1-8 世成宵子
クリスマスの朝、東京の街は冷たい風に包まれ、浮ついた雰囲気が漂っていた。和希は、華やかな街並みを横目に一人車のエンジンをかけた。車内に響くエンジン音が、いつもより静かに感じられた。鳳子には「用事がある」とだけ告げて出かけてきたが、胸の中にまとわりつく重い感情が拭えない。
視線を外に向けたまま、和希は無意識にハンドルを強く握っていた。汗がじわりと滲む手を見つめると、息を深く吸って吐き出したが、心の重さは変わらない。
結局、蜂谷から合唱コンクールでの映像の共有は無かった。理由は「上手く映像が撮れておらず、データが消えてしまった」とのことだった。その後のカウンセリングでも、和希は鳳子の口からピアノに関して納得のいく答えを聞き出すことは出来なかった。
であれば、実際に鳳子の過去について知る人物――母親である世成宵子に話を聞くのが最も真相に近付ける手段だと、和希は考えた。
――逃げることは許されない。
そう自分に言い聞かせ、アクセルを踏む。シートに深く背を預けながらも、胸に広がる感情を押し込めるかのようにハンドルを握り直した。目的地までの距離が縮まるほどに、彼の心はさらに重くなっていく。和希は一瞬頬に触れ、すぐに手を降ろした。これ以上、何かを思い出す必要はない。宵子に会うことは、全て鳳子のためだ。そう自分に言い聞かせながら、和希は前方を見据え、車の速度を少しだけ上げた。
◆
冷たい鉄格子の扉が彼の前で開かれると、厳重な監視と沈黙の中、宵子との面会室に通された。空気は重たく、冷たさが和希の肌にしみ込む。
宵子は小さなテーブルの向こう側に座り、手錠を掛けられたまま、無表情で和希を待っていた。
かつて彼女が持っていた美しさは、その姿にいまだ残っていたが、瞳に宿る光は冷たく乾いたものに変わっていた。和希はその瞳を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
宵子の瞳――そこに見えるのは、間違いなく鳳子の面影だった。
鳳子が成長するにつれて、和希は嫌でも母親の影を彼女に見てしまうことが増えていた。特に、その瞳だ。まるで宵子の全てを受け継ぐかのように、鳳子は母親に似て育っている。
そのことに、和希は酷い嫌悪感を抱いていた。嫌悪感――それは、ただの憎悪ではない。和希は鳳子を過去から切り離し、純粋な世界で生きさせたいと願っているのに、血の繋がりはどうしても切り離せないのかもしれないという不安が根底にあった。それだけではない。彼はかつて宵子を愛していた。だが、彼の心の中で、その愛は今や歪んだ形で鳳子に向かっている。宵子の面影が鳳子に重なるたび、和希は自らの邪な感情が顔を出すのを恐れていた。
鳳子は、ただの患者ではない。和希にとって彼女は、救わなければならない存在だ。しかし、その救いが自身の純粋な願いでなくなりつつあることを、和希は認めざるを得なかった。
宵子と重なる鳳子――その姿を見るたび、彼は己の欲望に取り憑かれるような感覚に囚われていた。
宵子の鋭い視線が、まっすぐ和希を捉えた。彼女は無言で、しかしすべてを見透かすような冷淡な瞳で彼を見つめている。
和希はその視線から逃れようとするが、鳳子と宵子が重なるイメージが頭から離れない。
和希は椅子に腰を下ろし、軽く一息をついてから、静かに切り出した。
「お前の娘のことを聞きに来た。世成鳳子がピアノを弾けたかどうか知りたいんだ」
宵子はゆっくりと彼を見つめ、唇の端をわずかに持ち上げた。嘲笑とも、懐かしむような笑みとも取れない表情だった。
「……私が、鳳子にピアノを習わせていたと思いますか?」
宵子は冷ややかに言いながら、目を細めた。彼女の透き通った声は吐息に混ざったまま、和希の耳を一瞬で支配する。たった一言、その声を聞いただけで、葬ったはずの過去が蘇る。
「あの子にあげたものなんて、何一つないですよ」
その答えに全ての意味が込められていた。宵子の瞳は真っ直ぐ和希を見ていたが、和希は冷え切った宵子の瞳の奥に、鳳子に関する過去の経歴を思い出していた。そこには、どれだけ過去を遡っても、彼女が鳳子に対して母親としての責務を果たしたことなど無いと、無慈悲な現実を突きつける証拠しかなかった。
――聞くまでもなかった。
彼女と会うことで何かが分かるかも知れないと、一時でも淡い期待を抱いた自分に対して、和希は心の奥底で冷ややかに笑った。かつてはその美貌と残忍さで数多くの男を魅了し破滅させて来た彼女にも、もしかしたら母親らしい一面があったのかもしれないと、一時でも信じた自分が馬鹿だった。
こいつは、今もイカれた大量殺人鬼のままで、立派な犯罪者だ。和希は軽蔑の瞳を宵子に差し向けた。滲み出るその感情を嗅ぎ取って、宵子は言葉を続けた。
「くすっ。こわぁい目。……まるで人殺しをみるような目。初めて会った時は、もうちょっと上手く隠せてましたよ」
薄く笑う宵子の笑みは、かつて和希が初めて出会った頃の彼女そのものだった。
和希は彼女の言葉を注意深く聞きながらも、その背後にある意図を探ろうとしていた。
「ねぇ、先生。私を助けてください」
不意に、その声色が、幼き声と重なり、まるで鳳子が発した言葉のように聞こえた。しかし、そんなことはありえない。鳳子は誰にも助けを求めない。自分を助ける人なんていないと、全てを諦めている。だから、うっかりその言葉に魅入られることはなかった。
「助けるって、何から?」
「私、もうすぐ、海外へ身柄を引き渡されるんです。そうしたらきっと、もう生きていけない。……今までお仕事を一緒にしてきたお友達に助けを求めたけど、誰も私を助けに来ない。おかしいですよね? あんなに愛し合っていたのに……。今でも私にお手紙をくれるのは凰雅さんだけ。…………そして、先生。貴方が今日きた」
宵子は微笑んだまま、視線を和希から外して虚空を見つめた。
「あの日の約束を、果たしに来てくれたんですよね。私、今でもずっと信じて待っているんですよ。あの世界から私を連れ出してくれるって……幸せな日々を与えてくれるって。ねぇ、先生?」
その言葉は本音なのか、それとも自暴自棄から漏れたただの音か、わからなかった。
まるで、トカゲのしっぽを切るように、組織から見放された彼女を、和希は哀れには思わなかった。それほどのことをして来たのだから、こうなることも覚悟していたはずだ。
宵子は少し興味深げに和希を見つめ、首を軽く傾けた。
「ねぇ、和希さん。…………私を裏切っておきながら、よくもまぁ私に会いに来れたわね。知ってるのよ。あの子の面倒を見ているのが貴方だってこと。全部、凰雅さんから聞いてるから」
和希は急に鋭く冷たくなった言葉にわずかに顔をしかめた。宵子は小さく鼻で笑い、視線をテーブルの上に落とした。
「あの子、良い子でしょう? なんでも言うことを聞くように、私がそう躾けたから。どんなに辛くても、怖くても、苦しくても、ちゃんと『待て』ができるように」
和希はその言葉に一瞬心が揺れるが、すぐに自分を取り戻し、強く言い返した。
「それでも、俺は鳳子を守る。それが俺の使命だ」
宵子は冷たい微笑みを浮かべ、和希を見つめ返した。
「守る? 何から? 私が消えれば、あの子は確実に清算の為の道具に使われるわ。ゴミ溜めに芽吹いた花は、陽の光に当たることなく枯れていくしかないの」
その言葉に、和希は言葉を詰まらせた。彼は宵子の本性が垣間見えるその言葉に、無意識に背筋を伸ばす。そして、彼女がどれほど深く闇に染まっているのかを再認識せざるを得なかった。
和希は目を伏せ、頭の中で鳳子の姿を思い浮かべる。彼女がただの少女ではないことを和希も理解していた。だが、それでも鳳子を守ることが自分の使命だと信じていた。
「鳳子はただの少女だ。彼女にはそんな運命を背負わせるべきじゃない」
宵子は再び冷たく笑った。
「和希さん、あなたは本当にダメね。あの子はもう、その道から逃れられない。鳳子は、私たちが選んだ世界の一部だわ。あなたがどれだけ守ろうと、彼女はその運命から逃れられない。そして貴方はまた繰り返す。私を裏切った時と同じように、再びその手を血で染めるのでしょう?」
和希は胸中に沸き上がる焦りと憤りを必死に押し殺しながら、強く拳を握りしめた。
「それでも、俺は鳳子を救う。今度は間違えない――」
宵子は彼を見つめ、冷たく静かに囁いた。
「同じ言葉を私にも囁いてくれたのを今でも覚えているわ。大丈夫、私、先生のこと信じてますから。救えるといいわね、あの子を」
和希は立ち上がり、宵子に一瞥をくれると、無言で面会室を後にした。彼の胸には、鳳子を守るための決意がさらに固くなったが、その背後に迫る暗い影がますます色濃くなっていくのを感じていた。
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