11話
BACKBONE.
11、Mirror World
晴祝慶人にとってステージ袖とはいつでも世界の境界線だった。ここを一歩出るだけで、目の前の景色は一転し、自らの名前でさえも装飾されて勝手にきらきらと光ってしまう。それはどちらかというと恐怖だった。上手く光れているか、上手く期待に添えているか、声はどう、表情は、手も足もちゃんと動いてくれている?
それは事務所のレッスン生としておおよそ二年が経過した年の年末のこと。念願だったワンスリーのバックについて初めてステージに立った時そんな風に思った。でも、主役である六人の背中が常に前にあるお陰で自分が見られているという感覚はいつしか消え失せ、ワンスリーのライブの演出や構成と一体になったような気分になれた。それはどちらかというと幸福で、ああ、今自分は夢だった場所に立ってみゅうさんと同じ景色を見ているんだなと感慨深くなった。
けれど、センターステージへ移動する花道の途中で、何でかハレと書かれたうちわを持っている人が見えてうっかり真顔になってしまった。その文字は偶然他のメンバーにも見えていたようで、貴重なMCの時間帯にそのことをいじられ到底いたたまれなくなって困った。
だって、ここはワンスリーのステージ。ハレというしがないバックダンサーの概念など今少しも必要ないはず。場違いだからやめてほしい。恥ずかしい、みゅうさんのライブの時間をこんなに邪魔してごめんなさい、ファンの皆さんも、ほんとにほんとにごめんなさい、そんな気持ちでいっぱいになって終演後の帰り道にたまたま出る時間が一緒になったみゅうに向かって慶人は咄嗟に頭を深く下げていた。
すると、付けていたマスクをわざわざずらしたみゅうはとても険しい顔つきで首を振ったのだった。
「お前それはさ、マジで失礼過ぎ。絶対言ったらだめだぞ」
「……え」
「てか、……はあ。そもそもワンスリーを見に来たんじゃないんだよ多分あの子はさ。お前が好きだから来たんだろ。初めてバックについたとこを見たくてさ、応援しにきてくれたんだろうが。なのに恥ずかしいはねえよ。俺らのファンばっかの中でお前の名前勇気出して持ち出してんだぞ。それ見てお前、んなことしか思えないわけ?」
「…………」
のちを考えても、パフォーマーとしての姿勢においてこれよりキツめにみゅうに何かを言及された記憶はない。ただ、実際そう言われてみても、慶人は内心少しも納得できなかった。大前提として、ここはワンスリーのステージであって、自分はそのバックダンサーでしかないという気持ちは変わらない。ワンスリーを見に来た人でいっぱいの客席をみゅうと同じステージから見られるだけで最高の気分、自分にスポットライトがあたる必要なんて微塵もない、そう頑なに思った。
なんなら965というグループでバックダンサーとしてだけでなく、単体でグループ活動を行うようになった今ですらも心の奥ではずっと思ってしまっている。みゅうの手前、表面ではそういう考えが良くないフリを努めはすれど隠れる蓑などもうない場所で必死に自我を薄めようとする慶人の無意識には勿論近しい周囲とて黙っているはずもなく。
「お前いい加減もうちょっと華々しくしなあ??? アンダー期はどうか知らんけど絶対地味じゃねえからもう。その存在感で無言でにこにこされてても正直扱いに困るっつーの。そういう微妙な雰囲気から出んの。不仲説もイジメ説も!」
「アリ。急に面白いこと喋れとは言わんから、せめて外見に見合った動きはしといてくれ。自信を持て。ちなパフォーマンス力の話じゃねえからな。わかるな?」
「……髪を…………黒くしようかな……?」
「マジなら殴る」「できるもんならやれ????????」
初めてのステージからはあっという間に一年半が経過し、新メンバーとして初々しいでまかり通っていた妙なぎこちなさもそろそろ限界というもの。
一時の人気としてもてはやされても、素材が地味だし個性もないしデビューしたとてどうせ光りやしないと思われていた路傍の人である慶人だったが、高校を卒業した次の日にはソッコーで垢ぬけて話題を呼んだ。
というのも、卒業祝いと称した望幸恋のチャンネル内では行きつけの美容室の宣伝も兼ねて、野暮ったく伸びていた慶人の黒髪を明るい茶の短髪に整えられる様子が配信されたのだ。
仮に慶人本人には本当にその気はないしここまで来てもやれ”自信が無い”のだとしても背後について総合プロデュースを担っているのは望幸恋という厄介な超敏腕スポンサーだ。
例え無理やりに電飾を付けられたのだとしても、ツリーであるなら光ってしまうのが世の常。せめて多少なりとも群がってくるファンぐらいには自己肯定感を持ってもいいはずなのだけれど。
一方、最長でワンスリー発足時からバックダンサーを努める年長の二人が所属している965とは、デビュー組の後ろを支える影であり、また一つのグループとしても柔軟に機能する無形の集団だった。
数字で965とだけ名乗っていて明確な呼び方を公表してはいないのでこれをそのままキュウロクゴや、クロコと呼ぶ人もいればバックやダンサーと呼ばれることもよくある。
主催のイベントもライブ活動もほとんど無かったがツアーの前座やバックダンサーは勿論のこと、その他デビュー組が主演する演劇には必ずと言っていいほどアンサンブルとして参加する確率が高い。
活動自体はとてもマルチで実はなんでもやりこなす裁量が問われる難しいポジション。従って誰でも投げ込まれればこなせるかと言ったら決してそうではないのだが、アンダー生からの人気は専ら低く965でデビューが決まるや否や事務所を辞めてしまうこともあるほどだった。
その一因としては、ごくたまに俳優やダンサーとして独立する人もいたけれど、これまでに965内のメンバーから新グループとしてデビューした実績が無いことも大きいだろう。
更に言えば、965という形において人数制限はなく、場合によっては965内で人選が行われて表に出られる者とそうでない者に分かれることもある。
つまり、965とはデビューも出来ず所属暦だけ長くなった”辞めたくない人達”の救済措置と思われている節も少なからずあるためだった。
なので、慶人ほど例外の理由でもなければ965に選ばれて泣いて喜ぶ人などまずいない。
後に公的に発表された晴祝慶人の行先を見て、一体どれほどのアンダー生が安堵し嘲笑ったことか。
だがまあ、冒頭の通り、念願をやっと叶えた慶人にとってそんな外野の見る目もへったくれもないほど世界は輝いていたしどれほど鈍いと思い込んでいようとも自身もちゃんと輝けた。
それまでの誰彼など記憶にも残っていないぐらいには多くの精一杯が詰まった一年半だったわけで。
因みに、タイミング良く社宅に空きが出るとの情報が入り、二十歳を迎えた今春思い切って一人暮らしへとも踏み切った。
なんでも、家具も家電も前の人が残していくとのことで引き渡し日にはうきうきで事務所へ行って上階のミーティングスペースで待っていた。
するとそこへ、どうしてかみゅうが現れて颯爽と近づいてきたことに対して素直に喜んだのだけれど。
「みゅうさんおはようございます! スタジオですか?」
「おはよ。いや? せっかくだし直接鍵渡そうと思って」
「カギ?」
「うん。別に新しくしなくていいっしょ? 作業やばい時たまに泊めろよ」
「え???」
「え???」
わざととぼけた顔をしたのだろうが、我慢していたのだろう。次の瞬間盛大に吹き出したみゅうの姿を見て、ようやく唖然とした慶人である。腹を抱えてけたけたと笑っているみゅうとその手にある鍵とを交互に見てようやっと察する。
「ま、えっ、鍵ってまさかあの四階の部屋!?!?!?」
「あーおっかし、お前ほんと何にも考えてなかったのな」
「えでも、ど、どこにいくんですかみゅうさんは!?」
「えー? まだおしえな~~い」
「あ、他の、あ、そうか……え、でも家具、いやお金持ちか、そりゃそうか……でもまってくれ、冷静に俺あの空間で寝れな…………」
「いや寝てただろ」
「あ、はい……」
噓か真か、愉快そうに椅子に腰かけたみゅう曰く、元々車を買うついでに地下に駐車場のあるマンションを探して引っ越す予定だった、家具も家電も入所当時から使っていたものばかりだからこれを機に一新する、とのこと。
というか先週も、なんなら一昨日も会ったし一人暮らしのことも結構前から話題にしていたのに一切触れなかったのにはさすがに意地が悪いなと思ってしまう。
もっとも、ファン心理からすれば問答無用で切腹もののドNGなのだけれど、個人的な事情から見れば、やっぱり推しであり大好きな事務所の先輩の住んでいた部屋を引き継げるなんてこれ以上ない幸運。おまけに家具も家電も推しの使用済m……、否、新生活パックを自腹を切って買わなくて済んだのにはかなり助かったのは本当で。
慶人はつくづく、この世界に足を踏み入れてからの自分とはただただラッキーだけで成り立っているのだということを実感せざるを得ない。
だって、努力なんて一〇〇パーセント自分のパフォーマンス力にしか注いでいない。それ以外の、例えば特別みゅうに好かれようと思って躍起になって頑張ったわけでも、増してやバックにつかせてもらおうとしてこれまでの行程に全神経を尖らせたわけでもない。決してないのだ。
なのに、いつかはと願っていたこの場所、この地位、この待遇を思っていたよりもこんなに早く手にしているということは、もはや奇跡を通り越して遇のラッキーが今、連続で自分だけに訪れ続けているのだとしか思えなかった。
「あと、部屋のものいらないのあったら俺が処分するから早めに言えな」
「め、滅相もございません……命尽きるまで使わせて頂きます……」
「……まあ、綺麗に使ったつもりだけどフツーに古いのもあるから嫌だったらちゃんと言ってね」
「はあい……何から何までありがとうございます……」
だとしたら後が怖いともいつからか頭の片隅では思っていた気もする。
いいことの反対は悪いこと。その逆も然りだが、反動が大きければ大きい程、同等の衝撃が待っているような気がした。無論、そんな予感には原理も法則も根拠もないのを知っている。
でも、少なくとも、不遇のアンダー生時代がいいこととは思えない時点で、底辺からの上昇期を終えた今とはやはりいい時期。世の中に起伏のまったくない人生があるのかは果たしてわからないけれど常人ならば多かれ少なかれ谷から登った山の頂上は清々しくともそこにずっとは留まれないのも理解できる。
上昇期、或いは下降期の過程を苦しい時期、悪いこととするならば、人生は順繰りにそれを繰り返すものなのだろう。よくも、悪くも。もとい、望んでいようともいなくとも。
慶人は、喜ばしい気持ちと反比例する不安を飲み込んで今日から暮らす新居の鍵をやっとみゅうから受け取ると、既にキーホルダーがぶらさがっていたので不思議に思ってつまんでみる。
黒の縁取りに白地のカラー。稲妻のかたちをしていた。
「? みゅうさんこれ」
「ああ。ライズのグッズのサンプル案1。なかなか可愛くね?」
「……ライズ?」
見れば白地の部分にRI2Eと型が抜いてあった。なんのことだかまったくピンときていないはずなのに微妙に嫌な予感だけがして無意識に眉を寄せる。
「あれ、意外と察し良さそう? ねえ誰かもらしたあ~~?」
「!?」
そうして突如みゅうの視線が広くなったことにハッとして周囲を見渡すと、明るく開けたミーティングスペースにはいつの間にか撮影スタッフが数人いて思わず立ち上がる。
「なに!? カメラ!?!?」
「そう。はい、カンペ読んで」
「なっ……、り、り、みてっど、ゆにっと……?」
「リミテッドユニット」
「らいず」
「ライズ。正解。つうわけで、おめでとう~。君の推しとリミテッドユニットが組めま~す」
「えッ…………!?」
あまりの現実に息を呑んだ次の瞬間には身を屈めて出てきたスタッフにA4の用紙を一枚渡された。
コルトガバメントサタデー特別企画、リミテッドユニット第一弾~望幸恋×晴祝慶人~
タイトルだけでも既に激しい眩暈がして思わず半歩後ろによろける。
が、この手法には身に覚えがありすぎて慶人はものの数秒で素早く我にかえった。
デビューしてからの多くは無論、965としての露出に立ち回ることになったわけだが、仮にデビュー組が看板アイドルとして歌って踊って集客するのが本業ならば、965という集団においては身体を張ったタレント業で事務所の名前を盛り上げる裏の使命があると言っても過言ではない。
実際、年長の二人を中心に深夜帯とは言え地上波枠でロケ番組の露出もあるし、稀にクイズ番組の末端や芸人ライブのMCなど需要があればどこにでも行くポテンシャルが求められた。
そしてそんな風潮を今後担っていく為なのだろうが、たった一人四期メンバーとして加入した慶人は事務所の配信番組でのドッキリ企画の餌食になることは本当に頻繫にあった。
珍しく冴えわたる直観(?)を確信し、これはしたりと目つき鋭くカメラを睨む。
「ちょっと、どこからなにまでがマジですか!?!? 良い話ばっかだなって思ってたとこなんだよ!!! 俺もう騙されませんから!! てかこれは部屋もドッキリのやつです!?」
「ん~。まずドッキリじゃねえから。はは。残念」
「?! ドッキリ!? じゃない!? ……というドッキリ……!?」
「いやふつーにおもしろくねこいつ? マジマジ。てかもうすっかりバラエティ慣れしちゃってすごいねアナタ。この前までアンダーでボケっとしてた子とは思えんよ」
「お……え、じゃ、これは……?」
「これは書いてる通りです。俺とお前が、ユニット組んでライブで歌って踊ります。上手くいったらミニアルバム出して手売りするって話です」
「へえッッッ…………!?!?」
「ちなプロデュースはぼくです。二人で曲も作ってみようね!」
「…………何言ってんのか一ミリもリカイが追い付かない、とりあえず部屋は譲ってくれるんですか……?」
「お前そんなに部屋大事か! くれてやるよ! 言っとくけど今までの会話に一個も嘘ないからな!」
さすがにここまでくると本当の本当に、幸福の反動が恐ろしくもなってくるというもの。
だっていいことの反対はわるいことで、その二つとは即ち表裏一体、切って離しては成立しない。これからの一体何を犠牲にしたら自分にとってこんなに幸せな時間が次々と舞い込んでくるというのだ。この先はより努めて真摯に生きる他ない。欲が出過ぎるとその罪の重さはきっとして不幸に加算されるに決まっているから。
正直この一瞬で収穫したプライズが大きすぎる気もしたが、カメラの手前、慶人は取り急ぎ今の自分の身の丈を丹念に確認しながらがっくりと項垂れて呟いた。
「どうしよう、もっとボイトレしとけばよかった…………」
「そこ心配するとこか?」
「せめて……いや、こわ、鳥肌やばっ……二人ですか? 成り立ちますかソレ?」
「なんか嬉しくないみたい……悲しい……」
「嬉しいっていうか、恐れ多くて震えてますけどカメラさんすいませ、ちゃんとうつして……」
冗談じゃなく細かく震える手をカメラに向かって大げさに差し出すと、みゅうは何も言わずにとても愛おしそうに目を細めてその手を見つめた。これにはさすがに、未だ自己肯定がすこぶる苦手でいた慶人も、好かれているな、心地がいいな、という気分を誤魔化せず思わず優越感に浸った。
本当にほんの少しだけ、カメラの向こうで”今この瞬間”を遥か後から知ることとなる知らない誰かに慶人は生まれて初めてこの関係性についてどこか得意げな気持ちになったのだった。
こうして、965デビューからは一年半、そこから三ヵ月をかけてコルガバの密着取材と同時進行でRI2Eのお披露目ライブへの準備が始まった。
無論、みゅう本人がこの企画を提案したと言うからには期間中に発表されたワンスリー初の六都市ツアーはきっと彼のスケジュールには既に組み込まれていた仕事に違いない。
けれど、それに965として帯同することを期間中に知ったこちらの心中は恐らくまったく思いやってはいなかっただろうと思うのだ。
「ななな、なに????? はつろくとし???? え??? う、わ、わーい!!!!! すげえ、全国ツアーじゃないですか!!!!! ビジュ良!!!!!! 絶対に当てる!!!!! おめでとございま、っ? あれ待って、ライズのお披露目いつでしたっけ……?????」
「ん、七月の初週。てか965は全日程帯同ですよ晴祝慶人クン」
「で、ですよね、でもツアーってっっ」
「七月末」
「……みゅうさん大変です、俺、身体、一個」
「だいじょ~~ぶ。俺もだよ~ん」
「ええ、ええ? えええ???」
軽口をする隙こそあれど、ほとんど毎日みゅうと一緒に仕事をしていると、いかにみゅうがストイックで神経質で天才肌であるのかを嫌と言うほど思い知らされた。例えるなら小さな子供が時間を忘れて玩具に夢中になる姿と、アスリートが吐きながらフィジカルを鍛える姿と、天啓を受けて憑りつかれた様にピアノを弾き続ける中世の音楽家の姿をいっぺんに見ている気分。
精神がおかしくならないのが不思議だと毎秒心の底から思ったが、ふと思い出したように現れるいつものみゅうに大丈夫かと問うと、苦笑いでやや、と答えるからには一応これが追い詰められている姿なのだとはようやく察することが出来る程度で。
諸々の土台が出来上がるまでの数日は、何をやったらいいかも分からないほど明らかにお荷物でだんだん胃が痛くなってきたものの、爆速で閃いたみゅうのメロディラインがとても好きな曲調だったのと、さっきまでただの鼻歌だった旋律が曲としてみるみる形になるまでの過程は見ていてものすごく面白いなと感じたし俄然曲を作ること自体に興味は湧いた。
何より、みゅうが曲を作っている姿など初めて見たうえ、これほどいとも簡単にイメージだったものを具現化させられる人だったということに素直に恐れ慄いてしまった。
歌詞だって最初に二人で決めたキーワードを元に、どういうテーマにしたいかを話し合っているその場でもう既にすらすらと出来上がっていくものだから、なにか本当に、魔法でも見せられているような気さえした。
促されて多少は意見も言ったのだろうが、実質ほとんど何もしないまま一週間である程度曲が出来ていて、気が付いたら振付師が現場にやってきて出来立ての新曲とワンスリーの既存曲二曲を合わせた合計三曲の振り付けを鬼の様な飲み込みで体得していた。
「すまん、ペース早いの分かってるけど俺も余裕がない」
「いえ、はい、はい」
「きついと思うけど飯は食えよ。あとちゃんと寝ろ」
「はい」
「体調悪い時は早めに。本番ポシャるのが一番ダメ。よし、ツアー稽古行くぞ」
「ハイッ」
朧気な記憶の隅に何だかデジャヴを感じなくもなかったが、来る日も来る日も覚えたものを鏡の前で出しては調整しまた覚えては出して調整するのを大袈裟でなく絶対に絶対に一〇〇〇回は繰り返したと思う。
比較的常人より振付を覚えるのが得意な傾向にある慶人ではあったが、真横にいる常に進化し続ける天才をコピーしようとすればするほどドツボにはまっていつになっても理想の完璧になれない不完全な自分を正面から見ては、毎日毎日心の中で叱咤し続けていたら急に胃腸炎になって死ぬかと思った。
幸い、薬で誤魔化しながらなんとか休まずに稽古には通ったが、みゅうには内緒で夜間病院へも点滴を打ちに一週間通った。なかなか症状が良くならなかったのには肝を冷やしたがそれからは、精神攻撃は身体に響くから駄目だと察して情けないとかへたくそとか様々な感情に一旦蓋をして目の前の自分をそのままでいいと受け入れつつ、みゅうと二人で並んで歌って踊る光景にどうにか慣れようと必死だった。
無論その間、みゅうは十分すぎるほど多くの事をたくさん褒めてくれたし、アドバイスも快くしてくれた。
傍から見ればやっていることはほとんどワンマンに近いが、重要な場面ではどれほど煮詰まっていようとも必ず二人で話し合う時間をとってくれたおかげで、正直流れについていくだけで精一杯だったはずが、曲、グッズ、衣装、ステージのどれをとっても何かしら二人でした作業の思い出はきちんとあって、企画らしい本筋もしっかり回収したドキュメンタリーがやはりいつの間にか出来上がっていたりもして。
こうして、全てはみゅうの支配下で難なく事が進み、あっという間に本番直前になっていた。
昨日までは疲労困憊ながらリハーサルをきちんとこなす”だけ”に全力だった慶人の脳みそが今日になって急に緊張という名のプレッシャーをかけてくるのには、とてもじゃないが平然とは立っていられなくてステージ袖という境界線にきてまんまと全身が震えだした。
本番まであと一〇分もないのに突然今日までの三ヵ月間、自分はなんにもしていないような不安に襲われて自尊心がぺしゃんこになる。軽くパニックだった。明らかにド緊張している。今までのどんな場面よりも壮絶に。
「……ハレ」
「! はいっ」
「何震えてんだよ。昨日まで割となんともなかったじゃん」
そんな心境を知ってか知らずか、涼しい顔でそう言ったみゅうは、どこかいつもよりも余裕の表情でいる様な気さえしてその鋼の精神力が心底羨ましいと本気で思った。からかわれているのだと分かっていても、そんな軽口にすら咄嗟に応えられなくて思わず俯いて両手を握りしめる。
「ふ、震えるぐらいいいでしょこんなん……俺こんなに緊張してんの人生で初めてです……今んとこむちゃくちゃ怖いし、俺なんかが例えネタ枠でもこんなでかいとこでみゅうさんの隣に立ってもいいのか、今もまだ絶賛葛藤中で……」
「あー。いいじゃん。それ、何で震えるほど怖いか分かる?」
「……え?」
そういえば、密かに伸び悩んでいた身長も入所した当初からは六センチも伸びた。それでもまだ五センチも大きいというみゅうを見上げると、いつかもくれた愛おしそうな、優しい優しい眼差しと触れ合う。
一瞬何も聞こえなくなるほど心臓がどくんと跳ねたが、どういう感情なのか捉えあぐねて瞬きで誤魔化すと、みゅうは客席の映るモニターを見上げた。つられてそちらを見遣ると、あの中に、と静かに言葉を続けた。
「あの中に、お前を求める声があるって信じられてないから怖いんだろ?」
「…………」
「外に出て、俺の隣で、俺だけが求められるんじゃないかって、自分はいなくてもいいんじゃないかって、そう思うから怖いんだよ」
何も言えずに黙る。言っていることは勿論分かった。あれほど不完全な自分と毎日毎日向き合ってきたのだ。求められていなくても仕方がないとも思えるが、もし数分後、存在自体をほとんど無視された状態でステージ上に孤立するならそれはきっとトラウマ級の恐怖だろう。
でも十中八九そうはならないことも頭では理解している。どれほど比率は少なかろうとも三〇〇〇人の全てがみゅう色のペンライトを持つことはない。例えばそう望んでも、二人で出ると決まった瞬間からきっと自分色はそこに存在する。
未熟な自分を支持するためだけに。
「分かるよ。俺だってそうだもん」
「え……?」
思わずみゅうを見ると、相変わらずモニターをじっとみつめたまま、再び淡々とした口調で諭された。
「別に本当は自分の思う完璧じゃなくてもいい。俺はもう俺のお客さんのことを信じてるから、どんなに調子が悪くても俺が俺なりにちゃんとやるってことを信頼してくれてるのを知ってんだ」
「…………」
「お前は今日初めて自分のお客さんを信頼しなきゃいけないから、ちびるほど怖くていいと思う。そんでこの心境であそこに出てさ、客席にハレってうちわみつけたら、死ぬほど嬉しくて泣きたくなると思うよ。恥ずかしいとか邪魔してるとか、ンなこと一生思えなくなるくらいにはさ」
「……」
「自分に自信を持つってのは自分を愛してくれる人を信頼するってことだと思う。俺を信じてくれてるお前のことを俺も心の底から信じてるから、俺は今日も自信もって望幸恋でいられるわけじゃん? だから、」
みゅうの言葉を遮るようにして、突如客席の照明が切り替わってトーンダウンする。本番開始五分前の合図だ。きゃあっと悲鳴にも似た歓声が沸き立つのを黙って二人で聞いたあと、滔々と零れていたみゅうの客席への想いは最後に、こう短くまとめられた。
「今は俺を信じたらいいの。失敗したっていいよ。ちゃんと全力でやったら晴祝慶人を信じるって決めた人達は絶対に見てくれてる。そういうもんだから」
「…………」
例えば、知見の深さとか、器の大きさとか、はたまた感受性が豊かだとか、繊細だとか、そういう誰かに決められた言葉一つで表現しきれないほどのこれほど雄大な愛情をもって何かを大事にするということ自体が、今の自分には想像できないぐらい広く深く大きすぎる行為に思えて、それとは真反対の狭くて浅くて小さな小さな世界しか持たない自分がどれほど未熟であるのかはもう見当がつかない。
それでもようやっと、みゅうがこうして言葉にして諭してくれた世界の見え方は、震えるほど怖かった理由としてちゃんと腑に落ちた気がした。
多分、ここにいるのは全部が誰かのおかげなのだ。自分の力なんて本当に1パーセントにも満たない程度で、どれほど苦しんで頑張った時間があっても、逆に、どれほど迷って頑張れなかった時間だったとしても、ここに立つという筋書きは全部全部、誰かが自分を信じてくれたから起きたことに過ぎない。
ならばきっと、それらに期待されていることとはただ一つ。
晴祝慶人はそこにどう立つのか、たったそれだけの大きな大きな期待だけなのだと思えた瞬間、パッと視界が開けて昨日夜中に目を通したSNSの文字が脳裏に蘇った。
皆確かに来てくれると言っていた。自分なんかよりよっぽど楽しみにしてくれていた。名前のうちわもたくさん見た。グッズのペンライトも、タオルも写真も、皆買ったよと教えてくれていた。あんなにちゃんと確認したのに全然力に出来ていなかったことを思い知る。けれどもそれは、みゅうの言う通り、自分は愚かファンからの声援などちょっとも信じていなかったからなのだと今なら素直にそう思えたのである。
ファンを信じる。客席を信じる。声援を力にする。どれをとっても、結果自分を信じなければ成り立たない一種の強さだ。震えるほど怖いのは当然だ。信じる他ない自分の弱さこそが彼らを信じるための強さになるのだから。
「……皆、喜んでくれてるかな、俺が推しと二人でステージやるの……」
「……そりゃあね」
「てか、俺以上に緊張してるかもしんないです、皆フツーに俺よりびっくりしてたから」
「何それおもしろ。お前のファンっぽいね」
同時に、かつて自分がいかに中途半端な気持ちであの場所に立ってしまっていたのかに気が付いて慶人はやっと何がそれほどいけなかったのかが理解できた。
どれだけ尊敬している憧れであろうと、共に同じ場所に立ったということはその時点で前も後ろも上も下も関係なかった。
こんな未熟な自分にも、もう既に好きだと言ってくれる人がいる。自分ひとりでだって懸命に手を振ってくれようとする優しい人が自分を見ている。それは、裏を返せば二度とあとには戻れないということでもある。
みゅうを理由に、当てられたスポットライトから逃げることなど許されない。それが例えばみゅうより鮮烈なライトでも、みゅうより特別な声援であったとしても。
自分がついぞそういう場所に到達していたということを慶人はたった今初めて自覚した。この場所で自分にスポットライトはいらないだなんてあの日の自分の発言がみゅうにはどれだけ傲慢な物言いに映っただろうか。
「…………」
半歩前に立つみゅうの横顔をそっとみつめる。
それでもまだ、諦めないでゆっくり見守ってくれていたみゅうの寛大な優しさに今日まで何もかもを許されていたことをありがたくも不甲斐なくも思った。刹那にそう思った瞬間、みゅうが明るい声でこちらを向いた。
「よっしゃ、考えるの終わり! ひとまず行くか。一回きりだし、楽しもうぜ」
「っはい……! こんなヘタレで恐縮ですが、よろしくお願いします!」
袖を出る直前、再び客席のモニターを見遣ると、暗闇には白と黒のペンライトが交互に揺れていた。
この不特定多数の中に、かつての自分がいる気がしてぎゅっと心が痛くなる。
眼前の真っ暗なステージを見つめながら、あの日のうちわの持ち主に思いを馳せる。何千人もの中からせっかく見つけてあげられたのに手も降ってあげられなかった。笑ってもあげられなかった。それどころか否定して無下にして今なら自分がどれほどおかしな行動をとっていたかがよく分かる。
せっかく好きになってくれた気持ちを大事にしてあげられなくて本当に本当にごめんなさい。
慶人は、胸の内でそう真剣に謝ってから、どうか願わくば今日も、客席で俺を待っていてくれますようにと泣きそうになりながら心から願うのであった。
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わたしたちはどうやっても世界に自己を投影するのをやめられない
だから自分の考え方が変わったその瞬間に世界は一瞬で組み変わります
やってみよう
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