6-2 緋焔蝶

 夜の深い闇が祠を覆い、湿った冷気が静かに漂っていた。月の光は雲に隠され、微かに漏れる風の音だけが、冷たく張り詰めた空気を切り裂いていた。祠の中は、静寂と重苦しい孤独が仁美里を包み込み、息苦しいほどの圧迫感が漂っていた。

 仁美里は力なく衰弱した体を冷たい石の床に横たえ、虚ろな目で天井を見つめていた。何日が過ぎたのかもわからず、彼女の体力と気力は完全に尽きていた。かつて遠くから聞こえた鳳子の痛ましい叫び声は、今ではもうすっかり消え去っていた。もしかして、鳳子は死んでしまったのではないか――その疑念が心を締め付けるたび、呼吸が苦しくなり、胸の奥が重くのしかかる。

「ふうこ……」

 かすれた声で鳳子の名前を呼んでも、彼女にはもう届くことはなかった。祠の中には、昆虫を模した不気味な形をした擬蟲神の御神像が鎮座しているだけ。その姿は仁美里に何の安らぎも与えず、むしろ見つめるたびに微かな怒りが胸に湧き上がる。だが、その感情すらもすぐに虚無感に飲み込まれ、再び心は重い沈黙に包まれた。

「はやく……死なせて……」

 その囁きは、もはや彼女自身にも届かない虚ろな願いだった。何もできない。命を絶つための道具すらなく、もしそれがあれば、今すぐにでも鳳子のもとへ行きたいと心の底から願っていたが、この閉ざされた空間ではその望みすら叶わない。

 祠の隅には、供物として捧げられたおにぎりが転がり、虫がたかっている。それを食べれば、まだ生き延びることはできるだろうが、仁美里にはそれを食べようとする気力もなかった。生きる理由など、もうどこにも見つからない。

 ふと、彼女は首筋に手を当てた。そこには鳳子が残した小さな傷跡がまだ残っている。あの瞬間の痛みが、今でも鮮明に思い出される。あれは、鳳子が初めて本当の自分を見せ、仁美里に向けた愛の証だった。だが、その愛ですら今は奪われ、彼女はただこの傷が消える前に死にたいと願うしかなかった。

「せめて……この傷が消える前に……」

 その時、不意に静寂を破るように何者かの足音が聞こえた。複数の足音が近づいてくる。仁美里の全身が緊張に包まれ、彼女は息を潜め、耳を澄ませた。足音は祠の扉に近づき、固く閉ざされた錠前がカチリと外れる音が響く。そして、観音開きの扉がゆっくりと開かれた。

 長い間、暗闇に包まれていた仁美里の瞳に、淡い月明かりが差し込んだ。その光が眩しく、一瞬目を細めるが、すぐに扉の向こうに立つ人影がぼんやりと見えてくる。

「パ……パ……」

 仁美里はか細い声を漏らした。そこに立っていたのは、清弥――彼女の父だった。表情ははっきりと見えなかったが、鋭い光を宿した瞳が不気味に輝いているのがわかる。どうして清弥がここにいるのか、仁美里の胸に恐怖がこみ上げてきた。その瞬間、清弥の背後からもう一つの人影が現れた。

「にみりちゃん!」

 仁美里の瞳に、一瞬で光が戻る。鳳子だ――彼女はまだ生きていた。その姿を見た途端、仁美里の胸に安堵が広がり、無意識に深く息を吐き出した。

 しかし、よく見ると鳳子は村の巫女だけが纏うことを許される白い正装を着ていた。それは彼女が、巫女として清弥に認められた証だった。鳳子の姿に不安が募り、胸が締め付けられる。

 それでも、鳳子は無邪気な笑顔を浮かべ、仁美里の胸に飛び込んできた。その姿を見て仁美里の胸が熱くなり、抱きしめようとしたが、衰弱しきった彼女の体は鳳子の勢いに耐えられず、二人はそのまま地面に倒れ込んだ。

 倒れ込んだまま、仁美里は鳳子を抱きしめた。彼女が以前よりもさらに痩せていることに気付いた。その体は以前よりも冷たく、力がなく、まるで何かを失ってしまったかのようだった。それでも、二人は強く抱き合い、再会の喜びに浸っていた。

「にみりちゃん……会いたかった……ずっと会いたくて……私、頑張ったんだよ? ……あれ……おかしいな……」

 鳳子の声は最初、無邪気で明るかったが、次第に震え、そしてついに堰を切ったように涙が溢れ出した。今まで押し込めていた感情が解放され、鳳子はその場で崩れるように泣き始めた。

 仁美里の目には、鳳子の苦しみが痛いほど伝わってきた。彼女は強い自分を見せたいと思っていた。仁美里がこれまでどれほどの苦しみを一人で耐えてきたかを思うと、鳳子には自分がその痛みを背負わなければならないと思っていた。しかし、今この瞬間、全ての感情が溢れ出し、彼女は自分の弱さを隠し切ることができなかった。

「ごめん……にみりちゃんが一番辛いはずなのに……私は……こんなに弱くて……」

 鳳子は泣きながら仁美里を見つめ、震える声で訴えた。守りたかったはずの仁美里の前で、自分が何もできていないことが、彼女を一層苦しめていた。

 仁美里の胸に、伝えたい言葉がいくつも浮かんでは消えていく。鳳子がどんな酷い目に遭わされたのか、仁美里には理解できる。今すぐにでもその痛みを癒し、彼女を守るための言葉をかけたい。しかし、目の前に清弥がいる事実が、そのすべてを遮っていた。彼に対する不穏な気配が、仁美里の思考を支配する。

 仁美里は鳳子をしっかりと抱きしめ、その小さな体を守るようにして清弥を鋭く睨みつけた。月が雲に隠れ、祠の中はますます暗く、冷え冷えとした空気に包まれていく。しかし、そんな暗闇の中でも、仁美里の金色の瞳は冷たい怒りを込めて清弥を射抜いていた。

 清弥はその視線を受けながらも、冷静な声で口を開いた。

「鳳子がどうしても仁美里に会いたいと言ってな。儀式の前日まで黙して全てを耐えたなら、最後に一度だけ会うことを許すと約束した。それがこの結果だ」

 彼の言葉はあくまで冷淡で、無感情な響きを帯びていた。

「仁美里、お前は巫女としては完成され過ぎていた。しかし、心を空っぽにしているお前よりも、こやつは初心な反応を見せてくれた。村の男たちにも評判が良かったよ」

 その言葉に、仁美里は鳳子の肩が細かく震えているのを感じた。恐怖が彼女の全身に染みついている。仁美里は静かに鳳子の頭を撫で、彼女の心を少しでも癒そうとするように、優しく、しかし力強く抱きしめ続けた。

「だが、もっと不思議なことがある。鳳子には緋焔蝶が見えていることが発覚したのだ。巫女になる資格があるということだ。仁美里、お前を生贄に捧げた後は、鳳子を次の巫女にするつもりだ」

 その言葉に、仁美里の胸に冷たい衝撃が走った。緋焔蝶――それは巫女として神に選ばれた者だけが見ることのできる幻の蝶。仁美里はかつてそれを見たがために、運命に縛られ、この村で生きることを強いられた。鳳子もまた、あの蝶を見たというのだろうか?

 仁美里は鳳子の顔を見つめ、震える声で問いかけた。

「本当なの……? あの蝶を、見たの……?」

 鳳子は小さく頷きながら答えた。

「……んん……燃えるように綺麗な翅のちょうちょ……。最初は学校の帰り道、それから、にみりちゃんの家でも、最近ね……」

 その瞬間、仁美里の心の中で冷たく重たいものが崩れ落ちる音がした。清弥は、鳳子ですらもこの狂気に満ちた村の信仰に捧げようとしている。彼女の頭の中で繰り返されるのは、裏切りの言葉ばかりだった。村の伝統、神への献身――すべては偽りだ。清弥たちはただ、自分たちの利益のために次々と犠牲者を選んでいるのだ。

 仁美里の拳が震え始める。自分だけではなく、今度は鳳子までもがその犠牲になるという事実が、彼女の心を燃え上がらせた。理性の糸が音を立てて切れ、怒りが湧き上がる。

 突然、冷たい風が祠の中に吹き込んできた。月は完全に雲に隠れ、暗闇がすべてを覆い尽くした。しかし、仁美里の瞳は金色に輝き、その怒りは清弥を射抜いていた。

「お前を、殺すわ。村の男たちも、見て見ぬふりをしてきた女たちも、子どもたちも。私のふうこを傷つけ、穢したお前たちを、私は絶対に許さない」

 その声は冷たく、鋭く響いた。そして、その怒りはさらに深いところへと届き、揺るぎない決意を抱かせた。

――神すらも、決して許さない。

 その瞬間、空が裂けるような轟音と共に眩い雷が祠を直撃した。大地が震え、空気が激しく揺れる。清弥は反射的に目を覆い、後ずさりした。強烈な光が瞼越しにさえ鮮やかに焼き付き、数秒間、彼の視界を奪った。

 雷の轟きが遠ざかり、清弥は恐る恐る目を開けた。耳にはまだ雷鳴の余韻が残っていたが、静寂が戻り始めた。周囲の木々は炎に包まれ、雷に打たれた幹が裂け、火が燃え広がっていた。燃え盛る炎が狂気のように揺れ、赤々とした光が夜空を染めていた。

 祠を見上げる清弥の心には、嫌な予感が広がっていた。雷が確かに祠を直撃したはずだ。だが、祠の中で何が起こったのか……。

 彼の予感は的中した。そこに立っていたのは、無傷の仁美里と鳳子だった。

 雷の直撃を受けたにも関わらず、彼女たちは何事もなかったかのように立ち尽くしていた。背後に鎮座する擬蟲神の御神像は、異形の姿を誇り、今まで以上に圧倒的な存在感を放っていた。まるで神そのものが目覚め、降臨したかのようだった。

 そして清弥は確信した。今、目の前で起きているこの現象は、神の怒り、あるいは祟りの前触れに他ならない。炎が揺らめく中、清弥は一瞬の迷いもなく行動を決めた。手遅れになる前に――何か対策を講じなければ。

「祟りが……蘇った……!」

 清弥の呟きがかき消されるほど、風が強く吹き始めた。雷がもう一度空を裂く音が遠くから響く中、清弥は急いで神社へと駆け出した。その背中を炎が追いかけるかのように、狂おしい熱気が彼を包み込んでいった。
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