1-7 光の声は天高く聞こえる

「すごい……世成ちゃん、ピアノが弾けたんですね……」

 静けさを取り戻したホールに、蝶野の驚いた声が響いた。 どうやら待ちきれなくなり、覚悟を決めてここまでやってきたらしい。和希の隣で、彼女は目を輝かせていた。

 だが、和希は蝶野の言葉にうまく反応できなかった。胸の中に広がる不安と困惑が、彼の思考を絡め取っていた。

(鳳子が……ピアノを弾けた? 本当に……?)

 先ほど目の前で起きた出来事が、何かの誤りであるかのように思えた。鳳子があれほど見事に演奏していたという現実を、和希はまだ受け止めきれずにいた。 彼の中には、認めるべき何かに気づけていないという漠然とした不安が残っていた。それは、見えてはいけない何かでありながら、見逃してはならない何かだった。

 ホールに漂う静寂が、逆にその不気味さを強調するようだった。鳳子の演奏は確かに現実だったのか、それとも――。

 和希はふと、鳳子の顔を見た。彼女は今もどこか夢の中にいるかのような表情を浮かべている。その姿は、つい先ほどまでの神秘的な光景と重なり、彼の心に深い不安を植え付けたままだった。

 蝶野が無邪気に鳳子を称賛する一方で、和希は一歩踏み出せないまま、その不気味さと向き合い続けていた。

 その時、突然、蝶野のスマホが震えた。彼女は驚いた様子でポケットからスマホを取り出し、画面を確認する。 鳳子を称賛していた時とは一転、顔が真剣な表情に変わる。

「えっ……本当に? そんな……」

 蝶野の声が急に沈み、和希も気づかずにはいられなかった。

「どうしたの?」

 和希が問いかけると、蝶野は眉をひそめてスマホを耳から離し、深いため息をついた。

「お昼休憩中に、うちのクラスの伴奏者が外で雪遊びをしてたみたいで……滑って転んで、腕を怪我しちゃったんです。もう出番がすぐなのに、伴奏ができなくなってしまって……」

「なんだって? それは……」

 和希は予期しなかった展開に言葉を失った。

「先生たちも急いで代わりの伴奏者を探してるけど、時間がないみたいで……順番ももう変えられないって……このままじゃ、私たち、出られない……」

 蝶野の声は震え、今にも泣き出しそうだった。出番が目前に迫り、焦りが募るのが痛いほど伝わってくる。

「世成ちゃん……お願いがあるの」

 蝶野は決意を固めたかのように、鳳子に向き直った。

「お願い……代わりに伴奏をしてもらえないかな?」

その言葉に、和希と鳳子は同時に目を見開いた。鳳子の表情は不安と戸惑いでいっぱいだった。

「私が……? でも、……ピアノなんて…………そんな……私には無理です……」

 鳳子の声はかすれ、恐怖に近いものが滲んでいた。彼女は震えた手で自分の胸を押さえ、後ずさるようにして、必死にその申し出を拒もうとした。

 和希もまた、心の中で激しい不安が渦巻いていた。鳳子が先ほどあれほど見事にピアノを弾いていたとしても、あの出来事にはまだ説明がつかない不気味さがあった。彼は鳳子を守りたい一心で、断るべきだと考えた。

「蝶野さん、さすがにそれは……鳳子には荷が重すぎる。無理をさせるわけには……」

 しかし、蝶野は和希の言葉を遮るように強い目で鳳子を見つめ、必死に頼み続けた。

「お願い……世成ちゃん。私たちが出られなかったら、みんなの努力が無駄になっちゃう。それに、世成ちゃん、さっきすごく上手に弾いてたよ! きっとできる……お願いだから、力を貸してほしい!」

 蝶野の懇願に、鳳子は戸惑いながらも、次第に心が揺れ動いていった。彼女の瞳にはまだ不安が宿っていたが、それでも蝶野の熱意に押され、やがて弱々しく頷いた。

「……分かりました。やってみます……でも、本当に……どうなるか知りませんよ…………?」

「ありがとう、世成ちゃん! 本当にありがとう……!」

 蝶野は鳳子の手を握り締め、涙ぐみながら感謝の言葉を述べた。 その瞬間、和希の胸に強い不安が沸き上がった。鳳子が引き受けてしまったことで、これから何が起こるのか、彼にはまったく想像がつかなかった。



 観客席に座る和希の心は重かった。鳳子がピアノを弾けるという事実も信じられないまま、彼女が再びあの舞台に立ち、伴奏を務めることになったのだ。 頭の中には疑問と不安が渦巻いていた。先ほど見たあの奇妙で不気味な出来事が、本当に彼女の意思によるものだったのか、それとも――。

 しかし、彼にはもう止めることはできなかった。 鳳子はすでにステージに向かっていた。そして、すべての準備が整い、いよいよクラスの合唱が始まる。

 和希は深く息を吸い込み、胸の中の不安を押し殺しながら、舞台に立つ鳳子の姿を見つめた。

「お隣、いいですか?」

 振り向くと、そこには蜂谷が立っていた。彼女はビデオカメラを手にしており、クラスの合唱を映像に残そうとしているようだった。和希は軽く頷き、席を譲った。

 蜂谷がビデオカメラを構え、ステージに集中する中、和希の視線は再び鳳子へと戻る。ステージの上に座る鳳子は、静かにピアノの前に腰を下ろし、これから始まる演奏に備えている。だが、和希の心は平静ではなかった。

(今の鳳子は何を思い、このピアノを弾こうとしているんだ? 彼女の目に映っているのは、この現実なのか?)

 和希の脳裏には疑念と執着が渦巻いていた。彼は精神科医として、鳳子の精神状態を隅々まで分析したい衝動に駆られていた。 彼女の無意識の奥底に何が隠れているのか、その目には何が映っているのか……。和希は、そのすべてを知りたいという欲望を抑えきれなかった。 いや、それを知ることが彼にとって必要不可欠なことのように思えてきた。鳳子が彼にとっての謎であり、彼の執着の対象となっていることに、和希は自らの狂気じみた感情を自覚していた。

 やがて、鳳子のクラスの合唱が始まった。 和希の視線は、彼女の一挙手一投足を追い続けた。彼女の指が鍵盤に触れ、最初の音がホールに響き渡る。 その音は、先ほどの不気味な演奏とは異なり、正確で澄み切ったものだった。鳳子の表情は無表情にも見えたが、その目には何か得体の知れない光が宿っているようにも感じられた。

 和希は息を詰め、じっと鳳子の演奏を見つめ続けた。



 鳳子は見事に伴奏をやりきった。合唱コンクールは無事に終わり、クラスの皆が拍手を送り、安堵の表情を浮かべていた。 鳳子のクラスは入賞こそ逃したものの、誰もが全力を尽くせたという満足感を抱いていた。

「世成さんのおかげで、みんな最後まで頑張れたよ!」

 クラスメイトたちは感謝の言葉を口々に述べ、鳳子に笑顔を向けた。 しかし、鳳子の顔は疲れ果てた様子だった。瞳には、何も映っていないかのような虚ろさが漂っており、彼女は一刻も早く帰りたいという気持ちが表れていた。

 外では雪が激しさを増し、吹雪が迫っていることがわかる。クラスメイトたちも帰りの準備を急ぎ、解散の流れになった。

 その別れ際、和希は蜂谷に歩み寄り、口を開いた。

「蜂谷先生、もしご迷惑でなければ、今日の映像を共有していただけませんか?」

「もちろん、いいですよ。帰ったら映像をチェックして、後でお送りしますね」

 蜂谷は快く了承し、和希に連絡先を交換した。そして、それぞれ帰路についた。

 その夜、蜂谷は自宅に戻ると、真っ先に冷蔵庫を開け、冷えた缶ビールを取り出した。肩の力を抜き、ふぅっと息をつく。 合唱コンクールは、思わぬアクシデントに見舞われながらも、無事に終わったことに安堵していた。

 ビデオカメラのデータをパソコンに転送するのが面倒に感じた彼女は、直接カメラの画面で映像を確認することにした。

 カメラを操作し、映像を再生する。だが、すぐに何かがおかしいことに気づいた。

「何、これ……?」

 映像は激しく乱れていた。まるで焼け焦げたフィルムを再生しているかのように、ひどくノイズがかかり、正常に見られない。しかも、その乱れた部分は、決まって鳳子が映っているシーンだけだった。 最初はビデオカメラの不調かと思った。機器には詳しくなく、適当なものを選んで購入したことを後悔しながら、再生を止め、もう一度巻き戻して再生を試みる。

 しかし、今度はビデオカメラが勝手に動き出した。彼女の操作とは無関係に、映像は同じ箇所を繰り返し再生し始めた。その度に、映像はますます激しく乱れていく。

「黄昏学園中等部の皆さんです。曲名は『COSMOS』で、伴奏は……」

 再生中、何かが聞こえてきた。蜂谷は音量を最大にして耳を澄ました。

 扉を開ける音? それとも、何かが唸るような音? どちらともつかない、不気味な音がカメラから流れてきた。

 胸の奥に不快感が広がり、彼女は顔を引きつらせながら、ビデオカメラの画面に視線を戻した。 その瞬間、彼女は息を呑み、手からビデオカメラを落とした。

 映像には、記憶にない何かが映っていた。 撮った覚えもない、そこにいるはずのない、悍ましい映像だった。画面に映し出されていたのは、血だらけの幼い少女。彼女は何か蠢く肉塊の中から、じっとこちらを見つめていた。

「いやっ……!!」

 蜂谷は息を詰め、恐怖に支配された。冷たい汗が彼女の背中をつたう中、ビデオカメラの画面には、なおもその少女が不気味な視線を投げかけ続けていた。

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