情を食む
二
大包平が大典太の思いを知ったのは、手入れ部屋で療養しているときだった。目覚めると枕元に大典太がいたのだ。薄暗い灯りの中で無表情で見下ろす大典太にぎょっとした。
「な、ゲホッぐっ」
喉が枯れていて咄嗟に叫び声は出なかった。大典太は黙って吸い口を寄越してくる。これではまるきり寝たきりの病人ではないかと憤然としながらも、受け取って一気に飲み干した。
「水をついでくる」
大包平の渇きを察してか、大典太は厨へ去ってしまった。
一人で部屋に取り残された途端、自身が重傷を負った経緯がまざまざと蘇って来た。簡単に言えば、大包平は引き際を見誤った。援護に来てくれた物吉が目の前で傷ついた。彼もきっと重傷だろう。己の不甲斐なさに歯噛みしてふいと視線を窓に投げれば、雲一つない夜空に月が浮かんでいる。
「くそっ」
悪態をつくとますます情けない気持ちになるばかりである。
やり場のない苛立ちにじりじりしていると、静かに戸が開いた。大典太が戻って来たのだ。なぜ天下五剣の貴様がここにいるのかとざらついた気持ちがせりあがったが、ここでそれを口にしたら己が立ち直れないような気がした。しかしどうしても視線がきつくなるのは仕方がない。それでも大典太の表情は変わらなかった。大典太は手合わせのときも、後ろ向きの発言をするときも表情を変えない。何を考えているのか分からない。今ここにいる理由も思い当たらなかった。
差し出された水を飲む。今度はグラスに入っていた。噎せた。
「おい、大丈夫か?」
狼狽した声音だが、うろたえているのは大包平の方だ。グラスと大典太を何度も見比べる。信じられなかった。
「落ち着いて飲め」
口をつけるのは躊躇したが、きっと思い違いだともう一度飲んだ。気のせいではなかった。これは目の前の太刀の偽らざる心情なのだ。居心地が悪くて顔を直視出来なかった。
「まだ本調子ではないだろう。もうひと眠りしておけ」
常ならば癇に障ったのかもしれないが、大典太は真心でもって言っているのだ。それが分かっているので無下に出来ない。素直に布団に横たわった。
「物吉はもうぴんぴんしている」
「ああ」
瞼を閉じる。自己嫌悪は新たな衝撃にどこかに行ってしまった。眠りに落ちる前に思い出していたのは飲んだ水のことだった。歯がゆいほど真っ直ぐに大包平の無事を安堵していた。決して悪い気はしなかった。
どら焼きを見つけたとき、率直に言って大包平はどうすべきか迷った。誰が寄越したのか分からないものを口にすべきではない。しかし返礼とあるのだから害のあるものでもなさそうだ。それに曲がりなりにも己は神の末席に連なる者なので、邪気の類があれば気がつく。ままよとばかりに口に放り込んだ。その場で真っ赤になって悶絶した。
勢いのまま三池部屋に行ったが、何を言うかなど考えていない。とにかく衝動のままに来てしまったのだ。そしてどら焼きの感想を尋ねられて、漸く大典太は無自覚なのだと思い至った。
大典太のことは嫌いではない。だからといって恋慕の情があるわけでもない。なまじ真面目な心立ちを知ってしまったせいで、不用意に忍ぶ心を暴くようなことを言って傷つけるのも躊躇われる。進退窮まる大包平の脳裏に閃いたのは、乱が読んでいた少女漫画だった。自室に戻ってから恥ずかしさの余り、布団を被って叫んだ。
「友達」を宣言したからには、実行すべきだ。そう思ったものの、大典太の姿を見かけるだけで菓子を食べたときのことが思い出されて平常心でいられない。顔に血が集まるのが分かるし、心臓の拍動も早くなる。なにより、慕情の先が己であることを突きつけられていたたまれなかった。挨拶どころか視界にいれることもままならない。だがこのまま手をこまねいていれば約束を違えることになる。それは傑作としての誇りが許さなかった。
「会えない相手と親しくなるにはどうしたらいい?」
一日悩み抜いて、観念した大包平は鶯丸に助言を請うた。そろそろ寝ようかという刻限だった。
「お前にしてはゆかしい悩みだな」
興味深そうに目を細める鶯丸に、大包平は相談したことを後悔した。これは悪いことを考えているときの微笑だ。
「友になると言ったのだ。だが会うときがない」
「なぜ会えないんだ?」
「言いたくない」
誤魔化しがきく兄弟分ではないので正直に告げた。
「そうか、言いたくないときたか。お前がそう言うとはなあ……。うん、それなら文を送るのはどうだ」
「文か」
「そうだ。お前が見たり聞いたり感じたことを書くんだ。秘めたる思いも文なら書けるだろう」
「そういうものではない!」
「ものの例えだ」
けらけら笑っているが、隙あらば本心を見抜かれることを大包平は知っていた。
文は当たり障りのない内容を送った。大包平に倣ってか大典太からの返事も日々の何とはないことが書き綴ってある。大包平宛ての(今度は宛名が書いてあった)手紙を卓上に見つけたときは、恋文だったらどうしたものかと身構えたが、色めいた言葉が一つもなくて心底安堵した。
同封されていた羊羹は、一口大に個包装されたものだった。四つ入っているのは同室の分も配慮したのだろう。鶯丸が風呂に行ったのを見計らって、一つ食べてみる。覚悟は決めてあった。だが味が広がった途端に感情の奔流が押し寄せるのにはやはり動揺した。素早く咀嚼して慌てて飲み込む。羊羹は前回のどら焼きよりも少しだけ憂いを帯びていた。顔を合わせないことに罪悪感を覚えた。
手紙を交わし始めてすぐに、大典太から届けられる便りは日々の楽しみの一つになった。大典太はすでに練度上限に達していたから、内容は本丸内のことが多かった。大典太は観察眼に長けているようで、意外に日常の小事にも詳しい。前田やソハヤから聞いたのだという話も多かった。一方大包平は練度上げの真っ最中なので、書くのは戦いの話に偏った。
ひとかどに戦働きもできるようになった頃、いつか共に戦ってみたいと書いた。大包平の知る大典太は手合わせの姿のみだった。戦場の彼を見てみたかった気持ちは本当だったが、天下五剣ならさぞかし立派なのだろうという期待と好奇心が混ざり合ったものだった。
ところがそれから間も無くして、大典太が大包平の部隊と出陣することになった。もちろん驚いたが、何より直接顔を合わすのは久々のことだ。翌日の出陣メンバーに大典太がいたときの衝撃といったらなかった。就寝するまで落ち着かずに気もそぞろだった。だが翌朝、いざ玄関で集合してみると大典太は記憶にある通りの陰気な顔をして、気を揉んでいたのが馬鹿らしくなった。普段大包平が所属している部隊に大典太が臨時で加入した形だった。大典太を除けば、皆似たような練度だった。
「今回の隊長はぼくなんだ。よろしく頼むよ」
亀甲が微笑みながら大典太に手を差し出した。大典太が戸惑いつつも手を出して握手が成立する。
「君がこの戦場に来るなんて珍しいね」
「最近出陣していないから勘を取り戻して来いと言われた」
「そうなのか。楽しみだ」
亀甲の微笑はどこまでも優雅だった。
出陣の最中、大典太とは一言も言葉を交わさなった。それどころか顔も見ないようにしていた。赤面しない自信はなかった。だったから大包平は偵察を担っていた物吉のすぐ傍に付き従って、部隊の先陣を歩くことにした。
厚樫山から夜明けの平野を見晴るかせば、奥州軍の砦となる大防塁が朝もやに浮かび上がる。だが阿武隈川の水を引いた防塁はすでに頼朝軍に埋め立てられていた。
「そろそろ動きがあるはずなんですけれど」
物吉は周囲に気を配りながら小声で言った。沈黙が落ちる。人間たちの陣営が近いから自然気配を殺して遡行軍を待ち受けることになる。どこから敵が現れても良いよう、息を殺して四方に視線を走らせた。遠い甲冑の騒めきすら聞こえる。これから戦が始まる。奥州藤原氏の滅亡が始まる。
轟音が頭上からした。
「上です!」
「引け! 押し潰されるぞ!」
全員その場を飛びのいた。地を揺るがしながら遡行軍は着地し、間髪入れず銃弾と投石を放つ。不意を打たれたて怪我のない者はなかったが、木立だったのが功を奏して木を盾にすることでやり過ごすことができた。中傷に至った者はいない。投石が止むやいなや、抜刀して斬りかかった。
混戦状態だった。陣形も何も関係ない。目に付いた敵を屠り、仲間を援護する。大包平は打刀を袈裟斬りで退けたところで辺りを見回した。土埃で視界は良くない。血臭と斬撃の強い方へ足を向けた。
突然、砂煙の中から千切れた腕が飛んできた。誰のものか目で追おうとして一瞬隙が生まれる。背後から突き飛ばされた。体勢を崩す。たたらを踏んで背後を振り返るのと大典太の霊力が爆発するのは同時だった。
見えるのは大典太の後ろ姿だけだ。真剣必殺の殺気が四方に飛び散り、大包平にも突き刺さった。不覚にも戦場で大包平は呆けてしまった。見惚れていた。乱れる髪に、刃を振るう体躯に、そして血肉を断つ真剣の輝きに血が湧き立つ。その一方、堪らなく切ない気持ちも覚えていた。
どうにか勝利して帰ることができた。誉は大典太が取った。悔しさに唇を引き結び、それでも誇らしさを感じる。次の手紙で何を書こうかと文机の前で思案した。鶯丸は不在だった。
戦場でのことを書こうかと暫く考えて、結局やめた。大典太の真剣必殺が頭の中で繰り返し現れた。考えるのを止めようとしても、最後には同じことを考えてしまう。動悸がする。大典太の菓子を食べているときと同じ反応だった。顔が熱い。
箪笥から飴の瓶詰めを取り出した。文通を始めて間を置かずに貰ったものだった。色とりどりの飴玉がデスクライトにきらきらと輝く。一日につき一粒食べると決めていた。一粒取り出して口に放り込むとさらりと霊力が溶ける。瑞々しく爽やかな味だった。いつも我慢できずに噛み砕いていたのに、最後まで味わって食べた。
「……美味いな」
頬の火照りは収まらない。その日だけ、もう一粒口にした。
さきいかを食べる。一度では噛み切れず何度も咀嚼する。唾液と混ざってイカ独特のしょっぱい味が染み出してきた。なのに濃厚な甘さがあった。欲情の味だ。体の熱が上がった。
元々、手紙の遣り取りを始めたのはひたむきで献身的な情にほだされた部分が多かった。戸惑いがなかったと言えば嘘になる。困惑もあったし、文通を始めたことがそもそもの間違いだったのではないかとも考えたこともある。だが大包平の当惑をよそに大典太は熱烈だった。赤裸々に菓子は大典太の心情を語る。甘く、あるいはほろ苦かった。伝わる感情に同じものは一つとしてなかったが、どれもひたむきだった。ところが最近大典太の気持ちに欲が混じり始めた。思わず赤面せずにはいられないような肉体的な欲望もあれば、ただ大包平の気を引きたいという素朴な独占欲もあった。
「お前本当に俺のことが好きなのか?」
苦笑しながらひとりごちた。大典太は蔵の外の世界が今でも物珍しいのか、見聞したことを生き生きと綴る。今日の手紙は蔵でヤモリを見つけた話だった。よほど嬉しかったとみえて、ヤモリがどんな様子でどれくらいの大きさで、そしてすぐに物影に消えてしまったことまで丁寧に綴られていた。
大典太の手紙は矛盾の塊だった。己の真情を決して漏らすまいとする慎重さと頼むから知っていてくれと言わんばかりの開けっ広げさがある。今日のものだって、とてもではないが同封されていたさきいかを食べて、こいつは俺のことを抱きたいのだと思い知るとは考えられない。穏やかで品のある文だ。無自覚なのは理解しているが、だからこそ大典太の思いは本物だと分かってしまう。
すでに大包平は大典太の気持ちに己が喜んでいることを誤魔化せなくなっていた。最初から、たとえ勿体なくとも食べるのはやめようと思うのに、結局手が伸びて口に入れていた。顔どころか全身真っ赤になって、それでも食べていた。もうそこに答えはあっただろうと今なら分かる。大包平は大典太が好きなのだ。
「言わないならそれっきりだぞ」
新たなさきいかを口に放り込んで、大包平は思いを馳せる。抱擁は、接吻は、どのようなものだろう。大典太が望むなら抱かれてやっても良いのだ。それだけの太刀だと思っている。だが自ら求めないような臆病者に己をやる気もなかった。
三池部屋の障子を前に仁王立ちになっていた。勝手に人のものに手を付けた鶯丸には腹が立つが、一旦はその怒りを忘れることにする。気を取り直して声を張り上げた。
「邪魔するぞ!」
答えを待たずに上がり込む。射しこんだ陽光にちゃぶ台の上に載った手紙が照らされる。その奥に大典太がいた。障子を閉めると午後の日差しは障子紙に遮られて、部屋は黄昏のような薄暗さになった。薄暗がりの中でもはっきりと分かる瞳を見据えて大包平は口火を切った。
「大典太光世、貴様は俺のことが好きだな」
赤い双眸が動揺に揺れたが、きっと睨みつけ、視線を逸らすことは許さない。大典太がこれで何も行動を起こさねば、文も絶とうと決心していた。朗々と大包平は言い放つ。
「俺は池田輝政に見出された名刀の中の名刀、日本刀中の最高傑作。この本丸に顕現しているのは主が神品大包平を勧請したためだ」
この自負が大包平を大包平たらしめている。
「俺を請う者にしか俺は応えん」
意地と矜持が混ぜあわさった、力強い宣言だった。
静寂が落ちる。息を詰めて返事を待った。静けさが耳に痛い。のそりと大典太が立ち上がるのを無言で見つめた。畳の擦れる音が随分と大きな音に思える。正面から顔を合わせるのは手入れ部屋以来だなと詮無いことを考えた。
目の前に立つ大典太は大包平と目線は変わらない。だがほんの僅かに大典太の方が上背があることを知っていた。それがずっと癪だった。越えねばならない相手がそれだけではなくなったのはいつからだろう。
至近距離で見つめあっても、やはり表情から感情は読み取れなかった。
「請えばくれるのか」
声音は重々しい。丹田に力をこめた。
「くれてやろうと思わせてみろ」
くちづけに食われた。
太い腕に腰を引き寄せられ、後頭部を押さえられる。両者とも目を閉じなかった。ほとんど睨み合いである。羞恥よりも負けん気が勝った。上唇を食まれたのでこちらも柔く噛み返したら、舌が滑りこんできた。
「んっ」
全身の肌が泡立つ。霊気を纏った舌が口内を犯す。唾液からは情欲の味がした。二人分の交じり合った唾液を飲み下すたびに背筋が震える。溢れるほどに与えられる欲望に満たされて窒息する。耳の奥からは湿った音がし、更に肉欲を煽った。興奮でじわりと涙が浮かび、視界がぼやける。やめて欲しい気持ちとさらに先を望む気持ちが同時に胸に押し寄せた。混乱に耐えきれずに肩を殴って体を離そうとすれば、抱擁する力が増々強くなり身動き出来なくなる。それで舌で相手の舌を押し返せば、かえって絡めとられて吸われる。下品な水音が聞こえたと思ったら、腰が砕けた。
大典太も驚いたようで、漸く口が離れた。咄嗟に首筋に縋りついてしまったことが悔しい。だが新鮮な空気で肺まで浸す情動を吹き流せたのはありがたかった。
「大丈夫か」
「うるさい!」
危なげなく大包平を座布団に座らせると、大典太は大包平の本体を刀掛けに置きに行った。
「お前は、神気を抑えることを、覚えろ!」
ちゃぶ台にしな垂れかかって詰る。まだ呼吸が整わず、知らず艶っぽいものになった。
「蔵暮らしが長いものでな」
「その霊力のせいでお前の感情が駄々洩れだったぞ」
隣に座った大典太が目を丸くしているのに少し溜飲を下げる。
「俺に寄越した菓子なんか、食うたびに告白を受けているようなものだった」
「それでも食ってくれたのか」
大典太の声は心なしか明るい。
「残したら食べ物に失礼だ」
気まずくなって顔を背けると引き寄せられて目を合わせられた。
「今の口吸いでも漏れていたか」
「ああ」
「逃げないのか」
「逃げる必要なんかない」
自棄になって答えたら押し倒された。
「おい何をする」
「欲するだけくれるんだろう」
「誰がそこまで言った!」
「抱きたい」
率直な物言いは毒だ。生々しい羞恥心で熱が上がる。それに大典太が本気で言っていることはさっきの接吻で散々味わわされていた。
「俺は請うているぞ。なあ、応えてくれ」
抱きしめられて耳元で囁かれた。心が震える。
「お前になら、応えてやる」
望みは叶った。
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