ行こうか」という声が聞こえた。思わず足を止め、振り返って応接室の扉を見つめる。

(……あの人がふうこのパパになるの? ふうこを大切にしてくれるの? ふうこを幸せにしてくれる……?)

 そんなわけない、と仁美里はすぐに否定した。暁の瞳は、神主と同じ冷たさを帯びていた。己の利益のために他人を支配し、道具として扱う、そんな冷酷な大人の瞳。そんな人間が、鳳子を大切にするわけがない。泣いている鳳子の顔がふと脳裏に浮かんだその瞬間、仁美里は教師の手を振り払い、再び応接室へと駆け出した。

 開け放たれたままの応接室の扉を勢いよく飛び込むと、そこには今まさに鳳子を連れ去ろうとする暁の姿があった。二人の前に立ちはだかると、仁美里は両手を大きく広げ、声を振り絞った。

「ふうこは、私の家で面倒を見ます! ――だから、連れて行かないでください……!」

 彼女の声は震えながらも真っ直ぐだった。暁の気迫に押されそうになる自分を必死に抑え込みながら、仁美里はその場に立ち続けた。自分の運命がどう変わろうとも、今ここで鳳子を守ると決めたその決意が、彼女の体を突き動かしていた。

 暁は何も言わず、ただ仁美里をじっと見つめ返す。その目には微かな好奇心と冷たい笑みが浮かんでいたが、仁美里は決して目を逸らさなかった。

 教室の外から聞こえる蝉の声が、二人の間に唯一の音として響き渡っていた。
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