1-5 知らない彼女

 和希は病院のロビーに立っていた。今日が退院の日だ。久々に感じる外の空気は清々しいはずなのに、どこか息苦しさを感じていた。そこに、背後から軽い気配が近づく。

「せんせっ!」

 振り返ると、鳳子が彼の腰に腕を回して抱きしめていた。その動作は穏やかで、柔らかさがある。しかし、いつもと違う。和希はその瞬間に微かな違和感を覚えた。彼女の腕の力は強く、まるで彼を放すまいとしているように感じた。顔を彼の背中に隠すようにしているため、表情が見えない。

 周りの視線を感じた和希は、一瞬戸惑ったように眉を寄せたが、すぐに鳳子の肩に手をかけて引き離す。

「ありがとう、迎えに来てくれて。帰ろうか」

 なるべく平静を装いながら声をかけた。鳳子は一言も返さず、ただ静かに頷くだけだった。彼女の手の冷たさが妙に心に残った。

 二人は車に乗り込み、和希がエンジンをかけると、車内には微かなエンジン音だけが響いた。鳳子は助手席でじっとしている。視線は外を向いているが、時折、和希の手元にちらりと目をやっているのを彼は感じ取った。

 車を発進させようとする時、唐突に鳳子が口を開いた。

「ねえ、先生……先生は、私の味方?」

 和希はハンドルに手を置いたまま、軽く息をついて応じる。

「当たり前だろ。何を今さら」

 彼は車を走らせようと再び手を伸ばしたが、その手が止まった。鳳子が続けたからだ。その声は、先ほどのような優しげなものではなく、冷たく鋭いものだった。

「じゃあ、暁と私、どちらの味方?」

 一瞬、空気が張り詰めた。和希は眉をひそめ、ゆっくりと鳳子の方を振り向いた。そこには、冷酷で無表情のまま彼を見つめる鳳子の姿があった。その目は、以前の彼女とはまったく違う、冷たい決意に満ちていた。そして、彼女の手には銃が握られていた。

 和希の視線が一瞬、鳳子の手元に落ちる。しかし、彼の表情は微塵も動じなかった。視線を戻し、淡々とした口調で答えた。

「僕は、仕事を全うするだけだ」

 その言葉に、鳳子の眉がわずかに動く。しかし、銃口は和希から逸れることなく固定されている。

「何が望みだ?」

 和希は再び問いかける。声は静かだが、その眼差しには鋭いものが宿っている。

 鳳子は一瞬だけ躊躇するように目を伏せ、次の言葉を紡いだ。

「私を、擬羽村へ連れて行ってほしいの」

 その言葉を聞いた瞬間、和希の心の奥に何かが引っかかった。擬羽村──あの場所。鳳子が仁美里を殺した場所、彼らが初めて出会うきっかけになった場所。なぜ今、彼女はその場所を望むのか。

「そうか、今の君は、ちゃんと記憶があるんだね。世成鳳子」

 和希の声に、鳳子はわずかに頷く。

「きっと、暁のことはやり過ごせても、あなたには見抜かれると思った。だから、記憶を消される前に、出来ることをしたいの」

 銃口が和希に向けてさらに近づく。和希は無意識に肩を少し引いたが、それでも冷静な表情を崩さなかった。彼女の手は震えているわけではないが、13歳の少女が握る銃がどこか不自然に見える。だが、その瞳は本物の覚悟を映している。

「お願い、鳳仙和希。どうか、私を人殺しにしないで。私の味方なら、私に従って」

 彼女の声には微かな震えが混ざっていた。しかし、それは恐れではなく、追い詰められた焦燥のようなものだった。和希は一瞬視線をそらし、思考を巡らせた後、再び彼女を見つめた。

「……わかったよ。擬羽村だな」

 その言葉に、鳳子は一瞬だけ安堵の色を見せた。しかし、その手は依然として銃を和希に向けたままだった。彼女は左手を差し出し、冷静に言った。

「スマホを渡して」

 和希はその要求の意味をすぐに理解した。彼女は、暁やその部下たちに連絡されることを恐れている。彼は表情一つ変えずにポケットからスマホを取り出し、鳳子の手にそっと渡した。

「君の指示通りだ」

 鳳子はスマホを受け取ると、確認するように画面を一瞥し、そして再び和希を見た。その時、和希はふと考えた。目の前の少女が、いつの間にここまで計算高く、危機管理に長けた人物になったのか。彼女は自分を守るための道を、すでに見据えている。

「それじゃあ、出発して」

 鳳子の命令に和希は静かに頷き、エンジンを再びかけた。二人を乗せた車は、静かに擬羽村へと向かって走り出した。



 その車は、昼下がりの首都高を滑るように走っていた。車内は沈黙に包まれ、エンジンの低いうなり声だけが空気を揺らしている。鳳子は助手席で銃を握りしめ、ぼんやりと窓の外を見つめていた。その横顔には何かを考えているような陰りがあったが、表情には無感情な静けさが漂っていた。和希は、時折横目でそんな彼女の様子を伺いながら、入院中に彼女に何があったのかを思い巡らせていた。

 和希が病に倒れ、ついに鳳子の面倒を見ることができなくなった時、彼女の身は一時的に暁の元に預けられることになった。それは和希にとって最も望まない結末だった。暁が鳳子に与える影響は、決して良いものではない。暁はためらうことなく鳳子を犠牲にし、彼女の心を壊そうとする。だからこそ、入院中も鳳子の身を案じ、一刻も早く退院し、彼女を迎えに行かなければと焦っていた。

 退院が決まった日、和希は久々に暁と連絡を取り、鳳子の様子を聞いた。暁によれば、鳳子は和希が入院した頃から解決部という部活にのめり込み、それまで以上に活発に活動しているという。門限を破り、夜間の外出まで厭わず、解決部の活動に夢中になっていたらしい。

 和希は、しばらく考え込んだ後、重い口を開いた。

「解決部は、楽しいか?」

 車内の沈黙を破るように呟いたその言葉には、微かな戸惑いが混じっていた。鳳子が解決部に入ってから、彼女は明るい表情を見せるようになった。以前のように悪夢に魘される夜も減り、彼女の記憶を「白紙にする」回数も減っていた。確かに、少しずつ彼女は正常な姿へと成長しているように思えた。しかし――。

「楽しいわ! それに、素敵なのよ。あそこには間違いなんてないの。いつだって、正しい答えがあるのよ!」

 鳳子は頬を赤く染め、宙に浮かぶ銃口を揺らしながら無邪気に笑った。その笑顔はまるで夢に溺れる少女のようで、和希にはその笑顔がどこか別の世界に属しているように見えた。彼女の表情が幸福で満ちている――そう感じた瞬間、和希は無意識にアクセルを踏み込み、車がぐんと加速した。

(……また、俺の知らない顔をしている)

 和希は心の中で苦々しく呟いた。鳳子の苦しみを、彼は誰よりも知っているはずだった。彼女の悲しみ、痛み、怒り――和希は彼女を正しい方向へ導くために、ずっと寄り添ってきた唯一の人間だった。けれど、鳳子が本当に求めているものは何か、その答えを与えることができなかった。希望も未来も、まだ彼女には与えられていない。

 しかし、解決部は鳳子を変えた。和希が与えられなかったものを、解決部が与えた。彼女の新たな笑顔や、彼女の成長。それは喜ぶべきことなのに――和希は素直に喜ぶことができなかった。その理由が嫉妬であることに、和希は自覚していた。

 ――そういえば、鳳子について一つ、注意がありまして。

 和希の脳裏に、暁との最後の会話が浮かんだ。鳳子が暁の部下から拳銃を盗み、家出しているという事実。GPSで彼女の動向は監視されているが、今のところ特に問題は起こしていないらしい。

 ――私の言いつけを破ることはまだ可愛い方だが、拳銃を持ち出したことはさすがに看過できない。彼女の処遇は君と決めたいと思ってね。とりあえず退院日には鳳子を迎えに向かわせるから、しっかりと保護してくれ。

 暁の冷淡な声が耳に蘇り、和希は無意識にハンドルを強く握りしめた。鳳子が拳銃を見せたとき、本当はそれを奪い、彼女を取り押さえることは容易だった。和希もまた、暁と同じく裏の顔を持ち、所属する組織で必要な訓練を重ねてきたからだ。しかし、和希はそれをしなかった。彼がそうしなかったのは、今の世成鳳子を理解しようとしていたからだ。

 今の彼女が、記憶を取り戻し、自我を保っていられるのならば、それこそが「本当の世成鳳子」であり、彼女にとって「本当の救い」になるのではないか――和希はそう信じていたのだ。

 鳳子は相変わらず窓の外を見つめ、ぼんやりとした瞳で遠くを見据えていた。和希は無意識にアクセルをさらに踏み込んだ。車は加速し、夕暮れの首都高を疾走していく。
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