情を食む
一
昼下がりの温かい陽気が気持ち良い。庭に面した障子を開け放って、ソハヤは自室でごろりと横になってくつろいでいた。昼寝には絶好の天気だったのだ。障子の影に大典太が蹲っている。その日は偶然、兄弟そろって非番だった。出不精の兄弟はせっかくの休日だというのに部屋に籠りきっている。顔だけ僅かに上げて庭を見ていた。
大典太につられて外を見ると、庭のさらに先にある畑で、内番終わりの大包平と短刀たちが差し入れのドロップを分け合っていた。大包平は先日顕現したばかりの太刀だ。ソハヤも幾度か共に内番をして知っているが、根が真面目で面倒見もいい。新参ながらすぐに短刀と打ち解けたようで、こちらにもわいわいと騒ぐ声が聞こえてくる。
「噛み砕いちまうなんてもったいねえよ! 舐めて味わうもんだ!」
愛染の叫び声がし、追って短刀たちの笑い声も聞こえる。ソハヤも飴玉は噛み砕いてしまうので、妙な親近感を大包平に抱いた。大典太はじっとその様子を眺めている。熱のこもった視線だった。
「なあ、兄弟も混ざれば?」
「俺はあいつの嫌いな天下五剣だからな。それに話す用もない」
「短刀たちのことだぜ?」
笑って言ってやれば、再びむっつりと兄弟は口を閉ざしてしまった。
大典太の様子がにわかにおかしくなったのは、一月ほど前に大包平と手合わせをしたときだった。それ以来、とにかく暇さえあれば目線が大包平を追っている。それ以上は何の行動も起こさないが、一月のあいだ視線が止むこともなかった。本人も無自覚なのかもしれない。大典太自身が人の目を避けるところがあるので、熱心さとは裏腹に大包平を追う視線は密やかだった。気づいているのはソハヤくらいのものだろう。
他者との関わりあいに消極的な兄弟なので、ソハヤはこの変化を概ね歓迎していた。加えて僅かばかりの好奇心と野次馬根性もあった。そこで手合わせの場に居合わせていた前田藤四郎に何があったが尋ねたのだ。
前田は慎み深い質で、余計な不和を巻き起こすような言い方はしない。ただ「大典太さんは大包平さんに随分と励まされていました」と人好きのする笑顔で語るのみだった。大包平は容赦なく負かされたそうなので、励ましたというよりはいつもの大典太の言い草に一方的に怒っただけなのではないかとソハヤは思う。だが前田には大典太への激励に聞こえたらしい。
実際のところ、ソハヤも大包平と格別親しい付き合いはないので、どのような人となりなのか詳しくはない。しかしながら兄弟につられて大包平の様子を観察してみると、こだわりは強いものの竹を割ったような快男児なのはすぐに分かった。裏表のない性情なので、勢いに押されるまま兄弟もひねずに励ましと受け取ったのだろう。
大典太はいまだに目線を動かさない。そんなに見つめるなら話しかけるくらいしたらいいのにと思うが、そもそも自分から話しかけるという考えがあるかも怪しいものだ。急に積極的になるほど兄弟は前向きではないし、それに何より、ほのかな慕情を自身で理解していないような気がした。
馬番を終わらせ、日は高かったが早めに汗を流そうとソハヤはのんびりと風呂へ向かっていた。するとちょうど角を曲がったところで、先に大典太がいた。横を向いて立っている。ソハヤからは見えないが、大典太の視線の先は玄関のはずだ。畑から帰って来たところかと軽く声をかけようとしたところだった。見る間に大典太の表情が一変した。顔が強張り、目を大きく見開くと玄関へと走り去ってしまった。
これは何かあったに違いない。ソハヤも慌てて玄関へと駆け込んだ。真っ先に血臭が鼻をつく。そして着物に付着したどす黒い赤が目に飛び込んできた。第二部隊が帰還したところだった。無傷の者はおらず、大なり小なり皆が負傷していた。だが中でも重傷なのは大包平だった。すでに意識もなく、先に駆けつけた大典太が力なく投げ出された体を背負っている。大典太が踏み出すたびに滴る血が彼自身と玄関を汚した。
「早く、手入れ部屋へ!」
背後から長谷部の声がする。他の刀剣たちが助力に来る足音もしている。はっとして血みどろで壁にもたれかかっている物吉を抱え上げた。物吉は辛うじて自力で立っており、意識もはっきりしていた。
「すみません」
「気にすんな」
とにかく最優先は大包平である。大典太を通すためにソハヤは脇に下がった。
「大包平、大包平」
聞こえたのは一瞬のことだった。兄弟の声だ。意識を繋ぎとめるように、兄弟は大包平の名前を囁き、呼びかけていた。切々とした声音だ。だがすぐに大典太に手を貸そうとした蜻蛉切の声でかき消えてしまった。
間一髪のところで大包平は折れずに済んだ。手入れ部屋に隣接する部屋で療養しているらしい。その旨は夕飯時に審神者から伝えられたが、兄弟は食事が終わった後も悄然としたままだ。ソハヤは兄弟の気持ちが容易に上向かないと知っていたので、わざと酒飲み連中のところに邪魔をした。自室はきっと陰気な霊力が渦巻いている。長居したくはない。
強かに酔ったソハヤが部屋に戻ったとき、すでに日は変わり、本丸は静まりかえっていた。兄弟ももう寝いっているのではと期待をしたが、障子からは部屋の灯りが漏れている。障子の前で一度立ち止まり、気合を入れた。
「たでー……うっ」
ただいまと言うともできなかった。部屋に足を踏み入れた途端、空気が重くのしかかった。満ちた霊力でずっしりとした雰囲気が部屋に充満している。一応兄弟は布団には入ったようだが、まんじりとも出来ずに神気を垂れ流しにしていたらしい。いくら何でもこれでは眠れない。
「まどろっこしい!」
酒がまわったソハヤは短気だった。障子を全開にすると、布団の大典太を引っ張り出す。
「顔を洗って大包平を見舞ってこい! 迷惑はかけるなよ! 霊気もちゃんと押さえろ!」
それだけ口早に注意すると大典太を廊下に蹴り出した。突然の暴挙に兄弟は目を白黒させていたが、部屋の前で仁王立ちになってにっこり笑いかけてやれば、ひとつ頷いて手入れ部屋の方へ消えていった。それを見送ってからソハヤはため息をついて、部屋を安眠出来る状態にするために障子を全開に開け放した。酔いはとっくに覚めていた。
結局ソハヤは寝るタイミングを逃してしまい、ようやく眠気がやって来たのは空が白々と明けてきた頃だった。音もなく障子が開いて大典太が帰って来た。
「おけーり」
「起きていたのか」
「誰のせいだ、誰の」
兄弟の顔色はだいぶ良くなっていた。
「お陰で助かった」
「へえ、良いことでもあったわけ?」
「少し話せた」
穏やかな様子なので、少しは親しくなったのかもしれない。
「寝顔を見てたら大包平が目覚めた。驚いていた」
「そりゃあそうだろう。それで?」
少しだけ大包平に同情した。不意打ちで枕元に兄弟がいたら、ソハヤだって叫ぶ。どういう顛末を辿るのか気になった。
「水が空になったから汲みに行った。水を飲むと真っ赤になって噎せていた。まだ全快ではなかったようだ」
「そ、そうか……」
正直その情報に興味はなかったが、話の腰を折るとこの兄弟はまた黙り込んでしまうので、おとなしく相槌を打つにとどめた。
「朝までは安静にしているべきだと伝えた。俺の言葉を素直に受け入れてもらえると思っていなかったが、あっさり了承してくれてすぐに横になったて寝付いてしまった」
「話したってそれだけ?」
「それだけだ。あとは水を替えて、水を張った手桶と手ぬぐいを置いておいた」
「か、かいがいしい」
兄弟の意外な側面である。だがソハヤははたと気づいた。遣り取りがそれだけ短いのなら今まで何をしていたのか。
「なあ兄弟、話した時間以外は何してたんだ?」
「寝顔を見てた」
「……」
純情をこじらせるとはこういうことか。蔵生活の長かった兄弟は俗世に疎いのだ。そうに違いないと無理矢理自分を納得させた。
何とも形容しがたい余韻を残しつつも、ひとまずは二人の関係は改善したようで、ソハヤは安堵した。兄弟のことだからまた影ながら見つめる生活が始まるのだろう。もしかしたら少しくらい世間話をするようになるかもしれない。ところがソハヤの甘い予測に反して、その日の晩に大包平が三池兄弟の部屋を訪った。
ソハヤだけでなく大典太も仰天した。しかもうろたえる二人に構わず大包平は入り口のところにどっかりと陣取ると、惚れ惚れするような所作で平伏したのだ。
「この前は世話になった」
「面を上げてくれ!」
大典太の声はほとんど叫び声だった。動揺で僅かに震えている。
「俺がしたくてやったことだ。礼を言ってもらうほどのことじゃない」
「それでもけじめをつけるべきだ」
「大仰に取られないことが俺にとっての礼だ」
それならと大包平は居住まいを少し崩したものに変えた。目元が朱に染まっている。すると懐から掌ほどの大きさの箱を取り出した。
「つまらないものだが」
「勘弁してくれ……」
蚊の鳴くような声で大典太は呟いた。酔った勢いで大典太を蹴り出したソハヤも申し訳ない気持ちになる。こんな義理堅い太刀だったのか。
「ただの最中だ。受け取ってくれると嬉しい」
受け取らねばこの場は収まらないだろう。それは大典太も分かっているようで、複雑な表情で礼を取り、手を伸ばした。
「ありがたく頂戴する」
「こんなに気を遣わなくていいんだからな! 本当だぜ!」
ソハヤも咄嗟に言い添えていた。
「ほんの気持ちだからな」
鷹揚に大包平は笑う。変わらず目元は赤い。緊張しているのかもしれない。大典太は茫然とその表情を見ているだけだ。この色ボケめ、と思いながらもソハヤはにこやかな笑みを浮かべて、退出する大包平を見送った。
四つ入りの最中は二つが小倉餡で、残りが栗入り餡だった。大変美味だった。
大典太が万事屋でどら焼きを四つ贖ったのは、それから三日後のことだった。最中のお返しをするのだという。
「いくらなんでもやり過ぎじゃねえの?」
「分かっているが、接点がない」
暇を見つけて話しかける方が贈り物より簡単なように思うが、兄弟にとってはそうではないのだろう。確かに大包平は大抵誰かといる。そこに入って行く度胸は兄弟にはない。
「俺の霊力で怪我が治せるわけではないしな。お互いいつ折れてもおかしくない」
大包平の重傷は大典太にも堪えるものがあったようだ。いつになく積極的な様子にソハヤは少し感心した。
「それなら善は急げだ。早く渡しちまえよ」
そう兄弟の肩を叩いてさらに二日たった。いまだにどら焼きはソハヤたちの部屋のちゃぶ台の上に載っている。
「賞味期限切れるぞ!」
どら焼きの前で座りこみ、じっと見つめる大典太の姿もこの二日間で嫌というほどに目にしていた。
「やはりやり過ぎな気がする」
「今更それを言うか!」
大典太の思い詰めた霊気が部屋に渦巻いている。大包平が怪我をした時の比ではないが、居心地は良くない。
「早く渡しに行け」
「……」
「行って来い」
「……」
「兄弟?」
「……渡してくる」
ソハヤの睨みに負けたのか、のっそりと大典太は立ち上がった。手には間もなく賞味期限を迎えるどら焼きがある。
「おう、行って来い!」
笑顔をつくってソハヤは兄弟を送り出した。大典太が霊力の扱いを失敗したのは顕現初日の晩と大包平絡みのときだけなのだ。不器用な兄弟の為にも、二人の関係が良い方向に向かってくれることを祈っていた。
とは言ったものの、兄弟の不器用ぶりはやはり筋金入りだった。古備前兄弟の部屋は不在だったようで、部屋に置いて来たという。
「ただの不審物だろ!」
「ちゃんと返礼と書いておいた」
「送り主を書け!」
「会ったら伝える」
果たしてそれが実現するのかはなはだ怪しいと思いつつ、これで会話の糸口は出来たとソハヤは前向きに捉えることにした。
「夕飯のときに伝えられるといいな」
「ああ、どうにかする」
そう話していたときだ。勢いよく音を立てて障子が開いた。
「大典太! 貴様!」
「大包平!」
ソハヤの方が叫んでしまった。肝心の大典太は驚きに固まっている。大包平は真っ赤な顔で兄弟を睨みつけていた。
「あのどら焼きはなんだ!」
大音声に部屋の襖がびりびりと震えた。
「返礼と書いたはずだ」
大包平の前だと大典太の声はより頼りなく感じられる。
「そういうことではない! あの、どら焼きなあ!」
「賞味期限はまだ大丈夫なはずだ。気に入らなかったか?」
「いや、気に入った、じゃない! 味は美味かったが、その、あー……」
言いさしたところで、大包平はいよいよ茹蛸のようになって黙ってしまった。沈黙が落ちた。大きく深呼吸すると大包平は真剣な顔で言った。
「大典太」
「ああ」
「友達からでもいいか?」
「は? あ、願ってもない」
「そうか! ならいい! 邪魔をした!」
大包平は叫ぶと現れたときのように勢いよく障子を閉め、引き留める前に走り去ってしまった。
「なんだアレ」
座椅子にぐったりともたれかかってソハヤはうめくように言った。疲労がどっと襲い掛かってきた。
「友達……」
兄弟は感慨深げにため息をついている。
「兄弟が満足ならいいけどよ」
ソハヤには釈然としない部分の方が多いが、大典太は嬉しそうだ。本人が幸せなら余計な口を挟む必要もないだろう。
「よっぽどうまいどら焼きだったのかねえ」
まさかどら焼きで友人まで関係が進むとは思わなかった。
「もしかしたら備州ではどら焼きに特別な意味があるのかもしれん」
「あーなるほど。俺たち俗世には疎いからなあ」
片や蔵入り、片や墓守である。人の世で愛でられてきた刀に比べて、世間知らずなところは否めない。
「俺も贈り物するときはどらやきにすっかな」
ソハヤは今回の出来事を教訓にすることにした。
大典太と大包平は「友達」になったが、二人が以前より親密になるということもなかった。というよりも大包平が姿を現さないのだ。それまではすれ違うくらいは出来た廊下や食堂でも目にしない。ソハヤが一人でいるときには見かけるので、明らかに大包平は大典太を避けていた。何となく避けられているのを察しているようで大典太の表情も心なしか暗い。
なので返礼と書かれた紙と金平糖の袋を三池部屋で見つけたとき、ソハヤは心の底からほっとした。そろそろ寝苦しくなってきたころだった。しかも返礼の紙は三つ折りの文だった。兄弟は顔色一つ変えずにいたく感動していた。
人生初の手紙を書くのに七転八倒した末に、大典太が返事を出したのは五日後のことだった。鶯丸の茶請けにもなるだろうと羊羹を付けていた。その三日後には大包平から文と饅頭が、その次は大典太と二人は手紙と菓子を贈りあう仲になった。だがそれだけだった。少なくともソハヤの知る限り、面と向かって言葉を交わすことはなかった。
大包平からの手紙が十を数えようかという頃だった。
「これ治部煮ですね!」
嬉しそうに声を上げたのは向かいに座る前田だ。その隣の大典太もこっくりと頷く。ソハヤを合わせた三人は食堂の隅で遅めの夕餉を取っていた。ソハヤと前田は同じ部隊で遠征が長引いたのだ。
「鴨を使った加賀の郷土料理です」
怪訝な顔をしていたソハヤに前田が説明してくれた。漆の椀に口をつけると普段よりも甘めの醤油だしがじんわりと染みる。鴨はなかったのか鶏肉で代用してあった。
「うまいな」
「実は大包平さんに加賀の料理を尋ねられて、僕が教えたんです。秘密ですよ。絶対に言うなって念を押されたので」
前田は周りの様子をうかがってからこっそり教えてくれた。兄弟は目を丸くしていた。
「大包平って厨に立つのか」
ソハヤは大包平が料理をすることに驚いた。
「最近一品任されるようになったと書いてあった」
「大包平さんは根気も良くて仕事が丁寧なので、顕現してすぐに歌仙さんと燭台切さんに厨房担当に引き抜かれたんですよ」
「一昨日のほうれん草の胡麻和えも大包平が作ったものだ」
「大典太さんお詳しいですね」
「味付けで分かる」
「手紙で教えて貰ったわけじゃないのか」
もちろんソハヤには味の違いなぞ分からなかった。前田は興味深そうに尋ねた。
「お二人は文通されているのですか?」
「ああ」
「仲がよろしいのですね」
「どうなんだろうな。本当は迷惑に思っているかもしれん」
「どうでしょうか。先日お会いしたとき、大包平さんは大典太さんとのことでお悩みのご様子でしたよ」
前田の言葉で大典太の箸は止まった。
「気恥ずかしくて話しかけられないそうです」
凍りついたように大典太は治部煮を凝視していた。あまりに空気が張りつめているので、つられたソハヤと前田も食べるのを止めて大典太を見つめていた。
「大包平もそういう風に思うのか」
本当に僅かだが、大典太は微笑んだ。
手紙を書くときの大典太の様子が柔らかくなった。以前はおっかなびっくり、書いては破りを繰り返していたが、今は穏やかに文を認めるようになった。手紙を読んでいるときも口元にあるかなしかの笑みを浮かべ、穏やかな様子だ。そっと手紙の内容を教えてくれることもある。
「馬に髪を食われたそうだ」
「大包平が?」
兄弟が伝聞の形で話すときは大抵大包平の話だった。
「あいつは動物にも好かれるんだな」
「兄弟だって嫌われてないじゃねえか」
「髪を食われたことはない」
大包平の場合は馬に揶揄われているだけではなかろうか。大典太は自身の髪を摘まみながら呟いた。
「大包平の髪は美味いだろうか」
「えー……髪の味じゃね?」
「そうか」
まじまじと髪を見つめている。
「食うなよ」
「俺の髪を食ってどうするんだ。まずいだろ」
相手をするのが面倒臭くなって、部屋を出ることにした。
「もしかして大包平のこと、そういう意味で好きなのか?」
廊下を歩きながら、漸くソハヤは大典太のささやかな変化に気がついた。
だからといって何かアプローチをするわけではないのが大典太だ。手紙は味もそっけもない無地の白便せんであるし、菓子を包装紙で包むわけでもない。裸でパッケージも丸見えだ。最近は渡す菓子もどんどん庶民的なものになっているから、蛍光色と原色使いがけばけばしい。このままではどう頑張っても友人か同僚止まりであろうというのがソハヤと前田の見立てだった。
やはり兄弟に恋愛は難しいのか。積極性がない者に恋愛成就の神は微笑まないのかもしれない。そう考えつつも所詮は他人事、上手くいけばもちろん喜ぶけれども、相手が大包平だからどうにもならないままかもなーと気楽に考えていたソハヤを驚かせたのは、久々の演練を終えて部屋に戻ったときのことだった。殺風景な男二人の部屋に似合わない、白檀の匂いがふわりと鼻をかすめた。
「随分と風流なもんがあるじゃないか」
ひょいと兄弟の手元を覗き込むと香のもとは匂い袋のようだった。白絹の袋で、下げ紐もないので衣被香であろう。香袋の中でも携行するのではなく、衣服と共に保管して香りを移すものだ。防虫効果もある。
「便りと共に贈るつもりだ」
「いつも食いもんだったじゃん」
「ネタが尽きた」
既に文箱が一杯になるほど文通は続いている。この前などポテトチップスを貰ったくらいだった。
「だからって香袋か」
「大包平だって香をたく習慣くらいある」
血と汗にまみれる武人が武具を焚き染め、匂い袋を下げることはよくあった。刀剣たちは手入れを受ければ全てが一新されるので不要であったが、中にはかつての習慣通りに日常的に香をたく者もいる。
「でもよ、意味ありげ」
己の贈った香りを纏ってくれとは熱烈だ。執着心すら感じさせる。
「別に間違ってもいない」
ソハヤは目を丸くして大典太を見つめた。驚きに言葉もなかった。
「届けてくる」
そう言うと大典太は部屋を出てしまった。
部屋に一人きりになってからも、ソハヤの頭の中では先ほどの大典太とのやり取りがぐるぐると回っていた。
「嘘だろ」
あの兄弟が口説こうとしているのだ。戦以外のことは消極性の塊のような兄弟が他者と深く関わり合いを持とうとしている。あまりの衝撃になぜかソハヤの方が落ち着かなかった。
「前田に教えてやろう」
とにかく誰かに話してこの驚愕を共有したかった。
まろぶようにして部屋を飛び出すと、前田を探す。同じ部隊なのでソハヤと同様、本丸内にいるはずだ。夕刻近づく麗らかな本丸をソハヤは駆け抜けた。途中で長谷部に怒鳴られたが無視だ。
「いた! 前田!」
前田は古備前の部屋にいた。障子を明け放し、鶯丸とお茶をしているようだ。
「ソハヤさん! どうされたんですか?」
「何となく暇だっただけだ!」
鶯丸の前で大典太の事情を暴露するほどソハヤは無神経ではない。
「それならお茶に付き合ってくれないか?」
誘われたので遠慮なくソハヤも前田の隣に腰を下ろした。湯飲みと練り切りが差し出される。
鶯丸はそれなりの時間をこの部屋で過ごしていたようだ。そうすると、手紙を渡せないまま大典太は部屋に戻ってきているかもしれない。いや、そうに違いない。古備前部屋に大包平か鶯丸か、あるいは両方が在室していたせいで、大典太が結局手紙を渡せずにすごすご自室に帰って来るということはしょっちゅうだった。そんなことをつらつらと考えながら茶をすする。温めで飲みやすかった。
「最近の大包平さんのご様子は如何ですか?」
「ああ、大包平なら相も変わらず馬鹿をやっているぞ。この前など食べかけのさきいかをちょいと拝借しようとしたら、凄まじい剣幕で怒られてな。けち臭いと言ったら万屋でさきいかのお徳用パックを買って俺に寄越してきた」
「珍しいですね。大包平さんはそういうとき譲ってくださるような」
「まあそうなんだが、最近は妙にそういうことが多くてな。俺に隠れて間食しているようだし、拾い食いでも覚えたのか」
「犬じゃないんですから」
あのさきいかだとソハヤと前田は一瞬目を合わせた。珍味はやめろと大典太を止めたのだが、やはり渡していたらしい。しかし大包平宛てとはいえ、独り占めして食べているのは予想外だった。前田の言う通り、大包平は口では文句を言うかもしれないが、気前よく分け与える性格だ。
「そういえば大包平が隠れて食べているものがあるのだが、食べるか?」
「いや、それまずいでしょう」
「俺一人が怒られれば良い話だ。茶請けがなくなったとでも言い訳しておくさ」
そう言って鶯丸は箪笥の引き出しを開け始めた。赤いジャージがちらりと見えたので、本当に鶯丸から隠しているのだろう。余程知られたくないに違いない。それを容赦なく暴いていく鶯丸をソハヤも前田も引き攣った顔で見ていた。止めなかったのは二人とも食品の出所が大典太だと知っているからだ。
「あったあった。これだな」
取り出してきたのはガラス瓶に入れられた飴玉だ。今は瓶の半分ほどしかない。この丸いガラスの形状も色とりどりの飴玉にもソハヤは見覚えがあった。文通を始めたころのものだったはずだ。丁寧に食べてくれているのだなと身内として少し安心した。
「では頂くか」
瓶をちゃぶ台の真ん中に置くと、鶯丸は蓋を開け、二人にも飴を分け与えた。問答無用で共犯にされた。
「いただきます」
前田は決断が早かった。ぱくりと口に入れる。たかが飴玉である。ソハヤもすぐに口に放り込んだ。
「うっ!」
呻き声はどちらのものともつかなかった。
飴玉は舌の上ですぐに溶け、砂糖の味が広がる。それと同時にほろりと霊力が解けた。そのまま口の中に浸透する。途端に温かい気持ちが身の内を満たした。誰かを思う喜び、ささやかな憧憬、笑顔の眩しさ、様々な感情が代わる代わる立ち現れては消えていく。口にたまった甘い唾液を嚥下すると、傷つく姿を見た瞬間の身を切る辛さがこの身を襲う。この時点でソハヤは飴を噛み砕いて茶で流しこんだ。横の前田は口を押えながら真っ赤になっている。
「無理すんな。吐き出しちまえ」
背中をさすって空になった湯のみを差し出したが、真面目な前田は必死に顎に力を入れて噛み砕き、どうにか飴を飲み込んだ。
「とんでもない飴玉だろう」
鶯丸は顔色一つ変えず代わりのお茶を差し出した。前田もソハヤも全てを察した。これは完全に鶯丸に嵌められた。
「この神力は大典太か」
脱力して頷く。ソハヤが飴と霊力を通して味わったのは大典太の恋情そのものだ。
「兄弟も無意識なんだろうが、それにしたってなんつう恥ずかしい食いもんだ」
「大典太さんは思い詰めてしまう方ですから」
「熱烈な恋文だな。まあ大包平にはこれくらいの方が分かりやすくて調度よいかもしれない」
「大包平さんはこれを召し上がっているんですよね」
見てはいけないものを見てしまった気持ちだった。こんなものを断りもせずに食べ続けているのなら、大包平も憎からず思っているのだろう。
「やべえ、すごい罪悪感」
「これでまだ恋仲になっていないところが大包平だな」
何事もなかったかのように笑う鶯丸がソハヤには最も信じがたかった。
身の置き場のない気持ちを味わいつつ、部屋に帰ったら全力で兄弟を後押ししようと考えていたところだった。大きな足音がこちらに向かっているのが聞こえた。
「鶯丸! いま帰ったぞ! この俺が誉を取った!」
飴はちゃぶ台に置きっぱなしだった。
「鶯丸! ソハヤ!」
みるみるうちに真っ赤になる大包平に、ソハヤは同情の念を覚えた。
「もしや貴様ら食べたのか!」
すでに大包平は本体に手をかけている。折れたくはないが中傷までなら甘んじて受けようと思った。
「確かに食べたぞ」
「鶯丸!」
迸る怒気に、すわ流血沙汰かとソハヤも前田も身構えた。
「お前いい加減返事をしてやったらどうだ?」
ところが鶯丸がこう言った途端、大包平の動きが止まった。
「これほど熱烈に思われているなら、さっさとお前の思いを打ち明けるのが優しさだろうに」
「奴は求めていない」
喉奥から絞り出したような声だった。
「そう言うお前は大典太に何をしたんだ?」
大包平は鬼のような形相で睨みつけると、不意に背を向けて歩き去ってしまった。
「帰ったら謝らないとな」
しみじみと鶯丸が言った。ソハヤは兄弟が大典太であることに本心から感謝した。
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