10話
BACKBONE.
10、Ready?
業界人の間ではほとほと有名な話ではあるが、コルトの望幸恋とは超がつくほど生真面目で与えられた役割を完璧にこなすのはさも当たり前かのような錯覚に陥ると言われた。
日々の業務を怠るなんて怠慢は勿論ないし、表の人も裏の人も知り合った人を悉く持ち前の人たらしで懐柔する。記憶力がとにかくいいので一度会った人の顔と名前は絶対に忘れないうえに誕生日なんかを知られた日には律儀にメールが送られてくることもしばしばあった。
基本的には誰に対してもそうなので、みゅうが誰かを特別扱いしていると客観的に見て思われることはまず無く、ともすればそんな”みんなの平等なみゅうくん”という安心感が多くの表面上での付き合いやすさの一端を担っていたに違いない。
『はい、ではぼちぼち配信始めてきます。皆こんばんは~』
『…………』
『おお、いるねいるね。告知ちゃんとみてくれてありがと~。あの、もう早速だけど半分見切れてるし緊張して何も喋んないけれども、今日は俺の大好きなハレこと晴祝慶人を迎えての十五分にしようかなと、ゆ~、とこです。これ、晴祝慶人~。何かお喋り~』
『はい、は、あの……晴祝慶人でございます……入所は今度の夏で二年です、十八に、なりました……まだまだしがないアンダーですがどうかこの機会にお見知り置きいただければと思っておりますよろしくお願いいたします……』
『わはは、カッテー。俺のこと見てくれてる人だったら多分分かると思うけど、コルガバでおなじみの自称みゅうオタクということで、最近外向けにもそのキャラ立ててきてますよねえ』
『イエ、トンデモゴザイマセン……』
『今日が誕生日ってことなんで、特別に配信来てもらってました~。後半いつも通り質問拾ってくので今日は出来ればハレ関連のだと拾いやすいかな。待ってます。なに、じゅうはっちゃいなの? 赤ちゃんじゃん。誕生日おめでとー』
『アリガトゴザイマシュ……』
『お、プレゼントどこに送ればって今一瞬見えたけど……待ってね、COLT所属のタレントにプレゼントとか手紙を送りたいよって人がいれば……こ、こ、に。よいしょ。リンク張っておくので注意項目確認してから是非是非よろしくお願いいたしま~す』
『サスガ……シゴトガオハヤイ……』
『あ、ちょっと、マァから電話www俺の配信ではおなじみのチューン門出マツリくんからお電話ですwwwちなプラベ端末wwwよしハレ出ろ』
『えっ……! はい、ほんとに? あ……も、もしもし?』
『スピーカーにしていいよ』
『あ、』
『”ちょっとおおおおお、みんなあ、こんばんわああああああああああああああああ、いつメンなのになんで俺誘われてないんだと思う~~~!?!?!?!”』
『んなのおめー今日は俺とハレだけの特別な配信だからだべ』
『”は!? ずるいよねえ!? オフなの知ってたくせにさあ! ひどい~~ハレちゃんのこと独り占めしてへんたい~~~今からケーキ買って行っちゃうぞ!?”』
『はーい邪魔しないでくださーい』
『……;;』
『”ウッザ! 俺の配信にも黙って呼ぶからな?? 絶対くんなよ?? ハレちゃん、改めてお誕生日おめでとう! コルガバのオタク度は見ててちょっとキモイけど、キャラは確かに立ってるわ。今度また三人でお祝いのご飯いこうね!”』
『あ、ありがとー……!』
『はいはい、生電話どうもね~さいなら~』
『“おいっ雑っ”』
『あ、切っちゃった、ごめんマア。許せ』
『っみゅうさん……雑だって……言われてま……』
『何? あ、コメント? え俺マァにはいつもこんなもんじゃない? 雑だったかな。面白そうだから今度三人で配信しよか。てかお前いつまで見切れてんだ。もっとこっちおいで』
『いやはあ、そんな、俺、こんなつもりじゃああ……みゅうさん~~……』
『なになにww あ、だらだらしてたら五分経過。もう質問いくか? ハレ好きなの拾って読んでちょうだい』
『ウウ、メイン扱いツライですっ……ごめんなさいみゅうさんオタの皆さん、えと、みかんちゃんさん、中略します。質問は、二人で遊びに行きますか? ですね』
『俺とハレだよね? 行かねえな。家来たのも二回目とかじゃない?』
『です……例のムスク系のやつのいい匂いします……俺も使ってたけど多分みゅうさんが良い匂いだからかなんか混ざってほんと、むちゃくちゃいい匂いになってます。俺んちにあったあいつとは違います。あとなんかこのラグがふわふわで高そうです……これどこのだろ。あとで特定して流しまs』
『おい人の部屋の実況やめろ、ルームフレグランスは前に載せたやつだよ。俺の匂いと混ざってるとかちょっとヤバめなこと言われたのは今日が初めてなので真相は分かりません!! ラグは気に入ってるけどニトリな』
『この匂いもう廃盤ですけどストック切れたら次どうするんですか?』
『え、マジ? 全然チェックしてなかった、ストックは頂きもので山ほどあるから無くなったら考えます……。えてかそれ質問なの? なんの話? もう次、次!』
『俺の純粋な疑問でした……。かずらいさん、中略します。質問は、慶人くんの、服のサイズ知りたいです?』
『お、任せろ。今見る』
『いやああ、Lっ! えるですからっ』
『ほんとだ。身長のわりに意外と肩幅あるよね。ウエストは~』
『ひえ、72っ、お腹やめてっ』
『細いな~。ちゃんと食えよ、育ち盛りなんだから。俺も読んでいい? えーと、りーちゃん。……ハレくんはみゅうちゃんのお気にって認識でいいですか? ……』
『みゅうさんは全人類に優しいので!!!』
『いや逆にそれはプレッシャーだわ。頑張るけども。ん~、お気にというよりか、推し。俺を推してくれる上で切っても切り離せない存在ですかね。今知ったって人はぜひこれからよろしく!』
『へっ……』
『次~。アトム二号ちゃん。ハレくんをお嫁にくださいうるうる、はいダメ。うるうるしてもハレは俺のだからあげません。どうしても欲しいなら俺を倒してください』
『お、ええ……? みゅうさん、』
『つぎつぎ~、しーぼうちゃん、ハレくん、みゅうくん特製パスタはもう食べましたか? あー、食わせてないね。今度作ったろ。意外と時間ないよねこれ、どんどんいこー。てかハレについてもっと知ってもらいたいからちょっとこれ一門一答形式でいこうかな。名前は省略いたします。ごめんね。ハレ、メンカラは?』
『え、お、オレンジですっ』
『いーよね。似合ってる。俺の好きなとこ三つだって』
『目、声、全部』
『早いなw 今一番欲しいものは?』
『ん? あ、コルガバの推しクイズマスターバッヂ』
『何それw 誰もあげられなくねw ワンスリーで一番好きな曲』
『それはもちろんテイクオフです!』
『好きな色は?』
『赤。オレンジも好きです』
『好きな数字』
『えー、1と13もかな?』
『一番好きな食べ物は?』
『ワンスリーグミ』
『は?ww 真面目にもう一声』
『いやマジですけど!? えー、うーー、グラタン……!?』
『ウケる。練習着のブランド何ですか』
『練習着のブランド……? 今着てるのは多分ノーブランドです。特にこだわりは無いです』
『関連して。好きな服のブランドなんですか?』
『同じくこだわりないので……新宿とかで買ったやつかな』
『えーとそれは、ブランド名とか見ないで買ってるってこと?』
『? はい……。皆気にしてるの? これどこの服かとか俺知らないです……』
『ね~……可愛くね? 今度お洒落なパンツってやつ買ってやるからな……』
『え!?』
『あ、ちょっと待ってこのへんで最後になるかな、ん~~……お、これいいね。はい、晴祝慶人くん。みゅうさんとやってみたいことなどはありますか? だって。いやもうこれは。あれしかないよねヨシトさん』
『えっ、……えー、それちょっとハズかしい、ですね……、えと、今はまだまだ足りないところばかりで夢のまた夢って感じなんですけど……い……いつか一緒のステージに立って同じ景色を見たい……って言えってことですよね……?』
『はあいその通り、よくできました~。皆このいつか一緒のステージに立ちたいってのさ~、もう三年ぐらい前になるか? 周年記念ラジオの時、まだリスナーとして向こう側にいたハレが送ってきてくれたメッセージなんだよね。あれ、ごめん言ってる意味分かる? これめちゃくちゃえもくない? 今でもたまに思い出してこの回聞いたりするんだけど、なんだろ、ちょっと胸いっぱいになんのよね。で、その後調子はどう、ヨシトさん。夢は叶いそうかい』
『……悔しいけどっ……俺の全速力はこれが限界ですっっ……』
『ん~。俺はここで待ってていいのかい』
『もちろんですっなんなら構わずもっともっと先に行っててくださいっ俺は俺の出来ることを精一杯頑張るだけなのでっ』
『ふはは、おう、ガンバレー! 楽しみに待ってるからね。ってー、ことで。皆ちょっとはハレのこと知れたかな? 大分駆け足で申し訳ないんだけど、アーカイブ残すからまたあとでゆっくり見てもらえたら嬉しいです。じゃあハレ、今日は来てくれてどうもありがとう。ほい、俺から。誕生日おめでとう』
『ええーーっ!!! ま、こんな、』
『何あげたかはあとでハレの投稿見てくだっさい! ……それじゃあ、またきてね!』
『はっ、みゅうさん今日はお招き頂きありがとうございましたっ……! 皆さんもお身体に気を付けてっお風邪など召されませぬようお過ごしくださいませっっ……』
『ふ、何っっか知らんけど絶妙にセンスないんだよな。おい、切るよ、またね~』
『はいっ』
実に半端に動画は途絶え、真っ暗なスマートフォンの画面に浮かぶリプレイマークをじっと見つめているとその黒い画面に反射して映る自分がただただいつも通りの自分自身でしかないことに慶人は殊更恐怖を覚えた。
もうこのアーカイブを五回は連続して見ているが、どんなに贔屓目で見ても望幸恋の配信とは言い難い話題の比率に思えて仕方がない。みゅうファンにどう思われたかだけが心から心配で、邪魔していないか、品位を貶めてはいやしないかと視聴を止められずにいた。
それに、この配信がきっかけなのは火を見るよりも明らかだったがしがないSNSのフォロワーも今度は一気に一万人ほども増えてしまったのに驚いて、またもや発信に恐ろしく時間がかかって困っていた。
この、波紋とも言える静かで大きな反響だったが、ファンのみならず望幸恋に骨抜きにされている業界人の間でまでも噂されるようになっていて基本誰にでも平等で誰とでも仲良くはしていた望幸恋が、これほどあからさまにとあえて言うべきか、誰がどう見ても大大大プッシュしている後輩など今までに例が無かったものだから、「望幸恋の推しである晴祝慶人」というその美味しい構図をどの角度から取り上げようかと絶賛企画段階の途中にもあった。
当の本人はそんなことにまでなっているとはつゆ知らず、つい先日アップしたみゅうからの誕生日プレゼントについての投稿が回るおかしなスピードに戸惑うばかり。
しかし、それを境にとかくアンダー生の反応はこれまでとはまったく別の種類のものになっていった。
それはコルガバの時に感じたギラギラの敵対心や対抗心とは明らかに違う嫌悪感の方が色濃く感じられたのは言うまでもなかった。
「みゅうくんの推しってどれ? え、あの地味系? 配信と違くない?」
「おそろの練習着もらってたよね! すごくない!?」
「実物くそ地味じゃんやば」
「デビューもしてないし歌も別に特別上手くはないしねえ。あれよりかは俺出来てる気がする。どんな手使ってみゅうのお気にになったんだかって感じ」
「コルガバのキモオタアピールが通じたんじゃん? 売れたいのは分かるけどどこに時間使ってんだって話だよな」
ただでさえ狭いレッスン室。全部聞こえているのだが相手にしても仕方がないので聞こえないふりをする。比較的デビューのハードルが低いと噂され始めているコルトのアンダーに普通に通って二年以上居残るというのは入所から今日までデビューの声が未だかからない落ちこぼれ組と言っても過言ではないのだ。
基礎点によっては早い人で入所数か月でデビューすることもままあるし、二年もアンダー生としてくすぶっているのではそのレッテルも致し方ないというのは暗黙の了解。ここでは皆が同じラインに立っているはずなのだからと、少しでも特別な脚光を浴びる人間が妬ましくてしょうがないのだと思う。
でも、あまりにも堂々と陰口を言われていたとて実際地味だし歌もダンスも別に光らない。デビューしていないのも本当で、相変わらず学校には通いながらの毎日なので収録の日以外は土日中心でしかレッスンにも参加出来ない。
言い返せるところもないし、寧ろ突如降って沸いた望幸恋の推しという肩書は今の自分には少々荷が重いとも感じていた。
もとより、人付き合いは苦手なので極力したくはない。ないけれど、それよりももっと苦手なのが他人の嫌いの対象になること、疎まれたり妬まれたりやっかまれたりする対象にってしまうのが一番嫌だった。
我ながらなんとか出る杭にはならないようにとやってきたつもりだったが、マツリがデビューして居なくなってしまったレッスン場ではますます露骨に僻みの標的にされたも同然でペアを組むのも一苦労だった。
それでも、目標は確実にあった。そのためにやるべきことがあるのなら自分の精一杯の全速力で挑むしかない。誰の為でもない、自分の為に好きでここにいるのだからと。
ある明くる日の待機時間中いつも通りに一人黙って前屈をしながらそんなことを思っていると、ふとレッスン室の扉が開いたので反射的に顔を上げた。
アンダー生の統括マネージャーが真っすぐにこちらを見ていた。
「晴祝、荷物持ってちょっと来て」
「……! はい……!」
それは、十八歳の誕生日からは半年ほど経った秋口のこと。動揺しながらもすぐに立って扉へ向かうと背後がざわついたのが分かった。無理もない。なにぶん、この光景はここ二年で見てきたデビュー組の流れに他ならなかった。勿論、大きな声で言われなくとも何が言いたいのかなどよくよく分かる。
今少し話題性があるだけで、実力には到底見合わない抜擢。そしてまさにその通りだと思ってしまう自分もいて。
針の筵の様な視線を遮る様にして扉を閉めると、なんだかどっと緊張した。
だって呼ばれたのは一人だけだった。グループ活動じゃないならまさかソロ活動。芝居か、歌か? 正直未だ一人で何かを満足にできる自信もなくて足が震えそうになるぐらいとても不安になる。こんな形でクビ宣告をされた噂は聞いたことがないけれど、もしか万一。
怖くなって俯き気味で静かにしていると、マネージャーはそんな心を見透かしたように小さく笑った。
「晴祝。今まで通り、飽くまで採点方式の選抜だから、そんなに不安な顔をしなくていいんですよ。本来だったらコネクションも運すらも立派な自分の実力です。やっかみに負けていてはステージに立った時何も出来ませんよ」
「……っはい、……いえ、すみません……」
「年末から始まるワンスリーのツアーでバックについてください。関東近郊公演の全三十ステージを965名義、六人入れ替え制で行うのでよろしくお願いします。今日中に連絡先の登録と、もし出られないところがあれば早めに教えてください」
「は、……え……?」
「おめでとう。みゅうと同じステージに立つという夢がひとまず叶いましたね。もう次の目標を決めておかないといけませんね」
詳細の厚いファイルを手渡されると、その重たさに驚くほど現実味を感じて一瞬どこからが夢だったのだろうかとパニックになる。あのたった十五分という短い短い配信から? それとももっと前、うどんを食べていた辺りか、いや待てよ、もしかしたらあの日見上げたUニカビジョンから始まった実は本当に長い長い夢だったのかもしれない。
「稽古の日程をちゃんと確認しておくように。じゃあ、今日は解散です。お疲れ様」
「お、お疲れ様です、……ありがとうございますっ……」
マネージャーの後ろ姿をぼーっと見送ると、人間、信じられないような出来事がその身に起こるとやっぱり頬を抓ってみたくなるものなのだなとただただ思う。
震える右手が情けなかったが、自らのほっぺたをつまんでみーんと限界までゆっくりと引き伸ばしてみると、当たり前だが痛かった。
「え、すげえ、がんばれ、俺…………」
実感が湧かなくてどうにも足の力が抜けてしまってその場にひとまずしゃがみこむ。
勿論、喜んでもいるけれど責任の重大さに途方に暮れているので半々だ。ぐるぐるとする頭の中でまず先にぱっと浮かんだのは、もしかしたらみゅうはこのことを既に配信の時には知っていたんじゃなかろうか、ということだった。
今更聞くに聞けないが、そうだとしたら相当性格が悪いぞと照れ隠しに思ってみる。仮にそうでもやはりツアーに参加させてもらうからには挨拶しないのも違うと思い、自分からはあまり打つことのなかったメールを震える指でみゅうに送った。
浮かれていたのだと思う。内容はかなり普通で、年末のツアーよろしくお願いします。とシンプルなものだった。少しの間文面を見つめていたが、既読にはならず忙しいだろうしすぐに読んでもらえるとも限らない。解散と言われたのでとりあえず家に帰ろうと荷物を背負うと、スマートフォンが震えだし、着信が入ったのが分かった。
「…………」
一瞬ためらったのは、画面にでかでかとみゅうさんと表示されていて、まさか電話がかかってくるなんて思ってもいなかったからだ。
「も……もしも……」
『なに、どういうかんじ? ツアーって?』
「あ、いやたった今バックにつかせて頂けるとマネージャーから……」
『…………え、ま、まじで!? 今どこ? 養成所?』
「はい。もう帰りますけど……足引っ張らないように死ぬ気でがんばりま」
『いや、エントランスで待ってて、おれももう終わりだから!』
「? はい……」
らしくない急き様に何をそんなに慌てているのかと呑気に階段を降りていくと、エントランスにはリュックの口ががばっと開いたままのみゅうが先に立っていた。どこから走って来たのか息が切れていてその必死の形相がこちらを捉えた瞬間の瞳の煌めきは生涯忘れられないほどきれいな光を放っていた。
「ハレぇ! やったじゃんっ! 夢叶ったじゃんかよ!」
「っ…………」
「うわ、嬉しい、俺こんなにうれしいの初めてかも、もう誰かに言ったの!?」
「い、言ってないです……」
「俺が最初!? てかだって、ラジオから数えたらさ、二年? 三年? 爆速じゃん! 関東全部でしょ!? 楽しみ! まだちょっと時間空くしこれから稽古だよね?」
子供みたいにキラキラとした顔で本当に心の底からみゅうが喜んでくれているのが直に心臓に伝わってくる感覚がして何とも言い得ない喉の奥がぎゅっと締まるような苦しさに襲われる。
その息苦しさがぶわっと鼻の奥を抜けようとするのを無意識に堪えたら、キラキラのみゅうの瞳がぼやんと滲んでしまった。
「…………すいません、みゅうさん、なんか、」
「嬉しくて泣いちゃうよなこんなん! 俺もちょっと泣きそうっ」
「う、れし……いのか、……こわい、のか……」
処理しきれずに咄嗟に俯くと、今まで頑なに避けて殺してきた感情の起伏が大きなうねりとなって目から零れていくのが分かってなんでかとてもとても辛くなった。
これが例えば嬉し涙だったのだとしても、泣かなければ昇華出来ないほどの大きな感情に晒されるのをしないようにしないようにと思って生きてきた。
涙の記憶が父の死と濃密に繋がっている慶人にとって泣くという行為自体が地雷のようなものであり、理由はどうあれやはりどうしても泣くのがとてつもなく怖かった。自分が泣くことで未だに誰かが傷ついてしまうような気がして。
「…………」
苦しそうに涙するその様子を敏感に察して、恋は弱々しく震える慶人の背中にそっと触れた。
不安なのかもしれないし、それだけじゃない何かがあるのかもしれない。ふと急に見せられた非常にやらかい慶人の弱い部分だった。戸惑うほどの圧倒的無力感を感じて、だけれどどうにかこの手で慰めてやりたくて、思わず口を付けてしまいそうになって留まる。
他にどうすればこの震えが止まるのかを必死になって考えてしまう。
「……ハレ、怖くないだろ、だいじょうぶ。やることやってりゃ夢叶うってわかったじゃん」
「はあ、う、……やばい、ちがくて、な、泣くのすごい嫌なんです俺……」
「…………」
「嬉しい、嬉しいです、でも、夢がかなったことより、みゅうさんがこんなに、俺よりずっと嬉しそうに喜んでくれたのが、ほんとにほんと、に、うれしくて、こんなうれしいのにっ……あーっ、泣きたくねえ、つらいっ……、でも嬉しいのはほんとです、だいすきです、みゅうさん、……」
とくんと一度喉が鳴ったのを最後に、随分長いこと息をするのを忘れていた恋はびくっと震えた自分の右手にびっくりして大きく息を吸い込んだ。
「っげほっ……うわびっくりした……」
「すいません、こんな気持ちになるの、ひさしぶりだから、」
「い、いや……ごめん俺も……ヨコシマで……あの、嫌じゃなかったらだけど、……落ち着いたら飯でも食って帰ろうよ。お祝い」
「ン……はい……」
頷いてくれたのは良かったが、必死に嗚咽を飲み込むたびにぽろぽろと零れて止まらない涙をしばらく見つめながら西日の差し込むエントランスの隅に二人で立ち尽くす。
「…………」
そもそも、どうしてこんなに辛そうに泣くのだろうか。無論、単純な嬉し泣きでないことだけは分かる。涙を流すという行為を気持ちの昇華の手段として使える自身とはきっと目的が違うのだということもなんとなく。ならば、晴祝慶人にとっての泣くという行為が自分にとってのどういった状態なのかを把握出来たらかける言葉も浮かぶはずなのだが、それがさっぱり思い当たらないから困ったものだ。
いっそ抱きしめるのじゃだめなのだろうか、どうしたらいいだろう、と何度も手を伸ばしかけてはやめるのを繰り返していると、ついぞ背後から何泣かせてんのよ、と穏やかな声が聞こえてきて振り返った。
「あきちゃん」
ひざ丈の紺のスカートにチェック柄のベスト。すらりとした長身で仁王立ちをする彼女とは、創設当時からこの会社のフロントを守ってきたCOLTきっての古株、嘉納明喜子だった。
条件反射でほっとしてしまったのはなんでだろうと思い返せば、かつてこの身一つで家出してきた青二才の当初から何かと面倒を見てもらっていた、つまり、社長との関係性を知られているという点では数少ない信頼のおける大人の一人だったわけで。
「まったく、何やってんの。晴祝、目腫れるからあんまりこすらない。ハンカチは?」
「っ、ありまず、」
「あるならさっさと出す。鼻もかむ。もう。子供じゃないんだから外でそんな無防備に泣かないの。男なら堪えて便所に行って泣きなさい」
「……!!」
「っええ!?!? 大分ふるめかしいんですが……!! てかハレはまだ子供だからいいんだよっ変なこと吹き込むなっっ」
「っ……っで、でずよね、は、はずかし、ずいませんっ……便所いってぎま、」
「あっハレっ待ってっ!!!」
言いながら顔を真っ赤にしてダッシュで駆けていく慶人の背中をあえなく見送ると、明喜子が盛大にため息を吐くのが聞こえたので渋々対峙する。
「ちょっと。アンタも大概にしなさい。人の決壊線を壊すのはいいけど、場所を考えてやんなさいよ」
「はあっ!? おっっれは悪くないんですけどっっっ! てかあきちゃんこそ母ちゃんかよて、男だって人目を憚らず大泣きしたい時だってあるよっ!」
「そりゃあるでしょうね。あの子がわざとそうしてるならあたしも止めないわよ。でも本人が泣きたくないのに泣いてるのを見て隠してもあげられないなら泣かせちゃダメ。そう思わない?」
「っぐ……!」
「男も女も打算で泣いてる分にはほっとこうが抱きしめようがどうでもいいけど、我慢できない気持ちの決壊は本人が一番びっくりしてるものなの」
「くぅ、……だって、な、泣き方がおかしかったからっっ、俺もどうしたらいいのかってっっ、てか気持ちの決壊か、なるほどっ……ちくしょう、確かにねっ……勉強になりましたっ……」
「何が勉強よ。たく」
不可解だった晴祝慶人の状態とやらをこうもすんなりと解明されると、ぐうの音も出なくて悔しいが納得せざるを得なかった。
気持ちの決壊。つまり、晴祝慶人がそれほどまでに大きな感情を先ほどの瞬間抱いたということか? 腑に落ちた気がしたのはつかの間で、正直分かるようでよく分からなかった。
「……あきちゃんはそういう時どうされんのが安心する?」
「……え?」
わからなかったので純粋に聞いただけだったのにものすごく渋い顔をされたので、内心おめーにはやらねえよと思いながら黙って口を尖らせてみる。
「参考までにだよ」
「……さあね。あたしと晴祝は違うもん。まあでも、辛抱強い子ほどこういう時はそっとしておいてほしいんじゃない? 分かんないよ」
「……ふうん……」
それから一〇分も経った頃、腫れぼったい瞼で帰ってきた晴祝慶人は鼻声のまま照れくさそうにすいません、と小さく頭を下げた。
「……」
そんな姿を目の当たりにしてしまってはどれほどシミュレーションをしてみた思考でもっても、気にしないでとも、大丈夫かとも言えなくて、そのかわりにようやっと正面から抱きしめて、おめでとうと呟くことしかできなかったのであった。
「……えへへ」
すると、対する晴祝慶人は、ありがとうございますと呟きながら意外にも冷静にそっと抱きしめ返してきてくれた。一時はどうなることかと思ったがこれでなんとか想定内の愛に溢れる抱擁に着地したかとほっと一安心した。
「ごめんね。気がきかなくて」
「そんなことないです。俺も急に泣いたりしてすみません」
「……もう平気?」
「はい。なんか、ここに来るまで俺、思った以上に頑張ってたみたいです。でもまた今日からもっともっと頑張ります! 見ててください」
よもやここで初めて慶人の口から自分は頑張ったのだという言葉を直接聞いてしまったら、得も言われぬ深い深い情動に襲われるのは言うまでもなかった。
アンダー生としての側面は勿論、まだ未成年の学生であり、はたまた誰かの可愛い子供であり多くの誰かにとっての大事な大事な存在であるという晴祝慶人という人生の骨組みのことを殊更強く、強く思い知らされる。
学業とバイトとの両立はきっと他所が思うよりしんどかっただろう。素人が急にたくさんの人から注目されるのはよっぽど自信がない限り暴力的なプレッシャーにもなっただろう。一方で、憧れの存在から毎日のように構われるようになって気が抜けない日々だったかも分からない。
きっと全部が思うようにはいかなかった。それでも、同期生がどんどん先へ行く背中を見送った現実を明喜子の言う通り辛抱強く積み上げ続けた二年間が今日、この瞬間に繋がったという事実こそがなんてドラマチックな人生であることか。
磨かれた原石の眩いきらめきに思わず目を細めると、次にはとても強烈な欲情が腹の底から湧き出す様に溢れてくるのを必死に堪えて辛うじてもちろん、とやっと小さく零す。
純粋な成長譚を偽りなく貴ぶ気持ちの裏側にびっしりと蔓延ったこれまでの晴祝慶人への強い執着の根源がみるみるうちに汚らしく暴かれていくのが自分でもよくよく分かって内臓が震える。
こんなに特別でこんなに優れた光り方をするたったひとつの人生を左右したのがこの自分の打ち出したこれまたたったひとつの曲だという事実の恐ろしいほど愉悦の快感に胃がひっくりかえりそうになる。
思えば、これまでの人生において見た目やカリスマ性は無論、演技も歌唱も自分にとってはいわばあって当然の才能だった。なぜなら、それらに秀でた二人から出来上がった能力の結晶であるのが自分なのだ。周囲に見劣りするはずもなければその自信を疑う余地もない。
この業界で生きていこうとする限りそれらはあって損はないものだったが、今となっては二人にあるものを褒められるのは当たり前だとも思うし、くだらないプライドでそうあらねばならない気さえする。
だが、そんな七光りでばかり出来ているという劣等感に苛まれた自分にもたったひとつだけ、二人にはないものがあったのだ。
いわばその証明が、晴祝慶人だった。晴祝慶人の、基まったく知らない他者の人生をこれほどまでにつき動かすことのできるきっかけを、自分はこの手で生み出せる。
あの二人には出来ないことを、自分が今出来ているそのことこそが、自らの輝きを何ひとつ持たざる者であった”御幸恋”というアイデンティティの唯一の存在証明であること。
この先晴祝慶人が光れば光るほど、その輝きを浴びた御幸恋がまだそこに在ることを確かめることができる。
未だ誰にも暴かれず、自発的にはとてもじゃないが怖くて光れない空っぽの自分が必死に縋る細い細い命綱。その先に繋がるいわば絶対神とも言える晴祝慶人を、こんなにも冷静に、盲目的に信じる他ない状況の正体を果たして何と表現したなら理想の関係になれたのだろうかなど。
>>>>
さあ、用意はいいですか?
powered by 小説執筆ツール「arei」